五、追手
「僕がこの手でプリチュ王を殺します」
王子の口から、ついさっき、哀しげに発せられた言葉が、しばらく頭にこだました。
それから王子は、すっと立ち上がると一回だけ私に微笑みかけて、それからすたすたとテントに戻った。私も慌てて後を追った。
テントに入ってすぐ、王子は涼やかにレスティさんに、急に席を立った非礼を詫びた。
そして腰を下ろしてから、プリチュ王を自分で殺す、という決意の程を表明した。
それを聞いて、レスティさんは、
「ほう」
と言ってにやっと笑った。王子にプリチュ王が殺せるなら、ハーレの国民がどれ程気力を欠いていたって問題はないわけで、その辺を考えて生まれた笑みだと思う。
それからレスティさんは、本当は私が王子に伝える筈だった事を、つまり協力しよう、ということを言った。
王子は静かに言った。
「協力して頂けるんですか?」
「ああ――大した助けにはならぬかも知れぬが、ま、貴公らをプリチュ王の手の者から隠してハーレ城市へ送るくらいのことは」
それだけでも大した助けだと思う。
「で、貴公はどうするつもりだ?具体的には」
レスティさんの問いに、王子は杯を置き、顔を上げるとまっすぐレスティさんの目を見て言った。
「とりあえずは歓迎されないとしてもハーレに正面から入国します。――そして、父をどうしても口説き落とせないようなら。父が植民地のままを望むなら。その時はプリチュ王国に戻って、そして――」
王子はそれきり黙ってしまったけど、レスティさんにもムルーにも、それから私にも後に続けられるべき言葉はわかっていた……。
えーと、今晩か、明日の朝ぐらいだろうって言ってたっけ、追手に追いつかれるの。
――そんなことを考えながら、テントの中で横になっていた。
酔い潰れた人たちがその辺にごろごろ転がっていて、いびきはすごいわ、歯軋りも聞こえるわ……。
でも、それでもなおかつ、今晩がこの世界に来て以来、一番眠る条件がいいんだよなー。
だってさ、来て二晩は牢の中、石畳の上でじかに眠っていたわけだし、次の晩は、川のそばでびちょびちょになって気絶してた。昨晩は前三日よりはかなり良かったけど、それでも草の上に布一枚敷いてその上で寝るという、野宿だったし。
そんなわけで、今日はゆっくり寝よう。
てーそーのきき、とかいうものは気にしなくても良さそうだし。
何でかというと、レスティさんが全員に戒めてくれたんだな、手を出したら草原の民の一族として認めない、と。
流浪の民が一族から見放されると、余程腕のいい剣士でもない限り生きていけないんだそうだ。生活の手段がないから。
それにしても。レスティさんが私達にこんなに好意的なのは、王子がロッフ王を殺せると仮定したからだよね。――あの王子が殺すと断言したからには殺すのは可能なんだろう、けど……相手が魔王だっていうのがいまいち不可測要素だよね。
魔、か。魔力――この世の力ではないもの、か。
「ま、私にしてみりゃこの世界そのものがいつもの世界と違うもんな」
とりあえず、寝よう。ぐっすりと。
「……て下さい……リナ……起きて下さいってば!」
なーにー?私、眠い。寝かせといてよー。
「そんなもんじゃダメですよ、王子。いいですか?……さっさと起きろ!」
キーン。
頭の中でそういう音が響いた。のそのそと起き上がって、言う。
「おはよ。――今朝もうちじゃないんだ」
いいかげん、いつもと違うところにいる、という状況には慣れた、といえ……目覚める時には、いつも期待してしまう。今までのは単なる夢で、私はうちにいるんじゃないか、と。
――欠伸を一つ。
「悪いね。私、寝起きがとっても悪いもんで」
「全くだ」
……かわいくねーなっムルーの奴は。
「そんなことより、リナ。――聞こえますか?外……」
ん?そーいや言い争ってるみたい。なになに?
「……ですから、子供連れの三人組を御覧にならなかったかっとお尋ねしているのです!」
「しつこい!見ていないと言っていようが!」
うーん、今のはレスティさんの声だな。それにしても今の会話は……。
「追手?」
王子がこくんとうなずいた。
「レスティ殿が任せておけ、と言って出て行かれたんですけど……」
ふうん。――周りを見回すと、みんな起きてて外の会話に聴き耳をたててる。――何かみんな楽しそうね……。昨日のレスティさんとムルーの試合を見てたときみたいに楽しそう。
どれどれ?
「……ですから三人組を御覧にならなかったかとお訊きしているのです!」
「――見てない、と何度言ったらわかるのだ!!」
あん?なんかさっきと内容同じみたい……。
「――そんな筈はありません!王子一行は必ずこの辺りを通った筈なのです!素直に答えて頂きたい!」
「何を?」
「ですから――!」
あ、むかついたなー。見た、と決めつけてるくせにわざわざ、見たか?なんて訊くなっつーの!――あーいう奴、中学ん時いたなー。体育の教師!憎ったらしー奴!あーいう野郎はどわいっ嫌いだっっっ!!
「――そんな筈はありません!王子一行は必ずこの辺りを通った筈……いや、しかし、確かにここにいるにしては早過ぎる……」
おや、やっと会話に進展があったわ。
「――!そうか、さては貴様ら、草原の民に扮してはいるが、ハーレの者だろう!計画的に王子を城から連れ出して馬で逃げたな!だとすれば、たった二日で大層な距離を進めたのも頷ける……。ということはそのテントの中に一行はいるのだな!!者ども調べろ!」
態度をあっという間に転じたおじさんの命令で、ばらばらと足音がこちらに向かってくる。あら困った。――しかし、こんなこと考えてる場合じゃないとは思うが、あのおじさんってすごい……思い込みだけで人に命令してる……。まぁ今度ばかりはその思い込みも一部は当たってるわけで……困ったなぁ……。
――と。レスティさんがおじさんを制止したようだった。
「待て。確か先程、プリチュ王国の第一隊第七班班長と聞いたように思うが」
「それが?」
「この剣を見よ!ほんのそれ位の身分の者が、草原の民の長の第一子に妙な言い掛りをつけて、よもやただで済むとは思っていまいな!」
――息をのむような音が聞こえた。
「草原の民の長の跡取り?!こ、この剣の紋は確かに……。し、失礼しました!お、お許しを!」
「許さぬ!」
ヒュン!という音。ザクッという音。そして、テントの、声がしていた辺りが赤く染まった。
それが合図であったかのように、テントの中にいた草原の民達は狂喜の声をあげて外へ飛び出し――で、そのテントの入り口の布を上げたままにしていってくれたものだから、しっかり見えてしまった……天然色の血が乱れ飛ぶ現場を。
言葉も、ない。
目をそらすことも出来ない。
人が、死んで、いく。プリチュの兵士たちが、草原の民の慣れた剣技の前に、為す術もなく、倒れていく……。
――本当は目をそらしたいと思っている。それどころか、この場から一目散に逃げだしたいとさえ思っている。
だけど、ここで人が殺されていく理由の一端は確実に私が担っている。だって、倒れていく人達は、私と王子とムルーを追ってきた人達なんだから。だからこそ、この現実から目をそむけちゃいけない、と理性が訴え――それで私は目をそらすことが出来なかった。まばたきさえも出来ずに、一所を見つめすぎたせいで目が潤んでくるほどにじーっと眺めていた。
わかっている筈だった。王子について独立戦争を起こす手伝いをすると決めた時から。人がどんどん死ぬだろう、と。戦争なんて、人殺しの団体戦みたいなものなんだから、と。
だけど目の前の現実はけっこうきつくて、わかっているつもりだっただけだと私に思い知らせる。
倒れた人達は、最初のうち、少しは動いている。だけど、そのうちにぴくりともしなくなる。今まで、自分で考えて動いていた人が、ただの物体になってしまう。……死ぬ、というのは、そういうこと、だ……。
わかっていなかった、全然。
人が死ぬところなんて見たこともない。人が殺されるところも当然見たことない。ましてや戦争なんて言葉でしか知らない。
言葉の上での理解しかない人間が、戦争を起こそうとしたところで、やっぱり言葉の上でしかわかってなくて――私は初段階の、人が死ぬという事実にすら、自分でさえわかるほどに蒼冷めていた。
人が、殺されていく。――人が死ぬということがどういうことなのか、人が殺されるということがどういうことなのか、そして、戦争っていうものがどういうものなのか、私、全然わかっていなかった。考えてみようとすらしなかった。……考えなくちゃいけない。わかっていなかったということがわかったからには、考えなくちゃ、いけない。
「……里菜。大丈夫ですか?」
私のあまりの顔色の悪さを心配したのか、王子が声をかけてくれた。
ムルーは戦を眺めている。
そこに、レスティさんが戻ってきた。血の滴る剣をひっさげて。
「――ムルーは出ないのか?」
「――ああ。俺が出れば、あんな兵士の十人や二十人、一人で片付く。これはどうやらあんたの民の楽しみらしいからな、譲ってやったというわけだ。――あんたこそ早々の退散じゃないか」
「私はきっかけを作りさえすればいいのだ。――何しろ私は普通の人間だが、あいつらは血を見ないと生きてられないような奴らで」
「はん。――それで言うと、俺も普通の人間に入るかな」
「らしいな。驚くべきことではあるが」
うーむ……。ついていけない会話だ……。普通の人間っていうのは、大量の血を見た場合に蒼冷めるような人だと思ってたんだけど。蒼冷めてばかりじゃこの世界では生きていけないってことか。
「……リナは気分悪そうだな。大丈夫か?」
とレスティさんが問うた。
「はあ……まあ、私はせんさいな人間なもので……」
私の〈普通〉はここでは〈繊細〉くらいだろうと思ってそう言ったら、ムルーが言った。
「嘘つけ」
……かあいくないっ!
初の人死に。