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恩返しのこと・七編

「────で?お前はどうしたい?ユーフィム」


 元客亭を出てすぐ、律は肩に乗る黒虎こっこを撫でながらユーフィムにたずねる。ちらりとこちらを見据える瞳はまるでこちらの心を見透かしているようで、ユーフィムはたまらず内心ぎくりと身構えた。


「………えー…っと……それはどういう………?」

「俺を人目に触れさせたくないんだろ?」

「…!」

「見つかったら困る相手がいるんじゃないのか?」

「…!!」

「まあ、散々あちこち歩き回ったから後の祭りだろうけどな」

「…………ああ、うんそうだね……」


 くつくつと笑い含みに告げる律に、ユーフィムは肩を落としながら肯定を示す。思惑が外れてどんどん自分が思い描いていた方向とは真逆の展開に進む現状にもはや諸手を挙げたい気分だが、それ以上に自分の行動や思考がすべて律に筒抜けなのはいただけない。


(……幸いなことに俺の目的がどこにあるかまでは、まだ判っていなさそうだけど……)


 ─────そう、『今はまだ』である。

 勘の鋭い律ならば、見破られるのも時間の問題だろうか。その時彼がどういう行動を取るかは想像に難くない。いや、いつも想定の斜め上を行く律のこと、最悪の場合も大いにあり得る。何より各国が律の能力を認識してしまえば、律の意思とは関係なくどの国も異界の旅人の身柄を確保しようと躍起になるだろう。そうなればもう、あらゆる制限を受けている自分の一族はその争奪戦に参戦する権利すら剥奪されて、戦線離脱を余儀なくされるのだ。


 それだけはどうしても避けたい事態だった。


「ユーフィム?」

「!」


 名を呼ばれて、ユーフィムはようやく自分が思索にふけっていたことを自覚する。


「どうすんだよ?特に何もないなら、このまま森から出るぞ?」

「!?待った!!?森からは絶対ダメ!!」

「…………」

「…………」

「……森の出入り口に見張りでもついてるんだな?」

「……………はい、その通りです……」


 白旗を挙げて、ユーフィムは肩を落としながら素直に答える。もういっそ口を割った方が楽になれるだろうか。

 降参して項垂うなだれるユーフィムを尻目に、律はわずかに決まりが悪そうな息をひとつ吐いて森に視線を寄こした。


「…って言っても、さっき俺、森から出入りしたけどな」

「……まあ、そうだろうけど……一応念のためにね」


 言いながら踵を返して森とは逆方向に足を進ませるユーフィムの後を、律は訝しげに追従する。


「どこに行くんだよ?」

「街の外に出るんだろう?なら直接外に繋がるくぐり戸があるから、そこから出よう」


 向かった先は、フリューゲルの街をぐるりと包囲するようにそびえ立つ城壁と元客亭の間─────時間にして二分ほど歩く程度のその距離に、おざなり程度に作られた『森』というていを辛うじて保った木々の中をわずかに進んだところで、ユーフィムは茂みと雪の中に隠されたくぐり戸を得意げに律に披露した。


「───…!…こんなところに外に続く扉があるのか……!」

「三日前にはなかったけどね」

「─────は?」


 やはり得意げな顔で律を見返すユーフィムの様子に、律は悟る。


「まさか……お前が作ったのか?」

「あると、こういう時便利だろう?」

「へえ…!意外と手先が器用なんだな…!」


 瞠目して感嘆の息を落とす律に、ユーフィムはなおさら心が弾んで有頂天になったようだ。その小綺麗な顔に花も恥じらうような喜々とした笑顔を宿して、得意げに告げる。


「いやあ、結構大変だったよ…!意外に頑丈だから素手でぶち抜くのに手間がかかってね!」

「……………はい?」

「あ!別に貫通させるのが物理的に厳しいって意味じゃないからね!この程度の城壁なら壊すのなんて造作もないんだけど、逆に壊さないようにこの部分だけ貫通させるのが難しくて…!」

「……………思ったよりもずいぶんと大雑把だな、おい……」


 人間離れし過ぎてんだろ、と続けて、うんざりとした顔をユーフィムから城壁へと移す。この大層ご立派な城壁も、ユーフィムにかかれば紙切れ一枚と何ら変わらないという事だろうか。そういえば以前、自分の事を『戦闘一族』だと自称していた事を思い出しながら、律は顔に似合わず怪力なユーフィムにげんなりとした顔をもう一度向けた。


「………まさかとは思うけど、有事の際、俺を逃がすためにこれを作ったとか言わないよな……?」


 それにはやはり花も恥じらうほどの─────いや、恥じらうどころか裸足で逃げ出したくなるほどの満面の笑みを返すユーフィムに、律は眉間に寄せられるだけのしわを最大限に寄せて、なおさらげんなりとこうべを垂れたのだ。


**


 誰もいない雪原に、ざくりざくりと雪を踏みしめる音だけが響く。そこに誰の姿もない。ただ真っさらな雪の上に、踏みしめる音の数だけゆっくりと足跡だけが残されていた。見ればその足跡はフリューゲルから魔獣の森に沿って東に続いている。しんしんと降り止まない雪は、まるで主のいないその足跡を消そうと躍起になっているようだった。おそらくフリューゲルにほど近い足跡はもう、奮闘した雪によって跡形もなく消えている事だろう。


 その足跡が、魔獣の森近くの朽ち果てた教会の前でぴたりと止まる。はあ…と小さく吐いた白い息が誰もいない空間に広がったところで、その主はようやく自身の姿を現世うつしよに現した。


「……何か手掛かりが残されていればいいが……」


 冷え冷えとした空間に、穏やかで柔らかい声が響く。この世の者とは思えないほど白く壮麗な顔のその瞳は、相変わらず閉ざされたままだ。この瞳が最後に開いていたのは、もう気が遠くなるほど昔の事。その閉ざしたままの瞳で、彼────リシュリットは教会を仰ぎ見た。


 異界の旅人がいた事が最後に確認された場所。以降、彼の足取りはぴたりと途切れた。


 リシュリットはゆっくりとした足取りで、朽ちた教会の中に足を踏み入れる。しん…と静まり返った室内に、硝子を踏み砕く小さな音が弾けた。それを数度繰り返しながら教会の奥へと進み、漆黒病患者が休んでいたと思われる部屋の扉を開く。きい…と蝶番ちょうつがいが軋む音が響いて、開いた扉の隙間からわずかに冷たい風が吹き抜けた。朽ちかけた教会だ。おそらくあちらこちらから隙間風が絶え間なく教会の中を行き来しているのだろう。


 その風が、リシュリットの長い白銀の髪をふわりと撫でる。その髪が再びリシュリットの肩に居住まいを戻したところで、リシュリットは手に持っている魔杖ロッドを軽く地面に一度だけ突いてみせた。────瞬間、誰もいなかったはずの空間に、唐突に人の姿らしき影が多数現れる。


 ベッドに横たわる痩せ細った病人らしき壮年の男。その男を甲斐甲斐しく看病する三人の男たち。そして彼らを取り巻くように佇む、九人の幼い子供─────。


 『影』というには、その容姿が判別できるほど鮮明で、だがそのどれもが半透明で向こう側の景色がありありと窺えるほど、おぼろげな存在─────それは妖精族であるリシュリットだけが扱える、物の記憶を呼び覚ます魔法だった。


(本当なんだよ!親父!)


 影の一つがそう声を荒げる。三人の男たちの中で一番体が小さい少年だ。


(俺見たんだ!!怪我をしたシラハゼを一瞬で治したんだよ、そいつ!!!)

(そんなはずないだろ、コーディ。治癒魔法が使えるのは聖女だけだ)

(そうだよ。そんな事俺でも知ってる)


 三人の中では比較的体格のいい男に続いて、わずかに幼さの残る優男も同意を示し、呆れたように嘆息を漏らしている。


(俺だって知ってるよ!!でも……!!俺ほんとに見たんだって…っ!!怪我をしたシラハゼにこう手をかざしたらさ!あったかそうな光が現れて、それが消えた頃にはシラハゼの怪我はすっかり治ってたんだ!!)

(……つまりコーディは、聖女を見たって言いたいんだな?)

(違うって!!そいつ男だし!!)

(じゃあなおさら違うじゃん。治癒魔法が使えるのは聖女しかいないんだからさ)

(そんなの判んねぇじゃん!!聖女じゃなくても使える奴が現れたのかもしれねえし!!もしかしたらそいつが使ってるのは聖女が使ってた治癒魔法とはまた別の治癒魔法かもしれねえだろ!!?)


 必死に訴える少年にどう返答したものか当惑しているのだろう。二人の男たちはどちらからともなく半信半疑の顔を互いに見合わせて、困惑の色を濃く滲ませている。


 わずかに流れたそんな沈黙を、静かな掠れた声が打ち破った。


(………本当なんだな………?……コーディ………)

(…!ほんとだよ、親父!!あいつだったらきっと、親父の病気治せるよ!!)

(…………そいつの顔は……覚えているな………?)


 固く頷くコーディを確認してから、壮年の男は見返してくる三人の顔をそのぎょろりとした双眸そうぼうでしっかりと見つめ返す。そうして、確かな口調で告げたのだ。


(………すぐにそいつを見つけ出して………ここに連れてこい………!)


 首肯してすぐさま部屋から出て行こうとする三人の影が、一部始終を見届けていたリシュリットのすぐ脇を通る。部屋を出た瞬間、三人の姿はふわりと掻き消えるように空気に溶けた。


 ─────(……それで彼らは異界の旅人を連れ去ったか……)


 記憶の魔法を行使しているのはあくまでこの部屋だけ。影がこの部屋を出て行けば、もう姿を追うことはできない。


 リシュリットはそのまま成り行きを見守り続けた。このまま待てば、連れ攫われた異界の旅人とシラハゼがここに姿を現すはずだ。


(……そうすれば、ここで彼らと何を話しどこに向かったか、きっと判るはず────)


 そう抱いた淡い期待は、だが唐突に途切れた記憶に脆くも崩れることになる。


「…!?」


 部屋に存在していた影が突如ふわりと空気に溶けた。そこかしこから聞こえていた幼子たちの笑い声も霞のように消えて、耳に届くのは静寂だけ。この部屋に入ったばかりの時と何ら変わりのない誰もいない寒々しい部屋だけが、そこに取り残されていた。リシュリットは何もないその部屋の中央までゆっくりとした足取りで歩き、おもむろに膝をついてその白く細い指で地面を撫でる。


(……また、邪魔をされたか……)


 わずかに残された、誰とも知れぬ魔力─────これはそりの追跡を阻止した妨害魔法とまったく同じ魔力ものだ。今回も同一人物による仕業だろう。それも今回はこちらの魔法を妨害したのではない。この教会に残る記憶自体を綺麗さっぱり消し去ったのだ。


 記憶が途切れているという事は、誰かが故意に以降の記憶を消したという事。異界の旅人が現れるであろう記憶だけが、ぽっかりと空いた穴のようにすっかり抜け落ちている。これをこの世界に降り立ったばかりの異界の旅人が施したとは思えない。そりの痕跡を消された時といい、どうやら追跡を妨害し異界の旅人を匿おうとする存在がいる事は明白だろうか。


(────…それもどうやら、人間ではないようだ)


 人間が扱えるのは精霊に起因した魔法のみ。これはその範疇ではない。妖精族である自分が妖精特有の魔法を扱えるように、この魔法もまたある種族特有の魔法だった。


(……またずいぶんと厄介な存在が介入してきたものだ。ヘルムガルドといい、あの青年はどうにも厄介な種族に好かれる傾向にある……)


 それともそれは、あの青年が有する特異なスキルがあるからだろうか─────?


 リシュリットは小さく嘆息を漏らした後、おもむろに立ち上がって教会内を閉じた瞳で一度くるりと見渡した。

 おそらくどの部屋にも記憶は残されていないだろう。門の番人である自分がどういう行動に出るか、それらすべてを見通して用意周到に網を張り巡らせている。これだけ狡猾な相手ならば、おそらく抜かりはあるまい。


(……やはりここにはもう、手掛かりはない、か……)


 得た情報と言えば、今異界の旅人と行動を共にしているであろう者たちの容姿と、そのうちの一人の名前のみ。


 大きく落胆の息を吐いて、リシュリットは踵を返す。部屋を出て教会の扉に手を軽く添えた途端、その動きがぴたりと止まった。


(………誰かがこちらに向かってきている……?)


 感じ取れたのは、フリューゲルの街からこちらに向かう三つの存在─────一人は人間で一匹は獣、そしてもう一人は人ではない異種族。


 リシュリットはわずかに思案した後、踵を返した体をもう一度取って返して、教会の中へと歩みを進めた。


**


「歩くと結構距離があるな……」


 軽く息を弾ませながら、律は愚痴をこぼすように告げる。疲労の色がにじみ出ている律とは対照的に、涼しげな顔で隣を歩くユーフィムが呆れたように返した。


「だからコッコに乗ればって言ったのに」

「……目立つだろうが」


 ただでさえ黒虎こっこは体が大きいのだ。その上ヘルムガルドとして知らない者はいないほど、その認知度は高い。どこで誰が見ているかも判らないのに、おいそれとその背に乗るわけにはいかないのだ。


 とはいえ、雪の上を歩く事がこれほど体力を消耗するとは思ってもいなかったが。


「……やっぱり雪を溶かした方がよかったんじゃねえのか……?」

「……そっちの方がよっぽど目立つでしょ」


 当初、律はフリューゲルの街に初めて来た時のように、魔法で雪を溶かして教会までの道を作る予定だった。それを目立つからやめろとユーフィムに頑なに拒否されて、泣く泣く雪原の上を歩いて向かっているのだ。


「……リツはもう少し体力をつけた方がいいかもね」


 肩で息をする律をくすりと笑うユーフィムが恨めしい。

 執筆活動を優先するあまり、運動という運動は一切してこなかった。運動不足である事を否定するつもりもないし体力がない事も否めないが、それでも彼に言われると癪に障るのは、きっと彼が常人では計り知れないほどの体力バカだからだろうか。


 お前にかかれば普通の人間はみんな虚弱に見えるだろ、という言葉を呑み込んで、律はじとりとした視線をユーフィムに向ける。


「………大きなお世話だ」

「おんぶしてあげようか?」

「死んでもいらん!!!」


 意固地になる律をもう一度笑ったところで、ようやく目的地である教会が視界に入ってきた。その教会の前で、律は脱力したようにその場にへたり込んで、一息つくように大きくため息を落とした。


「……帰りは黒虎に乗せてもらうか」


 くおん!と胸を張る黒虎の返事に、ユーフィムはたまらず笑い声を上げる。


「そうしろってさ」

「……………ははは」


 力なく苦笑を落として、二人と一匹は教会の扉を開く。きい…と蝶番の音が響く教会内に足を踏み入れた途端、ユーフィムと黒虎は同時にピクリと眉が動いて反射的に周囲を見渡した。


「…………」

「…?どうした?」


 何かを窺うようにしきりに視線を移ろい、耳をそばだてる────そんな剣呑な雰囲気の二人に、律は眉根を寄せてたずねた。その問いかけにしばらく沈黙が返ってきて、ようやく何もいないと判断したのか、それでも警戒を強めたままの緊張感を伴った声で答えが返ってきた。


「………いや、何でもない。とにかく目当ての物を見つけてさっさとここを出よう。────ここは何か嫌な気配がする」


 言われて律は黙したまま首肯を返す。律には彼の言う『嫌な気配』が何なのかは皆目見当もつかなかったが、ユーフィムだけではなく黒虎も何かに反応を見せているところを見ると、その勘は間違ってはいないのだろう。そのまま駆けて、律とユーフィムはかつてここに連れて来られた時、子供たちが一斉に飛び出してきた部屋へと足早に向かった。


「あるとすればこの部屋だろうな」


 開いた先に見えたのは、明らかに子供部屋とおぼしき一室。あちらこちらに子供の玩具らしき物や服が散乱している。律はそれらを丁寧に見て回って、ようやく子供用ベッドがいくつも並んでいるその下に、猫とおぼしき影が視界に入ってきた。


「あった…!!多分ルゥが言ってたのはこれ─────…」


 言いながら腕を伸ばして、律はそれを手に取る。ぬいぐるみらしき柔らかい感触が手の中に伝わった。十中八九そうだろうとベッドの下から取り出した律は、ようやくそれを視界にしっかりと捉えた瞬間、たまらず目を瞬いた。


 雪雲のおかげで薄暗いながらも、そのわずかな光が差す下に照らし出された、それ。

 確かにルウが言った通り、黒猫の姿をかたどったぬいぐるみだ。よほど愛用していたのだろう、中綿が片側に寄っているのか、くたくたによれている。だが、その仕立てはおよそ素人が作ったとは思えないほどの出来栄えだった事に、律は目を丸くしたのだ。


「……………これ、ほんとにあのコーディが作ったのか……?」


 実は猫のぬいぐるみは二つあって、これはルゥのぬいぐるみとは別の方だったという落ちはないだろうか。

 思って周囲を見渡してはみるものの、猫のぬいぐるみらしき物は見当たらない。律はもう一度、半信半疑な目を手に持つぬいぐるみに向けた。

 この出来栄えならば店で売っている物とさほど遜色はないだろう。これを果たして、あのコーディが作れるものなのだろうか。たかが食事を作るのにあれほどの切り傷をこしらえる、あの不器用を絵に描いたようなコーディが─────?


「へえ…!大したもんだ。人の得手不得手は外見だけじゃ判らないものだね」


 ユーフィムの言葉に、律も内心で大きく同意を示す。四苦八苦しながら作るコーディを想像しただけに、何ともバツが悪い。律は妙に後ろめたい気分ごとしまい込むようにぬいぐるみを鞄に入れると、おもむろに立ち上がった。


「……さて、目当ての物も見つかったし、家に帰るか」


 首肯を返すユーフィムの表情からは、笑顔を見せてはいるものの一向に警戒心を解いていない事が窺える。それが律の心にわずかな胸騒ぎを呼び起こしたのか、自然と早くなった足で子供部屋の出入り口に向かった。開け放たれたその扉を律が先にくぐってすぐ、だが唐突にユーフィムが律の行く手を阻むように、あるいは律を何からか守るように前に躍り出る。


「待って、リツ……!!」


 見れば肩にいる黒虎も、何もない空間を見つめたまま威嚇するように前傾姿勢を取って小さく唸り声を上げている。

 ユーフィムはやはり何もない空間を見据えながら、いつもよりも低い冷えた声音でその見えない侵入者に声をかけた。


「……姿を現せ。いる事は判っている」


 声をかけたのは、かつてカイルが養生していた一室の、ちょうど中央。どれほど目を凝らしても、その空間にはやはり影すら窺い知れない。


 そんな律の視界にふわりと何もない空間から白い何かが現れたのは、しばらく訪れた沈黙に耐え兼ねて、俺は判っていないけどな、と律が内心で茶々を入れたその時だった。


「…!?」


 重力など微塵も感じさせない動きでふわりと地に降り立つその人物の容姿は、瞳を閉じてはいても、この世の者とは思えないほど壮麗で美しい事が見て取れた。男とも女ともつかない美しく整った顔に、どこまでも儚げな白銀の長い髪と白い素肌。どことなくリッカを彷彿とさせるその白さに、律は目を奪われた。


「……やはり異界の旅人でしたか。よもやと思ってはいましたが……この僥倖に感謝します」


 ふわりと笑みを表すその小さく整った艷やかな唇から出た声音すら、この緊張感の伴った場面にあまりにそぐわないほど穏やかで柔らかい。彼をかたどるすべてが、まるで外界と完全に隔離されたような異彩を放つ美しさだった。


「…………あんた……誰だ……?」

「…ずっと、貴方を探していました。私は─────」


 その答えを聞くよりも早く、ユーフィムは強硬手段に出る。

 律は前に立ちふさがるように立っていたユーフィムの姿を捉える事は出来なかった。瞬く間に姿が消えて、次に律がユーフィムの姿を捉えたのは、彼が白い侵入者に向かってどこから出したのか双剣を大きく振り払った瞬間─────少しも動じる事なく、閉ざされたままの瞳で前を見据えている白い侵入者の目前に、まるで見えない壁があるかのようにキン…!と甲高い音と共にユーフィムの剣が弾き返された時だった。


「は…っ!さすが門の番人……!容易く剣は届かないか……っ!」


 くるりと身を翻して、ユーフィムは身軽な動きで元居た場所へと着地を決める。目前で行われた攻防があまりに一瞬の出来事で、理解が追い付かないまま唖然と成り行きを見届けていた律は、だが着地と共に吐き出されたユーフィムの言葉の中に聞き覚えのある単語を見つけてピクリと反応を示した。


(……門の番人…?……どこかで……そうだ、確かリッカが言ってた……名前………名前は確か───…)


 記憶をまさぐるように思考を巡らす律を尻目に、白い侵入者────もとい門の番人はやはり穏やかで柔らかい声音を崩さぬまま告げる。


「……門の番人に手を上げる事がどういう事か、よく判った上での行為ですか?」

「…どういう事かって?ああ、よく判ってるよ。でもどうせ俺たちの一族はこの世界の厄介者だからね。手を上げようが上げまいが、扱いは結局変わらない」

「……異界の旅人を匿って一体何を企んでいるのです?」

「匿ってたんじゃない。リツはもう俺の──────」

「リシュ!!!!」

「!!?」


 場に流れる剣呑な雰囲気などそっちのけで唐突に門の番人を指差しながら声を張り上げる律に、二人と一匹は唖然として律を見返し、思わず目を白黒とさせる。


「そうだ、思い出した!!!名前はリシュ!!!リシュ………─────…リシュ…なんだっけ?」

「……………今どういう場面か判ってる?リツ……」


 細めた目を律に向けて、ユーフィムは呆れたように突っ込みを入れる。一触即発の緊張感が全くもって台無しである。


 それには律も呆れたように負けじと応酬した。


「……少なくともお前が無作法をしたって事だけは判ってるぞ?」


 全くもって的を射た言葉なので、ぐうの音も出ない。

 たまらず閉口するユーフィムに嘆息を送って、律は自身の肩で未だ警戒を解いていない黒虎こっこを宥めるように撫でながら、門の番人に向き直った。


「悪いな、どうも気が立ってるみたいでさ。悪い奴じゃねえんだよ。……事態を掻き回す癖があるみたいだけどな」


 苦笑を交えながらユーフィムを弁護する律の言葉に、門の番人は内心で同意を示しつつ思うに留めて、ふわりと微笑みを浮かべた。


「……改めてご挨拶しましょう。私は門の番人リシュリットと申します。以後、お見知りおきを」


 そう言って緩やかな動きでこうべを垂れる仕草がまた優美で美しい。彼が動くたび、長い服の裾や白銀の髪が揺らめくさまに感嘆の息を落としつつ、律も続いて彼に倣う。


「俺は律だ、鳴神なるかみ律」

「…………なに悠長に挨拶してるのかな」

「…お前もいい加減機嫌直せよ。それともお前が俺と会わせたくなかった奴ってリシュの事なのか?」


 まるで愛称のように門の番人の名前を口にする律を細めた目でじとりと見据えながら、ユーフィムはやはり不機嫌そうに告げる。


「……半分当たりで半分はずれ」

「何だよ、それ?」


 門の番人だけであれば、さほど警戒する必要はないのだ。異界の旅人の管理は門の番人の管轄であり、どう抗っても異界の旅人と門の番人を引き離す事は難しい。問題なのは、門の番人の後ろにあのアレンヴェイル皇国第二皇子の影が否応なくついて回っている事だろうか。


 門の番人に律が見つかるという事は、第二皇子に律が見つかるという事─────それが判っているだけに、門の番人に見つかる事はどうしても避けたい事態の一つだった。その目論見が外れて鉢合わせしてしまった事は大きな痛手だろうか。


 あからさまな不満を見せて子供のようにそっぽを向くユーフィムを呆れたように眺める律に、門の番人リシュリットは声をかける。


「……今まで一体どちらに?」

「…ん?ああ…!あの時、黒虎の背に乗って逃げたからな。でも別に隠れてたわけじゃねえよ」

「…ずっと貴方を探していたのです。貴方と言葉を交わし、そして願わくは貴方の助力を乞うために」

「……助力?俺にできる事なんてたかが知れてるぞ?」

「いいえ、これは貴方にしかできない事─────」

「ずいぶんとアレンヴェイル皇国の肩を持つんだな、リシュリット様」


 唐突にユーフィムは二人の会話に割って入る。

 その声音も口調も、いつもの飄々としたユーフィムではない。その表情には明らかに怒りと憤りを乗せて、突き刺すような鋭い瞳をリシュリットへと向けている。


「門の番人が俗世に深く関わるのはご法度じゃないのか?」

「……原則はそうですが、異界の旅人が俗世に降りる以上全くの無関係ではいられません」

「詭弁だな。アレンヴェイル皇国に肩入れする理由に一切の私情を挟んでいないと言えるのか?」

「………否定はできません。ですが門の番人には、この世界の安寧と秩序を守る責務も同時にあります。乞われればどの国にも等しく慈悲を与える─────今、私はその責務を全うしているだけの事。貴方に門の番人の何たるかを問われる謂れはありません」

「……慈悲を与える?だったら……だったらなぜ俺たちの一族には慈悲を与えない……っ!!?」


 一層怒気を含ませた声音で、ユーフィムは吐き出す。顔を歪ませ渋面を取るユーフィムに、だが変わらず穏やかな柔らかい声音でリシュリットは返した。


「……貴方がた一族に慈悲は必要ありません」

「…!?俺たちは制限を受けて当たり前の存在だと言いたいのか…!!?」

「いいえ、他ならぬ貴方がたの長が、慈悲はいらぬと申し出たからです」

「…!?」


 寝耳に水だったのだろう。ユーフィムは見開いた目でリシュリットを凝視した。


「貴方がたには過ぎた力があります。それはとても巨大なもの。矮小な存在である人間にはそれがとても恐ろしく恐怖の対象でしかない。制限を受けるくらいでちょうどつり合いが取れるのだと、彼はそう判断を下したのです」

「─────…」

「貴方が異界の旅人を使って何を企んでいるのかは判りません。ですが貴方が何をしようともこれは決して変わらない事実。諦めて異界の旅人を返してください」

「…!?断る!!!リツはもう俺の物だ!!!」

「…………こらこら、いつお前の物になった」


 何やら複雑な事情があるようだが、それはさておき聞き捨てならない言葉に律は口を挟む。


「彼は貴方の物ではありません。異界の旅人は門の番人の管轄下に置くのが慣例です。彼は返してもらいます」

「は…!慣例なんてくそくらえだね…!リツを最初に見つけたのは俺だ!!リツは返さない!!」

「…………まてまて、何か話が妙な方向に転がってないか?」


 つい先ほどまで深刻そうな話をしていなかっただろうか。


「いいえ、どう足掻こうとも彼は返してもらいます」

「いいや、返さない!!リツは俺と一緒にいるんだよ!!」

「返してもらいます」

「だめだ!!」

「…………なんだこれ?修羅場か?」


 もはやお手上げ状態である。腕を引き合いにならないだけまだましだろうか。

 平行線を辿る会話に最初に業を煮やしたのは、区切りをつけるようにため息を落としたリシュリットだった。


「……仕方がありません。では力づくで返してもらいましょう」

「やれるものならやってみろ…!」


 言うより早く、ユーフィムは律の腕を掴んですぐさま窓へと身を翻す。目を丸くする律を尻目にそのまま窓から外へ飛び出る─────はずだった。だがそれを阻んだのは、つい先ほどユーフィムの攻撃を防いだものと同じもの。見えない壁に阻まれて、ユーフィムの体はその意思とは裏腹に甲高い音と共に弾かれた。


「くそ…!やっぱり門の番人の結界はコッコでもない限り容易く破れないか…!」


 いや、もっと正確に言うならば、一族本来の力を自分が持っていれば容易く破れただろう。


「おい、ユーフィム…!いったん落ち着け!!」


 苦々しく顔を歪ませるユーフィムを制止するように、律は叫ぶ。だが怒りで我を失っているのだろう。律の声は届かず、だが皮肉な事にリシュリットの柔らかい声だけがユーフィムの耳を否応なく支配した。


「……残念ですが、この教会すべてに結界を張らせてもらいました。ここから出る事は叶いません」


 ゆっくりとした足取りで歩み寄って来る、リシュリット。

 自身の力に、絶対的な自信があるのだろう。顔色一つ変えないその落ち着き払った様子がなおさら余裕を見せつけているようで、ユーフィムの嫌悪感を大いに刺激する。


「……出る事ができないって?」

「…!待て…!ユーフィム!!」


 やはり制止する律の言葉が耳に届くこともなく、ユーフィムは踵を返して窓に向けていた体をリシュリットへと向ける。何も持っていない腕を手刀を振るように大きくすっと振ると、間口の広い裾の中から先ほどの双剣が落ちてきてその柄を掴んだ。


「結界が壊れないなら、結界を張った者を殺すだけの事!!!!」

「…!!?黒虎!!!」


 律が黒虎の名を叫んだのは、ユーフィムがリシュリットへと飛び掛かるのとほぼ同時。名を呼ばれた黒虎はすぐさま体を元の大きさに戻してその背に律を乗せると、そのままユーフィムに向かって跳躍した。


 黒虎はいつも、何をしろと律が言葉に出さなくとも、名を呼ばれただけで律が何をしてほしいか正確に意図を汲んでくれる。律はユーフィムに向かって跳躍した黒虎の背に乗って、リシュリットに向かうユーフィムの襟首周辺の服を辛うじて掴んだ。それはちょうど、ユーフィムの双剣がリシュリットへと届く寸前─────正確にはユーフィムの攻撃をリシュリットの結界が弾く寸前と言った方が的確だろうか。


 律がユーフィムの身柄を取り押さえた事を確認すると、黒虎はすぐさま身を翻して先ほどユーフィムが逃亡に失敗した窓へと駆けた。


「結界を壊せ、黒虎っ!!!!」

「…!待ってください!!リツ!!」


 リシュリットの叫びは、黒虎の遠吠えにも似た咆哮が虚しくかき消した。それは地響きと共に教会内に響き渡り、その震えに耐えかねたように、まるで風船が割れるような弾けた音が黒虎の咆哮の合間から聞こえる。そのまま呆気なくはらはらと見えない何かが剥がれ落ちる間をくぐるように、黒虎は窓とその周辺の壁を突き破って教会から脱出したのだ。


「悪い、リシュ!!こいつの頭を冷やしてからまた話を聞かせてくれ!!!」

「リツ!!時間がないのです!!!どうか─────!!」


 遠ざかる律の背に、懇願にも似た悲痛な声をリシュリットは上げる。だがそれも虚しく雪の中に掻き消えるだけ。リシュリットは今しがた黒虎が開けた穴の残骸を踏みしめながら、もうほとんどその姿が見えない律たちを成す術もなく茫然と見送るしかなかった。


**


「……そろそろ機嫌直せよ、ユーフィム」


 黒虎の背にまたがりながら、律は後ろで背中を向けているユーフィムに声をかける。その顔は窺い知れないが、その背からは不機嫌さが大いに表れているのが手に取るように判った。


 無言だけを返してくるユーフィムに内心で、面倒な奴だ、と思いつつ、それでも細かい事情は判らないものの彼が奮闘する理由が不当な扱いを受ける一族のためだという事だけは判って、律はため息を一つ落とした。


「……まったく、綺麗な顔に似合わずお前は血の気の多い奴だな」


 それは自称『戦闘一族』だからだろうか。

 思い起こせば、ジオン達に拉致されそうになった時もユーフィムは有無を言わさず彼らに剣を向けようとしていた。思わず止めたが、あの時そのまま静観を決め込んでいれば、今頃ジオン達はきっと無事ではなかっただろう。


 そんな呆れとも取れる律の言葉に、無言を貫いていたユーフィムがぼそりと反論する。


「……好きでこんな顔に生まれたわけじゃない」

「…!」

「……無駄に綺麗な顔も、この髪の色も、ユーフィムという名前も、好きで与えられたわけじゃないんだ」

「……嫌いなのか?」

「……嫌いだ、こんなもの……全部、なくなればいい」


 呟くように告げるたび、ユーフィムの背が丸くなる。まるで自分の存在自体が恥だと言わんばかりに律からその身を隠しているように見えて、律はその背から視線を背けた。


「……じゃあ、俺が好きになってやるよ」

「──────…え?」


 前を見据えたまま告げる律の言葉に、ユーフィムはようやく律を振り返る。


「自分にとって一番の味方は自分自身なんだぞ?その自分が自分を嫌ってどうすんだよ。それじゃあんまりじゃねえか。……お前が自分を嫌いだって言うなら、俺が好きになってやるよ。その無駄に綺麗な顔も、湖面に映る陽の光を照り返したような白金に輝くその髪も、お前によく似合う『ユーフィム』って名前も、それからお前自身も、俺がまとめて好きになってやる。だからあんまり自分をいじめるな、ユーフィム」

「──────…」


 目を瞠るユーフィムの視界の先に、にやりと笑い返す律の姿があった。


 ─────律なら言いそうな言葉だ、とユーフィムは思う。

 律は人をたらし込むのが上手い。天性の人たらしなのだ。少し会話をするだけで、律は相手の懐に容易く入り込む。そしてこういう事を恥ずかしげもなく、さらりと口にするのだ。この幸福感を刺激してくる、得も言えぬ声と共に─────。


 先ほどまで胸の奥に渦巻いていた醜い感情や、もやがかかったような仄暗い気分が嘘のように晴れて、今はむしろ清々しくほんのりと温かい。その温かさを確かめるように胸に手を当て、何となく紅潮した顔をその手に向ける。


 その幸福感とも安堵感とも取れる得体の知れない感情が、妙にくすぐったく面映ゆい。そんな心地よさに浸るユーフィムに、律の言葉は続く。


「まあでも、お前の顔も綺麗だと思ったけどさ、リシュを見たあとだと色褪せて普通に見えるよな」

「……………………喧嘩売ってる?」


 せっかくの幸福感が台無しである。


「何だよ?綺麗って言われるの嫌なんだろ?」

「それとこれとは話が別!!」

「我儘なやつだな」


 憤慨するように頬を膨らませるユーフィムに律は哄笑こうしょうを送って、黒虎の背に乗ったまま仲良く帰路に就いた。それは陽が大きく傾き、あとわずかもすれば闇が訪れるであろう逢魔が時の事だった。


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