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本を読むということ  作者: 赤月忍
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売れ行きの関係で重版の予定が無かったり、はたまた出版社が倒産などして絶版本となっていたりで、

 本そのものがもう手に入らない場合なんてものもある。

 いる子さんなら、今もはや存在しない本に未練など持たず、新たに素晴らしい本との出会いを求めるのだろうか。


 それでも、今まで当たり前だったものにもう出会えないというのは誰にとっても寂しいものである。


 ある日、松羽東部図書館の入り口の扉に張り紙が張られていた。

 内容は、図書館の閉館を知らせるものだった。


 館内へ向かう階段をどんな気分で上ったか、今となってはそんなことは覚えていない。

 ここは気に入っていたし、慣れ親しんだ場所ではあったのだが、

 その知らせを受けた僕は不思議と冷静な気分でいられた。

 何となく、こんな日がくるのではないかという気がしていた。


 司書の方に声を掛ける――この人も、無愛想であまり好きになれなかったが、

 お互い顔を覚えていて挨拶を交わす程度の仲であった――

 と、閉館までの一ヶ月の間に、好きな本を三冊まで選んでいただけます。

 それらの本は差し上げます。…とのことだった。図書館から最後のサービスといったところだろう。


 僕はいつもの席へ向かった。休みがそろそろ明けるのと、この場所にも終わりの時期が近づいているのとで、

 僕は今更借りる本を選ぼうという気にはなれなかったのだが、いる子さんには会っておきたかった。

 彼女は火曜日と土曜日はたいていここへ来ている。

 なので、僕が図書館に対してではなく、いる子さんに本を返すのは、

 火曜か土曜だとふたりの間で暗黙のルールのようになっていた。


「見ました?表の張り紙」

挨拶をして隣に座ると、すぐにいる子さんが声を掛けてきた。少し淋しそうな表情だった。

「もうここの図書館もお終いなんですってね」

「そうみたいですね…」

その時思ったのだが、ここが閉まったら僕といる子さんはもう会う場所が無くなってしまう。

図書館閉館の張り紙を見た際には気付かなかったことに気付き、

事の重大さにじわじわと心が締め付けられる思いだった。

といって、彼女と他で時間を作って会おうなどと、

そんなことを言えるような仲でも無いということは、お互い理解していた。

「それでね、もう本を貸し借りするのも最後になるかと思うので、

図書館から本を貰えるように、私からも何か本を差し上げようと思って」

「それなら、僕も今までのお礼に何か差し上げます」

「あら、うふふ…。嬉しいです」

この日は、館内で選んだ本を読んでも全く頭に入らなかった。

何の本をいる子さんにプレゼントしよう。いる子さんはどんな本をくれるんだろう。

そんなことばかり考えて、ページを繰るための指はずっと止まったままだった。

いる子さんと出会っていなければ、図書館の本を三冊選ぶことが

よほど大事なことに思えたに違いないのに、そんなことはどうでもよかった。

図書館が"お終い"になる前の最後の土曜日に、いる子さんとはじめてはっきりここで会う約束をした。

もちろん、連絡先の交換などはしないままだ。


 そしてやってきたこの日も、僕は同じように挨拶をして、いつもと同じ席に深々と腰掛けた。

「もうここで本を読めなくなるんですねえ」

「ええ。それでなくても最近はゆっくり本を読む時間が無くて」

僕はその言葉に相手の方を見やった。そういえばどことなくいる子さんの元気が無い。

「何かあったんですか?」

「娘が結婚して家を出て行くので、私も職場の近くに引っ越そうと思って、その準備中なんですよ」

「そうなんですか。…そう言えば聞いたこと無かったですけど、旦那さんは?」

「ずっと昔に別れたので、長いこと娘とふたり暮らしなんです。…そう言えば、言ったこと無かったですね」

こういった話も、普通は仲良くなる前に出ても良さそうな話題なのだが。

本当に、本以外のことはお互い知らないのだった。

「あなたも、何もここがなくなるからって本を読まなくなるわけじゃあないでしょう」

「もちろんです」

そう言い切っておきながら、

僕は自分の中にある一抹の不安を拭えずにいた。もうすぐ学校は始まるし、

その先には受験勉強なんてものも待ち受けている。例えばうまく大学に入れたとして、

そこで読書よりもずっと面白いものや興味を引くものを見つけてしまったら…。

または社会に出て働き始めることになり、

仕事仕事で目の回るような生活が始まってしまったら…。

僕はその時、今のように、自分のために本を読む時間を作れるだろうか。

黙ってしまった僕を横目に、いる子さんが口を開いた。

「お互い色々大変でしょうけど…私はずっと本を読むと思います」

彼女の凛とした横顔に、僕の視線は釘付けになる。

「それに」

諭すような口調でなおも彼女は言う。

「あなたも。ずっと、本を読み続けると思いますよ」

彼女にそう言ってもらえると、僕のさっきの不安など取るに足らないもののように思えてきた。

いる子さんの言葉だからこそ、深く僕の心に響くものがある。自分の表情がやわらかくなっていくのを感じた。

ここで一息置いて、さらにいる子さんは続けた。

「本で読んだ知識は半分の知識でしかない。人生で、それを経験して完全な知識となる」

いきなり、敬語でない台詞が飛び出したので僕は驚いた。しかし、聞いてみると格言のようだ。

「それは…?」

「ゲーテですよ。この言葉って、話で聞いたり、見かけたりとかはしたけど、

実際に体験していないっていうものに関しては、その本質を理解したことにはならない、

っていう意味なんでしょうね?

 裏をかえせば、経験さえすれば完全に得られるのだから、本での知識なんて役にも立たないっていう意味にも取れます。でも…」

彼女は、どこか潤んだ瞳で僕を見て言った。

「違いますよね?本を読むのって素敵なことですもの。だからこそ、いい本に出会えたときの感動が大きいんですもの。


 読書をして、例えば時間を忘れて楽しめたとか、感銘を受けた、

 面白かったというただそれだけでは、いい本に出会えたことにはならないと思うんですよ。

 その本を通して、自分がこの先生きてゆく中でほんの少しだけでも、

 影響を与える何かを得られたかどうか、それが大事なんです。


 私はさっきのゲーテの言葉を、勝手に解釈を置き換えて、こういう風に理解してます。


『読書というのは、自分の人生にきっと続くであろう、完全になる前の半分の経験をすることである』」

僕はくすりと笑った。それが何となく、いる子さんの笑い方に似ている気がした。

「いる子さんの名言ですね」

「つまらない名言ですけど」

そう言うと彼女はまたいつもの微笑を見せた。

「いる子さんは、本三冊、どれにするか決めました?」

彼女は首を振って、言った。

「選べなかったんですよ。

今読む本なら、ぱっと決められるのに。ずっと自分のもとに置いておこうって思える本ってなったら、

どれにすればいいかわからなくなっちゃって。あなたは?」

「僕もちょっと時間がなくって」

「そうなんですか。

 あ、そうだ。これ、約束してたお渡しする本、持ってきたんですよ。

 気に入っていただけるといいんですけど。とってもいい本なので――」

いる子さんは僕の顔を見て、言葉を止めた。

「…どうしました?」

「こ、これ。こっちが、僕が持ってきた本…、いる子さんにお渡ししようと思って」

急いで袋から本を取り出す。


 僕は、いる子さんに今まで彼女の大事な本を借りた、そのお礼に一番大好きな本を渡そうと決めた。

 例の、汚されたらどうしようと、つまらない悩みのせいで今まで持ってこれなかった本だ。

 今では、いる子さんに読んでもらって"大切に"扱ってもらえればいいという気持ちになっていた。


 彼女も、今まで僕が貸した本をうけて、僕が気に入りそうな本を選んでくれたのだろうか。

 それとも、引越しの準備の際に家の奥から出てきた懐かしい本でも見つけてきてくれたのだろうか。

 どっちにしても、僕と彼女はただ驚くことしか出来なかった。


 ふたりはしばらく顔を見合わせると、ほぼ同時と言えるタイミングで、手にしていた本を相手に手渡した。



 それっきり。僕といる子さんは出会うことはなかった。

 今も、僕の最も好きな一冊は前と同じで、変わらず自分の部屋の同じ場所に置いてある。

 しかし、その本は、かつている子さんに読み込まれたせいでしっかりと汚れていた。



 本を読むということは、作者の紡いだメッセージをただ受け取るという、受動的な行為のみに収まらない。

 一冊の本が、人と人とを結ぶこともある。また人と、その者自身の未来を結ぶことだってあるのだ。

 

 何度目になるか分からないくらい読み込んだ例の一冊に、僕は再び手を伸ばす。

 本を開くと、懐かしい笑顔が目の前に浮かんだ気がした。



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