手を伸ばすその先
「リュシアン、君には悪いが、婚約を破棄する」
それは唐突に響いた。青空の下、目前の青年とお茶を飲んでいた。何も変わる事の無い風景のはずだった。それを破ったのは、青年の冷たい言葉だった。
「シエル、様……?」
指先が小刻みに震えだす。信じられない言葉を目前の青年から聞いてしまった。何があったのか、自分の何が悪いのか、頭にはその言葉が巡る。
「私はフリアナを愛していると気づいた」
「フ、リ、アナ、様…を……?」
その瞳に水気が溢れ出す。それを必死に引きとめながら、滲んできた視界に青年の姿を捕らえる。
ではあの噂は本当だったのですね、そう問いかけたかったが、そんなことをすれば噂好きの貴族の姫たちと同じになってしまう、と堪えた。
シエルとリュシアンは十年以上前から婚約していた。五歳も離れている為に、リュシアンはシエルの事を初めは兄としか見ることが出来なかった。それはシエルも同じようで、リュシアンのことを妹のように扱った。
リュシアンの心に変化が現れたのは、シエルが騎士として王宮に勤めるようになってからだ。シエルの直ぐ傍には親戚であり、王族のフリアナがいたから。二人はよく一緒に居て、周りが見惚れるほどの美男美女。フリアナとの方が年齢も近いせいか、シエルもよく笑っていた。その姿を見るたびに、リュシアンはフリアナが羨ましかった。フリアナぐらいの美人であれば、と何度も思った。そんな寂しさを紛らわしてくれたのは、フリアナの弟であり、皇太子であるユグラルド。歳も同じで大切な幼馴染だった。
しかし十四にもなれば社交界に出て行かなければならない。出て行くその先々で囁かれる言葉。
『シエル様とフリアナ様はお互いの事を思いあっていらっしゃる』
『シエル様は愛しい方がいらっしゃるのに、婚約者が』
『リュシアン様が二人の邪魔を』
そんな言葉に打ちのめされ、シエルを探せば、フリアナと共に居る姿が多かった。そのフリアナはシエルに対して焦がれるような眼差しを向けていた。その時に味わった胸の痛みによって、リュシアンはシエルに恋していたことを知った。
そしてその恋は自覚したと同時に胸の奥深くにしまわれた。ユグラルドはそんな噂には耳を傾けるなと、リュシアンを叱った。フリアナには他に想う人が居る、と。
しかしユグラルドの言葉も気休めでしかなかったことを知る。今、本人から告げられたのだ。フリアナを愛している、と。
「わ、かりました。父にはこちらから伝えておきます」
「すまないが、頼む」
「いいえ。フリアナ様とお幸せに」
儚く微笑みながら、リュシアンは自分を叱咤する。泣くのは後でも出来る。今は、シエルに面倒な女だと思われない様に、涙を堪えなければならない。そうして微笑んだそれを見てシエルは苦い顔をしながら、リュシアンには意味の解らない言葉を吐き出し、去っていった。
「これで君もユグラルドの傍に居る事が出来るな」
なぜユグラルドの名前が出てきたのか。それを聞こうにもシエルはもう居ない。最後の表情にリュシアンは首を傾げながらも、頬を滑るものに気づいた。それが涙だと気づいた時には服の袖でごしごしと拭っていた。
父親に婚約破棄を告げれば、「そうか」の一言で片付いた。余りにもあっさりしすぎて拍子抜けではあった。国の要職に就く父親だからこそ、その程度で済んだのだろうか、とも考えた。
その招待状はその時、父親から渡された。フリアナの誕生日の招待状。フリアナの直筆で是非いらして、とまで有った。行かない訳にはいかず、こうしてドレスを着てありふれた黒髪を侍女に纏めてもらってその場に立っていた。
「リューク」
「ユール」
愛称で呼ばれ、振り返った先には、従兄弟であり、幼馴染のユグラルドがいた。その幼馴染の視線はリュシアンを通り越していた。その先に何があるのかを、リュシアンは理解し、苦笑する。
「リューク、何。あれ」
「あれって?」
「婚約者。占領されてるけど」
占領されているのはいつもの事。そう、リュシアンは溜め息を付きながら呟く。それに気分を害したユグラルドは視線の先、シエルとフリアナを睨む。
「姉上も配慮が足りないよね」
俺が引き剥がして来ようか、と凶悪な笑顔で提案するユグラルドにリュシアンは困った顔で首を横に振る。そして自分たちを心配していた、この優しい幼馴染にも告げなくては、と口を開いた。
「シエル様とね、婚約解消したのよ」
「はぁ!?」
「シエル様はフリアナ様のことが好きなんだって」
「姉上の事を!?」
ない、ありえない、とユグラルドは首を振る。有り得ない。シエルはリュシアンのことを何よりも大切にしていた。只の幼馴染であるユグラルドに対して、何かと嫉妬するぐらいには。
以前、余裕ないね、大人げないんじゃない、とからかってやれば凄まじいさっきと共に睨まれた事がある。逆に言えばそんな彼がリュシアンを手放すことはありえないことなのだ。
「ちょっと、二人に聞いてくるよ」
ここで待ってて、とユグラルドはリュシアンに言ってからシエルに近付く。それが悲劇の始まりとも気づかずに。
「まぁ、リュシアン様では有りませんの?」
「あら、本当だわ」
「お久しぶりですわね」
そう話しかけてきたのは、リュシアンの苦手な三人だった。しかもこの三人、いつもマナー違反をしてくる。リュシアンよりも身分は低いのに、自分たちから離しかけてくるのだ。それはいつもリュシアンが一人になったときを狙ってやってくる。そして毒をリュシアンに流し込み、嘲笑と共に去っていくのだ。
「まぁ、リュシアン様も厚顔ですのね」
「本当に。今日はフリアナ様のご生誕を祝う席ですのに」
「未練たらしくシエル様に付き纏っていらっしゃるの?」
無様ですこと、と続くその悪意に満ちた言葉にリュシアンは嫌気が差し、その場を離れる。しかし三人は付き纏ってくる。人気の少ないバルコニーに出たのは誤算だったとしか言いようが無い。
「しかもシエル様の次はユグラルド様ですの?」
「釣り合いが取れないとはお思いになられないのですか?」
「どうせまた、お父様に強請ったのでしょうけど」
お父様が権力をお持ちだと得ですわよね、と嫌味たらしく言ってくるその言葉に、リュシアンは三人を睨む。
その視線に三人はますます怒りを露にする。軽くリュシアンを後ろへと突き飛ばすが、リュシアンは二、三歩後ろへと動いただけで、視線のきつさは彼女たちに向いたままだ。それに矜持を傷つけられた三人は渾身の力を込めて、リュシアンを突き飛ばした。
それによって手摺りに付いていた彼女の手はがくりと外に滑り、体勢を崩したリュシアンの上体は呆気なく宙に投げ出された。
急に天地が入れ替わったリュシアンの視界には驚愕と恐怖に彩られた三人の顔。そして真っ暗な王宮の庭、木々を映し、あっという間に地面が視界に入った。衝撃が来ると思ってぎゅっと目を閉じたが、頭を庇う事までは思い居たらなかった。
「シエルさぁ、婚約解消したって本当なの?」
シエルの顔を見たユグラルドは開口一番そう聞いた。その言葉にシエルは微かに顔を歪めた。貴様には関係ない、そう言いたかったがそれも今の自分には言う資格が無い台詞だと思い、踏みとどまる。
「ユール、もう少し言い方は無いの?」
フリアナでさえ表情を苦いものに歪めている。ごめんなさい、と言うがフリアナには関係の無い事。
「リュークにさぁ、姉上を愛してるって言ったんだって?」
そんな見え透いた嘘、止めてくれない、とユグラルドはシエルを睨みつける。シエルからの敵視やお門違いな嫉妬にも、笑顔でいなしていたユグラルドが、シエルに対して本気で怒りを露にしていた。見え透いた嘘、の部分で一瞬傷ついたフリアナにはユグラルドは気付いていても無視をした。自分の恋心にリュシアンの幸せを壊したのだから、それぐらいは覚悟するべきなのだ。
「リュークに対する想いってそんな程度なわけ?」
見込み違いだった、とユグラルドは苦く呟く。その言葉にシエルも激昂する。
「その程度、だと?」
「うん。その程度。だからあんたの思惑に乗ってあげるよ」
「……何だと?」
ふ、と人を小ばかにしたような表情を浮かべ、ユグラルドはシエルに宣言する。
「大切な幼馴染を守るために俺の奥さんにするよ」
「ユール?」
ちらりとユグラルドは自分の姉を見遣る。シエルの気持ちを何も知らない馬鹿な女。だから知らせてやらないと。
「シエルはさ、馬鹿なんだよ。」
「……おい。」
「リュークが俺の事好きだとか思ってるんだよ」
有り得ないのにね、とそれはシエルに向かって呟く。
「リュークはずっとシエルしか見てなかったっていうのにね」
本当に、馬鹿じゃないの。そう呟くユグラルドの顔は、出来の悪い子供を見ているように困った顔をしていた。
ごつり、と鈍い音がその場に響いた。頭が揺さぶられる。うめき声を上げる事が出来ないほどの痛みをリュシアンは味わった。
痛い、痛い、痛い。目を閉じれば、ほろり、と涙がこぼれる。それは痛みに対してなのか、先ほどの仕打ちに対してなのか、リュシアンには判断できなかった。
周囲の悲鳴もどこか他人事のように聞こえ、うっすらと開いたその視界には自分の腕が見えた。それを動かそうとした。頭では腕を動かしたつもりだった。しかし視界に映る自身の腕は、微塵も動くことは無い。それに一種の恐怖を感じたが、それを突き止める間もなく、リュシアンは痛みにその視界は黒く塗り潰された。
その悲鳴は直ぐにシエルにも、フリアナにも、 ユグラルドにさえも届いた。三人はすぐさま悲鳴の元まで駆けつける。そこにはへたり込んだ少女三人。
「君たち、一体何があった」
険しい顔つきでシエルが声をかける。シエルにはその三人の顔に見覚えがあった。いつもリュシアンの傍にいた三人である。
「あ、あの、私たち、その……」
「何があったかはっきり言わないか」
「ひっ、あ、あ、あの子が、バルコニーから」
その言葉にいち早く反応したのはユグラルド。駆け出し、バルコニーから身を乗り出し下を確認する。そしてそれを見つけ、蒼白になって駆け出す。
一体何が、とバルコニーへと近付こうとしたシエルに三人は縋りつく。
「わ、わざとじゃないんです!」
「あ、あの子が勝手に!」
その言葉にシエルの不快感は否応も無く増す。顔を顰め、縋りつく三人を手荒に引き剥がす。バルコニーから下を見れば、最悪の光景が広がっていた。
頭が真っ白になる。そんな体験をシエルは味わう。思考が空回りし、一向に纏まらない。身体でさえ思うように動かない。
「シエル、一体何が?」
「フ、リアナ。貴女はここに」
なんとかそれだけを振り絞りフリアナへと伝える。シエルはふら付きそうになる自身の脚を叱咤し、庭へと駆け出す。
そこには既にユグラルドが居た。意識の無いリュシアンの首を触り、脈を確かめ、胸が動いていることを確かめた。そして外傷が無いかを調べていたその手は、止まる。
暗い中では、解りにくいが、それでも直ぐに気づくそれ。頭から流れているそれ。慎重に頭を動かし後頭部を触る。そこにはどろりとした感触。見なくとも解ってしまうそれは、血液。
「シエル、医者、呼んで」
「……!」
シエルは震える手を握り締め、庭から建物内へと駆け出す。医者をすぐさま見つけ、庭へ行くように命じ、傍を通りかかる侍女を捕まえて、庭から一番近い部屋に清潔なシーツと、水を沢山用意させる。
ベットへと慎重に寝かされたリュシアンに医者は、取り敢えずは命に危険は無い、と診断した。それに安堵するが、医者は険しい顔を崩さない。それにシエルとユグラルドは不安に駆られる。医者は何を懸念しているのか、と。
その懸念は直ぐに二人の知れることとなる。
「う、ん……」
小さな声に反応したのはユグラルド。ベットの直ぐ傍に椅子を置き、そこに腕を組みながら座っていた。シエルとフリアナは強制的に帰らせた。ユグラルド的に邪魔だったからと、リュシアンの心の安寧の為にも二人は居ないほうが好都合だったから。
「リューク、気づいた?」
「うぅ、あたま、いたい」
「それは仕方ないよ。後頭部をかなり強くぶつけたみたいだから」
首を横に動かし、リュシアンはユグラルドと顔を合わせる。心配そうな表情のユグラルドに申し訳なく思い、どこも悪くは無い、と示そうとした。しかし腕は愚か、手も動かない。
「……え」
リュシアンは己の身体に何が起こったのか、理解できなかった。首は動く。眼も見えているし、話すことも出来ている。しかし首から下の腕や脚が動かないのだ。
「あ、え?な、何がどうなってるの?」
リュシアンの様子にユグラルドも気づく。不安と恐怖に塗り固められたその瞳に、ユグラルドもまた恐怖に慄く。
「リューク、どうした」
「ユール、身体が、動かない」
その言葉にユグラルドはリュシアンの身体に掛かっていた毛布やシーツを剥ぐ。手を持ち上げるが、それはいつに無い重さを持っていた。まるで気を失った人のような重さ。脚に触れるが、小さな抵抗さえも見られない。リュシアンの顔を見れば羞恥で深紅に染まっている。つまりは足を動かして拒否をしたいほどの行為、となる。
「直ぐに医者呼んでくるから」
ユグラルドはリュシアンの身体にシーツを被せ、部屋を後にする。医者を呼びに行く道すがら、ユグラルドの脳裏を駆けるのは昨晩の浮かない顔をした医者。懸念はこれか、とユグラルドは舌打ちした。
もしもこのまま身体が動かなければ、リュシアンは社会的に抹殺される。まだ結婚もしていない。まして婚約者もいないこの状況では誰もリュシアンを自分の妻には望まない。
たとえリュシアンが公爵家の姫でも。むしろ公爵家からも見捨てられる可能性がある。
それだけは避けなければいけない。しかし自分の妻には出来ない可能性が強まった。王妃には五体満足の、なんの障害も無い女性でなければいけない。
最悪リュシアンを自分の妻にしてこの針の筵から救ってあげようとしたことが裏目に出た。さっさと適当なヤツと婚約させていれば、と悔やまれる。そこは父親である王にも協力させる気ではあったが。
「どうなんだ?」
医者は難しい顔を解く事無く、リュシアンの身体を調べ終えた。小さく溜め息を付き、医者はリュシアンへと憐憫の眼差しを向ける。
「身体が元のように動く可能性は、奇跡です」
その言葉にリュシアンは絶望した。また父に迷惑をかけてしまう、と。
「先生、屋敷に帰ることは出来ますか?」
「当分は身体は動かさないでいただきたい」
奇跡に縋りたいなら、と医者は首を横に振りながら告げる。そしてある場所と人の名前を紙に記し、ユグラルドへと預ける。
「身体を動かすことを専門にする医者の名です。そこに行かれてみては如何でしょう」
「すまない」
貴女にセイラムの奇跡が訪れんことを、とリュシアンに呟き医者は部屋を後にした。
「医者が言う台詞ではないはね。」
神の奇跡に縋れだなんて。嘲笑うような表情にユグラルドは顔を顰める。彼女は人を貶めるような事は口にしない。つまり、これは自分に言った言葉。『奇跡に縋らねばならない人間に成り下がってしまった』という事だろう。
「リュシアン、取り合えずひと月はここに居てもらうよ」
「ユール」
「これは決定事項。父上も許してくれるよ」
可愛いリュシアンの為だもの。そうおどけてみても彼女の表情は暗く沈んだまま。彼女から笑顔を奪った三人にはきちんとした処罰を願い出なくてはいけない、そう心に誓う。リュシアンの髪をくしゃりと撫で、ユグラルドは部屋を後にする。
部屋のすぐ前には案の定シエルが居た。それにユグラルドは不愉快になりながらシエルに釘を刺す。
「中に入ろうなんて考えないでよ」
「……リュシアンは……」
「もう、シエルには関係ないでしょ」
捨てたのはそっちなんだからさ、と言い捨てながらユグラルドは歩き始める。それをシエルは無理に引き止める。
「関係はある」
「………うん」
その言葉にほっとするシエルにユグラルドはにっこりと笑顔を向けて言い切る。
「関係ないよね」
じゃあね、とシエルに捉まれた腕を引き剥がし、歩いていく。その後姿を今度はシエルは引き止めることはしなかった。確かに関係を断ち切ったのは、自分の方だった。それを思えば、リュシアンの傍にいたいと思うのはむしが良すぎた。
「それは最悪の事態だな」
「ですよねぇ。俺の奥さんていう手が無くなったから、困ってるんですよ」
「……私の姪っ子をお前なんかに渡すか」
「待って。俺、貴方の子供ですよね!?」
子供の前に出来の悪い小僧だ、と吐き捨てられ、少しユグラルドも心傷つく。しかしそんなことよりもリュシアンの事が先になる。
「とりあえずはこの場所で静養させないといけませんね」
「取り敢えず、はな」
問題はその後となる。リュシアンが得るはずだった幸せは、倍にして返してやりたい。だが、それもリュシアンを愛している、というものが前提となる。
「身体が動かないと千年の恋も吹き飛ぶかな」
「その程度の男にリュシアンはやらん」
「ですよねー」
この姪っ子命め、と心の中だけで毒づく。そこへいくとシエルは適当な人材だった。顔良し、家柄良し、職業良し、性格、まあ良し。リュシアンしか目に入っていない様子は、姪っ子命の中で、唯一の及第点を叩き出した男だった。それがどんな奇跡だったかをシエルは理解していない。きっと、シエルがリュシアンを手に入れたいと望んでも、二度とシエルにはリュシアンを渡す気にはならない。国王がどんな事をしてでも渡さないだろう。
馬鹿だな、とユグラルドは心中でシエルを嘲笑する。
そのひと月の間、シエルは何度となくリュシアンのいる部屋に訪れていた。しかし中に入る事は出来なかった。リュシアンが誰かに会う事を望まなかった為と、ユグラルドが妨害した為だ。
しかもユグラルドはシエルが来ている事をリュシアンには伝えなかった。リュシアンを傷つけた相手に会わせる気は微塵もなかった。
「リューク、ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるわよ」
リュシアンは即答するが、その身体は明らかに細くなっていた。ユグラルドは盛大に溜息をついて、リュシアンのベットに腰掛ける。たくさんのクッションに埋もれるようにリュシアンはなんとか上体を起こしていた。その姿は起き上がるのも精一杯、というのがひしひしと伝わる。
「リューク、やっぱりここに行かない?」
そう示したのは、あの医者が言っていた場所。そしてその質問は一度ではない。何度となく聞き、その度にリュシアンは複雑な表情を見せた。
「俺はほんの少しでも、奇跡が起こるならそれに縋りたい」
「……セイラムの奇跡よ。起きるのは万に一つよ」
「それでも、リュークが今よりも幸せになるなら、俺は奇跡でも起こしたい」
「………ユール」
困り果てたその顔にユグラルドは微笑みかける。
「もちろん姉上にも、シエルにも居場所は教えない」
最高の条件だ、と言わんばかりのユグラルドの言葉にリュシアンは溜息混じりに頷いた。
「ユールの気が済むなら好きにして」
リュシアンの承諾をもぎ取った後のユグラルドの行動は迅速だった。その日のうちにリュシアンの荷物は粗方送られ、二日後にはリュシアン自身も王宮を出ていた。
それから三ヶ月、骨格、筋肉、神経、という分野の専門の医師に診察してもらい、努力すれば、ある程度動かす事が出来るかもしれない、という診断をもらった。リュシアンはその診断を元に、専門の医師に動かすための訓練を始めた。
始めたばかりは、ほんの少し動かすだけで玉のような汗を掻き、直ぐに疲れ果てた。それを繰り返した結果、立ち上がりに介助は要すものの、少しの時間ならば立ち続けることが出来た。何かに掴まってでないと立てないが、一人で立てる事が嬉しかった。
しかしそこから足を踏み出す事は出来ず、直ぐに膝の力が抜けた。最近では室内では怪我の危険もあるから、と芝生が一面に覆われた中庭で訓練する事が多くなった。
そしてリュシアンへの客はそんな時にやって来た。
「え、フリアナ様が?」
自分に付いて来てくれた侍女の一人が困惑も顕にそう口にした。ユグラルドは誰にも自分が此処に居る事は言わないと約束していたのに、と心中で詰る。しかしユグラルドの立場であれば、言わざる終えない状況も現れてくる。仕方がないので小さな客室に案内するように指示を出した。
そうして久しぶりに会った従姉妹は、言葉を発する前に頭を垂れた。
ごめんなさい、そう呟いた声にリュシアンは聞こえない振りをした。涙を流しながら謝罪するその姿は可憐。見るものに憐憫を与える。しかしそれも被害者であるリュシアンには何の効果もない。心にも響いてこない。白けた視線をフリアナに向ける。
「フリアナ様がなぜ私に謝るのですか」
「私のせいで、リュークがこんな事になってしまったわ」
「あの三人は貴女の差し金、という訳ですか?」
その冷たい一言にフリアナは俯いていた顔を上げ、必死に頭を横に振った。
「いいえ!違うわ!」
しかし否定した途端、彼女は力なく項垂れた。彼女たちは自分の命令で動いたわけではない。だが、フリアナのことを思っての行動だった。
それはつまりフリアナの差し金、となっても可笑しくはない。項垂れるフリアナにリュシアンは見切りをつけた。
「もう、いいです。」
それは、フリアナにはどうでもいい、と聞こえた。どこまでも冷たい態度と声音にフリアナは一層の悲しみを覚えた。自分の行いでこんなにも大切な従姉妹が、心を閉ざしてしまった事に罪の意識が重く圧し掛かった。
「リューク、お願いよ。私のことは許さなくて良いから、シエルのことは受け入れてあげて」
なんとも方向違いのお願いに、リュシアンは盛大に溜息をついた。結局はそこか、と。
「シエル様に頼まれましたか?」
「違うわ。私の意志よ」
「そうですか。」
リュシアンの凍てついた瞳はフリアナの身体をその場に縫い止める。そのままリュシアンはフリアナに扉を示した。
「フリアナ様、お帰りはあちらです」
有無を言わせないその言葉にフリアナは心中でシエルに謝罪する。自分ではリュシアンの凍てついた心を溶かす一端にもなれなかった。
しかしそれさえも自分の罪悪感を軽くしたいが為の行動だったと、気付く。自分を悲劇の主人公に仕立て上げた姿に、誰が同情するだろうか。リュシアンは全て、フリアナの気持ちですら読み取って、拒絶したのだ。
リュシアナの冷たい瞳にはその意思が見て取れた。
「シエルがここを訪れる事を貴女は許してくれる?」
「許しません。そんな事になれば貴女を二度と許さない」
非難をその眼と声に宿したリュシアンはフリアナをねめつける。要らない事をしてくれるな。その瞳が物語っていたが、フリアナは何も答えずにリュシアンの許を去っていった。
しかしリュシアンの不安をよそに、シエルは訪れなかった。事故から半年、なんとか手は握る事が出来るようになったが、力加減が出来ず、よく物を落としていた。
その日も柔らかい球を掴んだり、放したりしていた。その拍子に意外に遠くまで転がっていってしまいリュシアンは困ってしまった。出来る事はなるべく自分でするようにしてはいるが、あまりに距離が遠い。普通の人ならば歩いて二、三歩でもリュシアンにとってはものすごく遠い場所だった。
何とか立ち上がろうとした時に、大きな節くれ立った手が視界に現れた。え、と呟く間にその手は球を手に取り、近づく。視線を上に向ければ穏やかに微笑むシエル。
穏やかに笑ってはいたが、その瞳には紛れもなく緊張が走っていた。そんなシエルの姿を捉えた瞬間、気が逸れた。手の力は呆気なく抜けて、肘は自分の体重を支える事を放棄してしまった。地面にぶつかると覚悟したとき、暖かい物が身体を包んだ。
背中に回されたそれに気付き、眼を開ければ視界一杯に広がる黒色。それは規則正しく上下し、暖かい。耳にはとくとくと生きている証拠である鼓動が聞こえる。何だ、と考え、答えが出る前に、暖かいそれから溜息が漏れた。
「貴女は私の寿命をどれだけ縮めれば気が済むんだ」
溜息交じりの台詞にはこちらが申し訳なく感じる切実さが滲み出ていた。しかしリュシアンにとっては予想外の事。なぜ、どうしてここにシエルが居るのか。驚きに言葉も出ないリュシアンに苦笑しながら、シエルは「失礼」と一言告げるのみ。
その言葉の後にはリュシアンの身体は浮いていた。ぎこちない動きしか出来ないリュシアンはシエルに抱き上げられても、抵抗らしい抵抗は出来なかった。
「シエル様!」
その声にシエルは腕の中の少女に視線を向けるが、その視線は彼女を咎めるものだった。
「リュシアン、以前より身体が薄くなっているようだが?」
「う、うすっ……!」
シエルの言い方にリュシアンは言葉もないが、シエルはそれを気にした様子も見せず、さらに問いかける。
「食事を摂ってくれないと侍女か嘆いていたが」
「な、な、な」
わなわなと身体が震えるも、シエルにとっては大した事ではない。じっとりとリュシアンを見つめる。その視線にいつもリュシアンは根を上げていた。どうなんだ、と視線で問われ、リュシアンは悲鳴のように声を上げる。
「食べています!薄くもなっていません!」
「ほぉ?」
その声は普段の声よりも低い。怒る時の彼の特徴にリュシアンはひくり、と口元を歪めた。なぜにこんな会話になったのか、とリュシアンが困惑していればその理由が現れた。
そこにはしっかりと食事の準備がしてあった。なんで、と叫べばシエルに呆れた様に息を吐き出された。原因はそれか、と。
「リュシアン、今は昼も大分過ぎた時間だ」
「え?」
自覚していないだけに厄介。訓練を頑張り過ぎて食事を抜く事も、かなりの頻度であると言っていた。思ったよりも重症だ。シエルはユグラルドに言われた事を思い出す。
『はっきり言って、今の君論外だよ』
何がだ、と問えば小馬鹿にしたようにユグラルドは言葉を投げつける。
『リュークを信じなかったし、聞こうともしなかったよね』
何に対してかは自身がよく理解していた。ただ一言、彼女に聞けばよかったのだ。
『それでも彼女が欲しい』
『本当に厚顔だよね』
何と言われようとも構わなかった。ただ彼女の手をもう一度この手に収めたい。彼女の隣を占領したい。
『リュークから承諾を受けたら?』
出来れば、の話だけど。それが出来る可能性は低い。リュシアンのことを思えばこんな奴にリュシアンの居場所も、リュシアンの現状も知らせたくはない。
しかしそうしなければリュシアンは遠からず倒れる。今でさえ寝食を惜しみすぎていると侍女から泣き付かれているのだ。シエルがリュシアンの許に行けば、確実に問題は解決するだろう。シエルは基本的にリュシアンには甘い。甘やかす。今のリュシアンを見れば確実に怒るであろう姿も想像できる。
『リューク今ちょっと大変だからさ』
行っても相手にして貰えないんじゃない。そんな言葉とともに渡されたリュシアンの居場所。そこは療養地として有名な場所だった。
シエルは用意された椅子に座り、リュシアンはシエルの膝の上に座らされた。じたじたと逃げようとするリュシアンの腰に腕を回し、抱き寄せる。その仕草だけで氷のように固まるリュシアンに忍び笑いをして、昼食を食べるように促す。それに恨めしそうな視線をシエルに向けながらも、その手はスプーンを握った。
ゆっくりとした動作で食べ始めるものの、リュシアンは直ぐに手を止める。理由は一つ。酷く疲れるのだ。食べる事に体力を要するあまり、食べる事に嫌気が差している。だから食べない、という負の連鎖が続く。
「もう食べないのか?」
まだ食べ始めたばかりだろう、とシエルは非難する。しかしリュシアンは疲れることは訓練で散々している為に、できれば回避したい。
「疲れるので欲しくありません」
ぷい、と他所を見ながら言う台詞に、シエルは苦笑をこぼす。そういう理由か、と。
「ならば、私が食べさせよう」
リュシアンの置いたスプーンを手に取り、シエルは食べ物を掬い、リュシアンの口許に宛がう。それにぎょっとしたのはリュシアン。
「そんなっ」
全てを言い切る間にシエルによってスプーンを口の中に入れらせられる。リュシアンは文句よりも先にそれを咀嚼せざるをえない。黙って口を動かし、嚥下する。シエルは既に次を用意していた。文句を言いたいのに有無を言わせないシエルに、リュシアンは諦め雛鳥の様に口を開けた。
しかし半分も減らないうちにリュシアンはシエルに、もう入らないと首を横に振る。それにシエルは不満を覚えながらスプーンを置いた。それをほっとした心地で眺めていたリュシアンは、やっとシエルの存在に違和感を覚えた。
「シエル様、なぜ此処に?」
「大切な貴女を支えるために」
心底愛おしそうにリュシアンの髪を撫でる。その髪はこちらに来てから侍女に頼んで切って貰ったのだ。腰まであったその黒髪は、訓練の邪魔になるだろうと肩の当たりまでに切りそろえた。それを惜しむかのようにシエルはリュシアンの髪を手で梳いていく。
その感触にくすぐったさを感じながらも、リュシアンはシエルの言葉を吟味する。
「大切、とは?」
「貴女が誰よりも大切だからそう言っただけだが」
「シエル様の大切な方はフリアナ様でしょう?」
そのリュシアンの言葉にシエルは言葉を詰まらせる。それを肯定と取ったリュシアンはシエルの腕から逃げ出そうとする。それをシエルは許さない。
「リュシアン」
耳元で囁かれるその声にリュシアンの動きは止まる。耳を赤く染めるリュシアンに気を良くしながらシエルはさらにリュシアンを自分の両腕で閉じ込める。
「愛しているのは貴女だけだ」
無口で不器用なシエルの精一杯の告白。しかしリュシアンはそれに心を動かされる事は無い。フリアナを愛しているといった。妹のようにしか見れないと言っていた。リュシアンの脳裏に一つの言葉が閃く。
「同情ですか」
こんな身体になってしまった自分に対しての。その言葉にシエルの拘束はますます強まる。抱きしめ、閉じ込め、誰にも触れさせたくは無い。
「違う」
苦しそうに吐き出したその言葉に、リュシアンは首をかしげる。
「貴女は、あいつを……ユグラルドを好きなのだろう?」
「は?」
それは寝耳に水の言葉。自分がユグラルドを好きなわけは無い。あの人はどこまで行っても従兄弟で幼馴染だ。
「いつもあいつと一緒に居ただろう」
「それはっ!」
どうすればシエルにつり合うか、どうすればシエルが己を好いてくれるのか、相談をしていただけだ。
「それは?」
そんな事を本人には言えない。言いたくない。
「答えられない?」
冷ややかな声。リュシアンの息が詰まる。シエルの長い指がリュシアンの頤に触れる。そのまま優しく後ろを向かせるが、振り向いた先に見えたものにリュシアンはぎくりと身体を強張らせた。
「あいつを愛しているのか」
シエルの瞳には仄暗い嫉妬の色が見えていた。それに恐怖しながらリュシアンは口を開いた。しかしその口から言葉が紡がれる事はなかった。
「貴女があいつを愛していようがどうでも良い」
もう遠慮も、身を引く事もしない。あいつを好きでも気にする事はない。自分を振り向かせる。
リュシアンをそっと上向かせ、その唇に、自分のそれで触れた。柔らかいそれにシエルはもっと、と貪る。リュシアンは息も絶え絶えに弱々しく腕を持ち上げた。それだけで息が上がり、うっかりと口を開けてしまう。それを逃さないシエルはリュシアンの熱い腔内に舌を滑り込ませた。びくり、と身体が震えるリュシアンをシエルは押さえ込み、好き勝手にリュシアンを味わう。ぐったりとしたリュシアンを自分の胸に持たれ掛けさせ、シエルはやっとリュシアンの唇から離れた。
顔を辛苦に染め、涙で潤む瞳でシエルを睨みつける様は扇情的で、もう一度、と触れ、体中を余すところ無く味わいたい気分にさせた。
「もう一度この手を取ってはくれないか?」
縋るその言葉にリュシアンは困惑した。自分こそがシエルに縋っていた。それなのに自分がシエルを突き放そうとしているのではないか。その困惑は身体に現れた。手が震える。その手を取っても良いのだろうか。もう一度自分は傷付けられるのではないか。そんな負の想いばかりが頭を占領した。
シエルはリュシアンの困惑を感じ取り、自分の行いを恥じる。聞いてしまえば簡単な事だった。答えは聞いていないが、こちらの心を見せればリュシアンはそれに答えてくれる。
ずっとリュシアンはその手を自分に伸ばしてくれていた。それを気付かずにリュシアンの気持ちを優先させると言いながら、自分自身が傷つく事を恐れた。その代償が今、目の前にある。
何の迷いも無く手を伸ばしてくれていたのに、その手がもう一度自分に伸ばす事を躊躇っている。
「陛下は、きっと私の事を貴女の傍から排除しようとするだろう」
「え?」
「それでも私は貴女と共に歩んで生きたい」
貴女の苦しみも、悲しみも、全て分かち合いたい。その言葉にリュシアンはくしゃりと顔を歪める。
「私の隣に居て欲しいのは、リュシアン。貴女だけだ」
リュシアンはもう堪える事が出来なくなった。ほろほろと静かに涙を流しながら、必死に腕をシエルに向かって伸ばした。
その手を至宝のように押し戴き、シエルはセイラムの奇跡に感謝した。
リュシアンのお願いに屈し、国王が二人の結婚を許したのは、それから三年後の事となる。
これからのシエルは国王という頂点の権力者とその家族達から大いにリュシアンとの結婚を妨害されます。
自業自得ですが。
最後には国王がリュシアンの必死の懇願に絆されると言う、なんとも男らしくない方法で結婚をもぎ取ります。
リュシアンにはお兄さんが居る予定でしたが、既に妨害要因は吐いて捨てるほど居たので止めました。
基本、リュシアンが幸せになればそれで良い集団です。