駆け引きの結末 【岸本視点】
Cブロック。2日目。12時17分。
私は胸の中に得体の知れないものを感じた。筋肉が伸縮して、頬が少し湾曲。嘲笑とも賞賛とも取れるような笑みを浮かべる。
それを、彼は困惑、あるいは懐疑と取ったのか、
「嘘じゃない本当だ」
と、言った。
私は彼と少し離れた。愛し合う二人のように、向きあう。思ったより華奢な彼の顔が眼下に映った。私の瞳いっぱいに彼の姿が投影される。自分が映写機にでもなったような気分。
私は言った。
「どうしようか?」
とぼけたような口調。形容するなら、無邪気を装う悪意とでも言おうか……いや、欺瞞かもしれない。無邪気を装う欺瞞。なんとも、甘美で妖艶で醜悪なことか。意図的な悪意よりはるかに恐ろしいと思う。
「もしかして、馬鹿にしてる?」
彼は憤怒した。顔をわずかに紅潮させ、ぷんすかと肩を震わせた。一見、怒りに身を震わせているように見える。どこか、滑稽で、浅ましさすら感じさせる行為。しかし、これはあくまでフェイク。単なる、演技でしかない。真実を覆い隠すための戯曲じみた虚構だ。分かる。私には全て分かる。表面上、ただ、公式を知らずに高等数式を解いた運のいい馬鹿を演じているだけであるが、実は、頭の中ではいかに私を利用するかについて、謀略を張り巡らせているに違いない。無知を演じる策士ほど、恐ろしいものはない。
「馬鹿になんかしてないよ。ただ、信じられないだけで」
「まぁ、それはそうだよな。けど、あるんだよ。脱出経路がな」
彼は得意そうに言う。諧謔と憐憫の対象である道化を思わせる笑顔。レグルスの姿を思い出す。その、愚鈍さの奥底に埋まっている知性と狡猾さ。同じだ。そう思った。
「へぇ、そうなんだ。教えてよ。一緒に脱出しよう」
だから、私も道化師を演じることにした。釈迦の掌で踊らされた孫悟空になることにした。
猫被ることに慣れてはいるが、少し不安。いつ見抜かれるか疑心暗偽。しかし、彼はにっこりと笑い、そうだねとハミングするように口ずさんだ。彼の素振りを見ればたぶん、気付かれてないと思う。
彼は再び私の耳に顔を近付けた。耳がくすぐったい。
「――――――っていう話」
彼の話した内容は、私の知ってることとほぼ一緒だった。彼もまたこの世界の異端者なのだ。ただ、一つの確立事項ができた。それは、あの扉のことだ。やはり、私の予想通りで、Fカードとあの扉は連動している。途中式で止まった証明に一つの解が生まれたことに、胸の中で凱歌を上げた。
しかし、それをおくびにも出さない。彼の中では私はこのことを知らない人間だという、脳内区分がされているに違いない。故に私は、
「あっ、なるほど。盲点だね。それ」
と、いかにも感心したように言った。私の中の黒い何かが産声を上げたような気がした。神にすら目を背けられる穢れを纏った獣。欺瞞的コミュニケーションを餌に成長した悪鬼だ。
だが、彼は気付かない。いや、もしかしたら気付いてるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「岸本のFカードの残金はどれくらい?」
「うーん、17000円くらいかな。前に一回シャワー使ったし」
「それだけあれば充分」
「だね。十二時間で二万円、一日で四万円、そのうちのいくらかが、食費に消えてもさほど、支障はないと思うし、大丈夫だと思う」
私は一つ一つ確認するように言った。
ここで、私たちの計画について説明しようか。
ずばり、私たちの計画はこうだ。
まず、私たち二人は、可能な限りお金を節約しながらここでの生活を営み、やがて、二人合わせて一万四千百円の資金が溜まったら、あの扉を使ってここから脱出するというもの。今まで通り普通に生活するだけなので、私達の異変に気付く人おそらく皆無。もし、気付く人がいるとしたら、その人は超人か預言者だ。外部に漏れる可能性は限りなく薄い。もし、それがあるとしたら、あの扉に向かうためにトイレのファンを開けるときくらいだろう。そのときは、できる限り周りに注意しなければならない。ここでばれてしまっては元も子もないからだ。ただ、裏を返せば、そのタイミングさえ見極めれば、あとは、私か彼のどちらかが裏切らない限りこの計画は安泰というわけである。と、いっても裏切ったところで特筆すべきデメリットがないから、それはないと思う。初めに通過した人だけ脱出可みたいな条件がつけば話が別だが……。どちらにせよ、双方にアドバンテージがあるフェアな取引だ。これを逃すはずがない。
「だろうな。計画通りに進み、あと六、七回の支給を受ければここから脱出することができる」
彼は心底楽しくて仕方がないといった笑みを浮かべた。
「なるほど。つまり、あと三、四日でここを抜け出せるってわけなんだ」
私は陽気に言った。弛緩しきったように表情を和らげた。彼を惑わすために作成したものなのだが、そこには、本気で安堵する気持ちも含まれている。
「もう、このゲームは終わったも同然だな」
「意外にあっさりと終わったね。ゲームクリアだよ」
私は彼に同調するように言った。実際、そう思っていた。そう、思っていたのだが……。
このときの自分がいかに低俗で傲慢であったことか。私は間違いなく油断していた。トントン拍子に事が進んだからかもしれない。しかし、それはただの誤認にすぎなくて、浅はかな判断で、真実を知るにはまだ、はるかに足りなすぎて―――――情報も頭脳も仲間も、何もかも……。
中央広場。2日目。13時56分。
『……ったく、主人もよくやるぜ。こんな、馬鹿げたゲームをよ』
『何言ってるんですか、“アケルナルさん”。もしかして、主人に対する冒涜ですか?』
『おいおい、お前こそ何言ってるんだよ。俺は主人の懐刀だぜ? そういうお前はどうなんだよ、“レグルス”?』
『私ですか?そうですね……特にありませんね。私は主人の言う通りに従うだけですから』
『……はぁ? なんだそりゃ。まぁ別にいいけどよ……けどもうちょい、自分の意見を持ったらどうだ? これだから硬物は手に負えねぇんだよ、まったく……』
『……硬物……ですか。私にはあなたの言動が理解できませんよ』
『それはこっちのセリフだぜ。分かっちゃいると思うが、俺達は命令通りに動く機械じゃねぇんだぜ。そこんとこ、理解しとけよ』
『分かってますよ。それよりもいいんですか? 確か、あなたは“変則神経衰弱”の運営で忙しかったはずじゃ――――』
『――――あっ、そうだった! 忘れるところだっだぜ!』
『あって……だから、あなたは“カぺラ”さんに馬鹿呼ばわりされるんですよ』
『んなこと知るか。それよりも――――早く準備しないと、到達者が出ちまうぜ』
『……はたしてでますかね……ここにたどり着く人が……』
『それこそ、未曾有だな。ただ、そういういかれた奴らがここに来ねぇと、つまんねぇからな』
『……はぁ……』