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3-4

 私と両親が去ってからの十年間、祖父は私たちの家をずっと守り続けてきた。

 祖父はもともと別の邸で暮らしていたから、この家がどうなろうと関係ないはずだった。売り払うなりしてもよかったのだ。それなのに、律儀に掃除や障子の張替え、さらにはピアノの調律までさせていたのだという。

 いつ家族が戻ってきてもいいように、と言っていたらしいけれど、そんな日が来ないのは祖父自身がよくわかっていたはずで。

 「ああいうの、見てられなかったのよ」というのは秋沙の言葉。大学生になった秋沙はひとり暮らしをしたいと言ってこの家に住み着き、祖父の手からこの家を取り上げてしまったのだ。

 「ちょっと酷かもしれなかったけどね。でも、この家を聖地みたいに残しておくのは、じいさまにとっても、わたしにとっても、いいことじゃないと思って」

 私は秋沙に繰り返し礼を言ったけれど、彼女は「わたしの問題だったから」と軽く笑って応えた。

 そんなやり取りがあってから、私は迷いつつも今回の帰郷のことを秋沙に話した。巻き込んでしまうことへの懸念はあったけれど、かと言って誰にも相談しないわけにもいかない。私と彼谷穂はこの町で生まれ育ったけれど、この町のことをよく知っているわけではないのだから。祖父の方もそれを踏まえてこの家の鍵を渡したのだろう。秋沙を水先案内人にするために。

――そして祖父の思惑通りに、秋沙は快く協力を申し出てくれた。

 秋沙の運転する車に乗って、車窓に延々とループする緑の風景をぼんやりと見ながら、私はちいさくため息をつく。

 彼谷穂を巻き込むかどうか選ばせたり、秋沙と引き合わせたり、本当にあの人の考えていることはわけがわからない。もしもこれが祖父の気まぐれでないのなら、私が右手を失った真相について、秋沙はなにか鍵を握っているのだろうか。それとも、問題から遠いからこそ案内人に選ばれたのだろうか。

 悩んでも仕方ないけれど、でも、悩まずにはいられない。

 そんな堂々巡りで熱を持った私の頭を、走り出しの生ぬるいクーラーの風が冷やして、冷やして。

 「ごめん、窓開けてもいい?」

 「ん、わたしはその方がいいけど。外の風、あんまり涼しくないよ?」

 「大丈夫。冷えすぎるのってちょっと苦手だから」

 生ぬるい風が窓から吹き込んで、ようやく寒気がおさまる。雪国生まれなのにどうして寒さが苦手なのか、と言われると返す言葉もない。

 「あきさーん、ここ狭いよー。なんでこんなにっ、荷物あるっ、のー!」

 山道に入って九十九折のカーブが続き、後部座席の彼谷穂は荷物と押し合い圧し合いを繰り返していた。

 「我慢しなさいよ、明日から夏祭りなんだから仕方ないでしょ」

 「秋沙ちゃん、町内会の手伝いしてるの?」

 「手伝いっていうか、ほとんどわたしが仕切ってるの。七十八十のじいさまばあさましかいないから、見てられなくって」

 「なんだか、忙しい時にごめんね、もしかして今日も準備があった?」

 「ううん、だいたいは終わってる。後ろにあるのもできあがった扇だから。今日はお宮さんが一番大変かな。破魔矢作りがあるし」

 「破魔矢……? 夏祭りでそんなの使ってたっけ」

 「そっか、千草ちゃんは最近の夏祭りを知らないんだよね。子供を舟に乗せるのは危ないってことで、代わりに矢を運ぶようになったんだよ」

 夏祭り――雨泉の祓渡しは、厄除けや病気平癒を祈る祭りだ。

 山の中腹にある雨泉湖に舟を浮かべ、赤ん坊や厄年の人を神主さんが対岸まで運ぶ。そして湖の向こうの社でお祓いを受けて、また小舟に乗って帰ってくる。私も、小さい頃から何度かあの舟に乗っているし、最後に乗った時のことはよく覚えている。灯篭の明かりを映すだけのくろぐろとした湖があまりに怖くて、舟に乗っている間は息が詰まり涙も出なかった。

 「大人は普通に乗せるんだけどね。町の外から子供連れがたくさん来るから、破魔矢も結構な数を用意しなきゃいけないらしいの。あ、良かったら千草ちゃんも舟に乗ってく?」

 「あたし乗りたいー!」

 あんたには聞いてないわよ、と彼谷穂の駄々を軽くいなして、秋沙は車を停めた。

 鬱蒼と茂った森を切り開いた場所に、この町唯一の墓地がある。雨泉が鉱山町として栄えた頃から続くこの墓地には、いまの住人よりもずっと多くの人々が眠っている。もう訪れる人のない墓も少なくないけれど、不思議と荒れ果てた墓はなかった。親類縁者が絶えても、誰かが草刈りをして、墓石を磨いていく。たぶん、雨泉の住人が最後のひとりになったとしても、この光景は変わらないだろう。

 墓地のずっと奥、真新しい墓に並んで、風化が進んで文字も読めないような墓石が立ち並ぶ一角がある。目の前にあるものも、その隣も、その隣も、しばらくはずっと領家の名前が刻まれた墓が続く。分家も混じっているそうだけれど、すべて私と血の繋がりのある人々の墓だ。

 「秋沙ちゃん、ごめんね。せっかくのお祭りの前にお墓に連れて来てもらっちゃって」

 「いいのいいの、祭りの前にご先祖様に挨拶するのは筋が通ってるし。まあ、でも、全部は回ってられないわね。お墓くらい、ひとつにまとめてくれたらいいんだけど」

 領家、という苗字が表すとおり、私の先祖はこの雨泉を長らく治めた一族だった。古くは名主として、近世になると村長や町議として。華族の血筋も汲んでいたようで、ちゃんとした爵位を持っていた頃もあったそうだ。

 ただ、その栄光も祖父の代までのもの。私の父は東京の商社で働く普通のサラリーマンだし、自宅も平凡な一戸建て。それなりに裕福ではあるけれど、大富豪でも政治的有力者でもない。

 べつに祖父と父の間に確執があるわけではなく、単にふたりがそういう道を選んだのだ。

 祖父は莫大な資産を継ぎ、しかし領家の名前が持つしがらみも受け継いで、この土地に骨を埋めようとしている。そうやって祖父がすべてを引き受けた分、私や両親は自由な生き方を与えられた。

 しがらみは墓のような『変えられない場所』にこうして色濃く残る。生きる人々の世界では名前の重みがずっと軽くなっても、死者の世界の重みはなくならない。それどころか、ひとりまたひとりと死者が増えるたび、重みが増すばかり。

 「あー、またこんなに草生えてる。先月草むしりしたばっかりなのに……」

 そんな愚痴をこぼしながら草刈りをする秋沙の隣で、私は墓石をひとつひとつタオルで磨いていた。彼谷穂は彼谷穂で、実家の墓の方へ行っている。

 「もしかして、ずっとお墓をきれいにしてくれてるの?」

 「ときどき、じいさまと一緒にね。今じゃ領家の一族はじいさまだけだし、親戚筋で雨泉に残ってるのもうちぐらいでしょ? 放っておくと荒れ放題になっちゃうから」

 じいさま、というのは私の祖父のことだ。昔から秋沙はおじいちゃんっ子だったけれど、今も仲良くしているらしい。

 「まあ、でも、千草ちゃんはそんなこと気にしなくていいんだからね? こんな古いお墓なんて、放っておいてる家も多いんだから。わたしとじいさまが好きでやってるだけなの」

 「でも、ありがとね」と私が言うと、秋沙ははにかんで笑った。


 掃除を終えて私たちが墓参りを終えた頃に、彼谷穂も戻ってきた。先祖への義理立てが済んだところで、そろそろ本題だ。

 「じゃあ、開けるね?」

 蓋をする石をずらすと、墓の中のほの暗い空間が見えた。そこにはいくつか白磁の壷が収められていて、中にひときわ小さいものがひとつある。特に名前が記されているわけではないけれど、これで間違いないだろう。

 おそるおそる骨壷を取り出し蓋を持ち上げると、粉っぽい乾いた空気が膨らんで、すぐに消えた。壷の中には細かく砕かれたような骨のかけらがいくつか入っていて、底の方には塩のような白い粉末が積もっている。

 細心の注意を払って欠片をひとつ取り上げると、まるでこの時までなんとか耐えていたかのように、骨はふたつに割れて骨壷の中に落ちた。自分の骨だというのに、ひどい罪悪感に襲われる。

 「鍛冶島のおじいちゃんが亡くなったとき、お墓の骨壷がいっぱいになってね。そしたら、一番古い骨壷をお墓の中に空けるんだけど、いざ開けてみたら粉が少し出てきただけだったわ。だから、こういうものなのよ、きっと」

 そうかもしれないね、と無理に笑って、私はそれきり口を閉ざした。

 秋沙が慰めてくれているのはわかるし、嬉しいとも思う。ただ、それでも自分が納得できるかどうかは別の問題で。

 私はここに生きている。右手はないけれど、その他はどこも欠けることなく、全身に血を巡らせて生きている。それなのに、十年前にただ切り離されたというだけで、左手はこうも完膚なく死んでしまった。もはや私の一部だったことがわからないくらいに。

 それがどうしても認められなくて、こんなものを受け容れさせようとする祖父の意図もわからずに、私は黙って骨壷の底を見つめていた。

 「ごめんなさい。もう、大丈夫だから」

 数十秒、あるいは数分が経って、自然とこぼれた言葉はそれだけだった。涙は出ないし、わずかばかりの感傷さえ、あるのかどうかわからない。

 「本当に? あとからでも、迎えに来るよ?」

 「ううん、大丈夫。ここにいたって仕方ないし」

 私は骨壷を片付け、手を合わせてさっと立ち上がった。自分に考える隙を与えないように、必要以上の素早さで。

――私は、幻肢というものを感じたことがない。

 幻肢、つまり存在しない四肢があたかも残っているような感覚は、切断を経験した患者の多くが訴えるものだ。けれど、私にはそれがなかった。術後早期からピアノのために筋電義手を付けていた影響だろう、と医者には言われたが、ことはもっと単純な話。

 実のところ、私は生身の腕に未練がなかったのだ。

 遠い昔の不自由な義手と違って、現代の筋電義手は自在に動く。もちろん感覚はないが、少なくともピアノは滑らかに弾けて、生身の腕と同じように音楽を生み出すことができる。

 腕はピアノの末端で、重要な部品のひとつ。私の指が鍵盤を叩くのと、ピアノの中でハンマーが弦を叩くのは同じ働き。ピアノに繋がれた私までを含めて、ひとつの音楽、ひとつのシステム。

 あのころの私にとって、右腕が持つ意味はそんなものだった。もしかしたら今も、心の底ではそう思っているのかもしれない。だから、幻の腕に執着することはなかったし、今も失った腕のために涙を流すことさえできない。

 そんな私に、いまさら右手を取り戻すことが許されるのだろうか?

 『どうして右手を失わなければならなかったのか、なんのために取り戻すのか、結論を出して欲しい』

 祖父の言葉の意味が、少しずつ見えてきていた。


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