街のこと・終編
────『シラハゼなど、薄気味が悪い』
誰かが吐き捨てるように、そう言った。
それがリッカが覚えている、一番古い記憶だった。
シラハゼはごく稀にしか生まれない稀少な存在だった。その生まれは必ず、異種交配で生まれると決まっている。異種交配をすれば必ず、というものではない。だが一度でも異種交配が行われた血筋は、代々その子々孫々に至るまでシラハゼが生まれる可能性があった。
自分の血筋を過去数百年にわたって完全に把握している者は少ない。それゆえに自身の血脈に別の種族の血が混ざっている事など知らず、シラハゼが生まれた事でその事実を知る者も少なくはなかった。
リッカの親もそうだった。
今となってはその血筋が、父方からなのか母方からなのかも判らない。どの種族の血が混ざっているのかも、今ではもう知る術はなかった。ただリッカが生まれた事によって、確実に異種の血が流れているのだという事実だけが、否応なく突き付けられた。
これがアレンヴェイル皇国のようにシラハゼを歓迎する国であれば、何も問題はなかったのだろう。だが残念な事にリッカが生まれた国は、異種交配を不浄の物と認識する国だった。人種主義の思想が強く、単一種族を至上とする考えが強く根付いた国では、どれほど稀少な存在であろうともシラハゼなどただの汚らわしく卑しい存在に過ぎなかったのだ。
ごくごく平凡な日常を送っていたリッカの両親は、シラハゼを生んだ事でその日常が一変する事になる。
蔑み罵られ、物を買う事さえ満足にできなかった。リッカの存在をひた隠して街を転々とし、シラハゼの存在を知られればまた街を転々とする。ままならない生活に募った苛立ちを両親はリッカにぶつけるようになり、ついにはリッカを我が子ではなくただの使用人であると、公然と周知するようになったのだ。
そうして両親はようやく安住の地を得、蔑みと罵りはリッカだけに向けられる事になる────。
だから捨てられたのだ、と聡いリッカは判っていた。
自分が汚らわしいシラハゼだから、捨てられたのだ。
人ではない何かの血が混じった、混血児。この白い髪と肌はその証。
自分の体の中に得体の知れないものが流れているのだと思うと、それだけで気味が悪く、おぞましかった。
こんな自分が蔑まれ嫌われるのは、当然の事。
だから捨てられたのだ。
両親からも、そして律からも────。
リッカは肩で息をしながら、今来た道を振り返った。
当初、律が行った道を進んだリッカは、後ろから追いかけて来る彼らから逃れるため裏道へと足を踏み入れた。入り組んだ道を進み、視界に入る道に手あたり次第進んだせいで、もはや自分がどこから来たのかも、今自分がどこにいるのかも判らなくなった。
後悔したのは最初だけ。もう律に会えないかもしれないと思った瞬間、だからあそこに一人置き去りにされたのだとリッカは瞬間的に悟った。
─────(それなのに、幼い貴方をこんなところに一人置き去りにしたのですか?)
あのカッティと名乗った男の言葉が、リッカの脳裏で何度も何度も響いている。
(……リツさんは優しい人だ…)
こんな誰とも知らない薄汚れた自分を、律は助けてくれただけではなくずっと傍に置いてくれた。ひとつも嫌な顔をせず、笑顔を向け、褒めてさえくれた。
それでもいつか、シラハゼという存在を知れば律は不快気に顔を歪めるだろう。
そして自分がそのシラハゼだと知れば、その歪めた顔を自分に向けてくるのだ。
それだけはきっと耐えられないとリッカは思っていた。
だけど、もうその心配はない。
そうなる前に律は、自分を捨てたのだから────。
(………僕はやっぱり、いらない子なんだ……)
シラハゼだからではない。
律はまだ、シラハゼを知らない。
自分が捨てられたのはきっと、まだ幼く何もできないただのお荷物だからだ。
捨てられて当然だと思う。
だけど、どうしても忘れられなかった。
生まれて初めて感じた人の温もりを、優しい言葉を、太陽のような笑顔を、リッカは忘れたくはなかった。
だがどれほど求めても、もう意味はないのだ。
自分に向けられた初めてのその感情を、居心地のいい場所を、自分はもう永遠に失ったのだから────。
道を見据えるリッカの視界が、次第にぼんやりと歪み始める。
リッカの瞳から止めどなく涙が溢れ、その小さな頬に幾筋もの後を残して流れ落ちた。
「………リ…ツさ……っ」
嗚咽に交じって、リッカは小さく名を呼んだ。
もう二度と会う事のない、優しく温かい人の名を────。
俯き声を潜めて泣くリッカの耳に、聞き覚えのない声が掛けられたのは、そんな時だった。
「…見ろよ。このガキ、異界の外套を着てるぞ?」
「…!!?」
「生意気だな」
弾かれるように向けたリッカの視界に、いかにも不逞の輩のように映る男が二人。その男たちの瞳からはシラハゼに対する侮蔑と共に、隙あらば金目の物を奪おうとする悪意が見て取れた。
恐怖で声も出せず、肩を震わせながら縋るように壁に身を寄せて涙を流すリッカに、男たちは嘲笑を送る。
「…ははっ!何だ、怖くて声も出ないってか?」
「小便でも漏らす前にさっさとその外套脱がせようぜ。ただでさえシラハゼが着てんのに、これ以上汚されたら売り物になんねえ」
「そうだな」
同意を示して、男たちはリッカに歩み寄る。
「それにしても、いい掘り出しもんが見つかったな」
「アレンヴェイルはつまんねえ国だと思ったけど寄ってみて正解だったな」
「異界の物は高値で売れるから、うまくいきゃあ一生遊んで暮らせるぞ?」
勝手な事ばかり口にして次第に近づいて来る男たちのやり取りに、リッカはなぜか恐怖よりも憤りを感じて慌てて律から預かったジャンパーを守るように身を縮こませた。
「…だ…ダメです…っっ!!!!こ、これはリツさんの物だから…っっっ!!!!」
大人しく渡すだろうと思った予想を裏切って小さな抵抗を見せるリッカに、男たちは不快さを最大限に表すように眉間に深いしわを刻む。
「…ああ?何だ、お前?シラハゼの分際で抵抗するのか?」
「…ほんっと、生意気だな」
怒りの感情に任せるまま、一人の男がリッカに向けて大きく足を振り下ろす。リッカの小さな体は面白いほど軽々と吹き飛ばされ、そのまま先にある壁に叩きつけられてその場に倒れ込んだ。
「…っ!!」
「おい、あの外套に穴でも開いたらどうすんだよ。値が下がるぞ?」
「…ちっ!めんどくせえな!!」
そう吐き捨てて、男は地面に倒れ込んだリッカに再び歩み寄った───歩み寄ったように、リッカには見えた。
壁に叩きつけられた瞬間、リッカは頭を強打した。頭部から血が流れ落ち、わずかに視界が歪んでよく見えない。
「脱がしゃあいいんだろ?脱がしゃあ」
反面、皮肉なほどに声はよく耳に届いた。いかにも不愉快そうにそう言って、自分に手が伸びるのがわずかに見て取れる。朦朧とする意識の中で、リッカはやはり抵抗を示すようにジャンパーを固く握った。
「………だ………だめ………っ!……リツさ……大事な物………っ!!」
「…っ!この…っ!!クソガキが…っっ!!!」
シラハゼの抵抗がとにかく癪に障って仕方がない。男はそう言わんばかりに顔を最大限にしかめ、地面に伏すリッカの胸ぐらを勢いよく掴む。小さなリッカの体は苦も無く持ち上げられ、その顔目がけて振り下ろされる男の拳が、リッカの歪んだ視界の中に突如として現れた。リッカは思わず瞳を固く閉じて、訪れるであろう痛みに備えるように歯を食いしばった。
だがリッカの耳に届いたのは、なぜか自分の顔が殴られる音ではなく殴りかかろうとした男のつんざくような悲鳴だった。
「手……っ!!手が……っ!!!!!」
叫声の中にわずかに聞こえる、獣の唸るような声。その聞き覚えのある声に、リッカは固く閉じた瞳をわずかに開いた。その小さく切り取られた視界に映ったのは、男の腕からおびただしい血が流れ落ちる様と、リッカを守るように前に立ちふさがり威嚇するように前傾姿勢で身構える、一匹の小さな黒い獣の姿────。
「…………コ…ッコ………?」
どうしてここに黒虎が───?
目前の信じられない光景に目を見開くリッカの耳に、阿鼻叫喚にも似た男の悲鳴と、何が起きたのか判らずただ狼狽える男の声が聞こえた。
「お……おい…っ!!大丈夫か…っっ!!!」
「な…何だよ…っ!!!?何なんだよっっっ!!!!!あの獣…っっ!!!!!」
男の腕と手には鋭い爪で深くえぐられたのか、三本の爪痕の奥に骨らしきものが見て取れた。
「お……おい……あれ、魔獣か……?」
「んなの関係ねえだろっっ!!!魔獣だろうが何だろうが、あんなに小さいだろうが…っっ!!!くそ…っっ!!よくも俺の腕を…っっ!!!!」
痛みよりも怒りが勝ったのか、あるいは痛みと怒りで理性が吹き飛んだのか、男は怒りに任せて黒虎に飛び掛かろうとする。冷静さを欠いた男の体を、だがもう一人の男がやはり狼狽えたように押し留めた。
「ま、待て……っ!!よく見ろ……っ!!!こ…こいつ……小さいけど……あれに似てないか……?」
「何だよ…っっ!!!!!?あれっ____…て……?」
自分を押し留める相方の手がわずかに震えている事を悟って、男は急激に興奮が冷めるのを自覚した。───いや、それすら通り越したように顔面蒼白となって、血が引いていく感覚が男を襲う。
これは、絶え間なく流れ落ちる失血の所為だろうか。あるいは─────。
相方の震えが自分にも伝染したのだろうか。
体の奥底から来る震えが止まらない。
それはおそらく目前にいる小さな魔獣が、決して触れてはならない畏怖の象徴だと気づいたからだろうか────。
「ま……まさか……あれ……っ!!!ヘルムガ─────」
男たちの言葉を遮るように、裏路地に清々しいほど凛とした指を鳴らす音が響く。瞬間、突風が男たちの周囲を取り巻き、驚くほど軽やかに二人の体を宙に持ち上げた。そうして指を鳴らす澄んだ音とは対照的に、低く仄暗い凍えるような冷たい声が路地に放たれる。
「____お前ら、リッカに何をした?」
その聞き覚えのある、だが聞いた事もないほど冷たい声音に、リッカは耳を疑った。
視界がぼやけて定かではない。仄かに見える、律と思しき人影。
だがあれは本当に、あの律だろうか────?
「…お……おい…っ!!!お前…っ、何をした…っっ!!!!?」
「お…下ろしやがれ……っっ!!!!」
「…黒虎、お前はそのままリッカを守ってろ」
男たちを見据えたままそう告げる律に、黒虎は了承を示すようにひと声鳴く。
騒ぐ男たちなど意に介さず、律は続けた。
「もう一度聞くぞ。リッカに何をした?」
「な……何だよ…?お、俺たちは何にもしてねえぞ…っ!!!」
「そ、そうだ…っ!!何かされたのは俺たちの方だ…っ!!!!よく見ろ…っ!!!俺の腕を…っ!!!!あいつに……っ、あの魔獣にやられたんだ……っっ!!!」
「…そうか」
短く言い放って、律はもう一度指を鳴らす。それに呼応して現れたのは、頭部と同じ大きさほどの、宙に浮かぶ円形に切り取られた水────。まるで見えない円形の入れ物に溜められたような水が、タプンっと音を立てて宙に二つ浮かんでいる。その不可思議な光景を、男たちは目を丸くして眺めていた。
「……な……何だよ、これ……?」
「これ…魔法……か?」
「…そ、そんなわけ、ねえだろ…っ!!だって……だってこいつ……っっ!!!詠唱なんて唱えてねえじゃねえか…っっ!!!!!!!」
もう、男たちの脳内は混乱を極めていた。
街中では決して見る事のないヘルムガルドの姿に続いて、得体の知れない男はそのヘルムガルドを従えているだけではなく、詠唱も唱えぬまま魔法と思しき事象を操り、殺気を多分に含んだ瞳でこちらを見ている。
蒼白になった顔と震えが収まらない様子の男たちに、その得体の知れない男はさらに酷薄な声音で冷たく言い放った。
「…知ってるか?人間と水は結合しやすい性質を持っているそうだ。こうやって無重力の状態で水に触れると体から水が離れにくく、張り付いたままになる。…もしその状態で顔に水がかかったら────…一体どうなるんだろうな?」
「ひ…っ!!?」
タプンっともう一度波打つ音を立てながら少しずつ距離を縮めるそれに、男たちはたまらず悲鳴を上げる。叫声ではない。小さいながらも恐怖を多分に含んだ、現状出せるだけの精一杯の声。逃げたくても宙に浮かんだ体は思うように動かず、虚しく空を掻くだけだった。
「…これで最後だ。もう一度聞くぞ?────お前ら、リッカに何をした?」
三度目の問いに、男たちはもう観念するしかなかった。
「す、すみません…っ!!!シラハ───い、いえっ!!その子供が異界の外套を身に付けていたので…っ!!!奪おうと…っっ!!!!」
「…それで?」
「け……蹴って……っ!!!!な……殴りかかろうと……っ!!!!」
「も、もうしません……っ!!!!その子には決して手を出さないと誓います……っっ!!!だ、だから─────!!!?」
男たちの言葉もそこそこに、律は三度指を鳴らす。やはりそれに呼応して、宙に浮かんだ体は急激に重力を纏い、そのまま三メートルほど下の地面に勢いよく落下した。地面に激突した部位をしきりに撫でながらようやく解放された事に安堵する男たちの前に、だが律は怒りと威圧を多分に含んだ形相で悠然と歩み寄った。
「…ひ…っ!!!」
顔面蒼白な男たちを尻目に、律は無言のままもう一度指を鳴らす。刹那、黒虎が深くえぐった傷跡の部位だけが唐突に燃え盛り、男は訳も判らず慌てふためき激しく取り乱した。
「あつ…っっ!!!!あちちちっっ!!!!や、やめろ…っっっ!!!!焼き殺すつもり…っっ────…………か…?」
人の肉が焼ける独特の嫌な匂いが立ち込める路地の中に、男の怒声と、次いですぐさま消えた炎と自身の体に残された焼け痕に、眉根を寄せた怪訝な声が響く。
「………血が……止まった……?」
「…とりあえず止血はした。荒っぽいとか言うなよ?してもらっただけ感謝しろ。───そしてよく覚えておけ。今すぐこの街から出て、二度と俺たちの前に現れるな。もし今後お前たちを見かけたら、どこであろうが問答無用でその命を奪うからな」
「は……はいっっっ!!!!!!」
そのまま蒼白な顔で倒つ転びつ路地を立ち去る男たちを見送って、律はすぐさま倒れているリッカに駆け寄った。
「リッカ……っっ!!!!!」
「………リツ……さ……?」
力なく横たわるリッカの体を慌てて、だができるだけ優しく抱き起す。
「リッカっっ!!!大丈夫か…っ!!?この馬鹿…っ!!!あそこで待ってろって言っただろうが…!!!!何勝手に動き回ってんだよっっ!!!!どれだけ心配したと思ってんだっっ!!!!」
「…………」
「………リッカ…?…リッカ…っ!!俺の声が聞こえるか…っ!!?」
何の反応もなく、虚ろな目でぼんやりとただこちらを見返すリッカの様子に、律の心は騒然となった。青ざめた顔に不安げな表情を作って、リッカの名を呼びながらその頬に触れる律の様子に、リッカは溺れそうなほど涙を溜めたその瞳を小さく細める。
「………リツさ……だ……!」
もう二度と会えないと思った、律だ。
捨てられたと理解しても、どうしても忘れられないと思った、律だ。
そして先ほど男たちに見せた酷薄な顔ではなく、いつもと変わらない、優しい顔の律だ。
それらの感情を短い言葉に乗せて、リッカは小さな声でそう呟く。泣き笑いと言えばいいのか、ひどく安堵したような朗らかな笑顔の中に止めどなく涙を流すリッカに、律は呆れと安堵を多分に含んだため息を落とした。
「……何だよ、それ…!まったく…!この馬鹿リッカ…!!」
「………ごめ…なさ……」
「ああ、もういいから喋るな…!すぐに医者に診てもらうからな…!もう少しだけ我慢─────」
言いながらリッカを抱きかかえて立ち上がった律は、だがふと気づいてその動きを止める。
「……いや、待てよ?魔法が使えるなら、癒しの魔法だって使えるはずだよな…?」
「…!」
癒しの魔法といえば、光の精霊と相場が決まっている。
律は立ち上がった体をもう一度その場にしゃがみ込ませて、リッカの体を自身の膝の上に置いた。
「……待…て……リツさ…!……光のせ…れいは……」
「待ってろ、リッカ。すぐに治してやるからな…!!」
小さな呟きに近いリッカの声が届かなかったのか、あるいはリッカを治す事に気が急いて聞き逃したのか、律は構わずリッカの少し上で手をかざして瞭然と告げる。
「光の精霊よ、傷を癒してくれ…!」
瞬間、リッカの体を眩い光が包み込んだ。
目が眩むような強い光。だけれども、それは刺すようなものではなく、ひどく温かい。
その温かく心地いい光に包まれながら、リッカは朦朧とした意識が次第に明瞭になっていくのが判った。それに伴って、全身を否応なく行進していた痛みも、波が引くように治まっていく。
─────これは疑いようもなく、癒しの魔法だろうか。
「……どうだ?リッカ。もう痛みはないか…?」
光が収まったと同時に、律は不安げな様子でリッカに訊ねる。
心がここにないのか茫然自失と自身の胸に手を当てる、リッカ。
治った事に驚いているのか、あるいはやはり痛みが治まらず意識が朦朧としているのか、その判断が律にはつかない。ただ明確に判ったのは、傷自体はどうやら綺麗に治っているという事だけだった。
返事を待つ律に、リッカはその信じられない光景をどうにか頭で整理しながら思わず告げる。
「…………リツさんってもしかして、聖女さまなんですか…!!?」
思わぬ言葉に律は理解が追い付かず、もはや言葉にできたのはこれだけだった。
「………………はい?」
**
「よろしかったのですか?シラハゼを───リッカをあの者に託しても」
結局あの後、リッカの連れという男の後を追うこともなく帰路に就いたカッティに、ザラは訊ねる。
カッティの決めた事ならば異論はないのだ。だがそれでも訊ねたのは、帰路に就いてからずっと険しい表情で考え込み、一言も発しないからだった。
問われたカッティは一度思案を止めて、後ろのザラを振り返る。
「…お前には彼が、リッカを心底心配しているように見えなかったか?」
「それは………」
見えなかった、とは言い難い。
だが演技に長けた者ならば、心配するフリなど容易いような気もする。
そう思って言葉を濁すザラに、カッティは続ける。
「私には見えた。だから行かせたのだ」
「…でしたら先ほどから何をお悩みに?」
「…………判らないからだ」
その返答に、ザラは小首を傾げる。
「……判らない、とは何がです?」
「…彼からは魔力が感じられなかった」
「…!?………魔力が……?」
カッティは魔力のみならず、目に見えない存在を感じ取る感知能力が他に比べてかなり高い。リッカの周囲に漂う透明化された魔法に気が付いたのも、ひとえにカッティのその能力が抜きん出ていたからだろう。魔力値を測る魔法具は存在するが、カッティの感知能力はそれに匹敵するほどその精度が高かった。そのカッティの言葉だからこそ、ザラは目を大きく見開く。
「……ですが、魔力を持たない者など存在するのですか……?」
「………少なくとも私は聞いたことがない。魔力が極端に少ない者はいるが、全く無いというのは初めてだ。………あるいは、私には感知しづらい性質の魔力なのかもしれないが………」
そうだとしても、カッティはやはり腑に落ちなかった。
彼にはそもそも、魔法を行使している様子がない。
あれだけの高度な魔法なのだ。心身ともに疲弊して然るべきだろう。魔力を消費するという事は、そういう事だ。
なのに彼にはその様子が一片たりともなかった。彼は疲弊しているどころか、あくまで自然体だった。平然と歩き、平然と駆けていった。どう考えても、彼が魔法を行使しているとは思えない。
「…そもそも魔法を行使している状態であれば、たとえ感知しづらい魔力であっても判るものでしょう?魔法行使中は周囲に魔力が満ちておりますから」
ザラの的を射た意見に、カッティも首肯を返す。
通常、体内に宿っている魔力は、魔法行使中だけ体外に放出される。それが精霊と契約を交わす代償だからだ。どれほど感知しづらい魔力であっても、魔力を全く感知できない、という事はまずあり得なかった。
だからこそカッティは、最初にまず自分の感知能力が枯渇したのかと疑った。だがあの男以外は変わらず、見え過ぎるくらい見える。だとすればこれは、自分の能力云々の話ではない。
「…では、リッカの周囲に張り巡らされたあの魔法は彼ではない、という事でしょうか?」
「………そこが判らないのだ」
カッティは悄然とため息を落として、困惑したように告げる。
「…確かに彼には魔法を行使している形跡はない。あの魔法は彼以外の誰かがリッカに施していると考えるのが自然だろう。だが────」
「…だが?」
考え込むように口を噤むカッティの言葉の先を促すように、ザラは復唱する。
「……彼の周囲に間違いなく感じたのだ。精霊の気配を────」
「…!」
魔法は、精霊と一時的に契約を交わす事で行使することが出来る。ゆえに魔法行使中は術者の周囲に必ず精霊の存在があった。
つまり精霊の存在を感じるという事は、魔法を行使しているという事─────。
「…不思議だろう?魔力を代償に精霊と契約を交わすというのに、彼には肝心の魔力がない。なのに彼の周囲には、精霊の気配が纏わりついている。…いったい彼は、何を代償に精霊と契約を交わしているのだろうな?ザラ」
カッティの問いかけに、ザラは言葉を失う。その問いに答えるべき言葉を、ザラは持ち合わせていなかった。思考を巡りに巡らせ、ようやくその場しのぎに過ぎない答えを返す。
「………ではやはり、カッティ様が感知しづらい特殊な魔力である────と……?」
「そう、またそこに戻る。…堂々巡りだ」
だからずっと考え込んでいたのだ。ずっと同じところをぐるぐると回っているようで、いい加減考えるのも馬鹿らしい。
カッティはうんざりしたようにそう言って、やはりうんざりしたように盛大なため息を落とす。そうして一呼吸置いた後、カッティの脳裏ににわかに浮かんだ、堂々巡りの思考から外れた考えをぽつりと呟いた。
「……あるいは、精霊が何の代償も求めず彼に力を貸している────か……」
「…!!?」
独白にも近いその呟きに、ザラはこれでもかと目を見開き、そうして苦笑を返す。
「…………そ……れはあまりに飛躍し過ぎでは…?」
「……そうか?……そう、だな…」
自分が落とした言葉を吟味しつつ、カッティは最終的にザラの言葉に同意を示した。それでもやはり考え込む仕草を見せるカッティに、ザラは呆れたように、やれやれとため息を落とす。
「それほど気になるのでしたら、レオスフォード殿下にご報告されては?」
「…!……そう、だな。…………いや、やめておこう。何にでも首を突っ込まれる癖がおありだからな…。これ以上面倒な事になってはたまらない」
不敬だと内心で思いつつ、ザラは言い得て妙だと苦笑を返した。
「…エルファス殿下の事もあるし、今は異界の旅人の件もある。不眠不休で動かれて倒れられでもしたら厄介だからな。殿下のお耳には決して入れるな」
「…では、彼の事は我々だけで?」
問われてカッティは、ちらりとザラを一瞥した。
正直、このまま見過ごしても構わない、とも思う。
結局調べたところで、『やはり感知しづらい性質の魔力だった』という答えが出る事は目に見えていた。どれほど奇異な事のように思えても、事実が判れば意外に大した事がないものだ。
そう思うのに見過ごすことが出来ないのは、カッティの身の内で見過ごすなと警告する声が絶え間なく響いているからだった。
見過ごしてはいけない。
見過ごせば取り返しのつかない事になる。
彼の存在の何かが、とても重要な事なのだ。
胸につかえるように、そう警告を繰り返している。
こういう時は、警告を無視すると手ひどいしっぺ返しが来る事をカッティは嫌と言うほど学んでいた。
カッティの返答を待ちながら、「放置しても問題ないように思われますが」と続けるザラに、カッティは意を決して告げる。
「杞憂ならばそれでいい。だがそうと判るまで、しばらく彼の動向を探れ」