レオスフォードのこと
「レオスフォード殿下、お帰りなさいませ」
門をくぐって以降、幾度目かになる最敬礼に、レオスフォードは軽く手を上げて応える。
結局、一晩中魔獣の森の中を捜索したものの、あの異界の旅人の姿を見つける事は叶わず、夜が明けて一旦仕切り直すために街に戻ったところだった。
「…レオスフォード殿下、我々も一度、詰所に戻ります」
すぐ後ろを追従している中年の男に声を掛けられ、レオスフォードは足を止める。
「ああ。……いや、今日はもう休ませてやれ。一日中森の中を捜索して疲れただろう」
「お気遣い痛み入りますが、これしきの事で根を上げていては有事の際使い物になりません。元よりそのような軟弱者に育てた覚えもございませんでしたが……」
言って男は、後ろに続く騎士たちを冷ややかな視線で一瞥する。
「…どうやら私の思い違いでしたようなので、もう一度鍛え直さねばと思っていたところです」
言外に何を含んでいるのかをすぐさま察して、レオスフォードは苦笑を返した。
「…ヘルムガルドを前にして平常心を保てる者はそう多くはない」
「…私がお見受けいたしましたところ、レオスフォード殿下はいつもとお変わりなく振舞っておられるように見えましたが?」
「人の上に立つ人間がそう簡単に狼狽する姿を見せるわけにはいかないだろう」
「国や民を守ると誓いを立てた人間も、そうあるべきです」
何を言っても頑なな返答しか返ってこない現状に、レオスフォードはやはり諦観を込めた苦笑交じりのため息を落として、その声の主を振り返った。
騎士団長ジョファス=ルーヴェル───。
齢五十を過ぎているとは思えないほど屈強な肉体を持ち、常に高い理想を掲げその実現のための努力と鍛錬を己に課す彼は、己だけではなく周囲の人間にも常に厳しい人間である事を、レオスフォードは長い付き合いで承知していた。
己の剣の師でもあり尊敬の念を抱いてはいるものの、これでは下の者も大変だろう、と内心で嘆息を落としつつ、レオスフォードは告げる。
「ジョファス、休める時に休む事も騎士の大切な責務だ。いざという時、体力が尽きていては困る」
「尽きないように鍛錬するのです」
「………お前と普通の人間を一緒にするな、ジョファス。普通の人間は無限に体力が溢れ出るわけではない」
「………私を何だとお思いなのです」
心外だと言わんばかりに強面をさらに険しくするジョファスを笑って、レオスフォードは言い捨てる。
「とにかく休ませろ。これは命令だ」
期待と救いを求めるような視線をレオスフォードに送る騎士たちが気に食わないが、これを言われては逆らうわけにはいくまい。
ジョファスは去って行くレオスフォードの背に諦観を込めたため息を落として、不承不承と肯定を示すように頭を垂れた。
**
「レオスフォード殿下…!!ご無事で…!!!」
ジョファスたちと別れて屋敷に入ったレオスフォードを迎え入れたのは、不安の色を強く滲ませた狼狽したような声だった。
「カッティ。どうした?そんなに慌てて」
報告を受けて慌ててやってきたのか息を切らして駆け寄る青年に、レオスフォードは眉根を寄せる。まるでよそ事のようなレオスフォードのその様子に、カッティと呼ばれた青年もまたレオスフォードとは違った意味で眉根を寄せた。
「…『どうした?』ですって…?あれほどお止めしたのに魔獣の森に行かれた挙句、一晩中帰ってこられない殿下をどれほど心配したとお思いなのですか…!!?てっきり魔獣の森で何かあったのではないかと、気が気ではございませんでしたよ…!!」
「…!……あ、ああ、悪かった。謝るからそう捲し立てないでくれ…」
あまりの剣幕で息巻くカッティに、さしものレオスフォードも困ったように眉を八の字に寄せて後ずさる。目の下にずいぶんと立派なクマを拵えているところを見ると、本当に心配して一睡もできなかったのだろう。昔から心配性な五つ年上の執政補佐官に、レオスフォードは呆れと罪悪感が入り乱れた複雑な笑みを返した。
「…相変わらず我が補佐官は心配性のようだ」
「…無鉄砲な殿下のお傍に付けば、嫌でも心配性になりますとも。…それで───異界の旅人はどちらに?」
軽く周囲を見渡すカッティに、レオスフォードはきっぱりと告げる。
「逃げられた」
「……………はい?」
「だから逃げられたと言ったんだ」
その返答に、カッティは目を瞬く。
驚きと、次に沸々と湧き出た感情は『怒り』だった。
「…っ!!なんっっっっって不届き者なのですか…っ!!!?その異界の旅人やらは…っっ!!!殿下が直々に足を運ばれたのですよ…!!それを無下にするなど不遜にもほどがございます…!!!」
「………それはこちらの事情で、彼らには関係のない事だろう」
「いいえ!!!郷に入っては郷に従えと申します!!不運にもこちらの世界に来てしまったとは言え、来た以上はこちらに従ってくださいませんと…っ!!」
(………相変わらずカッティの頭の中は私を中心に回っているのだな……)
こうなるともう手が付けられない。少しでもレオスフォードがぞんざいに扱われたと感じると、カッティは気が収まるまでこうやって不満を吐露するのだ。
呆れたように心中でため息を落としつつ、レオスフォードは面倒なので静観する事に決める。
「だいたい…!!どうしてレオスフォード殿下がこのような土地に追いやられなければならないのです…!!殿下は…っ!!殿下はこのアレンヴェイル皇国の皇太子殿下であらせられるのに…っ!!!」
「……………」
静観する、と決め込んでいたレオスフォードは、だが聞き捨てならないカッティの言葉に大きくため息を吐いた。この言葉は、決して見過ごしてはならない言葉だ。
「……カッティ、滅多なことを言うな。私は皇太子ではないし、ここには自ら進んで来た。追いやられたわけではない」
「ですがいずれは…!!」
「皇太子になるのは兄上だ。私は元より立太子するつもりはない」
「…!…ですが……兄君であらせられるエルファス殿下のご病状は─────」
「カッティ=ラングドシャー。口を慎め」
「…っ!」
カッティの言葉を遮って放たれたレオスフォードの短い言葉に、静かな怒りが多分に含まれている事を悟って、カッティは思わず口を噤む。
「…兄上は聡明で物事の道理をよく弁えておられる。兄上ほど王に相応しい方はおられない。……兄上の病は、私が必ず治すと誓ったのだ。もう二度と滅多な事を口にするな。…判ったな、カッティ」
「………はい。…口が過ぎました事、お詫び申し上げます……」
項垂れて悄然と肩を落としながら頭を垂れるカッティに、やれやれと呆れたようなため息を返しながら、レオスフォードはカッティの後ろ、誰もいない場所へと視線を移した。
「……それと、リシュリット殿がいらしておられる。あまり醜態を晒すな、カッティ」
「……!!!!?」
目を丸くして慌てて周囲を見渡すカッティの視界に、誰もいないはずの空間からふわりと姿を見せるリシュリットが唐突に現れて、カッティはなおさら目を見開いた。
「リ、リシュリット様…っっ!!!?もももも申し訳ございません…っ!!!いらっしゃるとは存じ上げず、お見苦しいところをお見せいたしました…っっ!!!!」
「…いいえ、こちらこそ不躾な事をしました。どうぞお気になさらず、カッティ」
「……!は、はい…!」
気落ちしていた事などどこ吹く風で、舞い上がっているのかすっかり浮かれて赤面を作るカッティにやはり呆れたような苦笑を送って、レオスフォードは自身の執務室のドアノブに手をかける。
「しばらくリシュリット殿と話をする。誰も執務室には入れるな、カッティ」
「……承知いたしました」
深々と頭を垂れた後、心中で「心臓に悪い…」と人知れず嘆息を漏らしながら、カッティは火照った顔でドアの向こう側に消える二人を安堵と共に見送ったのだった。
「…お人が悪いぞ、リシュリット殿。なぜ姿をお見せにならない?」
執務室に入って、レオスフォードは開口一番にリシュリットに告げる。
リシュリットはなぜか二人きりでいる時以外、常に姿を消し決して人前に出ようとはしなかった。人前に姿を現わす時は、そうせざるを得なくなった時だけ。リシュリットが自分以外に積極的に姿を見せるのは、あとはもう兄だけだと記憶している。
問われたリシュリットは、その閉じた瞳でも判るくらい困惑と申し訳なさを存分に含んだ視線をレオスフォードに向けた。
「…私が姿を現わせば、皆カッティのように狼狽え緊張し、畏怖するでしょう。…皆に心労を与える事は本意ではありません」
(………あれを『畏怖』と捉えておられるのか)
返答を聞きながら、レオスフォードは呆れたように苦笑を漏らす。
確かに皆リシュリットに対して狼狽するし緊張もするが、あれは畏怖と言うよりもその見目麗しさに心を奪われ胸を高鳴らせているだけだ。当然それ以外の要因もあるだろうが、その多くは高揚感によるものに過ぎない。
それを理解していないリシュリットに半ば呆れつつ、レオスフォードは続ける。
「…仕方がないだろう。リシュリット殿は千三百年もの間生きておられる、いわば現人神にも等しい存在だ。皆、恐れ多くて委縮するのは当然だろう」
「…私は神ではありません。ただのしがない門の番人です」
(……………しがない、ね)
誰が千三百年もの間生きている者を、『しがない』などと思うだろうか。
そう内心で思いつつ、やはり苦笑を落としてソファに座るよう促した。
「…さて、本題に入ろう。あの異界の旅人が今どこにいるか、だ」
言って、向かいのソファに腰を下ろし魔獣の森の地図を広げるレオスフォードに、リシュリットは首肯を返す。
「…彼らを見つけたのは巨樹の楔から少し北に行ったこの辺りだ。そしてヘルムガルドの背に跨って、彼らは西へと消えていった」
その消えていった西方を虱潰しに捜索したが、彼らの姿どころかヘルムガルドの足跡さえついぞ見つける事は叶わなかった。そもそもヘルムガルドは己の足跡を消し、姿をくらますのが得意な魔獣だ。数千年の長い歴史の中で、魔獣の王と言われたヘルムガルドを討伐しようと幾度となく討伐隊を魔獣の森に差し向けたが、その姿はおろか住処さえ見つけ出す事は出来なかったと記録されている。そのヘルムガルドの背に跨って逃げたのだから、その痕跡を探すのは至難の業だろう。
「…一晩で千里を駆けると言われたヘルムガルドの足です。彼らを背に乗せている状態では、そこまでの速度を出す事は無理でしょうが、それでも相当の距離を進んだと想定するのが妥当でしょう」
「魔獣の森は広いからな。すべてをくまなく捜索するとなると、各国の手を借りなければ無理だろう」
「ですが、そう寛容な国ばかりではありません。特に『異界の旅人』に嫌悪感を抱く国も少なくはない」
「…彼らが向かった先の国によっては迫害を受けるか、最悪の場合死刑もあり得る。できればまだ魔獣の森に留まってくれているといいが…」
あるいは、このアレンヴェイル皇国に入国してくれている事を祈るか─────。
思ってレオスフォードは、地図に向けていた視線をリシュリットへと向けた。
「…もう一度念を押させていただくが、本当にこれまでに現れた異界の旅人の扱いは、非人道的ではなかったのだな?」
あの異界の旅人が口にした言葉が耳から離れない。
────(…異界の旅人が実際にどう扱われていたのかを俺は知らないし、あんたも知らないって事だ)
(…そうだ、確かに私は知らない)
最後に異界の旅人がこの世界に降り立ったと記録されているのは、もう百年ほど前の事だ。その人物がどう扱われ、どう暮らしたか記録上では知っているものの、真実がそうとは限らない。いつの時代でも、都合の悪い事は隠そうとするのが世の常。自分が生まれ育った国を疑うつもりもその是非を問うつもりもないが、それでもそういう事が少なからず行われている事は、国の中枢に携わる皇族であるからこそ重々承知しているつもりだ。
だからこそ、彼の言葉が嫌に胸に刺さって離れないのだ。
(…もし彼の疑念が正しいのであれば、このまま見つからない方がいいのかもしれない。…いや、早々に見つけ出し私が彼らを匿うのが一番か…?)
人知れず彼らを救う道を模索するレオスフォードの心中を悟ったリシュリットはくすりと笑みを落として、やはりいつもの穏やかな声音で返答する。
「…ご安心ください、レオスフォード殿下。異界の旅人の多くは、この世界にはない知識や技術を有する者が多い。それをどこよりもよく理解しているアレンヴェイル皇国は、いつの時代でも異界の旅人を重宝し丁重にもてなしてきました。だからこそ私は、この国を信頼し彼らを預けているのです。…それはこの国を見れば一目瞭然でしょう」
そう言って窓の外を示すリシュリットに促されるように、レオスフォードもまた窓の外へと視線を流す。
愛すべき自国である、ここアレンヴェイル皇国は、他の国にはない独自の発展を遂げた国でもあった。
水道設備を完備し汚水を流す下水道を作ったおかげで衛生管理が行き届き、感染症が起こる確率が低く、そしてどこよりも医学薬学の研究が進んでいる長寿国だ。最初に教育機関を設け貴族だけではなくすべての民に学ぶ機会を与えたのも、『電気』というものを唯一有しているのも、ここアレンヴェイル皇国だった。
一年中雪に閉ざされ作物も育たない土地ではあったが、その代わり民の暮らしはどこよりも快適だと言われているのは、他ならぬ異界の旅人の恩恵を強く受けているからに他ならない。その様々な恩恵をもたらしてくれる異界の旅人をぞんざいに扱うなど、愚の骨頂だろうか。
そう得心してレオスフォードは安堵したように街に微笑みを送り、再びリシュリットへと視線を戻す。
「…そうか。ならばなおさら、彼らが他国に渡る前に探し出さねばな」
「…その必要は、ないかもしれません」
「…!…どういう意味だ?」
「…あの若者の後ろに、シラハゼがおりました」
「シラハゼ?あの白髪の幼子か?」
言いながら思い出す。
確かにあの青年の後ろに、怯えたように隠れる白髪の少年がいた。だがその服装はどう見てもこの世界の物ではなかったはずだ。
「…あの子供は彼の弟ではないのか?」
「いいえ、シラハゼです」
嫌にはっきりと断言するリシュリットに、レオスフォードは眉根を寄せる。
「それは……貴方もシラハゼだから確信を持たれておられるのか?」
「流れる血は違いますが」
そう言って肯定を示すように微笑むリシュリットの様子に、レオスフォードは彼の言いたい事を悟って得心したように頷く。
「…シラハゼは貴重な存在だ。幼少の頃から頭が良くその才能を開花させ、神童と呼ばれる者も少なくない。それゆえに短命だが────」
そこまで言って、ふと目の前にいるリシュリットを視界に入れる。
「………いや、最後の短命という話は眉唾か」
千三百年も生きているのに、短命なはずはない。
そう言いたげに気まずそうに視線を逸らすレオスフォードを、リシュリットはくすりと笑う。
「私の種族の中では、千三百歳はまだ若輩者です」
「…!……………それは、失礼した」
千三百歳で若輩者とは一体どんな世界だ、と内心で突っ込みを入れつつ、たかが人間には計り知れないのだろうと諦観を示して仕切り直す。
「だが、それならば確かに心配する必要もなさそうだ。幼くともシラハゼは見識が広く頭が切れる。シラハゼならば迷わずこの国を選ぶだろう」
「はい。…あの若者は、恐ろしいほど巡り合わせがよろしいようです」
「…そのようだな」
まるで申し合わせたかのように、シラハゼとヘルムガルドが彼の傍に付いた。それもこの世界に降り立っていくらも経っていない時期にだ。あまりに用意周到な幸運に、驚きを通り越して感服するしかない。
(…この世界は彼をひどく歓迎しているようだ)
あるいは、彼を必要とする何かがこの世界にあるのか────。
だからこそ異界の門は、彼をこの世界に呼んだのかもしれない。
そう思案するように視線を落とすレオスフォードを閉じた瞳で見つめて、リシュリットはしばらく黙した後、躊躇いがちに声をかけた。
「………話は変わりますが、エルファス殿下のご病状はいかがですか?」
この話題がレオスフォードにとって耳に痛いことをひどく自覚しているからだろう。リシュリットは伏し目がちに閉じた瞳を落として申し訳なさを存分に表しながら、それでも聞かなければならない事だと自分に言い聞かせるように拳を握る様が見て取れる。レオスフォードはそれがまるで自分が彼を追い詰めているような気がして、わずかに疼いた罪悪感を吐き出すようにため息を落とした。
「……一進一退と言ったところだ。調子のいい日は普段と変わりなく執務をこなしておられるが、悪い日はベッドから起き上がることさえお出来にならない…」
「……レオスフォード殿下のご要望通り様々な文献を読み漁り私なりに調べてみましたが、やはりエルファス殿下の病を治療することが出来るのは、光の精霊を扱える聖女のみです。……ご期待に沿えず、申し訳ありません……」
「…!いや…!頭を上げてくれ、リシュリット殿…!」
心底申し訳ないと思っているのか深々と頭を垂れるリシュリットに、さしものレオスフォードも狼狽する。現人神にも等しい人物にこれほど頭を下げられては、恐れ多い事この上ない。
「…元々、藁にも縋る思いでリシュリット殿に相談させていただいた事。どこよりも医学が進んだ我が国でさえ、兄の病の治療法はない。唯一、癒しの魔法が扱える聖女がいない今、頼れるのは長く生きておられるリシュリット殿だけだと、無理を承知で願い出たのだ。…だからどうか、ご自分を責める事はなさらないでくれ」
「……………」
そう告げたにもかかわらず、やはり力添えには至らなかった自分の不徳を責めるように悄然と肩を落とすリシュリットの姿に、レオスフォードの罪悪感がしきりに疼いて仕方がない。ダメもととは言え、結果的にこの願いがリシュリットを追い詰めている事は明白だった。
(……やはり、リシュリット殿に頼るべきではなかったか……)
そう嘆息を漏らしたのは、何もリシュリットが頼りないからではない。
シラハゼは才能豊かで頭が切れる反面、総じて気が小さく遠慮がちで自責思考が強い。それは責任感が人一倍強い事の証左ではあったが、中でもリシュリットは長く生きた事もあって人間に頼られる事も多く、他のシラハゼよりも自責思考がなおさら強い傾向にあった。
それを理解しつつ、それでも兄のためになりふり構っていられないと強硬手段に出た自分に非がある事は明白だろうか。
リシュリットに対する罪悪感と、そのリシュリットを追い詰めたにもかかわらず結局手立てが見つからなかった事への落胆を込めたため息を落とすレオスフォードに、リシュリットは言葉を続ける。
「……エルファス殿下の病である『漆黒病』の原因は、世界に広がりつつある闇によるものです。生まれつき闇に対して敏感に反応してしまう体質の方が罹患する病で、様々な体の不調を引き起こし、最終的にはその心臓の動きを妨げ多臓器不全を引き起こし死に至らしめます」
漆黒病という名が付いたのは、闇が引き起こす病という理由以上に、病死した者の腹を開けると臓器と言う臓器が炭のように黒く変色しているからだ。闇に冒されると次第に臓器が黒く染まり、その機能を著しく低下させる。それが心臓にまで到達して、死に至る病だった。
「……普通の病とは違って原因が闇にある以上、闇を払う事の出来る唯一無二の光の精霊による治癒しか根治は望めません」
「…だが、光の精霊を扱えるのは聖女しかいないし、その聖女ももうこの世界にはいない。…それは貴方が一番よくご存じのはずだ」
それには申し訳なさそうに首肯を返す。
「……はい、聖女は千年前にこの世界を見放し、私の種族と共に門をくぐって次の世界へと旅立ちました……」
「…では、兄の病は諦めろと?」
「…!………それは……」
返答に窮して押し黙るリシュリットを申し訳ないと思いつつ、レオスフォードは続ける。
「聖女がもうこの世界にいないから諦めるしかないのか?闇が兄の体を蝕むのを、ただ指をくわえて見ているしかないのか?なら、なぜ私はこの地に赴いたのだ?…私は、諦めるためにここに来たわけでも、諦める言い訳をリシュリット殿に願い出たわけでもない…!」
リシュリットを責めたいわけではない。
そもそも彼が悪いわけでも、彼が責められる謂れもないのだ。
それを理解していながら、それでも言わずにいられなかったのは希望を捨てられないからだ。
この地に自ら志願してきたのは、表向き政治的利用を避けるためだと言われているがそうではない。確かに病弱な兄ではなく弟のレオスフォードを皇太子に、と推す勢力が後を絶たず、本人たちの意思とは無関係に兄エルファス派と弟レオスフォード派に分かれ論争を繰り返している。皇太子に担ぎ出される事を回避するため、と言われれば正直完全に否定する事は難しいだろう。
それでもレオスフォードがこの地に赴いた一番の理由は、この土地が闇を生み出している魔獣の森から近いからだ。
闇が兄の体を蝕んでいるのならば、その原因である闇を払う方法はないだろうか。
あるいは、せめて闇がこれ以上広がるのを止める手立てはないか。
そして聖女以外にも、光の精霊を扱う方法はないのだろうか────。
わずかでもいい。
兄の病を治癒できる可能性を模索するために、この地に赴いたのだ。
その道を、たった一度絶たれただけで諦めるつもりはない。
どれほど無様でも足掻くことを決意したレオスフォードは、その強い眼差しを窓の外に向ける。
そこに見える、魔獣の森の中心に悠然とそびえ立つ、巨樹の楔。
そのずっと奥底に、兄を苦しめる諸悪の根源がある。
「…私は何があろうと諦めるつもりはない。兄が死を迎えるその瞬間でさえもだ」
そう言って、まるで仇でも見据えるように窓の外を睨めつけるレオスフォードを、リシュリットは閉じた瞳で見つめる。
誰よりもそれが難しい事を理解しているリシュリットは、なす術もなく見守る事しかできない不甲斐ない自分に腹立たしさと、どうしようもない無力感に苛まれていた。




