街のこと・一編
「黒虎の脚だと一瞬だな」
そう言って黒虎の背を降りたのは、北に位置する氷の国アレンヴェイル皇国へと続く森の出口での事。
『一瞬』と比喩したが、実際に黒虎の背に跨っていたのは一時間と少しの間。だがリッカ曰く、魔獣の森の端から端まで人間の足で休まず歩けば二十日は掛かると言うのだから、一瞬と言ってもいいだろう。
律は黒虎の背に取り残されたリッカを抱きかかえて下ろしてやると、目前に広がる銀世界に視線を移した。
氷の国アレンヴェイル皇国────。
その名に相応しく、見渡す限りの雪景色が続いている。その雪原の遥か向こう側に、かろうじて街らしき建物の一端が見て取れた。普通なら、きっとそれほど苦ではない距離なのだろう。だがこの状況でこれだけの距離を進むことは、至難の業のように思えた。
「……………少なく見積もっても一メートルは積もってるよな…?」
そう断言できるのは、魔獣の森とアレンヴェイル皇国の境界線ではっきりと積雪の有無が分かれているからだ。
北に向かえば向かうほどその気温は低下し凍えるような空気が肌を刺したが、森の中で雪を見ることはなかった。だが森の終りが見えた途端、そこにあったのはまるで見えない壁があるかのように断崖絶壁に降り積もった雪だった。その高さ、おそらく一メートルと少しほど。
その不思議な光景に、律はたまらず感嘆のため息を落とした。
「…不思議だよな。森の中には雪が降らねえのか?」
「この雪は氷の精霊がもたらした雪ですから、氷の精霊の恩恵が与えられたアレンヴェイル皇国にだけ雪が積もってるんです」
「…なるほど。ちなみに氷の精霊の恩恵がないと雪は降らないのか?」
「…?…はい、ここは氷の精霊の恩恵を受けた土地だから雪が降りますけど、例えば炎の精霊の恩恵を受けた土地では一年中熱帯の気温で雪は降りませんし、雨が降るかどうかは水の精霊がその土地に多く集まるかどうかで決まります。でも時々、上空を氷の精霊が渡る時があって、そんな時はアレンヴェイル皇国に限らず雪が降る事もありますよ。……とても稀ですけど」
「へえ…天気も精霊任せなんだな、この世界は」
「リツさんの国は違うんですか?」
「自然任せだよ。誰も干渉できない。多分、神様でも」
「へー…ずいぶんと違うんですね、この世界とは」
「…そうみたいだな」
お互いくすりと笑って、もう一度雪景色を視界に入れる。普通の雪とは違って妙に温かみがあるように思えるのは、精霊が作り出した雪だからだろうか。
そう思った律と同じ事を思ったのか、リッカもぽつりと呟くように感嘆の息を漏らした。
「…でも、不思議です。僕、雪って初めて見ましたけど、何でこんなに暖かいんだろう?アレンヴェイル皇国はとても寒くて、雪は氷のように冷たいって本に書いてあったのに…」
「…!」
そこに至って、リッカが何を不思議に思っているのかを律は悟る。
言葉と同時に落ちる呼気が白くなるところを、気温はかなり寒いのだろう。にもかかわらず、凍えるような寒さはない。リッカは薄い襤褸の上にジャンパーを羽織っているだけ、律に至ってはただのパーカーだ。普通ならば身を切るほどの寒さに苛まれるだろうに、それがない事を不思議に思っているのだと悟って、律は他ならぬ自分がその原因を作っている事に、苦笑を返した。
「あー…、多分それはこれの所為だな」
言って、律はスッと空気を撫でるように手を小さく横に振った。それに合わせて姿を現わしたのは、律たちの周囲を螺旋状に回る炎の渦と、その炎の周りをさらに螺旋状に回る風───。明らかに魔法であるそれを視界に留めて、リッカは目を白黒とさせた。
「これは…リツさんの魔法…?」
「あったかいだろ?炎と風の精霊に頼んで温風を作って空気を温めてもらってるんだよ。…俺たちの周囲にだけな」
「…!……いつの間に……」
言ってみれば簡易的なエアコンだろうか。それもひどく局所的な。
密閉空間ではないので、さすがに全く寒さを感じないとまではいかないが、それでも何もないよりはずいぶんとましだろう。それを証明するように、律は指をパチンと鳴らす。
「ちなみに、ないとこんな寒さだ」
「…!?さ、寒い…っ!!」
「だろ?」
急激に身を切るような寒さが襲って、リッカはたまらず寒さで震える肩をすくませる。そんなリッカに苦笑を落としつつ、律はもう一度指を鳴らした。すぐさま再び螺旋を描く炎と風の魔法が姿を現わし、次いで横に小さく振った律の手に呼応するように、魔法はまた空気に紛れるようにその姿を隠す。
リッカはそれを再び目を白黒とさせて眺めていた。それは律が自由自在に魔法を操っている事ではない。それ以上にリッカが驚いたのは、律が何も言葉にしていない事だった。
「……凄い…!何も言わなくても魔法が使えるんですか?」
「ん?ああ、精霊と最初に取り決めを作ったんだよ」
「…………取り決め……?……ですか…?」
意を得ず小首を傾げて眉根を寄せるリッカに、律は首肯を返す。
「そ。例えば、指を鳴らすと魔法の発現と消失、手を横に小さくスライドさせると、視覚化と透明化──ってな具合だな。今はまだこの二つだけだけど、そのうちやる事が増えれば、手振りだけで魔法が自由に使えるようになるかもな」
実演を交えながらそう言って笑う律を、リッカは驚嘆のあまり言葉を失って呆然と見返した。自分の行為がこの世界でどれだけ異端で常識外れな事なのか全く理解していない律は、そんな動揺とも取れるリッカの様子に怪訝そうな顔を向ける。
「…?リッカ?どうした?」
「………いえ……リツさんといると、この世界の常識がどんどん覆っていくので……」
「…?そうか?…まあ、常識なんて覆すためにあるようなもんなんだから、気にするだけ無駄だぞ?」
そうさらりと言ってのける律に、リッカはもはや驚嘆を通り越して半ば呆れたように苦笑を落とした。
そもそも詠唱を唱えずに魔法が使える事だけでも異常な事なのに、律は更にその上をいったのだ。言葉すら必要とせず身振り手振りだけで魔法を扱うなど誰が想像できるだろうか。それはつまり、本来必須事項であるはずの精霊との契約を交わしていない、という事に他ならない。なのに、魔法が使えるのだ。
魔獣である黒虎を従えた事といい、律の周囲ではこの世界では絶対に起こらないとされていた事が次々と起こる。そういう意味では、律が覆しているのは常識ではなく自然法則と言ってもいいかもしれない。そして彼だけが、この世界の自然法則を無視できるのだ。
それは果たして、彼がこの世界の住人ではない『異界の旅人』だからだろうか───?
そう心中で思案しつつ、リッカは心に決める。
(……もうリツさんの事で驚くのはやめよう…)
彼はきっとこの先も、無自覚にこの世界の自然法則を無視し続けるのだろう。その度に驚いていては正直身が持たない。
そう諦めにも似た心境で人知れずひとりごちるリッカを尻目に、律は降り積もった雪を視界に入れてため息を落とした。
「…さて、これどうすっかな?」
「…!…雪…ですか?」
「雪の中を突っ切るわけにもいかねえだろ」
「それは……そうですね…。……雪の上には乗れないんですか?」
「…まあ、無理だろうな」
言いながら、律は雪を手に取る。触ればさらさらと落ちる粉雪だ。粉雪は水分を含んでいない分、軽く柔らかい雪質だが、反面、圧力をかけても固まりにくく積もった粉雪の上に立った時、深く沈んで身動きが取れなくなる恐れがある。かんじきのような物があれば沈まず歩くこともできるが、さすがに手持ちはないし代わりになれそうな物もない。特に小さなリッカは、この雪から顔が出るかどうかという背丈だ。律が沈めば身動きが取れないで済むが、リッカが沈めば呼吸が出来ず命に関わる事になる。
雪の中を突っ切る事もできない。
上に乗って歩く事も無理。
────となると、選択肢はもう一つしかない。
「いっそのこと溶かすか、これ」
「……え?雪を…ですか…?」
「それともまずいか?氷の精霊が作った雪を魔法で溶かすのは」
「……い、いえ……それは大丈夫ですけど……でもこれを溶かすには相当な魔力が必要に────」
「よし、問題ないなら溶かすぞ」
リッカの言葉を最後まで聞くことなく被せるように告げて、律はすぐさま指を盛大に鳴らす。澄んだ音が雪原に甲高く響いた途端、まるで地が割れ裂け目が浮き出るように、一瞬の内に雪が溶けて街まで続く一筋の道が目前に現れた───その我が目を疑う圧巻の光景を、リッカはやはり茫然と視界に留めていた。
「おお…!まるで綿菓子がお湯に溶けるみたいで見てて気持ちいいな!……ん?どうした?リッカ。さっきからおかしいぞ?」
まるでモーセの十戒の海割りを再現したかのような光景に浮かれる律とは裏腹に、頭を抱えるように額に手を当て、感嘆とも嘆息とも取れるため息を落とすリッカに、律はやはり訝しげな顔を向ける。
「………いえ……常識を捨てるって意外と難しいんだなあ…って思って……………」
「…?小さいのに変な事考えるんだな?」
この世界の常識がない律には、理解しろという方が難しいのだろうか。
驚かないと誓ったすぐそばから、やはり驚嘆してしまった自分に苦笑を送りつつ、リッカは諦観を込めてそう心中で零した。
「…さて、じゃあ行くか」
「あ…はい!」
何やら自嘲気味な苦笑を落とすリッカを促して、律は作られたばかりの道を一歩進む。その足を一度止めて、律はそのまま後ろを振り返った。
「黒虎、ここまでありがとな」
「……………え?」
まるで別れを告げているような律の言葉に、リッカは目を見開いた。見れば黒虎も驚きのあまり、その双眸を大きく見開いている。
「……ま、待ってください…っ、リツさん…!!!コッコを置いて行くんですか…!!?」
「だって仕方がないだろ。黒虎を連れて街を歩けるのか?」
「…!?そ……それは……大騒動になりますね………」
「…だろ?」
あのレオスフォード率いる騎士たちでさえ、黒虎を見てあれだけ狼狽えたのだ。ただの街の住人が黒虎を受け入れるとは到底思えない。黒虎を連れて行けば大騒動になるだけではなく、これから先、律やリッカでさえ街に入る事が出来なくなる可能性だってある。それだけはどうしても避けたい事態だった。
「…悪いな、黒虎。本当は連れて行きたいんだけど、そういうわけにもいかねえんだよ」
クオン、と寂しげに鳴く黒虎の様子に、後ろ髪を引かれて仕方がない。いかにも離れ難いと訴えるように顔をすり寄せて来る黒虎の頭を、律は優しく撫でた。黒虎の首回りを一度強く抱きしめて、そうして引かれる後ろ髪を断ち切るように、律はすぐさま踵を返す。
「…行くぞ、リッ────っ!!!?」
一歩踏み出したはずの律の足が宙に浮かんだのは、立ち去る律のパーカーのフードを誰かが強く引いたからだ。誰が奮闘したかは明白だろうか。
「こ…黒虎…!?離せって…!!仕方ないだろ!?連れてけないもんは連れてけないんだよ…!!」
律の怒声に不承不承と従うように、黒虎は咥えたパーカーのフードを離す。あまりにあっさりと素直に離してくれたことに驚きつつ、律はため息を落として仕切り直すようにもう一度踵を返した。
「…必ずまたすぐに会いに来るから。それまでは元気でな、黒虎」
そう別れを告げた律の背に、クゥーン…とか細く寂しげな鳴き声がひとつ。律が足を踏み出す度、しきりに鳴き声を上げるところを見ると、どうやら物理的行動はやめて情に訴える事に決めたらしい。その、いかにも律の罪悪感を刺激する黒虎に、さしもの律も折れるしかなかった。
(……飼い犬を捨てる時ってこんな気持ちなんだろうな)
いや、むしろよくこの状況で置いて行けるものだと律は思って、諦観のため息を大きく落とす。
「……参ったな、黒虎を連れて街に入れる方法────あるか?リッカ」
「え…!?……そんな方法、姿を消すくらいしか……」
「姿を消せるか?黒虎」
それには悄然と項垂れて頭を振る。
「んー……あとは…そうだな。小さくなる、とか?」
言った律の言葉に、黒虎は大きく反応する。双眸を煌々としたかと思うと、遠吠えをするように口先を真上に上げた。遠吠えをしたわけではない。出たのは鳴き声ではなく、黒い煙のようなもの。吐き出されたその黒煙が黒虎の周囲を取り巻き、次第に黒虎の姿がまるで闇に紛れるように隠れた。
律とリッカは目を丸くしながら互いに目を見合わせて、何が起こるのかを静観する事に決める。しばらくすると辺りを漂っていた黒煙が飛散して、霧が晴れるように視界が明瞭になった。
「…!?」
そこに居たのは、もう先ほどの黒虎ではない。あの威厳がある大きな体躯は跡形もなくなり、残されたのは小型犬の子犬くらいの大きさまで縮んだ、あまりに愛らしい黒虎の姿────。
「……か……かわいい…!!!」
その愛らしさに思わず洩れた二人の黄色い声を受けて、黒虎は得意げに自身の身体よりも大きなフサフサの尻尾を振る。そうして、その愛らしい姿からは想像できないほどの跳躍で、黒虎は褒めてと言わんばかりに律へと飛び掛かった。
「すげえな、黒虎…!!………ってか、どういう原理なんだ?また大きくなれるのか?」
それには首肯を返すので、律はひとまず胸を撫で下ろす。そこにリッカが言葉を添えてくれた。
「………多分、魔獣は闇を糧に生きるから、それを外に出す事で大きさを変えられるんだと思います。だから、また闇を体内に取り入れれば────」
「大きくなる、か。なるほどね……」
便利な身体だなと内心で思って、律はリッカに確認を取る。
「…どうだ?リッカ。これなら街を歩けそうか?」
その問いかけには、思っていたのとは違って困ったような顔が返ってきた。
「………姿が見えないようにすれば何とか……」
「…?これでも魔獣って判るもんなのか?」
「…体の色が問題なんです。コッコのように全身が黒い獣は魔獣しかいませんから」
「魔獣だけ?……じゃあ、この世界に黒猫とかいないのか?」
「いえ、います」
「…?」
なおさらわけが判らなくなって眉根を寄せる律にリッカは苦笑を返しながら、もう一度言葉を添える。
「…黒は黒でも、普通の獣の黒と魔獣の黒は全く別ものなんです。魔獣の黒は、闇をくり抜いたような漆黒ですから」
言われて律は得心しつつ、黒虎に視線を戻した。
小さくても判る、その吸い込まれそうなほど濃く黒い体躯。太陽の下にあっても毛の流れはわずかも判別できず、まるでそこにだけ延々と続く底のない穴がぽっかりと開いているかのような感覚に捕らわれた。
「…………確かにこれは普通の黒じゃないわな……」
そう不承不承と認めつつ、律は黒虎を街に連れて行くための方法を思案する。
「……リュックに入れて連れて行くか?」
これはすぐさま却下された。あれやこれやと何でも詰める癖のある律のリュックには、黒虎が入る余地がない。
「コッコを包ませられるような布はありませんか?」
「布……布ねえ……」
言いながら、律は物で溢れ返ったリュックの中をまさぐる。その手にかさりと紙袋が当たって、律はまさに打ってつけの物があった事を思い出した。
「…!あった…!!これなら黒虎にピッタリだろ…!!」
「…?何ですか?」
「猫の服っ!!!!」
嬉々としながら紙袋から取り出したのは、今の黒虎にちょうどいい大きさのニットで出来た服。腕まで覆う形でフード付き、そのフードには動物の耳らしきものも備え付けられていた。
「………リツさんの世界って、猫に服を着せるんですか?」
「おかしな世界だろ?」
くつくつと笑いながら黒虎に服を着せる律はかなり楽しそうだ。
「…リツさんって猫を飼ってたんですか?」
「いや、俺じゃなくて俺が育った施設で飼っててさ。そいつ用に買ったんだけど、なかなか帰る機会がなくてずっとここに入りっぱなしだったんだよな」
(…施設……?)
律の台詞の中に気になる言葉が出てきて、リッカは小首を傾げる。それを訊ねようと開いた口は、だが服を着せ終わったと嬉々として告げる律の声と、あまりに可愛い黒虎の姿に、リッカの念頭からすっかり掻き消えたようだった。
「か…!かわいい…!」
幾度目かになる賛辞を受けて、黒虎はすっかり上機嫌のようだ。どうやら『かわいい』と言われる事がとりわけ嬉しいらしい。その黒虎の頭にフードを目深に被せて、律は準備万端とばかりに立ち上がり黒虎を自身のパーカーのフードに入れた。
「尻尾は服で隠れてないから、できるだけそこでじっとしていろよ、黒虎」
クオンっとひと声鳴く黒虎を確認してから、律はようやくリッカを伴って足を一歩踏み出した。
「…さて。行くか、リッカ」
「はい」
つい先ほど、自分が作った街へと続く道。距離にすれば、おそらく二キロもないだろう。この道を進めば、異世界に来て初めての街を拝むことになる。
不安がないわけではない。特に森の中で出会ったレオスフォード達がこの国から来たかもしれないと思うと、なおさらだ。十中八九あの時負傷者が出ただろうし黒虎の事もある。すでに街に警戒態勢が敷かれていてもおかしくないし、そうでなくてもお尋ね者になっているかもしれない。
そう思うとわずかな逡巡が生まれて、律は縋るように後ろに佇む魔獣の森を視界に入れた。あれこれと押し問答を続けた結果、森の出口に着いてから街へ出発するのにずいぶんと時間がかかったと、律は小さく笑みを落とす。
(…ああ、そうだな。俺がどこにいようが、多分この森はなくならない)
この森は、初めて自分が異世界に降り立った場所だ。
そして、頼もしい黒虎とリッカと出会った場所────。
何かあれば、またこの森に帰ればいい。
この森からは、どの国にだって行けるのだから。
「…行ってきます」
どことなく郷愁に近い念を魔獣の森に抱いて、律は誰にともなく呟いた。