春休み
久しぶりの投稿です。長くてすみません
1
カンザキ×白瀬成美
起きると日は沈み始めていた。
頭のどこかでは馬鹿なことをしていると理解していた。それでも、好奇心が抑えられず指が勝手に動いてしまう。
スマホの画面が青白く光り、SNSの検索バーが現れる。ため息を吐きながら、震える指で文字を打ち込む。
『中学名+卒業』
一瞬の静寂の後、タイムラインが流れ。適当にスクロールすると一つの画像が目に入り指を止めた。『卒業記念旅行』というタイトルでアップされたそれは、派手で目立っていた元クラスメイトと友達だと思っていた女の子の笑顔だった。どこか眩しく楽しそうな声が画面越しに私の胸を刺してきて、私は慌ててスマホの電源を落として布団に覆いかぶさった。
何もしないと時間が過ぎるのがあっという間なようで、気づけは三月末になっていた。それまでの記憶としては受験勉強のせいで撮り溜めになった異世界転生アニメを見たり、比較的仲の良い妹の雫とゲームをして、趣味である絵を描いて、寝る前に高校から出された課題をしただけだ。友達と遊んだというより家からほとんど出たという記憶はない。
起きて、アニメを見て、ゲームして絵を描いて、勉強しただけだ。
最後に外出したのは卒業してから一週間近くたった昼間、進学する予定の高校から指定された場所で制服やら教科書を貰った日だ。外出したついでに、近所のスーパーで買い溜めをした。アイスとジュース、お菓子諸々含め総額税込み2000円以上。おかげで、お小遣いが消えた。
はたから見たらダメ人間。少なくとも、私が高校一年生になることが確定していなければ世間からはニート呼ばわりされていてもおかしくないだろうな。
「あ~あ、どうしちゃったかな」
これまで一人の時間が少ないわけではない。むしろ多い方だと自覚している。夏休みなんかの長期休みは特にそう感じた。両親が共働きで旅行は行かないし、数少ない友達はクラブ活動でほとんど会わなかった。
暇を持て余した妹とゲームをしてみるけど、長時間画面を見つめると酔ってしまうのですぐに手を止めてしまう。結局、妹一人プレイを観戦しながら絵を描いていることが多かった。
あまり変わらない生活を送っているはずなのに、私のメンタルはすっかり弱り切っていた。
「やっと解放されたのに……はぁ~」
窮屈な学校生活からやっと解放されたのに。あの狭い空間から。
その夜。家族に晩御飯を振舞っていると、助け舟を出すかのように地元の介護施設で働いている母親が何の前触れもなく「今日ソメイヨシノが綺麗だった」と言う話をしだした。それは地元の海岸沿いにある公園のことだと教えてくれた。
「暇なら行ってみたら? あんた外出るのすら久しぶりでしょう? そんなんじゃ高校にはいってすぐに倒れるよ。今日は人が多かったけど、平日は少ないらしいし……。リハビリがてらどう?」
正直な話、母の勧めは気が乗らなかった。桜が好きとか嫌いと以前にその場所は家から直線距離で十キロ以上。自転車でも1時間くらいかかるのだから当然といえば当然だ。だからと言って、このまま家に引きこもっていても昼間のようなネガティブな発想が浮かんでくるのも嫌な私は「気が乗ったら」と返して黙々と食事を進めることにした。
しかし、私が桜を見に行くことに決めたのは、翌日だった。朝起きると希死念慮のようなものが頭をよぎった。
あの時の光景が夢に出てきて行き場のないこの感情のはけ口が思いつかなかった。
布団も寝汗でびっしょりと濡れて呼吸も乱れていた。
「はぁ~」と大きく深呼吸をして、呼吸を整える。胸に手を当てると鼓動が速いことが分かった。
「本当……どうしちゃったんだろう」
違和感を感じた妹の「どうしたの?」という発言を無視して起き上がり洗面所に足を向けた。
バシャッバシャッと、桶一杯に張ったお湯を顔に当てる。少しはさっぱりした気分になる。タオルを取って顔を拭く。鏡には醜い姿が映し出された。
「うわぁ。キモ」
日の光をほとんど浴びていなかったせいもあるが、血色の悪い顔が映し出されたのだ。ぼさぼさで色素の薄い茶髪に、メイクでアイラインを引いたようなクマ。表情筋も使っていないせいかどこか怖い印象がある。
貰った私立高校の通知が正しければ、入学式は四月十日。今が四月月三日と考えるとちょうど一週間後には入学式になる。
「これは……まずい」
人間の第一は九割で決まると、先日読んだ本に書いてあったことを思い出す。
地元の中ではそこそこ偏差値の高い進学校を選んだつもりなので、元学友に合う確率は低いはずだ。けれど、心配はそんなことではない。彼ら彼女らはもう顔合わせをしているのだろうという予想が頭の中にはあった。
SNSの発達により、そういった情報はすぐに手に入る。従って、「春からJK」『〇〇高校』等といった、訳の分からないハッシュタグをつけて集まる文化もよく知っている。もしくはクラブ活動や元同じ中学、小学の顔見知り同士が集まっている可能性だってある。
「また……」
学校が始まる前から彼らはすでにグループを作っているという予想が安易に想像できてしまい私は背筋を凍らせた。
このままでは1週間後、中学と何も変わり映えのない地獄が始まってしまう。灰色の生活を三年間過ごす羽目になってしまう。
脳内で触れたくない未来と、触れられたくない過去が入り混じる。ようやく、自分自身がどれだけまずい状況に居るのかようやく理解した私は、シャワーを浴びて、ヘアアイロンのコードをコンセントに挿して癖のついた茶髪を整えた。
それから自室のクローゼットに買うだけ買って放置していたベージュのカーディガンを出す。白のインナーシャツと黒のチノパンに着替えて姿見で確認。
ついでに、美容動画を参考に血色の悪さを隠すためだけのメイクをしてみた。
外見を整えて再び鏡に己の姿を映し出すと、先ほどのみじめな姿よりはるかにましになったので思わず「よし」と、呟いてしまった。
月初めに貰ったお小遣い(約3000円)が入った財布とスケッチブックを入れたカバンをもって、家を飛び出しだした。
2
自転車に乗るのが、そもそも外に出るのが三週間ぶりという事もあり、太陽の眩しい光が目に入るたびに立ち眩みを起こした。
ゆっくりとペダルを漕いでいると、暖かい風が頬を撫で、汗ばんだ皮膚を乾かした。寒すぎず、暑すぎない気温が妙に爽快感を与えてくれる。
十五分近く走って、流石に外の世界になれたのか、立ち眩みを起こさなくなった。同時に風景を見る余裕が生まれた。
大通りには車が連なり。田舎特有の広いコンビニの駐車場も満車。新免マークを付けたものや紅葉マークを付けたもの、他県ナンバーが多く行きかっている国道。道中で見たスーツに着せられている男性、女性とよれよれのスーツを身にまとった大人は何とも新鮮な光景だ。
慣れない景色。平坦で単調な道を進むと、次第に風がべたついてくる。
徐々に視界が開けると、青々とした海が見えて磯の香りがした。青い海は海岸沿いから水平線彼方まで続いていた。遠くに見える高く白い雲と、春特有の水色の空とのコントラストは見事なもので不思議と目を奪われる。
しばらく海岸沿いを走ると、遠くに薄紅色が見えた。すると、無意識に漕いでいたペダルの回転数が多くなる。
何もない平坦で単調な道に突如として現れた薄紅色は、砂漠でオアシスを見つけたような嬉しさがあった。
そして、あっという間に公園の駐車場にたどり着いた。けれど少し違和感を覚えた。平日の昼間ではあるが、桜の名所の春休みだ、少しくらい人気があってもおかしくないはずだ。
自動車も、バイクも1台もなく、外から公園内を覗いてみた感じでも、お年寄やカップル、近所の子供もいないようだった。母親が言ったとおり確かに空いてはいるが、空きすぎてると言った印象だ。
隣接された駐輪場で自転車置いて一応施錠。そしてポケットに鍵を入れる。それから体をほぐす。三十分以上の運動は久しぶりだった。中学最後の体育のサッカー以来な気がする。ふくらはぎを揉み、上体を前に落とす。腰を左右にひねり屈伸運動をした。
喉が渇いた。
園外に設置された自動販売機を見かけたので立ち寄ると、スポーツドリンクが500ml1本180円だった。何かに負けた気がしたが近くのスーパーまで戻る時間がめんどくさく感じてしまい千円札を崩して喉を潤すことにした。
ペットボトルをカバンに入れて、入り口で多く深呼吸して園内に足を踏みいれる。
「綺麗」
日当たりのいい場所に行けば行くほど桜は満開になっていた。
耳をすませばヒヨドリや、ヒバリの美しい鳴き声が響き渡り、桜のほのかに甘い香りが周囲を包みこむ。奥に行けば行くほど一面薄紅色のトンネルが見事に出来上がっていて、花びらの隙間から見える青い海がいいアクセントになっていた。
写真を撮ってSNSにあげたくなるような景色。
しかし、写真では伝わらない大自然の迫力が私を襲った。
「綺麗なんだけど……」
確かに綺麗で素晴らしい景色なのだが、どこか物足りなさを感じ取る。
改めて周囲を見渡して見ても当然一人。
近くには介護施設や、小学校だってある。遊ぶための遊具や草滑りのために人工的に盛られた傾斜だってあるのだからやっぱり誰かいてもおかしくない。というより、誰か来てもおかしくない状況だ。確かに平日の昼間と言う点もあるけど、人がいる方が自然ではないだろうか?
「なんていうかその……異世界?」
最近見た異世界転生アニメの主人公のよう気分を味わった。
「なんてことないか」
実際、異世界転生などするわけもない。トラックに轢かれてもいなければ、トラクターに轢かれたわけでもない。誰かに恨みを買われて刺されたり、現代医学では治療不能な難病を抱えているわけでもないし、当然引きこもっていたので過労死なんてものはあり得ない。
「アニメの見過ぎか」
卒業してから半月。もっというと中学の大半の時間をアニメに費やしたからそういう思考になったりするのだろう。
「そろそろ卒業かな」
心に思ってもないことを口ずさみながら、ゆっくりっと園内を半周。周囲に目を奪われながら、出入り口を向いて歩こうとしたところで足を止めた。
同時に少しだけ心が軽くなった。
知らない間に園内に入ったのだろう。女の子が人工的に盛られた傾斜の上に立っていたのだ。
少女は物憂げな顔で一点を見つめている。つられて少女もそちらを見ると、そこにはすっかり裸になった木があった。隣の立札には今咲いているソメイヨシノではなく、シーズンが終わったカンザクラと書かれてあった。
三月中旬ごろが見ごろで、ソメイヨシノのより濃い赤い色の花をつけるのが特徴だ。シーズンの時は多くの人が見に来たであろうそれも、今ではすっかり面影もなくなり、枝はすっかり枯れ木のように露出している。
女の子の髪が風で靡くと、艶のある白の髪が陽光に反射した。赤ピンクのパーカに、デニムのホットパンツ。そして黒のストッキングを履いている。
女の子は視線に気づいたのか、大きな瞳で少女の方を見る。
海のように青い瞳だった。
何か言うべきなのだろうか。それとも立ち去るべきか。私の脳内で思考が巡り巡っていると、向こうが、軽快な足取りで近づいてきた。
思わず、「こ、こんにちは」と一礼。
久しぶりに家族以外の他人に向けて声を出したせいか、ぎこちない声でかすれた。喉の奥に何かがつっかえている感じがして己の惨めさを改めて思い知らされる。
少女は不思議そうに少女を見つめていたので、ごまかすように咳払いをした。
「こんにちは」
少女ははっきりとした声だった。
「……」
「……」
空気が重たい。
葉擦れの音や鳥の音、潮騒。どれもこれも静寂をぶち壊してくれるような音ではない。むしろ、公園の雑音が二人の気まずさを加速させるだけだ。
本来なら私が先導を切るのが定石なのだろうが、生憎そんなスキルはない。
「お姉さんは散歩ですか?」
そんな静寂をブチ壊してくれたのは女の子の方だった。年長者として何か失ったような気がするが、背に腹は代えられない。
ぎこちなく答えた。
「そ、そんな感じ」
「私と一緒ですね」
「そ、そうですか」
「そうですよ」
会話が進まないのは私のせいなのは明白だ。
中学校生活後半から家族以外の他人と会話した経験がほぼないせいか、気の利いた返しができない。
私の中では異世界アニメの主人公の多くはどうして引きこもりや虐められて心を閉ざしている設定が多いはずなのに、あんなに初対面の人と会話できるのかつくづくわからなくなった。
そして、精一杯の考え付いた答えが「ごめんなさい。お邪魔しました」と退散なのだから救いようがないほどのダメ人間だという事はわかった。
3
駐輪場についてポケットに手をやると、私は困り果てた。
「ない!」
自転車のカギがないのだ。確かに鍵をポケットに入れたのだ。それほど激しく動いてもいなければ、人とぶつかったり、どこかに座った記憶もない。
ちなみに財布はある。
考えられるのは自動販売機の下。スポーツドリンクを買おうと財布と取りだした際に落としたか?
急いで自動販売機周辺を探すと、下の方にキラッと光る物が目に入る。嬉々として手を伸ばすも、出て来たのは近所のパチンコ店の玉だった。
「どうしよう……」
考えたくない最悪の事態は、だだっ広い公園の中で落としたことなのだが、現実問題としてそれ以外思い当たる節がない。
「はぁ~」と大きなため息を吐いて再び園内に足を踏み入れる。
下を向いて、前を向く。その光景は滑稽だったと思う。
「鳩ってこんな気持ちなのかな」
地面と前を交互に目を合わせながら、まばらに散りばめられた花びらをできるだけ踏まないように歩いていると、
「どうしたんですかお姉さん?」
そこで急に声をかけたのは、先ほどの女の子だ。可愛らしいピンクのスニーカーから伸びているすらっとした艶めかしい黒い脚がめの前に現れた。
「ちょっとカギを落しちゃって」
「カギってどんな奴ですか?」
「自転車のカギ。猫のシールが貼ってあるやつ」
学校で無くさないように、拾われても一瞬で分かるように目印をつけていた。その特徴を言うと、少女は小さな右の掌を見せた。
「カギと言うのはこれですか?」
猫のシールが貼られた鍵を持っていた。
「そうそう。それそれ」
「良かったです。先ほどお姉さんが帰られたとき落としたのを見つけたので拾っておきました。すぐに届けるつもりで追いかけたのですが、入れ違いにあったようです。下手に動かない方がよかったですね。ごめんなさい」
「ううん。ありがとう、拾ってくれて」
彼女が拾ってくれなければ少女はローラー作戦を遂行しなければいけなかったのだから、感謝してもしきれない。
「何かお礼しなくちゃ」
「お礼なんていいですよ」
「でも……」
このままでは私の気が晴れない。
「ですが……。知らない人から物を貰ってはいけないというのが母の伝え事でして……」
しっかりと教育された子だと心の中で関心を抱く。
「私は白瀬成美。今年高校一年になる予定。あなたは?」
目線を合わせ、怖がらせないように優しい口調。正直。これを言ったからと言って知り合いになるのかわからないが、知らない人にはならないだろうというのが企みだ。幸い女子だ。男子よりは警戒心を解いてくれるかもしれない。
少女は少しだけ間を開けて、口を開いた。
「カンザキです。カンザキツムギです。今日で五歳です」
「今日が誕生日なの?」
「はいです。今日が誕生日らしいです」
眩しい笑顔だ。
「なら、なおさらお礼が必要ね」
「でも、悪いですし……」
煮え切らない返事をするカンザキに戸惑う。
無理強いはできない。だからと言ってこのまま帰れば少女の気分が晴れない。
カンザキは腕を組んで考えている。
やがて、思いついたかのように両手をポンと手を叩き、
「あ、そうです。ならお金より大事なものをください」と笑った。
4
ツムギの声が、胸の奥に静かな波を立てた。
「お金より大事なもの、ください」
その言葉は、桜の花びらが水面にそっと落ちるように、私の心に触れた。彼女の笑顔は無垢で、赤ピンクのパーカーに包まれた小さな体は、まるでこの公園の柔らかな光と溶け合っている。白い髪が風に揺れ、海のような青い瞳が私をじっと見つめる。その視線に、心の奥で何かが軋む――ずっと閉ざしていた古い傷口が、ゆっくり開きかける音がした。
「大事なもの……?」
声が震える。鍵を握る手に汗が滲み、ポケットの中で指が縮こまる。大事なものなんて、
私にあるはずない。毎晩、布団の中で目を閉じても消えない記憶。SNSの眩しい笑顔に胸が締め付けられた昼間。鏡に映る、血色の悪い自分の顔。そして、あの夏――中学二年の夏、私を置き去りにしたあの時間。
きっかけは、なんて小さなことだったんだろう。あの夏、美咲に誘われて地元の祭りに行った。美咲は私の唯一の親友だった。中学一年の入学式で話しかけてくれて、いつも隣で笑い、給食の時間は机をくっつけ、放課後は一緒に帰った。彼女の明るい声、髪を耳にかける癖、全部大好きだった。でも、祭りで美咲がひそかに想いを寄せる和人に会った。美咲は目を輝かせ、和人に話しかけようと張り切っていた。私は彼女の幸せを願って、できるだけ二人きりにしようと距離を取った。なのに、和人は私に話しかけてきた。笑顔で、気さくに。美咲の視線が刺さるのを感じたけど、私は和人を好きじゃなかった。嫌いでもなかったけど、ただのクラスメイトだった。それでも、美咲の気持ちを壊したくなくて、彼女のために架け橋になろうとした。
和人に美咲のいいところを伝え、彼女が予定を入れると「二人で楽しんできて」と笑って離れた。美咲の笑顔を守りたかった。でも、彼女にはそれが許せなかったらしい。夏休み明け、美咲は新しいグループに溶け込み、私と目を合わせなくなった。昼休み、彼女は他の子たちと笑いながら教室を出て行き、私は一人、机に突っ伏して時間を潰した。和人も、私が適当にあしらううちに興味を失い、話しかけてこなくなった。「成美、最近暗いよね」。誰かの囁きが耳に届いたとき、胸の奥がちりちりと焼けた。ある日、勇気を出して美咲に話しかけた。「ねえ、最近忙しいの?」 彼女は一瞬だけ笑い、「うーん、なんかね」と答えた。その目が、私を通り過ぎて別の誰かを見ていた。あの瞬間、私は自分が消えてしまえばいいと思った。私の純粋な気持ちが、彼女を遠ざけた。私の行動が、全部間違っていたんだ。それ以来、誰かと話すたび、美咲の冷たい目が頭にちらつく。また誰かに「暗い」と思われたら、また置き去りにされたら――そんな恐怖が、私を部屋に閉じ込めてきた。
5
ツムギはパーカーの裾を摘まみ、首を少し傾げる。無邪気な仕草なのに、その一つ一つが私の心を締め付ける。彼女は待っていた。私が何か言うのを、信じてる。まるで、私の中にまだ何か光るものがあると、最初から知っているかのように。
「そんなの……ないよ」
呟いた瞬間、喉が熱くなった。美咲の笑顔が、教室のざわめきが、和人の気さくさな声が頭の中でぐるぐる回る。いつもみたいに逃げようとした自分が、たまらなく嫌いだった。家に帰って、暗い部屋に沈めば、この気持ちもあの夏の傷も埋められる。でも、頭の片隅で、高校の教室がちらつく。知らない顔、知らない笑い声。また一人で隅にいる自分。あの灰色の時間を、もう繰り返したくない――そう思った瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
大きく息を吸う。桜の甘い香りが、肺の奥まで染みて、ざわついた心をそっと撫でる。美咲の目が一瞬遠のき、目の前のツムギの笑顔がその影を薄めた。私は震える手でカバンを開け、小さなスケッチブックを取り出した。
「ちょっと……待ってて」
声が掠れる。ツムギが「?」と小さく首を傾げた、ページをめくる手が震える。そこには、卒業式の後に描いた海の絵があった。鉛筆だけで描いた、色のない海。水平線は少し歪み、雲はぼんやり浮かんでいる。なんてことない落書き。でも、この絵にはあの日の私がいた。勉強机の前で、窓の外を見ながら感じた名前のない気持ち。退屈と、寂しさと、美咲に置き去りにしたあの夏と、でもどこかで信じていた何か――それが、線の一本一本に滲んでいる。
この絵を見せるなんて、怖くて考えたこともなかった。下手だって笑われるかもしれない。美咲が私を見なくなったみたいに、誰かに「つまらない」って思われるかもしれない。でも、ツムギのまっすぐな瞳を見たら、なぜかその恐怖が薄れた。彼女なら、私を置き去りにしない。そんな気がした。
「これ……ダメかな?」
スケッチブックを差し出す。手が震えて、紙が小さく揺れる。心臓が喉まで上がってきて、息が詰まりそう。まるで、美咲に話しかけたあの日の私が、もう一度試されているみたいだった。ツムギは目を丸くして絵を覗き込み、ぱっと顔を上げた。
「わぁ……海! すっごくきれいです!」
彼女の声は、桜の花びらが風に舞うように軽やかで、でも私の心に深く刺さった。きれい? そんなはずない。この絵は、私の傷の欠片なのに。美咲には何の価値もなかった私の欠片なのに。なのに、ツムギの笑顔はあまりに純粋で、まるで私の心の奥まで見透かしているみたいだった。
「海、好きなんですよ。今日みたいな、青い海」
ツムギが絵をそっとなぞる。彼女の細い指が紙の上で止まった瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。この絵は、私そのものだ。言えない気持ち、誰にも見せられなかった傷、美咲に届かなかった私の声。でも、どこかで消したくなかった光。ツムギがそれに触れたみたいで、涙がこぼれそうになる。
「ツムギ、これ……あげる。私の、気持ち」
声が震えて、途切れる。恥ずかしくて、目を合わせられない。顔が熱くて、耳まで赤くなってるのが分かる。美咲に見せられなかった自分を、初めて誰かに差し出した気がした。ツムギは両手でスケッチブックを受け取り、まるで壊れ物を抱くように胸にぎゅっと押し当てた。
「ありがとう、成美さん……」
その言葉が、胸の奥に温かい波を広げた。美咲の冷たい目が、ほんの一瞬、溶けた気がした。涙が溢れそうで、慌てて空を見上げる。桜の花びらがひらひらと舞い落ち、青い海と混ざり合う。こんな気持ち、知らなかった。誰かに自分を少しだけ渡して、こんな風に心が震えるなんて。私のちっぽけな絵が、誰かの宝物になるなんて。
「ねえ、お姉ちゃん。名前、ちゃんと教えてください」
ツムギの声に、はっとする。さっき言ったのに、って笑いそうになるけど、彼女の真剣な目を見たら、なぜかもう一度言いたくなった。
「白瀬成美。成美でいいよ」
「成美さん! いい名前ですね! じゃあ、私、ツムギ。カンザキツムギ、今日で五歳!」
またその話、と小さく笑う。でも、ツムギのキラキラした瞳は、まるで私の心の影を照らしてくれるみたいで、胸が温かくなる。美咲の笑顔はもう遠く、ツムギの声がその隙間を埋めてくれる。彼女の「五歳」は、冗談かもしれないし、本当かもしれない。どっちでもいい。彼女がここにいる。それだけで、私の心は少しだけ軽くなった。
「ツムギ、誕生日おめでとう」
自然に出た言葉。ツムギは「えへへ、ありがと!」と頭をぺこっと下げる。その仕草があまりに愛おしくて、美咲に閉ざされた私の心が、ほろほろと溶けていくのを感じた。
桜のトンネルの下、潮風が頬を撫でる中、私たちは少しだけ話をした。ツムギは海の話が大好きで、波の音や貝殻の形を、目を輝かせて教えてくれる。私はその声を聞きながら、初めて「人と話すのって、怖くない」って思えた。美咲は私の声を聞いてくれなかった。でも、ツムギは聞いてくれる。桜の香りが、ツムギの笑顔が、私の心のひび割れた隙間をそっと埋めてくれる。
「ねえ、成美お姉さん。またここに来る?」
ツムギの声に、胸が小さく跳ねる。家から遠いし、わざわざ来るのは面倒だ。でも、今日感じたこの気持ち――美咲の影が少し薄れたこの瞬間――を、もう一度確かめたい。
「うん……また来るよ」
そう答えると、ツムギは満面の笑みで「やった! じゃあ、また会おうね!」と手を振った。
ツムギは軽い足取りで桜の木々の奥へ消えていった。白い髪が花びらと踊るように揺れるのを見ながら、胸の奥に名前のない感情が広がった。あの子は誰だったんだろう。ほんとに五歳? それとも、私の心が作り出した幻? でも、どっちでもいい。彼女がここにいて、私に笑いかけてくれた。それだけで、美咲の冷たい目が、ほんの少しだけ遠くなった。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。桜の花びらが髪に絡まり、海の風が頬を撫でる。来たときの重い心は、どこかへ溶けていた。涙が一滴、頬を滑り落ちたけど、なぜか笑顔だった。美咲に見せられなかった笑顔を、今日、初めて誰かに見せられた気がした。
家に着くと、夕焼けが空を赤く染めていた。部屋に戻り、スケッチブックが一枚減ったカバンを置く。少しだけ寂しい。でも、その代わりに、胸の奥に小さな種が芽吹いた気がした。
「高校……怖いけど、ちょっとだけ……」
窓の外を見ると、遠くの空はまだ夕焼けだった。