“変則神経衰弱”への招待状 【岸本視点】
Cブロック。3日目。12時43分。
相変わらず、私達2-3組のみんなは沈黙を守っていた、静謐という表現がぴったり合う。唯一の音源は食料自販機にFカードを挿入する虚しい機械音か、もしゃもしゃと食べ物を食べる音くらいだった。
会話は、ない。
本来、食事というのは人と人とのコミュニケーションには欠かせないものなのだが、みんな、諦観しきった顔で無機質に栄養を摂取していた。
ある種の事務処理みたいな作業。自己の肉体に栄養を送るためだけの食事。それはあまりにも、食事というものから、かけ離れすぎていた。みんなの顔には喜怒哀楽といった感情すら欠如していた。
男子も女子も分け隔てなく、黙っていた。
……希望がないって怖いな……。
私は喉元に込み上げる戦慄と恐怖に吐きけを感じた。
みんなの心には、縋るものも頼るものもない。目の前には森閑とした暗黒が広がっているだけ……。あるとしたら、もう、二度と日の光を拝めないという絶望くらいだ。
できることなら、今すぐにでも泣き叫び、不条理な運命に呪詛の言葉を吐きたいだろう。神に見放された子羊状態。もし、救いを求めるとすれば、不安、恐怖、焦燥、疑惑といった、負の感情が露呈していないことだろう。もっとも、いまにも消えそうな自尊心と理性が、ストッパーとなってそれらをくい止めているだけであって……。
そして、いつ、このタガが外れるだろうか。本能を抑止する最後の砦がいつ瓦解するだろうか。その時、みんなはどうなってしまうのだろうか。
「おい、そんな顔するなよ。なっ!」
杉下君は毎度のことながら、みんなに呼び掛けていた。しかし、残念なことにそれに答える者はいない。恋人の佐久間さんですら、意気消沈といった状態。
痛々しい沈黙。みんなの鋭い視線は杉下君に突き刺さる。馬鹿かお前は。そういう、睥睨の目だった。
杉下君はぐっと奥歯を噛み締めた。悔しくて仕方がない。ふがいない自分が情けない。ある種の焦燥感的なものを感じ取ることができた。
それは、絶望がみんなに蔓延すること。杉下君が懸念していたことだ。
それが今、形を持ってみんなを襲った。
ただ、せめてもの幸いは、今のところ男子生徒が女子生徒を襲うようなことがなかったということくらいだ。このような、逃げ場のない密閉空間に年頃の男女が部屋を共にしているのだから、あり得ない話ではない。むしろ、可能性としては非常に高い。
にもかかわらず、男子生徒はその素振りすら見せなかった。矮小な仲間意識が抑制力を生んだのか、レグルスの言う暴力は禁止という警句に従っているだけなのか……。
いや、違うな。
私は目の前のリクライニングシートを見た。複数の生徒がフルフェイスのヘルメットを被って、何かの映像を視聴していた。
私にはあれに秘密があると思う。
おそらく、あのリクライニングシートに流れている映像には、性欲などの欲望を抑えるサブリミナル的なものが仕組んであるに違いない。もし、この推理が正しければ、とりあえず性的暴行の危険性はほとんどない。
「なぁ、岸本」
彼の鈴の音のように澄んだ声。私は彼の声がする方向に体を傾けた。
「どうしたの?」
「なんか、怖いなって思って」
彼はリクライニングシートに座って繭のようになった生徒たちを見ていった。蚕のようだった。
その後、彼は私を見た。否。その視線は私の体を突き破って、その先にある何か――――を見つめていた。それが、何かはわからない。もしかしたら、俗に言う希望というものなのかもしれない。
「同感。さっき、私もそう思ってたところ」
「そうなんだ……まあ、そういう俺も怖いけどね」
弱弱しく彼は微笑んだ。脆く儚げで、浮世離れした笑み。そこには一点の闇も虚構もなかった。狼のような懐疑主義者にはとてもできないような純粋な笑みだった。
もしかしたら、私は彼と言う人物の認識を誤っていたのかもしれない。
そう思った。
「けど、大丈夫だよ。私たちには道がある。閉ざされていない道があるから……」
「そうだな……」
私と彼は同時にほほ笑んだ。彼のきれいな笑み。私には、詭弁を張り巡らす笑みには見えなかった。
そして、時は満ちた。
Cブロック。7日目。2時29分。
その四日後の朝。
予想していた日数と比べ、少し遅くなった。あの時は食事やシャワー代などのこまごまとした計算を念頭に入れてなかったから、当然の結果だ。
私と彼は皆が寝静まった時を見計らって、こっそりとトイレに入った。
「なんか、変だね」
一切の音をたてないように慎重にファンを取り外しにかかる彼に向って、そう言った。
「何が?」
トイレの便器に足をかけ、件名につま先立ちしながらも、彼は四苦八苦。私たちの通う高校の白いズボンが眼下に納まる。私も彼も制服を着用している。本来、こんなところに閉じ込められなければ、修学旅行に行くはずだったのだから、当たり前だ。
彼の視線はファンの方に向いていて、なんだか、大変そうに見えた。真剣な目つきだった。
「考えてもみてよ。制服着た男女が一つのトイレにいるんだよ? 不純性行為じゃん」
「……」
心底どうでもいいという笑みが帰ってきた。ひそかに、自分の容姿には自信があっただけに結構へこんだ。
「そんなこと言ってる場合か? 命がかかってるんだぞ」
厳密に言えば生命の危機はないのだが、あながち間違いでもない。私は小さく頷いた。
変なことは言いません。
そういう意味を込めたジェスチャー。
すると、彼にも伝わったらしく、目で頷いた。再び、作業に取り掛かる。
ガチャガチャという機械が擦り切れるような音。金属質で、花も草も動物もいないこの場には相応しい音だと思った。
「ふぅー、やっと開いた」
彼は達成感のようなものを滲ませながら言った
「本当?」
期待に胸膨らませながら、確認するように訊いた。
「ああ、ついにね」
彼の二の腕が伸びて、スクリューのような形状をした物が傍に置かれた。
「どうしようか。岸本から入る?」
レディーファーストだしねと朗らかに笑う。
しばし考える。
私は赤面して、
「そうしたら、パンツ見えるじゃん」
と、彼を睨みつけるように言った。
彼も私の言葉を聞いて、真っ赤になった。
「いや、そういうつもりはなくて……」
弁解にしか聞こえない。本人にその気はないと分かっているが、言い訳にしか聞こえない。それがたまらなく可笑しくて、私は笑った。
「……なら俺が先に行く」
十秒くらいの間を開けて彼は言った。私が笑い終わるのを律義に待っていたのだろう。妙に紳士的な態度が、再び私にこらえ切れない笑いを齎した。
「……置いて行くよ」
ドスの利いた声で言う。私は慌てて彼の元について行った。
鼻につく様な悪臭は不思議となかった。微粒子のような埃や砂塵は舞い上がっているものの、気になるレベルではない。まるで、ここを通ることを前提としているような清潔さだ。
大地の深淵のような通気口を進んだ。目にゴミが入らないように注意して進む。
彼との会話はなかった。否。いらなかったといった方が正しい。私と彼の間に言語は入らないとすら思った。以心伝心のようなものを感じていた。通じ合っていると思った。
闇はどこまでも暗かった。しかし、あと少しすれば光を垣間見ることができる。希望に満ちた柔らかい綺羅光が。
やがて、黎明にも似た日差し。それが、生ぬるい風と共に、彼と私の体に潮風のように靡いた。
まず、彼があらかじめ設置されていた梯子を使って、降りる。続くようにして私も降りる。
着地。
同時に、精神病棟のような真っ白の壁が私たちの周りを囲んでいた。気が変になりそうな光景だった。
彼は静かな足取りで例の扉の前まで進んだ。彼の靴が白い大地を踏みしめた。
彼が私の方に振りかえり、アイコンタクト。私もポケットからFカードを取り出しながら、扉に向かった。
「いよいよだな」
彼は前衛的な装飾が施されている扉のカード口にFカードを入れた。感慨深そうな声だった。
「そうだね」
私はそう答えた。
カード口の上にあるデジタル表記のものには、彼に聞いていた通りに、141000と表記されていた。そして、彼のFカードが彼の手元に返ってきたとき、Fカードの残金は0になり、扉には69000と明記されていた。
彼は一歩下がって、Fカードを入れてと促した。
私は一歩進み、自分のFカードを挿入した。
数秒後、私のFカードがカード口から戻ってきた。
私のFカードの残金は100円。扉の残金は0になった。
その瞬間、異変は起こった。
「おめでとうございます!」
爆竹を思わせるような爆音。誰かの声が聞こえた。耳を突き刺すような、轟音だった。それでいて、不可思議なくらいに無機質だった。どことなく、聞き覚えのある声。
「レグルス……!」
彼が驚いたように呟いた。そう、これはレグルスの声だ。いつ聞いても、人工知能特有のシンセサイザーのような平淡な声だった。
しかし、ここにはディスプレイはない。なら、どこから……。
その疑問はすぐに解決した。
レグルスは壁の中にいた。不自然なほど真っ白な壁の中で泳いでいた。ぐるぐる回っていた。
私は合点した。なぜ、この部屋の壁がすべて異常に白いのかが分かった。この壁はいわばスクリーンのような、映像を映しだす役割を果たしているのだ。
しばらく、辺りを動き回った後、レグルスは私の左の壁に姿を現した。スーツ姿だった。ダークブルーの背広を器用に着こなしていた。
ここまで辿りついた私たちに敬意を表したいのだろうか。精密な皮靴をはき、黒のシルクハットの正装(?)をしていた。道化師のような顔をしたスーツ姿のレグルスは奇妙奇天烈だった。存在自体が矛盾しているような気がした。
「よくぞこの扉を発見しましたね! あなた方のこの扉とFカードの関連性に気付き、見事第一関門を突破するその頭脳! 早期解決のために仲間を集めるその手腕! それを短期間で成し遂げる行動力! 尊敬に値します!」
赤と黄色のペイントを施したレグルスは優雅なしぐさでシルクハットを取り、西洋の貴族がするかのように、シルクハットを胸に当て、頭を下げた。
「そんなあなた達にはこの扉は最初に潜る権限があります! つまりっ、あなた達は外に出ることができます!」
私たち二人はカッと目を見開いた。自然に頬が緩み、やっと、外に出られるという嬉しさで涙腺が刺激された。
たっぷり、二秒。レグルスはそんな私たちを祝福の眼差しで見つめていた。
そんな中、彼が口を開いた。
「……なるほど。やっと、あんたの発言の意味が分かったよ」
「……というと……?」
「前に一度、俺があんたがこう質問したことを覚えてるか? ここから、脱出することはできるのかってな」
「もちろん覚えていますよ。それがどうかしましたか?」
「その時あんたはこう答えた。今現在は無理ですってな。確かにその通りだ。この扉を使って脱出するためには、どうしても金と時間がいるからな。つまりあんたはこう言いたかったのさ――――今は間違いなく無理だが、やがて、時が経てば外に出ることができると――――」
「――――素晴らしい! 類稀な推理力だ! やはり、あなた方には“あのゲーム”を受ける資格がある」
レグルスは彼の言葉を遮るように言った。
「……“あのゲーム”……?」
私は眉を顰め、訝しげな表情を作った。
「はいっ! 英知の結晶たる恐るべきゲームですっ! もう一度言いましょう!」
レグルスは一度、すぅっと間をおいて、
「あなた方二人にはっ! “変則神経衰弱”の参加資格があります!」
と言った。なぜか、形容しがたい寒気を感じた。