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なつの夕凪~イセコイシリーズ

魔女と呼ばれる伯爵令嬢は、不当な婚約破棄を魔法を使わず断罪する

作者: なつの夕凪


 ――新緑が美しい初夏の昼下がり。


 数日前に完成したばかりのアルヴェリア王立学院新厩舎は、まだ新しい木材の匂いが残り、陽光を受けて淡く白く輝いていた。


 その静けさを破るように、馬房の奥から白い煙がゆらりと立ちのぼっていた。


 通路には、建設時に使われた木材の端材や、職人が置いていった釘や鉄金具が雑然と積まれている。人の気配はなく、風が吹くたびに木屑がさらりと舞った。


 旧厩舎から馬を移すのはまだ先の予定で、この時間帯はほとんど誰も訪れない。

 だからこそ、煙の異様さが際立っていた。


(……いけない。誰かを呼ばないと)


 胸の奥がひやりと冷える。

 だが、伯爵令嬢エリシア・ヴェルンハイトはやみくもに走り回るよりも、確実に人がいる校舎へ戻る方が早いと判断した。


 踵を返し、深緑色のスカートを押さえて駆け出したその瞬間──樫の木の陰から二つの影が現れ、進路を塞いだ。


「レグナス殿下、カトリーナ様?」

「エリシア、そんなに慌ててどうしたんだい?」


 第一王子レグナス・アルヴェリオンと侯爵令嬢カトリーナ・ヴァルメル。

 最近何かとエリシアの頭を悩ませる二人だ。

 

 金糸のような髪に、琥珀色の瞳。

 第一王子に相応しい整った顔立ち──だが、人を嘲るような態度と歪む唇が、それをすべて台無しにしていた。

 

 レグナスは、わざとらしく首を傾げた。

 その瞳は、心配よりも面白がりの色が濃い。


「火事です。新厩舎の一角から煙が上がっています。人を呼びに行こうとしておりました」

「それは本当かい?」


 レグナスは一歩だけ近づき、エリシアの顔を覗き込む。

 その距離の近さに、悪意の匂いが混じっていた。


「えぇ、間違いございません」

「ボクには君が逃げようとしているように見えたけど」


 その言葉のあと、わずかな沈黙が落ちた。

 レグナスは口元だけで笑い、カトリーナへ視線を送る。


「エリシア様がこんな人気のないところに一人でいるのは、殿下の仰る通り、少し不自然ではございませんか?」


 カトリーナ・ヴァルメルは、淡いオレンジ色の髪を肩に流し、翡翠色の瞳を持つ整った令嬢だった。その微笑みは柔らかいが、どこか作られた印象があり、エリシアはいつもその奥に冷たい光を感じていた。 


 ──人気のない場所にいたのはレグナス様たちも同じ。


 エリシアは喉元まで出かかった反論を飲み込む。

 だが、今は言い争っている場合ではない。火は刻一刻と広がっている。


「私のことを疑うのは構いません。ですが、まず消火が先決です。どうか人を呼びに行かせてください」


「……いいだろう。だがエリシア、被疑者の君は逃亡と証拠隠滅の恐れがある。ボクとこの場に残ってもらう。カトリーナ、悪いが校舎に戻り、叔父上、副学長を呼んできてくれるかい?」


「えっ? 私がですか?」


 カトリーナは一瞬だけレグナスを見た。

 その視線には本当にやるの?という逡巡が一瞬だけ浮かぶ。


「カトリーナ、君ならわかるだろう。鎮火させれば、ボクと君が一番の功労者だ。父上からは最大級の賛辞と褒美が送られるに違いない」


 レグナスは得意げに胸を張った。

 火事よりも褒美の方に興味があるのが、あまりに露骨だった。


「……承知いたしましたわ、レグナス殿下。しばしお待ちを」


 カトリーナは一瞬だけ目を細め、すぐに作り物めいた微笑みに戻した。

 スカートを翻し、軽やかに校舎へ駆けていく。


 そのとき──カトリーナの制服の右の袖口に、煤のような黒い汚れがわずかに付着しているのが目に入った。

 

 香水とは異なる、ツンとする微かな油の残り香も漂う。

 エリシアは、その二つの違和感を見逃さなかった。



 ◇



 副学長を待つ間に、エリシアは少しでも鎮火の助けになればと、新厩舎そばの井戸から水を汲み、消火活動をしようと提案した。


 だが、レグナスの返答は即座に否だった。


「危険だ。そんなことをして怪我でもしたらどうするんだい?」


 言葉だけ聞けば正論だ。

 二人で水を運んでも追いつかないし、慣れない者の消火は確かに危険が伴う。


 ──だが、火事を前にしている者の態度ではない。


 エリシアは悔しさを噛みしめながらも、それ以上は言えなかった。


 新厩舎からは、なおも煙が上がり続けている。

 焦げた匂いが風に乗り、胸の奥をざわつかせた。


 レグナスはそちらに目を向けることなく、わずかに口元を歪めた。

 その表情には、火事よりも別の何かを計算している色があった。



 ◇



 しばらくして──カトリーナが戻ってきた。

 その後ろには、副学長でありレグナスの叔父であるローデリック・アルヴェリオンと学院職員たちが続いている。


 ローデリックは二十代後半。

 学院では副学長としての業務の他に、王立史の講義を担当する。

 

 柔らかな栗色の髪を無造作に後ろへ撫でつけ、深い青灰色の瞳は常に何かを観察しているようだった。すらりとした長身で整った顔立ちではあるが、どこか眠たげで掴みどころのない雰囲気をまとい、王族らしい威厳よりも、学者特有の静かな知性と奇人めいた気配が先に立つ。

 

 彼が姿を現した瞬間、場の空気がわずかに引き締まった。


「大変なことになったね。憲兵隊に連絡したよ。彼らが到着するまで、私たちもできる限りのことはしよう」


「はい、副学長」


 エリシアはすぐにうなずいた。

 だが、その直後──


「お待ちください、叔父上」


 レグナスが一歩前に出た。

 声には妙な焦りが混じっている。


「何かな、レグナス君」


「消火活動は叔父上ではなく、他の職員に任せておけばよろしいかと」


「私は現場指揮をするだけだよ」


「なりません。まして叔父上は王族、臣下がやるべきことです」


 レグナスは必死に止めようとしていた。

 火事を前にしているとは思えないほど、消火を嫌がっている。


「私は王族である以前に、この学院の副学長だ。職員の数も限られている。高みの見物というわけにはいかない」


「ですが叔父上には他にやることがあります」


「それは何かな?」


「無論、この事件の犯人を捕まえることです」


 ローデリックは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「ひょっとして、レグナス君は犯人の目星がついているのかい?」


「はい。そこにいるエリシア・ヴェルンハイトこそ、この事件の犯人です」


「殿下のいう通りですわ。私、エリシア様が新厩舎から走って逃げてくるのを見ました」


 カトリーナは、レグナスの言葉に合わせるように指をさした。

 その動きはあまりに滑らかで、まるで最初から用意していたかのようだった。


 エリシアは無言のまま、きゅっと唇を噛みしめた。


「エリシア嬢、何か反論がある?」


 ローデリックの声は穏やかだったが、その眼差しは事実だけを見ようとする者のそれだった。


「はい、私は放火をしておりません」


「うん……わかった」


 短い返事。

 だが、軽いわけではない。

 ローデリックは一拍置き、レグナスへ視線を向けた。


「叔父上、私の言うことが信じられないのですか?」


 レグナスの声には、焦りが滲んでいた。


「もちろん信じてるよ。でも王立学院の副学長として、生徒であるエリシア嬢のいうことも無視できない。いずれにせよ、今はこの火災を鎮めないといけない。事件の証拠が燃えてしまったら厄介だからね。わかるね?」


「……はい」


 レグナスは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 叔父の言葉は正論で、反論の余地がない。


「生徒に怪我をさせるわけにはいかないから、君たち三人は遠巻きに見ててくれ」


「あの……ローデリック副学長、私も消火活動に参加させてください」


 エリシアは一歩前に出た。

 煙の匂いが強くなり、胸がざわつく。


「ありがとうエリシア嬢。気持ちは嬉しいけど、参加させることはできない。さっきも言った通り、生徒に怪我をさせられないし、レグナス君たちのいう通りなら、君は現場に近づけることはできないからね」

 

「……かしこまりました。副学長、どうかご無理をなさらず」


 レグナスだけでなく、ローデリックにも疑われていると思うと心が痛む。だが今はそれを気にしても仕方ない。エリシアはすぐに気持ちを入れ替えた。


「うん。では、私は行くとするよ。君たちも一緒に来る? どこかでティータイムしててもいいけど」


 ローデリックは軽口を叩いたが、その目はすでに火元へ向けられていた。


「はい、邪魔にならないようにしますので、同行させてください」


 エリシアは即答した。

 今は少しでも近くで見ていたかった。


「ちっ……叔父上、ボクたちも同行する。魔女令嬢が叔父上の仕事を邪魔するかもしれませんからね」


 レグナスは舌打ちし、エリシアを睨みつけた。

 その視線には、敵意と恐れが混じっていた。


 ──魔女令嬢。


 エリシア・ヴェルンハイトは、普段からそう陰口を叩かれ、学園内で親しい友人は一人もいなかった。


 彼女の生家ヴェルンハイト家は、昔から魔法を使うと噂され、貴族の間では良くない話が絶えない。


 アルヴェリア王国では珍しい夜のような黒髪。

 東方伝来の陶器のような白い肌。

 氷のように澄んだアイスブルーの瞳。


 美しいが、どこか冷たい印象を与えるエリシアの容姿は、魔女という言葉を容易に連想させた。


 そんなエリシアが婚約者であることに、第一王子レグナスは納得していなかった。


 たとえ婚約が、先代国王で賢王と呼ばれ讃えられたレオンハルト・アルヴェリオンの裁定だったとしても……。



 ◇



 太陽は西に大きく傾き、影が徐々に濃く長く伸びていた。

 風に夜気が混じり始め、まだわずかに残る火の赤と煙が薄闇に揺れている。

 火はようやく終息に向かっていた。


 ローデリックを中心とした学院職員と、後から到着した憲兵隊の懸命な消火活動により、被害は新厩舎馬房の半焼で留まった。


 修繕は必要だが、建物そのものは辛うじて残った──それだけでも幸運と言えた。


 エリシアは固唾を飲んで見守っていたが、レグナスとカトリーナは飽きたのか途中で姿を消し、消火作業が終わる頃になってようやく戻ってきた。


 婚約者であるレグナスが、エリシアを無視してカトリーナとどこかへ行く姿は、本来なら胸が痛むはずの光景だった。


 だが、エリシアの心はもう何も動かなかった。


 今は横にいるのがカトリーナというだけの話で、これまでもレグナスには他の令嬢との噂が絶えなかった。

 

 エリシアも何度か見かけたが、見ないふりをしてきた。

 

 異を唱えたところで、彼が聞く耳を持つ相手ではないと知っていたから。


「やぁ、待たせたね」


 ローデリックが戻ってきた。

 礼服の金糸の刺繍は煤でくすみ、袖口には焦げ跡が残っている。


「叔父上、待ちくたびれましたよ」

「お疲れ様です、副学長」


 レグナスとカトリーナが口々に言う。

 だがローデリックは軽く手を振り、深く息を吐いた。


 指揮をとるだけと言っていたが、実際には自ら消火に加わっていた。

 学者肌の彼らしくない行動だが、その姿は現場の士気を高めていた。


「すまないね君たち。さて……事件のことを知っている限り、聞かせてもらえるかな。どうも気になるところが多くてね」


「気になるところとは?」


 レグナスが食い気味に問う。

 ローデリックは少しだけ視線を上げ、火元の方へ目をやった。


「燃えた馬房の件だけど──まだ藁を敷き詰めてないし、木材は生木に近くて水分が多い。壁は石造りだ。燃えやすいものがほとんどない。自然発火とは考えにくいね」


「叔父上、先ほども申し上げたとおり、火災発生時にあの場にいたエリシアが犯人です」


 レグナスはいら立ちを隠そうともせず言い放った。

 自分の肩を持つと信じて疑わなかった叔父が慎重すぎる。

 その態度が、彼には優柔不断で無能に見えた。


(……王族とはいえ、後継争いを自ら降りた腰抜けに期待しても無駄か)


 レグナスの胸中に、そんな毒が渦巻く。


 現国王が即位したのは十数年前。

 若きローデリックにもわずかに王位継承の可能性が残っていた。

 だが、現国王との争いを嫌ったのか、ローデリックは早々に王位を望まないと表明した。


 その選択を、レグナスは逃げとしか見ていなかった。


「エリシア嬢、新厩舎にいた理由を教えてもらえるかな」


「はい。担当教官に法学の提出物を渡し、教室に戻ると机に匿名の紙の手紙が置かれていました。内容は『新厩舎に来てください。急ぎ』とだけ。手紙はこちらです」


 エリシアは胸元の内ポケットに指先を滑らせ、静かに一枚の紙片を取り出した。


「この紙は、学院の備品と同じだね。字も特徴がない。書いた人物を特定するのは難しいかもね」


「ふん、エリシアの自作に決まってますよ」


 レグナスは鼻で笑い、勝ち誇ったように腕を組んだ。


「そう決めつけるにはまだ材料が足りないね。ところでエリシア嬢、新厩舎には他に誰もいなかったかな?」


「はい……確認できませんでした。煙に気付き、校舎に助けを呼びに向かう途中で、レグナス殿下とカトリーナ様に出会っただけです」


「つまり、新厩舎周辺には君たち三人しかいなかったと」


 ローデリックは淡々と整理する。

 その静けさが、逆にレグナスの焦りを浮き彫りにした。


「叔父上、もう十分でしょう! 犯人はエリシア以外にありえません。それに自ら新厩舎にいたと認めました。火のない所に煙は立たない。あぁ、なんと罪深い。エリシアが次期国王であるボクの婚約者だなんて……ありえない!」


 レグナスは大げさに肩をすくめ、芝居がかった溜息をついた。


「そうだ、ここで婚約を破棄しよう。エリシア・ヴェルンハイト、君との婚約は無効だ。ボクに相応しいのは健気なカトリーナだ。一緒にこの火災を止めた功労者。勇気ある行動を取れるのは、王国の未来を担う者だけ」


「あぁ、レグナス殿下……なんと嬉しいお言葉を。これ以上の至福はございません。未来のため、殿下を陰から支えさせていただきます」


「カトリーナ、陰ではダメだよ。ボクと一緒に歩むんだ」


「はい、殿下」


 レグナスは自分の並べた美辞麗句と、エリシアへの断罪に酔っていた。

 また、カトリーナに対する慈悲深い王子という役柄にも。


 カトリーナの瞳には、ほんの一瞬だけ呆れの色が混じった。

 だがすぐに作り笑いに戻り、レグナスに合わせてみせた。


 ──その浅さが、ローデリックの目にははっきりと映っていた。


「レグナス君、自分が今、何を言っているかわかっている?」


 ローデリックの声は低く、静かだった。

 怒鳴り声よりもよほど冷たく、場の空気を一瞬で変える。


「もちろんです叔父上。何か問題でも?」


 レグナスは気づかない。

 自分が越えてはならない線に足を踏み入れたことを。



「私は、火災の原因を探るため意見を求めただけなのに、君はエリシア嬢を犯人と決めつけた挙句、婚約破棄までしてしまった。これが問題ないわけがない。婚約は賢王レオンハルト・アルヴェリオンの御世に決まったこと。簡単に覆すことはできない」


 ローデリックの声は静かだったが、その静けさが逆に重かった。


「はぁ……賢王ね。全くもって滑稽だ」


 レグナスは鼻で笑い、わざとらしく肩をすくめた。


「何がだい?」


「大叔父はご存じないかもしれないが、賢王レオンハルト・アルヴェリオンは占星術にご執心だったのです。手引したのは他でもないヴェルンハイト家だ。どうです? つながるでしょう? ボクとエリシアを婚約させて、アルヴェリオン家は王家を掌握しようとしたんです。ボクは気づき、未然に防いだ。それだけです」


 レグナスは自分の語る陰謀論を、疑いもなく信じていた。

 その背後で、カトリーナは小さく笑みを浮かべている。


「レグナス殿下、確認いたしますが、二言はなく、私との婚約破棄をされるということでよろしいですね?」


「そうだ。ヴェルンハイト家はもう少しで王国を手中に収めるところだったのに、このボクがいたばかりに残念だったね」


「婚約破棄の件、エリシア・ヴェルンハイト、しかと承りました」


 エリシアは瞳を閉じカーテシーを深く取った。


「じゃあ潔く婚約破棄の上、罪も認めるということでいいね?」


「……いいえ」


 カーテシーを終えたエリシアは、一歩も引かず背筋を伸ばし、まっすぐレグナスを見た。


「証拠があるのに、往生際が悪いね」


「証拠とは何ですか?」


「無論、新厩舎に一人いたことだ。火をつけられたのは君しかいない」


「火を起こすには道具が必要です。殿下の仰る通りなら、私は何かを持っているはずです。調べて頂いてもかまいませんよ」


 エリシアの声は静かだったが、揺らぎがなかった。

 その迫力に、レグナスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「そ、そんなの逃走途中に捨てただろ? だからこそ強気に言えるんだ!」


「でしたら、新厩舎周辺に火打石が打ち捨てられているはずです。副学長、何か見つかっていますか?」


「いや……今のところないね」


「ありがとうございます。もう一点伺いますが、先ほど馬房の中は燃えやすいものがほとんどなかったと仰いました。では、燃えたところは何か特徴がありませんか?」


「……油の燃えカスらしき黒い汚れと匂いが残っていたよ」


「つまり、犯人は油を巻き、燃えにくいものに火を媒介させたということですね」


「ああ、そうなるね。一度火がつけばじわじわと燃え広がる。とはいえ、出火元の馬房には油は置いてなかったけどね」


「新厩舎のどこにも油は置いてなかったのですか?」


「いや、ランプ用に油樽はわずかだが置いてあったよ」

「では、その樽から油を小瓶などに入れ、火元で使ったのでは?」


「恐らくそうだろうね」


「エリシアに叔父上も、さっきから何の話をしてる? 火をつけた方法なんかどうでもいいだろ?」


「いいえ。犯人は火打石と油を入れたものをまだ持っている可能性があります」


 エリシアの言葉に、ローデリックは静かに頷いた。


「そうだね、エリシア嬢……」


 そして、ゆっくりとレグナスへ視線を向ける。


「ところでレグナス君。私も君たちに聞いていいかな?」


「何をですか? 叔父上」


「君とカトリーナ嬢は、なぜ新厩舎そばにいたのかな?」


 ローデリックの問いは穏やかだったが、その声には逃がさないという意志が滲んでいた。


「そ、それは……」


 レグナスが言い淀む。

 その一瞬の沈黙を、一歩前に出たカトリーナが滑らかに埋めた。


「副学長、私とレグナス殿下は、完成した新厩舎を見に来たのです。殿下と私は馬術を選択しているので」


「なるほどね。でもおかしいな」


 ローデリックは軽く首を傾げ、火元の方へ視線を向けた。


「新厩舎はまだ資材が片付いていないし、今週は職人たちが休みだから近寄らないようにと──馬術専攻の生徒には通達したはずだけど、聞いてない?」


「さ、さぁ……初耳です」


 カトリーナの声がわずかに震えた。


「エリシア嬢は知ってた?」


「いえ。私は馬術ではなく絵画を選択しているので知りませんでした」


「そう……」


 ローデリックは小さく頷き、次の矢を放つ。


「あとね、エリシア嬢。法学の課題を出したのはポプナー先生かな?」


「はい」


「じゃあ彼に聞けば、新厩舎に行く前のアリバイを証明できるね」


 レグナスの顔色がわずかに変わった。


「ちなみにレグナス君とカトリーナ嬢は、エリシア嬢に会う前に何をしていたか証明できる人は?」


「そ、それは……」


「あとさっき、火災発生時にあの場にいたのはエリシア君だけだと断言したけど、それって、君も新厩舎にいないと言えないよね?」


 ローデリックの言葉は穏やかで棘がないが、隙もなく、徐々に逃げ場が失われていく。


「叔父上……まさかボクとカトリーナを疑っているのですか?」


「もし、エリシア嬢が来る前に火をつけたとしたら、君やカトリーナ嬢にもできるからね」


「第一王子であるボクが、そんなことするわけないじゃないですか!」


 レグナスが声を荒げても、ローデリックは気にする様子はなく、追及は続く。


「……私もそうだと信じたい。だが君たちがやっていないという証拠がない」


「ボクらがやったという証拠もないでしょう?」


 ローデリックのペースに飲み込まれないようにとレグナスも必死に食い下がる。

 だが、その声には、先ほどまでの余裕は微塵もなかった。


「……証拠なら、ございますよ」


 静かな声が割って入った。


 憲兵隊の列の陰──そこに、くたびれた灰色の外套を纏い、銀髪混じりのばさついた髪をした冴えない中年男性がひっそりと佇んでいた。


「グランツ君?」


 ローデリックが目を細める。


「申し遅れました。ヨアヒム・グランツ。副学長の補佐官をさせて頂いております」


 グランツは一歩前に出て、淡々と続けた。


「先ほど、レグナス殿下とヴァルメル嬢は一度この場を離れ、学院裏手の廃材置き場に向かわれました。その後、金属音とガラスの割れる音を確認。現場を調べたところ──油の残滓が付着した小瓶の破片と、使用済みの火打石が発見されました。以上となります」


 グランツの声には、感情の揺らぎが一切なかった。


 ただ、その長い眉毛から覗く鋭い目だけが、 レグナスとカトリーナをまっすぐ射抜いていた。


「説明してもらってもいいかな、レグナス君」


 ローデリックの声は静かだった。

 だが、その静けさが逆に逃げ場を奪う。


「うそだ……これは陰謀で、誰かがボクに濡れ衣をきせようとしてるんだ! 大体その男は誰だ? 見たこともないぞ!」


 レグナスは声を荒げた。

 焦りが隠しきれず、語尾が震えている。


「知らないのも無理はないよ。グランツ君は普段、表に出ないからね。学院では私の部下ということになっているけど、実際は違うし」


 ローデリックは淡々と告げた。

 まるで最初から全てを把握していたかのように。


「お言葉ですが、副学長。私はあなた様の部下であることには違いありません。ですが──王家直属特務官として、レグナス殿下の警護および調査をするよう国王様より勅令を賜っております」


「王家直属特務官……父上のだと!?」


 レグナスの顔から、血の気がすっと引いた。

 その変化は、誰の目にも明らかだった。


「レグナス殿下。国王様からの伝言でございます。“何事もほどほどにしておけ。たとえ血を分けた子であろうと、限度を超えたら断ずる”……とのことです」


 その言葉は、レグナスの胸に冷水のように落ちた。


 父王に謁見するたびに言われていた言葉。

 だが、いつも聞き流していた。

 まさか──本気だったとは。


「グランツ、君はボクの警護担当なのだろう? ならボクの命令も聞くべきだ! 父上に報告をすることは許さん!」


「殿下、申し訳ございませんがその命令はお受けできません。また、私が口を閉ざしたところで、副学長がご報告されることでしょう」


「そうだね……グランツ君のいう通りだ。今回の件、王家の一員としても看過できない。レグナス君、大人しくしてくれないか?」


(まずい……このままでは)


 レグナスの思考は急速に崩れていった。


 証拠は揃っている。

 エリシアに罪をなすりつけることも、もうできない。


 叔父ローデリックは敵に回った。

 唯一の味方であるはずのカトリーナは──沈黙したまま。


 元はといえば、カトリーナが持ちかけてきた話だった。

 人のいない日に新厩舎に火をつけ、エリシアを犯人に仕立てる。

 段取りは全てカトリーナが用意した。


 気に食わない婚約が破棄できる。

 新しい婚約相手は伯爵家より格上の侯爵家の令嬢。

 父王も納得するに違いない。


 火災消火の功労者として箔もつく──はずだった。


 だが、全てが裏目に出た。


(カトリーナの……いや、ヴァルメル家のせいだ……)


 レグナスは必死に逃げ道を探した。

 自分も被害者だと言い張れば──まだ助かるかもしれない。


(そうだ……カトリーナを切り捨てれば……)


 その瞬間、レグナスはカトリーナへ視線を向けた。


 だが──カトリーナはすでに、レグナスを見ていなかった。


 彼女は、いつの間にかレグナスから距離を取っていた。

 その動きはあまりに自然で、まるで最初から味方ではなかったかのように。


 レグナスが口を開くよりも早く──カトリーナが動いた。


「レグナス殿下……誠に申し訳ございませんが、私は殿下のご指示に従っただけですわ」


 声音は震えているように聞こえる。

 だが、伏せられた睫毛の奥の瞳は、氷のように冷静だった。


「なっ……カトリーナ、君までボクを裏切るのか!」


「裏切るだなんて、とんでもございません。私はエリシア様が殿下を陥れようとしている、こらしめるのに協力してほしいと殿下が仰ったので……お役に立てればと。まさか、こんなことまでとは思いませんでした」


 言葉の端々に、巧妙に責任の所在をぼかす毒が混じっていた。


「ち、違う! 君が言い出したんだろう!? エリシアを犯人に仕立てればいいって!」


「まあ……殿下ったら。そんな恐ろしいこと、私が言うはずないではありませんか」


 カトリーナは口元に手を当て、わざとらしく目を伏せた。

 その仕草は、周囲の視線をか弱き令嬢へと誘導する計算が透けて見える。


「私はただ……王国に仕える貴族として、殿下を信じ、従っただけです」


「嘘だ! 君が全部──」


「カトリーナ嬢、つまり今回の件は、君やヴァルメル侯爵家の意向ではなく、あくまで王家への忠誠心ゆえだというのかい?」


 ローデリックの声は静かだった。

 だが、その静けさは逃げ道を塞ぐ音のように響いた。


「えぇ、その通りですわ、副学長。ただ結果として、エリシア様にご迷惑をおかけしてしまったことは申し訳なく思います。エリシア様、どうかお許しくださいまし」


 カトリーナは高位貴族らしく先ほどのエリシアにも引けを取らない気品のあるカーテシーを深く取った。その姿は一見、反省と謝罪に満ちているように見えた。


 だが──その実、巧妙に実行犯はレグナスと印象づける責任転嫁だった。


 カトリーナの言い分は、一見すると破綻がない。


 しかし……。


「君のいう通りだとしても、新厩舎で火事を起こし、エリシア君を貶めようとするのは常軌を逸している。悪いが、そんな取って付けたような話を信じることはできない」


 ローデリックの静かな声が、カトリーナの主張を一刀両断した。


 カトリーナは息を呑んだ。

 ローデリックは小手先の嘘でどうにかなる相手ではない。


 状況は圧倒的に不利。

 だが、ここで崩れれば──どんな罪に問われるか想像するのも恐ろしい。


 レグナスはもうダメだ。

 ならば、別の味方を作るしかない。


 例えば──

 先ほどまで罪を着せられそうになっていた、悲劇の令嬢を。


「エリシア様なら、お分かりになられるはずです。私たち貴族の子女は思うようには生きられない。家のため、時には影となり男性を支えるのが定め……今回のことは好んでやったわけではありません。私はエリシア様をお慕いしております」


 カトリーナは涙を滲ませ、両手を胸の前で組んだ。

 だが、その瞳の奥には計算の光がわずかに残っていた。


「顔をあげてください、カトリーナ様。お気持ちはよくわかりました」


「ありがとうございます、エリシア様。では……私を許していただけるのですね?」


「いえ、申し訳ございませんが違います」


 エリシアは静かに、しかしはっきりと首を振った。

 その一動作だけで、場の空気がわずかに揺れた。


「まず、私の一存でこの場をどうするかは決められません。また、カトリーナ様は殿下と私の婚約破棄が決まる前に、殿下とカトリーナ様との婚約に同意されました。本当に私を慕っていたのなら、そのような行為に至ることは考えられません」


「で、ですが、貴族である以上、王族との婚姻を無下には断れません」


「それはカトリーナ様の仰る通りです。ですが──貴族が火事場で婚約を結ぶなど聞いたことがありません。あの場は都合が良かったから、同意されたのではありませんか?」


「そ、そんなことは……」


 カトリーナの声が震えた。

 その震えは恐れであり、見抜かれたことへの動揺だった。


「次に、火災の件ですが──殿下が主導されたにしては、あまりにも関心が薄いように見えました。殿下は一度も火元をご覧になりませんでしたし、消火にも加わられませんでした」


「……っ」


「そしてカトリーナ様の袖口には、油の匂いと汚れが残っています。まるで火元に触れたような痕跡です。油を扱ったのは殿下ではなく──ご自身ではありませんか?」


 ついに、カトリーナは言葉を失った。

 沈黙は、何より雄弁だった。


 エリシアの情に訴え、論点をすり替えようとしたが──全て見抜かれていた。


 その無言は、罪を認めたものとして扱われた。


「さて……もういいかな? 憲兵隊諸君、悪いが甥とカトリーナ嬢を拘束してくれ。新厩舎火災事件の重要参考人として」


「ま、待ってください叔父上! 次期国王のボクを捕まえるなんてありえません! 火災と言っても、まだ未使用の馬房です! 被害者もいません! こんなものは事件ですらありませんよ!」


「……君はまだ、事の重大さがわかっていないようだね」


 ローデリックの声は低く、冷たかった。


「王立学院施設の破損行為は、国家に仇なす行為に等しい。王族だろうと、その罪は免れない。それに、何の非もないエリシア嬢に罪を着せようとし、醜態を多くの人前でさらした。これは王家への信頼失墜に繋がりかねない行為だ」


 ローデリックはレグナスの言葉を一切取り合わなかった。


 だが──レグナスはまだ諦めていなかった。


 カトリーナと同じように、最後の望みを婚約者だったエリシアにすがることで繋ぎ止めようとした。


「聞いてくれエリシア、ボクが悪かった。そして君がいかに聡明な女性かよくわかったよ。君こそ、ボクの婚約者に相応しい。もう一度手を取り合えば、我がアルヴェリア王国は安泰だ。どうか、君からも叔父上を説得してもらえないだろうか?」


 こともあろうことに、レグナスはエリシアとの関係修繕を試みた。

 その声には、先ほどまでの傲慢さはなく、必死さだけが滲んでいた。


 ――ところが。


「……お断りいたします」


 エリシアは淡々と告げた。

 その静けさが、レグナスの胸に鋭く突き刺さる。


「なぜだ、エリシア?!」


「先ほど、婚約破棄について二言はないと仰られました。また、私たちが婚約し直したところで、殿下のされたことを覆い隠すことはできません。それに──先ほどカトリーナ様との愛を誓われました。健やかなる時も病める時も、お二人の愛を全うすべきと私は考えます」


 もはや取り付く島もない。

 レグナスはついに膝から崩れ落ちた。


 そして、ようやく理解した。

 自らが犯した火遊びの重大さを。


「レグナス殿下、申し訳ございません。王家の勅命により、我々は職務を遂行いたします」


「ま、待て! ボクに触れるな、離せ!」


「カトリーナ・ヴァルメル様もご同行願えますか?」


 レグナスは憲兵隊員に両脇を抱えられながら、なおも抵抗した。

 一方、青ざめたカトリーナは小さくうなずき、大人しく従った。


「エリシア! いや魔女令嬢! こんなことをしてタダで済むと思うなよ!」


 レグナスは振り向き、最後の最後まで口汚くエリシアを罵った。


「お言葉ですが殿下──この世界には、魔女も魔法もありませんよ。全ておとぎ話です」


「そんなことあるか! 今回だって忌まわしい魔法を使ってボクを貶めたんだ、そうに違いない!」


「では、私が魔法を使った証拠を見せてください」


「ぐっ……」


「できないですよね? 魔法なんて、この世にはないのだから……」


 エリシアは一瞬だけ、口角をわずかに上げた。

 その笑みは、氷のように静かで、どこか哀れみすら含んでいた。


 誰もそれに気づかなかった。

 だが、エリシアの隣にいたローデリックだけは、その微笑を見逃さなかった。


 太陽が地平線の彼方へ沈みかける頃、ようやく全ての騒動が一段落した。


 学院職員や憲兵隊たちも、日没が近いことを理由に、今日の現場検証はここまでとし、明日以降に改めて行うこととなった。



 ◇



 新厩舎の火災事件から一カ月ほどが過ぎた。

 学院は夏季休暇に入り、エリシアはヴェルンハイト領の本邸へ帰省していた。


 事件後も、事情聴取という名目でローデリック副学長から何度か呼び出された。


 だが実際に行われていたのは──グランツが淹れた上質な紅茶を飲みながら、ローデリックの愚痴を延々と聞かされる時間だった。


「副学長、エリシア嬢が渋い顔をしてますよ」


 グランツのぼやきを、エリシアは何度耳にしたかわからない。


 とはいえ、ローデリック所有の貴重な書籍や、彼の豊富な知識とウィットに富んだ語り口は、エリシアにとって決して不快ではなかった。

 

 ──事件から熱が冷める前に、首謀者には処分が下された。


 第一王子レグナス・アルヴェリオンは、放火未遂、婚約破棄の乱用、虚偽報告など複数の罪状に加え、王族として相応しくない振る舞いが決定打となり、学院退学および王位継承権の剥奪が決まった。


 怪我人や死者が出なかったため極刑は免れたが、王都中央にある囚人塔への無期限幽閉という厳罰が下された。


 処分が告げられた瞬間、レグナスは泣き崩れた。

 だが国王は、実子に対しても一切の甘さを見せなかった。


 カトリーナ・ヴァルメルも、放火未遂および犯罪ほう助の罪で厳しい処分を受けた。学院はレグナスと同様に退学処分。貴族令嬢の地位こそ辛うじて守られたが、自然環境の厳しい辺境の修道院へ送られることとなった。


 さらに実家であるヴァルメル家も連座した。


 カトリーナの暴走を止められなかった責任として、侯爵から子爵へ爵位降格。現当主であるカトリーナの父は解任され、家督は別の者へ移された。


 また、ヴァルメル領の五割は没収され、そのうち半分は被害を受けたヴェルンハイト家へ割譲、残り半分は王家の直轄地となった。


 ヴァルメル家は取り潰しこそ免れたものの──その代償はあまりに大きかった。


「事の大きさを考えれば致し方ないけど、逆恨みでもされたら大変ね……」


 夕暮れの光が窓辺に細く差し込み、エリシアは帰省前にローデリックから借りた海外書物を読みながら、静かに呟いた。


「失礼いたします、エリシア様。ご当主様が旧書斎でお呼びです」


「ありがとう、マリー。すぐに伺うわ」


 扉がノックされた後、メイドのマリーが入って来た。

 彼女は南方の出身で、ヴェルンハイト家に仕えて十数年。

 エリシアは子供の頃から世話になっており、使用人の中では一番、気心が知れた相手だ。


 エリシアは書物をそっと閉じ、埃が舞わぬよう手で押さえた。

 衣服を整え、深呼吸を一つ置いてから旧書斎へ向かう。



 ◇


 

「すまないね、エリシア」


「とんでもございませんわ、お父様。この部屋に呼ばれるということは……何か大事なお話でしょうか」


「あぁ、そういうことになる」


 現当主ライナルト・ヴェルンハイトは、古い書物を捲りながら柔和な笑みを浮かべていた。黒髪と精悍な顔つきは、親子だけあってエリシアとよく似ている。


 旧書斎は本邸の最奥にある。

 立ち入りを許されているのは、エリシアとエリシアの兄と掃除担当のメイド長だけ。母ですら入室を許されない、家の核のような場所だった。

 

 だが、窓のないこの部屋が書斎として使われたことは一度もない。

 

 名前がないと不便だから、いつの頃か旧書斎と呼ばれるようになった。

 

 置いてある書物は、古い羊皮紙に書かれたものが一冊だけ。

 

 部屋一面に、数百年前に失われた北方民族の文字が刻まれている。他にあるのは年代物の黒檀テーブルが一つと椅子が三脚だけだ。

 

 そのうちの一脚にライナルトが、もう一脚にエリシアが腰を掛けていた。

 

 椅子は、部屋の主の数だけ置かれていた。


「実はね──縁談の話が来ていて、エリシアの意思を確認したい」


「事情はどうあれ、私は婚約破棄された身です。今後そうした話が来るとは思っておりませんでした。お相手は……どなた様でしょうか?」


「なに、エリシアがよく知っている人物だよ。王立学院副学長にして、現国王陛下の異母弟──ローデリック・アルヴェリオン殿下だ」


「副学長ですか!?」


「返事は急がないとのことだよ。エリシアが学院卒業後にやりたいことがあるなら、しばらく待つとも。当家に婿入りすることも厭わないそうだ」


「……破格の条件ですね」


「そうだね。エリシアはどう思う?」


「副学長、ローデリック殿下は聡明な方です。先の事件も、実質的には彼が解決したようなものでした。ただ得体の知れないところがあります。当家の噂にも興味があるようです」


「ヴェルンハイト家が魔法を使うという噂のことかな?」


「はい」


「全く困ったものだ……噂やおとぎ話を鵜吞みにするものではない」


 ライナルトはため息をついた後、ゆっくりと右手をかざした。

 

 旧書斎の空気がわずかに震え、光の粒が吸い寄せられるように集まっていく。

 次の瞬間、ボワッという小さな破裂音とともに、手のひらほどの火の玉が生まれた。


 橙色の光が、薄暗い書斎の壁に揺らめく影を落とす。


 ライナルトが拳を握ると、火の玉は霧のように消えた。


「仰る通りかと存じます。魔法など、災いを呼ぶだけです」


 エリシアもライナルトと同じように静かに手をかざす。

 空気が一瞬だけ冷たく収束し──カチン、と硬質な音が響いた。


 手のひらの上には、透き通る氷の塊が生まれていた。

 彼女が指先を軽く動かすと、氷は音もなく溶けて消えた。


 ヴェルンハイト家では、この旧書斎以外で魔法を使うことは固く禁じられている。

 また、魔法の存在を知るのは、この部屋に入ることを許された四人だけだ。


「先祖代々、この力を使い、王家に降りかかる災いを退けてきた。だが歴史を重ねることで、ヴェルンハイト家の人間ですら力の発現しない者が増えてきた。遠からず、我々も魔法を失うだろう」


 ライナルトの声には、諦観と静かな誇りが混じっていた。


「私の父は、不完全ながら占星術を使った未来予知ができた。そして、エリシアとレグナス殿下が婚約することで災いを取り除けると予言し、賢王レオンハルト陛下に進言した。どうやら二人が結婚することではなく、婚約という形でレグナス殿下という災厄をあぶり出すという意味だったようだが」


 エリシアは息を呑んだ。

 自分の婚約が、そんな意図で結ばれていたとは思いもしなかった。


「そして賢王は、王家にヴェルンハイト家の秘密を語らなかったようだ。だが噂は残り、ローデリック殿下は魔法に興味がある」


「……はい」


 もしエリシアが魔法を使っていれば、新厩舎の火災はもっと早く鎮火できただろう。

 だが、それはできない。


 一度使えば、魔法はおとぎ話ではなく現実になり、人々の恐怖を呼び起こす。

 その矛先は、エリシアに向けられるだろう。


 ヴェルンハイト家は魔法を使う──そんな噂は昔から絶えない。

 そして、これからも続くに違いない。


 だが、噂はあくまで噂だ。

 証拠さえなければ、誰も真実には辿りつけない。


 口を閉じることができないのなら、好きに喋らせておけばいい……エリシアはそう思う。


「さて、エリシア、実はもう一つ話があってね。国王陛下より非公式に第二王子ルシアン・アルヴェリオン殿下との婚約の話を頂いている」


「えっ……ルシアン殿下? でも、まだ初等学校に通っているのでは?」


 第二王子ルシアン・アルヴェリオンはレグナスの五つ下の弟になる。

 

 最後に会ったのは一年ほど前。兄とは違い、心優しく、庭園で蝶やトンボを追いかけるような笑顔が眩しい無邪気な少年だ。


「どうやら今回の騒動を聞いた国王陛下が、エリシア、君のことを気に入ったようでね。それにルシアン殿下も、随分乗る気みたいで」


「……ですが、お父様」


「ローデリック殿下の件もあるし、すぐには決められないね。だから、ゆっくり考えてほしい」


「……かしこまりました」


 ローデリックとルシアン──どちらも、エリシアにとって悪い話ではない。


 だが幼少のルシアンを異性として見たことは、一度もない。


 そして大人のローデリックは、何気ない気遣いが心地よく、一緒にいると不思議と気が楽だが──今は教員と生徒という関係にすぎない。


 こちらも、異性として考えたことはなかった。

 

 いや、教員と生徒が互いを異性として考えるなんてありえない。 


 ……でも。


 

 エリシアはこの日から、なかなか眠れない夜が続くことになる。


 レグナスと婚約している間は何も感じなかった。


 これからは、一人の少女として──

 自分の胸の内に問いかけ、時には焦がれ、答えなき答えを探し求める……



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続編タイトル(仮):

かつて魔女令嬢と呼ばれた私、今は年上スパダリ副学長と年下ワンコ王子に溺愛されてます!


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― 新着の感想 ―
透けて見える王子の為人、何がどうなってこんな人になってしまったのか……。 エリシアの冷静さ、後半でその精神力の基盤が見えた気がします。己を律し続けることは難しいことですものね。 ただのざまぁでは終わ…
まさかのショタ展開ですね〜。 (*´ω`*)
杜撰だ……………。 なんて杜撰な計画なんだ、王子よ! 王子なら王子らしく、スタイリッシュな計画(なんだ、それ?)を立てて欲しいものだな。 エリシアの前に選択肢が現れた! ○ローデリックを選ぶ  ルシ…
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