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田んぼのまんなかでは、不思議な風が吹く。
都会のビル風のように渦巻くことなく、すうっと山から吹き降ろす風。その流れに従って、水田に青々と茂った稲がさざなみを作る。周囲は稲の緑に埋め尽くされて、まるで夏の草原を歩くようだ。これで足元がひび割れたアスファルトでなければ最高だった。
「ちーさんっ、歩くの早いよっ!」
後ろから駆けてきた彼谷穂が私の隣に並ぶ。あれから、彼谷穂は竹とんぼを教室に戻すために校舎に戻り、それから役場へ学校の鍵を返しに行っていたのだ。その間、私はひとりで先に次の目的地へと向かっていたというわけ。
「待っててくれても良かったのに、つめたいなー。校門のところに隠れて待ってるのとか、ロマンじゃん?」
「つめたくてロマンのない女で悪かったね……」
実際、しばらくは校門の門柱にぴったりと背をつけていたのだけれど、結局ここまで歩いて来てしまったのだ。なんてことは口が裂けても言えない。ただ、単に気恥ずかしいだけで待つのをやめたわけではない。
――十年前には何度となく歩いたはずのこの道、学校から家への帰り道をしばらくひとりで歩きたかったのだ。
「でも、昔は待っててくれたよね。ほら、あきさんも一緒にいてさ。いつもあたしが最後だった」
「あんたはいつも居残り食らってたからね」
居残りで遅れてきたかと思うと、あのころの彼谷穂は誰より前を歩いて帰っていた。文句をこぼしつつ、私の歩調も普段より自然と速くなっていて。
作曲家が書いた「歩くような速さ(アンダンテ)」の解釈が指揮者や演奏者によって変わるのと同じように、隣を歩く人によって私たちの歩調は変わる。それに、歩幅だっていつまでも同じわけじゃない。
隣にいる人は変わらないけれど、あのころよりも私の歩調は緩やかになった。歩幅が広くなっただけではなくて、たぶん、彼谷穂の歩みが私に近くなったのだろう。
「それにしても、改めて歩いてみると本当になにもないね」
「田んぼがあるよ!」
「わざわざ田んぼがあるって言わないでしょ。道路と同じくらい当たり前だし……」
道沿いにあるのは田んぼ、田んぼ、ときおり畑。交差する道はだいたいあぜ道。
そんなところだから建物はないし、標識すらも見当たらない。私の家のあたりまで、一キロ近くはこんな風景がずっと続く。都心の景色を見慣れた私にとっては、まるで未開の惑星のように思えた。
と、道の向こう側から、くすんだ白の軽トラックが走ってくる。この未開の星では最も一般的な乗り物だ。軽トラックは私たちの真横までやってくるとぴたりと止まった。荷台には採ってきたばかりと見える野菜や山菜が雑然と積まれていて、運転席には人のよさそうなおばあさん。
「こんにちは。おねえちゃん、すいか食べるかい?」
「あ、こんにちは……」
混乱して次の言葉が出ない私を差し置いて、彼谷穂が勢いよく「大好きです!」と答えた。するとおばあさんは車から降りて荷台からすいかを出してきて、私に差し出す。もちろんネットも袋もなにもなく、そのままで。
反射的にお礼を言って受け取ってしまったけれど、軽トラックが走り去った後、私はしばらくすいかを抱えて途方に暮れてしまった。
「えっと……彼谷穂、知ってる人?」
「ううん、全然知らない人だよ。でも、昔もこんなことあったなあ。よくわからないけど道端で野菜を貰ってさ。トマトかじりながら帰ったりしてた」
タダより高いものはないとか、知らない人からものを受け取るなとか、田舎ではそういう常識が通用しない。
社会の仕組みそのものが、都会とはちょっとズレているのだ。
そんな思い出話をしているうちに、私たちは住宅地に入った。これだけ広大な土地があるのに、家々は肩を寄せ合ってまとまっている。
田んぼの真ん中ではうっすらとしか聞こえなかった蝉の鳴き声が、池袋の喧騒もかくやという勢いでわめき出す。歩いている人の姿はなく、古びた家々からは物音もしない。老人ばかりが暮らす町は異様なほどに静かだった。
――そんな騒がしい静寂の中に、弦を弾く音色が聞こえた。
ひと息、ふた息、そこまで聞いてすぐ、曲名がわかった。フォン・フロトーというドイツ人作曲家が書いたオペラ、『マルタ』に出てくる曲。オペラ自体は日本での公演機会も多くないけれど、この曲のメロディーは色々な形で知られている。アイルランドの民謡として、エルンストによる超絶技巧のヴァイオリン曲として、そして日本語の歌詞をつけた文部省唱歌として。
「ごめん、ちょっと持ってて」
私は彼谷穂にすいかを押し付けると、音の出所を必死で探った。音の大きくなるほうを目指し走って、走って。辿りついた場所は、誰も住んでいないはずの実家だった。
「ちーさん、待ってっ。突然慌ててどうしたのさ、家は逃げたりしないよ」
「静かに。ヴァイオリンの音、聞こえない?」
「……あ、聞こえる。家の中から? 空き巣?」
「忍び込んだ家でヴァイオリンの練習をする空き巣はいないでしょ」
意を決して引き戸に手を掛けると、案の定簡単に開いてしまった。土間にはベージュのスニーカーが一足、きれいに揃えて置いてあった。サイズはかなり小さくて、私と同じくらいだろうか。
おじゃまします、と自分にも聞こえないくらいの声で呟いて、こっそりと家に上がりこむ。自分の家なんだから気兼ねすることはないし、なにより私の声でこの演奏を止めたくなかった。
実際はこのメロディーに歌があって、ピアノの伴奏もつく。オペラで歌われるよりもずっと前からアイルランドで歌い継がれてきたこの曲の題名は『夏の名残のバラ』。他のバラが枯れた頃に咲いてしまった庭のバラと、同じような境遇にある自分を重ねた、悲しい歌だ。
日本で唱歌になった時に歌詞のバラは白菊に変えられた。日本でもバラは自生しているけれど、西洋らしい八重咲きのバラは少ないから、庭で咲く花としては菊の方が馴染み深かったのかもしれない。ともあれ、歌詞の変更に伴って題名も変更されたのだ。
その題名を、『庭の千草』という。
――栗色の長い髪が、日差しを受けてきらりと光った。
手前の襖と庭に面したガラス戸は開け放たれて、庭から沸き立つ草いきれがこの廊下にまで届いてくる。何度となく夢に見た、あのアップライトピアノが置いてある部屋。その縁側に近い所で、『庭の千草』を弾ききった少女がふっと息をついてヴァイオリンを下ろした。服装は黒地に白の水玉が入った袖付きワンピース。体格はとても小柄で、けれど落ち着いた仕草や表情に幼さは見えない。ヴァイオリンの技巧も、子供の練習と言うには上手すぎた。
堂々とここにいるのだから、なにかしらこの家にゆかりのある人なのだろう。となれば、親戚筋が有力で、私と歳の近い親戚となるとひとりしかいない。
「……秋沙ちゃん?」
名前を呼ぶと、彼女は驚いて勢いよくこちらを振り返った。そして、私の顔を見てまた驚き、ワンピースのすそがひらひらと忙しく揺れた。
「えっ……千草ちゃん? うそ、どうして?」
「えっと、あの、久しぶりだね」
秋沙に会えたことは本当に嬉しかったのだけれど、私はうまく笑顔を作れずにいる。いつも会っている相手に向ける笑顔も、知らない相手に向ける笑顔も用意できているけれど、久々に会った友達に向ける笑顔は持ち合わせていなかったのだ。
もっとも、表情が作れないのはお互い様のようで、私たちはしばらくそのままの距離を保ちながら奇妙なにらみ合いを続けていた。
それを破ったのは、気の抜けた彼谷穂の声。
「あきさん、あきさんだよね! うわあ、久しぶりだなあ!」
彼谷穂がひょこりと私の肩に顔を載せ、そのあまりに軽い態度に私はちいさくため息をついた。こいつが一緒にいる限り、感動の再会みたいな展開は期待できそうにない。
「彼谷穂も? ほんと変わんないのね……とりあえず、お茶でも飲んでく? そのへんに座ってて」
「ありがとー。あ、あとすいか! すいかあるよ!」
はいはい、と応えながら、秋沙はすいかを受け取って台所の方へ歩いて行く。十年も会っていなかったはずなのに、会ってすぐになんとなく空気ができあがっている。
自分だけならこう簡単にはいかないだろうな、と思いつつ、私は扇風機をつけて懐かしい座布団に座り込んだ。実家というよりは、勝手知ったる他人の家、というところだ。
馴染みはすっかり薄れても、感覚はどうにも抜け切らない。頭の中の記憶よりもずっと、身体に染み付いた記憶は劣化が遅いのだ。頭より身体で音楽を弾き続けてきた私は、それをよく知っていた。