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街のこと・三編

「あら!カッティ様!レオスフォード殿下がご無事に戻られたようで、よかったわね!」


 目の下のクマを理由にレオスフォードに帰れと言われたカッティは、自身の屋敷に帰る道中、幾度目かになるその声掛けに苦笑を落とした。


「……私はそれほどレオスフォード殿下の事ばかり気にかけているように見えるのか…?」


 うんざりしたように問うたその質問に、後ろに控えていた護衛騎士のザラ=ウィルフォードは内心で自覚がなかったのかと思いつつ、思うに留める。


「…きっとカッティ様の目の下のクマを見て、余程心配なさったのだろうと推測しているのでしょう」

「……………それほどひどいか?私の目の下のクマは」

「……………クマだけではなく、目も真っ赤に充血しておられるようにお見受けいたしますが……?」


 自分の状況を何一つ把握していないカッティに内心で呆れつつ、やはり思うに留めてザラは素知らぬ顔でそう返した。


 ────氷の国アレンヴェイル皇国では、他の国と違って貴族や皇族などの上流階級と民との距離が近く、その関係は意外に気安い。それは年中、雪で閉ざされているため、馬車が使い物にならないからだった。


 この国の移動手段は馬車ではなく、主にそりを使用している。だが、基本的に重い物を運ぶか長距離を移動する時以外は使用しないのが通例だった。ゆえに貴族でも、カッティのように徒歩で街中を歩く姿がそこかしこに見受けられた。それは、ここフリューゲルのみならずアレンヴェイル皇国内では当たり前の光景で、陽気で気安い国民性も相まって民たちは気後れすることなく自然に貴族や皇族でも声を掛けるのだ。


 この光景が世界から見てもかなり異質であるとカッティが知ったのは成人してから。むしろ民との交流を気に入っているカッティからすれば、何てもったいない、と嘆息を漏らしたことを昨日の事のように覚えている。


 そんなカッティでも、屋敷に着くまでにあと何回、同じ言葉を掛けられるのだろうと半ばうんざりしたようにため息を落として、重い瞼の目をこすった。一睡もしていなかったツケが今さらやって来たのか唐突に訪れた眠気を振り払うため、そうして二、三度、目をこする。こすりながら中央広場に足を踏み入れたカッティは、その寝ぼけ眼の視界に何やら雪とは違う白い物がぼんやりと見えたような気がして、目を大きく見開いた。


「……あれは……?」


 一瞬リシュリットのように見えた、その白いもの────。だがリシュリットよりもずっと小さなそれに、カッティは眉根を寄せた。


「……ザラ。シラハゼがいるように見えるが、私の気のせいか?」

「…!……いえ、私にもシラハゼがいるように見受けられますね」


 それも、かなり幼い。

 不安げに身を小さくして途方に暮れたように佇む、小さなシラハゼ。だが、そのシラハゼが身に纏っている外套が見覚えのない珍しい形状であった事に、カッティはなおさら怪訝そうな表情を作った。


「………ずいぶんと珍しい外套だな」

「…おそらく異界の物でしょう。異界の物を専門に扱う店で似たような物を拝見した事がございます」

「…ザラは異界の物を買った事があるのか?」

「まさか!異界の物は質が良く珍しいため非常に高価です。一介の騎士がおいそれと手を出せる代物ではございません」


 なら、あの幼いシラハゼは貴族か、あるいは裕福な家の子供なのだろうか?

 思ってカッティは、心中でかぶりを振った。


(……にしては、身なりが質素すぎる……)


 高価と呼べるものはその外套だけ。靴は穴だらけで薄汚れ、その外套から見える足首からは服らしい服が見留められず、見るからに寒々しい。その姿からは貴族と言うよりもむしろ、貧困層の子供のように思えてならなかった。


 ────なのに、高価な異界の外套を身に付けている。


 その矛盾が、嫌に鼻について仕方がない。


「……盗品、でしょうか?」


 カッティが何に対して怪訝な顔を向けているかを悟って、ザラが口火を切る。それにはカッティはすぐさまかぶりを振った。


「……いや、シラハゼは盗みを働いたりはしない。たとえあの異界の外套が盗品だったとしても、あのシラハゼがそれに関わっている事はまずあり得ない」

「…ですよね」


 シラハゼはとにかく善意の性質が強い。決して悪事に手を染める事はなく、心が清らかで情に厚い事は誰もが知る事実だ。だがそれゆえに利用される事も多々あった。頭が切れる反面、人を疑う事を知らず、嘘を信じて悪事と知らず手を貸す事も、そしてその情け深い性質を利用しようとする輩も多かった。


(……あの子も、たちの悪い者に使われているのか……?)


 あれほど幼いのだ。どれだけ怜悧れいりであっても善悪をしっかり学ばなければ、どういう行いが悪事に当たるのかも判断できないだろう。何よりあの幼子を見る限り、しっかりとした教育を受けさせているようには到底思えなかった。カッティはそう判断して、一度止めた足を幼いシラハゼに向けて進ませた。


「…とにかく、我々が保護するに越したことはない。あの服装では凍えてしまう」

「はい」


 カッティの言葉に同意を示して、ザラも追従する。


 ザラは、カッティの意外に人が好いところを気に入っていた。

 口うるさいわりに少し抜けてはいるし、自覚のないレオスフォード第一主義に呆れる事もあるが、それも含めてザラはカッティを信頼し、尊敬もしていた。今回も、通常なら見過ごされがちな些細な事に自ら進んで首を突っ込もうとしているカッティに半ばお人好しだと呆れつつ、それが出来るカッティに、彼の護衛騎士として誇らしい気持ちが溢れていた。

 その幼いシラハゼの、見るに堪えない姿を己の視界に留めるまでは────。


 遠目からでは判らなかった、幼いシラハゼの状態。近づくにつれ、外套から見える首筋や足首はあまりに痩せ細り、痛々しい傷跡や痣が無数に見受けられた。それは明らかに虐待と呼べるものだろう。


 二人はそう確信して、不快気に眉間にしわを寄せながら互いに目を見合わせ、ひとつ頷き合う。そうして出来るだけ怯えさせないよう、温和な声を努めてカッティが声を掛けた。


「…こんにちは」

「…!」


 想像通り、ひどく怯えた瞳を二人に向けて警戒するように小さな体をさらに小さくする幼いシラハゼの姿に、二人の胸は疼く。カッティは威圧感を与えないように、その幼いシラハゼの目線に合わせるよう、その場に膝をついた。


「…怖がらないでください。私たちに貴方を傷つける意図はありません」

「…………」

「私はここフリューゲルの執政補佐官、カッティ=ラングドシャーと言います。こちらは私の護衛騎士のザラ=ウィルフォード。…貴方のお名前を伺っても?」


 補佐官、と小さく口の中で反芻しながら、シラハゼは少し躊躇いがちに口を開いた。


「………リ…リッカ」


 小さな声でぽつりとそう呟くシラハゼは、なにやらひどく面映ゆそうだ。まるで名をたずねられた事が嬉しそうなその様子に小首を傾げつつ、カッティは言葉を続ける。


「リッカ…いい名前ですね。…ではリッカ、こんな所に一人でどうしましたか?連れはいないのですか?」

「………ここで待つように言われて……」

「…こんな寒空にそんな恰好で?」


 思わず眉根を寄せたカッティに、リッカは体を強張らせる。怯えさせたことを自覚して、カッティは慌てて取り繕うように弁明を始めた。


「ああ…!いえ!貴方に対して怒っているわけではありませんよ…!ただ、これほど寒いのに─────」


 そこまで告げたところで、ふと気づく。

 このシラハゼの周囲はやけに暖かい。

 それに気づくと同時に、カッティは彼の周囲を取り巻く存在に気がついた。


「………これは……魔法……?」

「………え?」


 カッティに言われて、ザラも気付く。彼を守るように周囲を漂う、炎と風の魔法。それはこの寒さから彼を守るための魔法である事は明らかだった。

 それも二つの属性を同時に、かつ周囲に気づかれぬよう透明化まで施された、高度な魔法────。


「…これほど高度な魔法を扱える者は、宮廷魔法士の中でも数えるほどしか存在いたしません。一体、誰が……?」


 思わず感嘆するザラの言葉に、カッティも同意を示すように首肯を返す。


「……この魔法は貴方が?」


 それには無言のままリッカはかぶりを振る。それでなおさらカッティは怪訝な表情を深めた。


(……では、この魔法は誰かがリッカに施したもの………)


 それも明らかに彼を守るという意図があっての事だ。


 これだけの魔法を行使するには、相当な魔力と労力が必要になる。術者の体にはかなりの負担が強いられるだろう。それだけの魔法を、たかが利用するという目的のためだけに彼に施すとは思えない。この魔法は、明らかにリッカに対する慈しみと愛情が見て取れた。


 なのに、彼はどう見ても虐待を受けている─────。


 その矛盾が否応なく心に引っかかり、カッティは彼を保護すべきかどうか判断が付けられずにいた。しばらく思案するように黙した後、カッティは意を定めたのか後ろに控えるザラを振り返った。


「…ザラ、リッカの代わりにここでリッカの連れという人物を待っていてくれるか?」

「…!」


 その言葉にザラ以上に目を丸くしたのは、他ならぬリッカだった。


「リッカ、ここは寒い。ひとまず私の屋敷で待ちましょう」

「…!だ…大丈夫です…っ!!僕、寒くありません…!!!」

「…そんなに怯えないでください。最初に言った通り、我々に貴方を害する気持ちはありません。ただ…ここは寒いですし、貴方の身なりは嫌でもよく目立つ。…貴方のお連れの方ともお話がしたいですし、怪我の手当てもしたい」

「…!?」


 カッティの言葉に、リッカは恥じ入るように慌てて怪我を隠すように身を縮こまらせる。それがいかにも虐待されている自分を恥じて隠したい気持ちが見て取れて、カッティとザラはなおさら憐憫の情を抱いた。


「…リッカ、貴方が恥じる必要はありませんよ。…大丈夫、リッカは何も悪くはない」

「…………」

「…私の屋敷で待っていれば、すぐに貴方のお連れの方とも会えます」

「……で…でも…っ!ここで待ってろって言われたんです…!絶対に…!知らない人にはついて行っちゃダメだって…!!!」

「……貴方を心配しているんですね。それなのに、幼い貴方をこんなところに一人置き去りにしたのですか?」

「…っ!」


 卑怯な言い方だとは思う。

 これは間違いなく、幼いリッカを傷つける言葉だ。


 理解してはいるが、虐待を受けているその小さな体を見る限り、彼を保護している人物を見定める必要があった。

 リッカの態度を見ていれば判る。彼は自分を保護してくれている人物をひどく信頼しきっているようだった。虐待を受けている子供は総じて、それでも相手に対する信頼と依存の態度を崩さない。特にリッカはまだ幼い。誰かの庇護を必要とする年齢だ。捨てられることを何よりも恐ろしいと感じてしまう。その恐怖から相手に服従しなければという心理が働いて、それを信頼と勘違いする場合が多い。


(…もし今現在リッカを保護している人物が虐待を行っているのであれば、一旦距離を取るのが最善だろう…)


 だからこそ、カッティはリッカの心に疑念の種を蒔くことにした。

 気の毒だが、これが後々リッカのためになる────そう、カッティは判断したのだ。


「…安心してください、リッカ。お連れの方とはすぐに会えますよ。ザラがここで待っていてくれますからね」

「ええ、お連れの方がお戻りになれば、すぐ屋敷にご案内します」

「……で……でも……」


 カッティだけではなくザラまで加わって、リッカは目に見えて困惑の色を強くする。


 シラハゼは総じて押しに弱い。自分の意に反する事でも、強く押されれば否とは言えなくなる。それを利用して、カッティたちは最後のひと押しをした。


「…さあ、私の屋敷に行きましょう。…ザラ、後は頼む」

「はい」

「…!だ…だけど……!」


 半ば強制的にリッカの腕を取り、カッティは立ち上がる。その幼い体を容易く持ち上げて否応なく連れて行く事も出来たが、さすがにそこまで強硬手段に出る事ははばかられた。なので今度は聡いシラハゼに相応しく、筋道を立てて彼の得心を得る事に決める。


「…リッカ、判ってください。我々は貴方を保護する義務があるのです」

「………え?」

「貴方はシラハゼでしょう?」

「…!!?」

「シラハゼは何よりも尊く貴重な存在です。そのシラハゼである貴方が、このように痛々しい姿でいる事は許されません。だから─────」

「違います…っっ!!!僕はシラハゼなんかじゃない…っっ!!!!!!」


 唐突にそう叫ぶリッカの表情は、顔面蒼白で今まで以上に怯えているように見える。そんなリッカの様子に思わず目を瞬いて茫然とするカッティの隙を突いて、リッカは掴まれた腕を力任せに解き、すぐさま勢いよく駆け出した。


「…!!?リッカ…っ!!!待ってください…!!!!」


 腕を掴もうと伸ばしたカッティの手は思惑とは違って宙を掻き、瞬く間に遠ざかるその小さな背を、カッティはなす術もなく視界に入れた。


 ────あと、もう少しだった。

 あともう少しで、彼を懐柔して屋敷に連れて行くことに成功するはずだった。

 なのに、急激に彼の態度は硬化した。

 その原因は、火を見るより明らかだろう。


 なぜリッカが『シラハゼ』と言う言葉にあれほどの拒絶反応を見せたのか────その疑問の答えを見出す暇もなく、カッティとザラはリッカの後を追いかける。だがどれほど探しても、あの小さな背を見つけることはできなかった。


**


「思ったより収穫があったな、黒虎こっこ


 広場へと向かう道を進みながら、律は自身のフードの中から購入したばかりの肩掛け鞄の中にその居場所を変えた黒虎に声を掛ける。同意を示すようにクオンとひと声鳴く黒虎に、律は満悦な顔にくすりと笑みを落とした。


 当初、律は十万リラほどに換金できれば上々だと思っていた。リッカから聞いた相場を考えれば、これがリッカと二人、この国で生活の基盤を作るのに十分な額だと判断したからだ。


 律は広場を出てすぐさま異世界の物を取り扱う店がないか尋ね回った。異界の旅人に好意的な国なら、きっとあるはずだろうと踏んだその店は、予想通り苦も無く見つけることができた。


 だがその店に入り、まず困ったのが店内の異世界の物の値段が判らない事だった。


(………………何て書いてんだよ、これ……?)


 値札らしきものは確認できたが、如何せんそこに書かれた文字が読めない。物語によっては異世界に訪れた主人公には自動翻訳機能がついていたりする事がある。言葉が判るのだから文字も当然読めるだろうと抱いた期待は、どうやら儚く散ったようだった。


 結局、異世界の物の相場が判らない律は、苦肉の策で自分から金額の提示をする事をしなかった。ただ売却の意思だけを伝え、こう続けた。


「あんたならこれに、いくらくらい出せる?」


 そう言ってまず店主の前に置いたのは、律の持ち物の中で文句なく一番高価な腕時計だ。いわゆる高級時計で、律の人生の中でも唯一無二のお宝だった。上手くいけばこれだけで十万いってくれればと思ったそれは、律の予想を裏切ってとんでもない額を提示される事になる。


「…!こりゃあ……!すごい代物だな…!クォーツじゃなく自動巻き腕時計かい…!しかも裏スケで中のカラクリが見える…!こんなに小さくて精巧な時計は見たことがない…!!」

「…………なかなか通だな、おっさん」


 どう考えてもこの世界にクォーツ時計も裏スケという言葉もなさそうなのに、一体どこから仕入れてきた知識なんだと半ば呆れたように律は返す。ちなみに裏スケとは裏スケルトンの略で、腕時計の裏蓋が通常の金属ではなく硝子張りの裏蓋になって中の歯車が見られる仕様になっている腕時計の事だ。


「クォーツ時計は電池が必要だけど、自動巻きなら半永久的に使える。電池のないこの世界じゃ自動巻きの方が需要があるだろ?」

「ほお…?お前さんも若いのに、なかなかの通だな」

(…………そりゃあ、俺んとこの世界の物だからな)


 そう呆れたように内心で突っ込みを入れつつ、律は店主にたずねた。


「…で?いくら出せるんだよ?あんまり安いと売らねえからな」

「んー……そうだな……これでどうだ?」


 言って店主が示したのは、広げた手のひらに立てた人差し指をあてがう仕草────つまりは『六』という数字だ。


(…………六万………か?)


 あえてそれを口には出さず、律はこう切り返す。


「…………もっと上だ」

「何…っ!?六十万でも不満か…!!!?」


 心中で『六十万…!?』と叫びつつ、それをおくびにも出さず律は何とか涼しい顔を取った。


(………あっぶねー…っっ!!!…六万って口に出してたら捨て値で買い叩かれてたな………)


 こういう事があるから、値段交渉は気が抜けないのだ。

 お互い利を得たいからこそ、腹の中を探り合い相手の足元を見ようとする。だから律は、この場にリッカを連れてくる事を躊躇った。幼い子供がいる事を悟られれば、必ずそこを突いてくる。足元を見られて相場よりも安い値段で買い叩かれるのだ。今元手になるのは、手持ちの物だけ。新たに入手する事は出来ない。それを最大限に生かして多くの利を得ようと思うのならば、決して弱みを見せてはいけないのが値段交渉の鉄則だった。


 律は冷や汗を隠しつつ、渋い顔をする店主ににやりと笑ってみせた。


「どうせ倍以上の値段で売るつもりなんだろ?買値を上げても十分な利益が出るはずだ。…どうする?嫌なら他に持ってくけど?」


 そうして上げに上げて、最終的に九十八万リラで収まる事になった。腕時計のみならず、そうやってリュックやその中身を売りに売りさばいて、得た資金は二百飛んで三十と一万リラ。リッカから聞いた相場から鑑みるに、現代日本の通貨に換算すると、約二億円といったところか。この世界ではちょっとした───いや、十分なほどの小金持ちだろう。


 その資金を元に、律は自分の靴と服一式を相場以下で、リッカの物は相場以上で購入した。総額は約五百リラ。中でも一番の掘り出し物は、黒虎の新たな居場所となった肩掛け鞄だろうか。


「………魔獣の革で作られた鞄?」

「ええ…!中をご覧いただければ判るかと存じます…!!」


 言われて開いたそこには、黒虎と同じく光すら吸収するほどの、闇をくり貫いたような漆黒が広がっていた。まるで鞄の中にどこまでも続く穴がぽっかりと開いたような気分がして、律は若干引き気味に呟く。


「………うわあ………魔獣の黒だな……」

「その通りでございます…!この鞄、外は普通の革を使用しておりますが中は珍獣と名高いあのショールの革を使用しておりまして!!空間移動を得意とするショールの革で鞄を作ると、入れた物が虚無空間に送られて際限なく物が入る仕様となるのです…!!!」

「…………四次元ポケットか」

「?…ヨジ……?」

「…………いや、こっちの話」


 やたらと興奮した店員の怪訝そうな顔に苦笑を送りつつ、律は続ける。


「……その…虚無空間…?ってのは、いきなり閉じたりはしないのか?中に入れた物が戻ってこないなんて事になったら困るんだけど?」

「心配には及びません…!!ショールは個々に独自の虚無空間を所持しております。それはショールが死を迎えても永続的に保有されたまま。最古の虚無空間は六千年ほど前に作られたもので今も問題なく開いております!!お客さまが生きておられる間は決して閉じる事はないかと!!」

「………ふーん」


 にわかには信じがたい話だが、確かに鞄の中に手を入れると際限なく奥まで腕が入る。何より魔獣の革で作られているためかぶせを被せると中が暗く、黒虎を隠すのにおあつらえ向きだった。そしてかなり丈夫で、反面軽い。これは今一番欲しい物ではないだろうか。


「…ちなみにこれ、中に生き物を入れても差し障りはないのか?」

「ええ、もちろんでございます…!!虚無空間は人さえ入る事も出来ますから!!」

「…値段は?」


 その質問が律の口から出るや否や、店員の態度は急にがらりと変わった。


「それが……これはかなり貴重な品でして……。何せショールは空間移動を得意とする魔獣。なかなか捕縛できない珍獣中の珍獣で─────」

御託ごたくはいいから」

「……お客様に払えますかどうか…」

「いいから言え。いくらだ?」


 冷たい目線を店員に送ったのは、この店員の思惑を律は悟ったからだ。

 自慢げに品物を説明しながら、値段を聞かれると途端に態度が急変してこの品物はやめた方がいいと手のひらを返す店員は、基本的に客を馬鹿にする事に生きがいを持っていると相場が決まっている。客の物欲を最大限まで引き上げた後、破格の値段を告げて悔しがる客の顔が見たいのだ。


(…くだらない)


 律は内心でそう吐き捨てて店員の返答を待った。そうとは知らず、店員は残念がる素振りの中にほくそ笑むような嘲笑を交えて告げる。


「……二十五万リラとなります」

「買った」

「…そうでしょうとも…!!お客様の手持ちの資金では─────って………はい?」

「だから買うって言っただろうが。俺が持ってたリュックの売値より安いなら、買いだろ?」


 そう言ってにやりと笑う律に茫然と目を丸くした店員の表情を思い出して、律はくつくつと笑みを落とした。


「どうだ?黒虎。新しい鞄の居心地は?」


 クオンっと快活に返答してかぶせの隙間から顔を出す黒虎は、ひどく嬉しそうだ。それを肯定と理解して、律は黒虎の頭を小さく撫でる。


 律の手元に残ったのは、律が着ていた服と携帯電話スマホ、そしてリッカが気に入っていたシリアルバーだけ。後はもう清々しいほどに綺麗さっぱり売り払った。その代償が、二百万と少しのお金────悪くはない。


 律は想像以上の収穫に自然と笑みを零しながら、足早にリッカが待つ広場へと向かった。


「早くリッカのところに戻ろう、黒虎」


 リッカの喜ぶ顔を想像しながら、律は広場へと足を踏み入れる。嬉々とした律の顔は、だがすぐさま頭をもたげた不安によって険しい表情へと様変わりする事になる。


「………………リッカ?」


 小さく呟くように名を呼んだ律の言葉に、答えるものはない。

 胸の内に広がる不安と焦燥感で、次第に鼓動が早くなるのが判る。

 周囲を見渡してもその小さな影を見つける事は出来ず、律は焦りの中で必死に記憶に残ったリッカの姿を探した。


「…リッカ…!!!!どこだっっ!!!!リッカっっっ!!!!!」


 広場を離れる前、不安と寂寥せきりょう感に押し潰れそうなほどに小さく背を丸めたリッカの姿────。

 後ろ髪を引かれたその姿は、だがここに戻ってくれば花が咲きこぼれるような笑顔を見せて駆け寄ってくるだろうと、何の疑いもなく思っていた。

 なのに、その小さな姿は広場のどこにもない。


 迂闊だった、と律は今更ながらに思う。

 リッカはどう見ても、親から虐待を受けていたはずだ。大人が怖くないはずがない。律を怖がらなかったのは、ヘルムガルドから助けてもらった事と、その外見が実年齢よりも若く見えるからだろう。律を大人という認識で見ていなかった事を失念していた。


 そうして、この広場で寒々しい姿で立っていれば、嫌でも大人からの注目を集め声をかけられるであろう事を、律は失念していたのだ。


「リッカ…っっ!!!!どこにいる…っっ!!?リッカっっ!!!!」


 リッカの名を叫びながら、律は考える。

 リッカがこの広場から逃げる先は、きっと自分が進んで行った道だろう。リッカは聡い。そしてリッカが逃げる場所は自分の所しかないのだ。


 思って来た道を戻ろうとする律の背に、思いがけずかける声があった。


「……シラハゼの……!…あのシラハゼの幼子の…!お連れの方ですか…!?」

「……?……シラハゼ……?」

「リッカの…!!」

「…!」


 思わぬ言葉に振り返った律の視界に入ったのは、貴族とおぼしき身なりの良い男と、その男を護衛していると見られる騎士の男。そのどちらもがひどく走り回ったのか、この寒さの中汗だくで息も弾んでいるように見えた。


「申し訳……!ございません…!……我々が不用意に声をかけたばかりに、逃げてしまって…っ!!」

「どっちだっっ!!!?」


 身なりの良い男の言葉もそこそこに、律はその男の胸ぐらを掴む。もうなりふり構ってはいられなかった。


「リッカはどっちに逃げたっっ!!!?」


 酷い剣幕で問い詰めようとする律と貴族の男の間に慌てて割って入ろうとした騎士を、その貴族の男は目線で押し留めて答える。


「あちらに…!」


 想像した通りの道を指し示す男の胸ぐらを離して、律はすぐさま踵を返してその道を駆け出した。


「黒虎…!リッカの匂いを辿れるか…!?」


 それには任せろとばかりにひと声鳴いて、黒虎は鞄から飛び出し律を誘導する。


 黒虎を見れば騒ぎになるだろうか。

 思ったが、そんな事など構ってはいられない。


 律は黒虎に導かれるまま、リッカのもとへと急いだ。


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