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この世界のこと

「で?お前は何で魔獣に襲われてたんだよ?連れはいないのか?」


 地べたに座り込んでいた重い腰を上げて、律は泥のついたジーンズを手で払いながら少年に問う。


 その傍らには先ほどまで畏怖の対象であった黒い獣が、礼儀正しく座って成り行きを見守っている。その姿はまるで律に従属しているのか、彼の一挙一動に気を配っているようだった。


 少年はその奇異な光景を眺めながら、だがその問いに何やら気まずそうな表情で小さく目線を落とした。律はそんな少年を軽く一瞥すると、それにあえて気づかないふりをして、おもむろに脱いだジャンパーを少年の薄い肩に乗せる。


「…!?」

「…大きすぎるか?…いや、でも何とかなるか…」


 あまりに華奢な体に着せると、まるでジャンパーが歩いているかのように大きく、少年のくるぶしにまでその裾がくる。律は目を丸くする少年に構わず膝をついてファスナーを上げると、首回りに余裕があり過ぎるせいで、しきりに左右どちらかにずれ落ちようとするジャンパーを根気よく整え始めた。


「あ…え…!?…い、いえ…っ!!い……いいです、僕は…っっ!!僕なんかに着せたら汚れちゃいます…!!」

「気にすんなって、そんな事。寒いだろ?」

「ぼ…僕は大丈夫です…!慣れてますからっ!!寒いからお兄さんが着ててください…!」

「だからお前の方が寒そうだろうが」

「でも…!」

「見てるこっちが寒くなるんだよ。いいから着てろ」


 半ば強引に、だけれども律がひどく気を配ってくれている事が判って、少年は何となくくすぐったいものを感じながら暖かいジャンパーを視界に入れる。


 見た事もない形状の、見た事もない素材の外套────。

 街で見かけたどれよりも暖かいと思えるのは、きっと人から温かい行為を生まれて初めて受けたからだろうか。


 そんな事を思いながら、少年は仄かに笑ってぽつりと呟く。


「……あ…ありがとう…ございます……お兄さん」

「律だ」

「……え?」

「俺の名前。鳴神なるかみ 律」

「…?ナ、ナルカ……リツ……さん……?」


 小首を傾げながらたどたどしく律の名を呼ぶ少年に、律は膝をついたまま思わず吹き出すように笑い声を上げた。


「ははっ!!この世界じゃ馴染みがないか、この名前は。…律でいいよ」

「……リツ…さん…」

「お前は?名前は何ていうんだ?」


 問われた少年は、やはり目を丸くして呆然と律を見返した。


 今まで名を尋ねられた事は、ただの一度もない。いつだって誰の目にも見えていないかのように、あるいは邪魔者のように扱われてきた。だからこそ初めて名をかれて、少年はまるで人として扱われているような照れ臭さと、だが同時にどれだけ記憶をまさぐっても返答すべき答えが見つからない事に、困惑の色を深めた。


 ────少年には、名がない。

 本来はあるのかもしれなかったが、少なくとも少年の記憶の中には呼ばれた経験が一度もなかった。


 大人たちはいつも自分をいないように扱い、そして必要な時だけ声を掛ける。少年は悩みに悩んだ挙句、大人たちが自分に声を掛ける時の言葉を躊躇いがちに告げた。


「────『おい』」

「…?…『オイ』?それがお前の名前か?」

「……判りません。だけどお父さんもお母さんも、僕に声を掛ける時必ず最初にそう呼ぶから……」

「…!?」


 ───『おい、それを持ってきなさい』

 ───『おい、部屋を片付けておけ』


 いつからか『おい』と呼ばれるたび、それが自分の事だと理解した。それが明確に自分の名だと認識しているわけではないが、それ以外に答えが見つからず少し恥じ入ったように返答した少年を、律はただ黙したまま視界に留めた。そうしてしばらく見据えた後、律は静かに声を掛ける。


「……なら、俺がお前に名前をつけてもいいか?」

「……え?」

「嫌ならやめとくけど」


 律の言葉に少年は間髪空けず、大げさなほど顔を何度も横に振った。


「欲しいです…!!僕の名前…!!」


 恍惚な瞳を律に向けながら必死な様子で声を上げる少年にくすりと笑みを一つ落として、腰を据えるように律はもう一度地べたに座り込む。そうして胡坐をかく膝の上に頬杖をついてみせた。


「…うーん、そうだな……」


 誰にともなく呟いて、律は宙を彷徨わせていた視線をちらりと少年に向ける。

 華奢な体に、痩せ細って蒼白な顔。傷だらけでなければ年相応の愛らしい顔立ちだろう。そしてひと際、律の目を奪ったのは、あまりに儚げに映る少年の色の白さだった。泥だらけでもよく判る白い素肌に、雪を思わせるその白い髪────。


 そんな少年に打ってつけの名が閃いて、律はくすりと笑みを落とす。


「………『六花』。………『リッカ』はどうだ?」

「…!………『リッカ』……」

「俺がいた国の言葉で、雪の別称だ。雪の結晶が六片の花のように見える事から名が付いた。───お前の真っ白な心によく似合ってるだろう?」

「……!」


 黒い獣と律が対峙した時、律を置いて逃げようと思えばできたはずだった。だがこの少年は逃げるどころか魔獣に手を伸ばす律を必死に止めようとした。


 見たところ大人に対して不信感を持っていてもおかしくない扱いをされているのだろう。ジャンパーを着せる前の少年の姿は、この寒い時期に破れた薄い襤褸ぼろを身に纏い、そこから見え隠れする痩せ細った体躯には、ここでできたであろう擦り傷とは別に殴打の跡や火傷の跡などが見られた。にもかかわらず、それでも心を黒く濁らせる事なく人を思いやる心を失っていない真っ白で綺麗な心を、律は名で表現したのだ。


「それに髪も雪のように白くて綺麗だしな」

「…!?き、汚いです…!!薄汚れてて灰色になってるし…!!」

「はは!気にするな、そんな細かい事。…どうだ?気に入ったか?」


 問われて面映ゆそうに俯きながら、少年───リッカは小さくこくりと頷く。


 そんなリッカを微笑ましそうに眺めていた律の背に、どことなく寂し気な鳴き声がひとつ───さらに二つ三つ続いて、それでも振り返らない律に業を煮やしたのか、次いで催促するようにしきりにその大きな顔をすり寄せてくる主を、律は半ば呆れたように振り返った。


「……何だよ?お前も名前が欲しいのか?」


 それには肯定を示すように歯切れのいい鳴き声がひとつ。

 リッカと顔を見合わせ小さく笑い声を上げてから、律は「仕方がねぇな」とため息混じりに告げて再び思考を巡らせた。


「……そうだな。…じゃあお前は少し虎に似てるから───『コッコ』。黒い虎と書いて『黒虎こっこ』っていうのはどうだ?」

「………まんまなんですね……それに何だか響きが可愛い」


 名前の由来があまりに安直な事に、リッカは思わず苦笑交じりに告げる。それには律がさもありなんと答えた。


「だって可愛いだろ、こいつ」


 その返答にリッカはやはり目を瞬いた。

 魔獣をまるで愛玩動物を愛でるように可愛いと躊躇いもなく言えるのは、おそらく世界中探しても目の前にいるこの青年だけだろうか。


 魔獣という存在がどれほど恐ろしく危険な者なのかを知る由もない律に苦笑を落としつつ、それでも貰った名をいたく気に入ったのか恍惚とした瞳で尻尾をしきりに振る魔獣とは思えない黒虎のその様子に、リッカは、まあいいか、と諦観を多分に含んだ笑い含みのため息を落とした。


**


「…さて、と」


 話に一旦の区切りついたので、律は仕切り直すように声を上げながら立ち上がり辺りを見渡す。

 相変わらずその視界に入るのはどこまでも続く木々だけ。どこにいるのかもどうやってこの森を抜けるのかも判らないが、それでも先ほどと変わって心に不安が襲ってこないのは、独りではないからだろう。


 その頼もしい仲間を一度視界に入れて、律は黒虎こっこの背を軽く二回叩く。


「とりあえず黒虎がいれば他の魔獣に襲われることはないだろ。………こいつって魔獣の中では強い方だよな?」


 その外見から勝手に強いと想定したが、律は念のため確認を取る事に決める。その質問にリッカはこくりと頷いた。


「強い方と言うか……多分魔獣の中で一番です」

「へえ!!黒虎、すげえじゃん!!」


 律に褒められて、やはり得意げな顔で嬉しそうに尻尾を振る姿は猫と言うよりも犬に近いだろうか。


「…コッコは魔獣の王と言われるヘルムガルドという魔獣です。とても獰猛で気性が荒く、単独行動を好み森の奥から滅多に出てこないのですが、一度森から出ると一つの国を滅ぼし尽くすまで蹂躙し続けると言われています」


 だからこそリッカはこの魔獣と出くわした時、否応なく死を覚悟したのだ。決して気まぐれで見逃してくれることはないだろう、と。

 なのに今目前にいるこの魔獣───黒虎は、まるで犬猫のように目の前の青年に懐き甘えている。魔獣の王とまで言われたヘルムガルドのこのような姿を見た者など、おそらく過去を遡っても律と自分だけだろうか。


 何となく奇跡に遭遇したような心持ちになって内心で感嘆にも似たため息を落とすリッカを、律は半ば笑い飛ばすように呆れ声を上げた。


「獰猛?この甘えん坊がか?おまけに一国を滅ぼす?…冗談だろ。甘え尽くすの間違いじゃないのか?」

(………そう思っているのは、多分リツさんだけ)


 揶揄するように告げる律に、リッカは内心でそう呟きながらも苦笑するに留める。

 律はそれに小首を傾げながら、年の割に博識なリッカを振り返った。


「それにしても、まだ小さいのにずいぶん物知りなんだな」

「……いえ…これは別に物知りとかじゃなく…一般常識ですから……」

「一般常識で魔獣の事まで習うのか?どんな世界だよ」

「…え…っと……闇が広がって、少しずつ魔獣が増えてきてますから……」

「闇?闇が広がってるってどこから?」

「………あそこから」


 リッカはあまりにこの世界の常識がない律に目を瞬きながら、ある一点を指差す。そこは律の後方、律が目覚めた時まさにその目前にあった、ひと際存在感を主張していた────あの巨樹。


「…木?あの巨樹か?…あそこから闇が広がっているのか?」

「……正確にはあの巨樹が根を張るずっとずっと下の地の底からです。…あの巨樹は、闇が世界に漏れ出るのを防ぐくさびだと言われています」

「…聖女は?」

「…え?」

「闇を払うのは聖女だと相場が決まってるだろ。…さっき千年前まで聖女がいたって言ってたよな?今はいないのか?」


 やはりその質問にも目を丸くしながら、リッカは答える。


「……知らないんですか……?……聖女はもうこの世界にはいません。この世界は…『聖女に見放された世界』ですから……」

「聖女に見放された…?」

「……聖女が姿を消してからこの千年の間に、少しずつ聖女の加護が失われて闇が広がったと……」

「……それで『聖女に見放された世界』、か……」


 言い換えれば、『滅びに向かう世界』だろうか。


(…俺好みの世界設定だな)


 思ってわずかに心躍る。


 律はこの手の物語を好んで書く事が多かった。

 衰退し滅びに向かう世界と、その世界を救うために奔走する人々の賢明な姿。それが困難であればあるほど、それを打開する策を考えるのがたまらなく楽しく、困難な状況にもめげずに何度でも立ち向かおうとする登場人物の揺れ動く心情を描く事が半ば生き甲斐になっていた。何故だかそういう話を書いている時だけ、惰性で生きているような自分の人生の中に、生きているという実感を与えてくれるからだ。


 まさかそんな自分が、現実にそんな世界に行く事になろうとは────。


 そう思いつつどこか現実味がないのは、きっと今まで幾度となく自分の身の内に幾多の世界を構築してきたからだろう。物語の数だけ、律は様々な世界を自身の中に構築した。心のどこかでこの世界も数多あまたある世界の一つだと達観し、どこか夢見心地でまるで物語の中をただ楽しんでいるような気持ちがある事を自覚しつつ、律はふとリッカを視界に入れる。


 思案にふけっているのか目線を落として怪訝そうな顔をしている、少年。


(…そうだ。…俺と違ってリッカは、紛れもなくこの世界の住人なんだ)


 ────『滅びに向かう世界』と呼んで不謹慎にも心躍った、この世界。

 リッカはその世界で生まれ、その世界の中で暮らし生きている。リッカにとってここは夢や物語の中などではなく、決して逃げる事の叶わない確かな現実なのだ。それを他人事のように言われては、不快に思わない人間などいないだろう。


 不謹慎な事を一瞬でも考えてしまった自分にどこか気まずさを感じて、律は自嘲気味な表情で頭を小さく掻いた。

 そんな律には気づかず、リッカはわずかに逡巡した後、意を決したようにその重い口を開く。


「…リツさんってもしかして─────」

「…!!?」


 言い差したリッカの口がすぐさま噤んだのは、黒虎が何かの気配を感じ取ったのか唐突に立ち上がり、二人を守るように前に立ちふさがったからだった。


「……黒虎、何かいるのか?」


 黒虎の険呑な雰囲気に、律は声を潜めて尋ねる。それに応えるように黒虎は小さくうなり声を上げて、姿勢を低く身構えた。それを肯定と理解して、律は少し離れた場所にいるリッカをすぐさま自分の傍に寄せる。


「……俺から離れるなよ、リッカ」


 視界の端で頷くリッカを確認してから、律は耳をそばだてた。聞こえるのは風の音と、その風が木々を撫でる音だけ。魔獣である黒虎の聴力は、おそらく人間のそれを優に凌駕しているのだろう。しばらくしてようやく、律の耳にそれ以外の音が届いた。


 草木を踏みしめる音。

 それも一つや二つではない。

 数十ほどの足音が、こちらに向かって来ている。


(……これは…魔獣じゃない)


 聞こえる足音は、獣の蹄や柔らかいものが大地を踏みしめる音ではない。それはもっと硬い物が大地を蹂躙する音。中には金属音に近いものまで耳をかすめて、律の念頭にその音の主を彷彿とさせた。


「人間、か……?」


 目を見開き呆然と呟いた律の言葉を合図にするように、目前で草木を分ける音が森に響く。音のする方を注視していた律たちの視界にまず現れたのは、いかにも身分の高そうな身なりをした金髪碧眼の男だった。


 年の頃は二十代中頃だろうか。律とそう変わらない年でありながら、その精悍で凛々しい整った顔には重責を担っている苦労と自負が滲み出ている。その男の腰にはひと際立派な剣を携えているのが見えて、律は思わず警戒するように身構えた。


 そんな律を吟味するように見据えた後、後ろから声を掛けられた男はわずかに視線だけをそちらへと移した。


「レオスフォード様、率先して前に出られては─────」

「…静かに。……ヘルムガルドがいる」

「…!!?」


 声を潜めて警戒を促すように告げた男───レオスフォードの言葉に、声を掛けてきた中年の男は目を白黒させて、慌てて律たちに視線を向ける。その先にヘルムガルドの姿を見つけると、やはり後続の人間たちの動きを制するように手を軽く上げ、口元に立てた人差し指をあてがう姿が見えた。


(……あれは…兵士…?いや…どちらかと言うと騎士だな…)


 足には鉄靴サバトンとすね当てであるグリーブ、そして手には籠手ガントレット前腕当ヴァンブレイスと、武具を身に纏っているのが見て取れる。それでも兵士と言うより騎士という表現の方が腑に落ちるのは、彼らの立ち居振る舞いと、風が吹くたびに揺れる揃いの赤いマントを身に付けているからだろうか。


 その彼らがひどく緊張した面持ちで見つめる先には、威嚇するように唸るヘルムガルド───黒虎の姿。


「……どういたしましょう?レオスフォード様。下手に刺激しては全滅する恐れがございます…」

「…それで済めばいいがな」


 一国を滅ぼし尽くすとまで言われた魔獣の王だ。これが引き金となって森から出ないとも限らない。

 レオスフォードは小さく舌打ちをすると、ヘルムガルドの傍らに立つ律たちに視線を移した。


「…その魔獣から、ゆっくりと離れるんだ」

「…!」


 静かに掛けられたその言葉が一体誰に向けたものなのかを悟るのに、律は十秒ほどの時間を要した。周りを見渡して自分たち以外がいない事を確認してから、怪訝そうに戻した視線とレオスフォードの視線が交わって、ようやく気付く。


(……?…俺たちに言ってるのか?)


 訳も分からず眉根を寄せる律に、レオスフォードは念を押すように言葉を重ねる。


「…お前たちは異界から来たばかりだから判らないだろうが、その魔獣はあまりに獰猛で危険だ。我々に注意が向いている今のうちに、ゆっくりと離れろ」

「…!!?」


 やはりヘルムガルドを刺激しないように静かに落とされたその台詞の中に、律は聞き捨てならない言葉を見つけて目を見開いた。リッカもまた想像通りの言葉に目を白黒とさせて律を見上げる。


「俺が異世界から来たって知ってるのか…っ!?」

「静かにしろ…!ヘルムガルドを刺激するな…!」

「黒虎は危険じゃない…!!いいから質問に答えろよっ!!」

「だから声を荒げるな…!!」


 ヘルムガルドの傍で騒ぐ律に、レオスフォードのみならず後ろに控えている騎士たちもこぞって狼狽する。慌てふためき蒼白になる彼らの目には、どうやら律よりも黒虎の方が映っているらしい。これでは埒が明かない、と呆れたように盛大なため息を落として、律は未だ警戒を解かない黒虎の背を軽く叩いた。


「…!!?」

「黒虎、とりあえず威嚇するのはやめろ。これじゃ話にならない」


 律の言葉にぴくりと耳を動かした黒虎は、生きた心地がしないように息を潜める彼らと律を互替かたみがわりに見る。そうしてわずかに警戒心を残しながらも、黒虎は言われた通り唸り声を止めて大人しく律の隣に座り込んだ。それでも律とリッカの周囲をその長い尾で抱くようにくるりと巻いたのは、おそらく二人に危害を加えるなと言う彼なりの警告なのだろう。それを理解して、律はくすりと笑みを落としつつ黒虎の頭を撫でる。


「…ありがとな、黒虎」


 その謝意に応えるように、クオン、とひと声鳴くヘルムガルドの姿に、レオスフォードたちは呆然と立ち尽くしたまま目を離すことが出来なかった。


(……あれは…何だ……?…本当に魔獣──いや、ヘルムガルドなのか……?)


 決して人に従う事のない、魔獣。

 それも今目前にいる魔獣は、一国を滅ぼせるほどの圧倒的な力を持つ、脅威の象徴だったはず。

 その魔獣の王が人に懐き、人を守る事などあり得るのだろうか───?


 その信じがたい光景を唖然と眺めている彼らの耳に、驚くほどよく通る声が届く。


「それで?」

「…!」

「さっきの質問の答え。俺はまだ聞いてない」


 どれほど凄い事をやってのけているのか全く自覚していないのか、そう問う青年には気負いもてらいもない。ごく自然に振舞う律の姿にようやく心にわずかばかりの平静が戻って来て、レオスフォードはなおさら心を落ち着けるように一度大きくため息をいた。


「……異界の門が開いたからだ」

「…?異界の門?」

「…異界とこの世界を繋ぐ扉の事だ。通常、異界の門は常に閉ざされているが、気まぐれに開く事がある。その時稀に門を渡って異界から人がこちら側に迷い込む事があるそうだ。…我々は門の番人であるリシュリット殿と共に、その異界の旅人を保護しに来た」

「……保護?…武装して?捕獲の間違いじゃねえの?」


 揶揄するようににやりと笑いながら、律は冷ややかな視線をちらりとレオスフォードの後ろに控えている騎士たちに向ける。レオスフォードと呼ばれたこの男も含め、彼らは総じて武装している。手足には武具を身に纏い、腰には剣を携え、そして先頭に立つレオスフォード以外は警戒しているのか、腰に差した剣に手をあてがう姿もそこかしこに見えた。


 警戒の対象はおそらく黒虎だろう。だがその黒虎に守られている律たちも、もはやその対象に入っていると言わんばかりの彼らの態度が気に食わない。


 その不愉快さを前面に押し出す律の態度に、レオスフォードは「仕方がないだろう」とため息交じりに返答を続ける。


「…ここは魔獣の森だ。何の装備もなしに入るわけにはいかない。保護する前に我々が全滅しては意味がないからな」

(……それもそうだ)


 律はひとまず一応の得心を示す。

 実際、律も黒虎と対峙した時、戦えるかどうかは別にして武器があればと内心で思ったばかりだ。『魔獣の森』という名からして、黒虎のような魔獣がうようよしているのだろう。そんな森を装備もなしに歩けば、間違いなく魔獣の餌食になる事は目に見えている。


 そう頭では理解していても素直に首肯できないのは、黒虎が無害だと判った今でも変わらず警戒を解かない彼らの態度に腹を立てているからだろうか。


 それを腹の内に隠しつつ、律は続ける。


「…それで?俺たちを保護してどうするつもりだ?」

「…?言葉の通りだ。衣食住を完備し必要ならこの世界で暮らせる基盤作りの手助けもする」

「今まで来た異界の旅人もそうしてきたのか?」

「多分そうだろう」

「…多分?」

「少なくとも私が生まれてからやってきた異界の旅人は、お前たちが初めてだからな」

「………ふーん…」


 いかにも納得がいかないとばかりに気のない返事を返す律の視線は、会話の相手であるレオスフォードではなく相変わらず後ろの騎士たちに向けられたままだ。


「…そう思ってるのは、あんただけかもな」

「…!……何が言いたい?」

「…異界の旅人が実際にどう扱われていたのかを俺は知らないし、あんたも知らないって事だ」

「…!」


 心外な言葉にレオスフォードは目を見開き不快さを表すように眉根を寄せた。


「…痛くもない腹を探られるのは不愉快だ…!」

「ならあんたは剣を向ける相手を無条件に信用できるのか?」

「…!?」


 言われてレオスフォードは慌てて後ろを振り返る。


 全員ではない。だが固唾を呑んで二人の会話に耳を傾けながら、やはりヘルムガルドへの警戒とそこから生まれる緊張感からか無意識に剣を抜く者が点在しているのが見て取れて、レオスフォードは眉根を寄せながら小さく舌打ちをした。


「剣を下ろせ…!彼らは何も知らない異界の旅人だ」

「……で、ですが…!あのヘルムガルドが大人しくしているわけがございません…!!」

「…あのヘルムガルドはどういうわけか、あの青年の言う事を聞いているだろう。…軽率な行動はよせ」

「だからです…!レオスフォード様…!」

「…!」

「あの青年が命じれば我々は────」

「よせ…っっ!!!」


 言葉の先を察して慌てて制するも、その表情はどれも恐れと疑心をふんだんに含んでいる事が見て取れる。レオスフォードは一度ヘルムガルドを視界に入れて、諦観を示すようにため息をいた。


「…すまない、不躾な事をした。非礼は詫びるが、どうか判ってほしい。この世界の者にとって、あのヘルムガルドは畏怖の象徴なのだ」

「……いや、判るよ」


 判っている。

 魔獣の王と呼ばれているくらいだ。黒虎がどういう存在で、この世界の人間にとってどれほど脅威な存在かも、彼らの様子を見ればすぐに判る。そしてその魔獣の王を従えているように見える自分もまた、それと等しく畏怖の存在だと認識される事も────。


(…まいったな。来て早々、追われる身になるのか……)


 内心で思いつつ、律はやはりうんざりとした様子でため息を落とす。あるいは諦観を多分に含んでいたのかもしれない。


「……本当は訊きたい事が山のようにあるんだけどな」


 異界の門の事、その門を渡るという旅人の事、この世界を構築するあらゆる事象と、そしてかつて渡ったとされる異界の旅人が、元の世界に戻れたのかどうか────。


 訊きたい事は、おそらく尽きる事はないだろう。このまま保護されれば、自分が望む答えかどうかは別にして、質問に対する答え自体は貰えるはずだ。

 それでも────。


 律は隣に座る黒虎と、自分の後ろで怯えたように寄り添いながら成り行きを見守っているリッカを視界に入れる。

 おそらく保護される方がリッカにとってはいい結果を生むだろう。きっと目の前の男は、リッカの事情を聞けば決して無下にする事が出来ない人間だ。リッカを保護した後は、必ずリッカの未来も守ってくれる。

 だが────。


 律は心に引っかかるもう一つの懸念と天秤に掛けるように、目線を落として思議を深める。その律の様子を、疑心を抱いて悩んでいると判断したのだろう。レオスフォードは再び諭すように言葉を添えた。


「…突然、別の世界に放り込まれて不安になる気持ちは判る。だが我々は本当に危害を加えるつもりはない。…信じてくれとも言えないし、どうすればお前たちの信頼を得られるかも私には判らない。だがお前たちの身の安全は私が保証する。必ず私が守ると誓う。…この剣と我が命にかけてもだ」

「…『お前たち』と言ったな?」

「…?」

「その言葉に嘘偽りはないな?」

「……!」


 念を押す律の言葉に、一瞬怪訝そうな顔を向けたレオスフォードは、すぐさま言外に何を含んでいるのかを悟って思わず目を見開く。返答に窮して黙したまま険しい表情を俯かせる彼の様子を見れば、もはや答えを聞くまでもないだろう。


 律はやはり諦観を込めたため息を一つ落として、後ろにしがみつくリッカの頭を撫でた。


「…ごめんな、リッカ」

「………え?」


 訝しげな表情を返すリッカに小さく笑い返すと、律は再びレオスフォードを強く見据える。

 ─────腹は決まった。


「…判るよ、あんたが誠実な人物だって事は」

「…!」

「嘘をく事も出来ないし人道にもとる行為をするつもりもない。国がどう言おうが、あんたはあんたの中の正義に忠実に従うことが出来る人間だ」


 人を見る目は小説を書く事で否応なく養われた。どういう人物であればどういう時どういう行動を取るかはもちろんの事、逆に人の言動如何でその人間がどういう人物かもある程度予測できた。


 少なくとも、この目の前の男は卑劣な行為を好んでするような人間ではない。むしろその行為に嫌悪を抱き、率先して是正しようとする人間だろう。他の人間の意図がどこにあるかは判らないが、レオスフォードと呼ばれたこの男だけは、律たちを保護しに来たという言葉に嘘はないはずだ。それはヘルムガルドから律たちを離そうとした行為からも窺い知ることが出来るし、口先三寸で騙すつもりも強制的に連行するつもりがない事も判る。


「…おそらく、この場ではあんたが最も信頼するに値する人物なんだろうな」

「なら────」

「だがそういう人間は総じて、正義を施す対象が限定的な場合が多いって相場が決まってるんだよ」

「…!」


 一瞬何の事か判らず眉根を寄せたレオスフォードは、すぐさま悟って弾かれるようにヘルムガルドへ視線を移す。


「あんたは俺たちを助けるつもりはあっても、黒虎を助けるつもりはない」

「…っ!待て…っ!!!」


 律が次にどういう行動を起こすかを察して、レオスフォードは先んじて制止の言葉を発する。だが律は構わずリッカを抱きかかえると、その勢いのまま黒虎の背に跨った。


「行け!!黒虎っ!!」

「待つんだ…っっ!!!」


 律が叫ぶのとレオスフォードが駆けだしたのはほぼ同時。だが黒虎もまた律の意図を理解していたのだろう。二人が背に乗ったと同時にすぐさまレオスフォードたちとは逆の方角へと駆け出す。瞬間、レオスフォードの伸ばした手からするりと抜け出したその背に、旋律に乗って呪文のような声がかすかに届いて、律は慌てて後ろを振り返った。


「…!詠唱…!?魔法か…!?」


 見れば騎士たち数人が剣を胸に構えて何かを唱えている。その胸か剣かがぼんやりと光り出す様が見て取れて、律は黒虎に声を掛けた。


「黒虎…!!どうにかできるか…!?人は傷つけるなよ…!!」


 その問いかけに応えるように、黒虎は駆ける体をその勢いのままくるりと翻して、彼らと対峙する形を取る。そうして間髪空けずに地響きにも似た咆哮を上げた。その一部始終を律が視界に捉える事ができたのは、ほんの一瞬。すでに放たれたであろうこちらに向かう炎らしきものと、咆哮と同時に周りの木々を押し倒すほどの突風にかき消される様───次の瞬間には再び身を翻して彼らの姿が遠ざかるのが見えた。


(……黒虎は強すぎて力の加減が難しいのか……!…怪我人が出てないといいけど…っ)


 黒虎にとっては軽くあしらっただけなのだろう。彼にとってはただの咆哮、だがその咆哮には木々を押し倒すほどの威力がある。死者はともかく、怪我人が出る事は免れないだろうか。


 律は不安を胸に抱きつつ、遠ざかる悲鳴と喧噪、そしてどこからかキー…ン、と甲高い音が聞こえたような気がして、黒虎の背で風を受けながら次第に小さくなる景色を振り返った。


**


「…お怪我はありませんか?レオスフォード殿下」


 この場にそぐわないほど柔らかな声が耳に届いて、レオスフォードは声の主を振り返る。


 そこに佇む、筆舌に尽くし難いほどの壮麗そうれいな容姿を持つ一人の人物。

 透き通るほどの白い素肌に、やはり透き通るような銀白色の長い髪を携え、その手にはいかにも稀少な風格を漂わせる細かな細工が施された銀の長い魔杖ロッドが握られている。目が見えないのかその瞳は閉ざされたままだが、その容貌はこの世のものとは思えないほど美しく整っているのがすぐさま見て取れた。


 レオスフォードは彼に向けた視線を一度騎士たちに軽く流した後、怪我人がいない事を確認して小さく息を落とす。


「……ああ、助かった。リシュリット殿」


 謝意は伝えているものの、いかにも不満があると言いたげな彼の表情に、リシュリットはくすりと柔らかな笑みを落としながら手に持つ魔杖を掲げる。瞬間、彼らの周囲を守るように穹窿きゅうりゅう状に張られた半透明の薄い膜のようなものが、はらはらと剥がれ落ちるように消えるのが見て取れた。


「怪我人がいないようで何よりです」

「……なぜ、姿をお見せにならなかった?リシュリット殿」

「…………」

「貴方が姿を現わしあの青年に説明をされていれば、彼もこのような暴挙には出なかったかもしれない。…貴方は門の番人として、それを行う義務を背負っておられる事をお忘れか?」


 責め立てているような物言いになっている事は大いに自覚してはいるが、レオスフォードは彼の行動がどうしても解せなかった。まるで故意にあの青年から身を隠していたような節がある。


 異界の旅人を保護し、その善悪を見極める重責を担っているにも関わらず、だ。


 リシュリットはその問いにしばらく沈黙を返した。目を伏せ口元に手をあてがう姿は、返答に窮したというよりも一番適した言葉を探していると言った方が的を射ているかもしれない。そう思って返答を待つレオスフォードの耳に、やはり緊張感で張り詰めたこの場にそぐわないほど柔らかで穏やかな声が返って来た。


「……レオスフォード殿下は、あの若者と話しをしていて何も違和感を覚えませんでしたか?」

「……?…違和感?…どの発言にだ?」

「…いえ、そういう局所的な話ではなく───」


 言い差して、リシュリットは口を噤む。その視界に入るのは、心底こちらが言わんとしている事が判らない、と言った様子のレオスフォードの姿。彼は本当に、あの若者との会話に特別何かを感じたわけではなさそうだった。


(…ではこれは、私だけの感覚なのだろうか……?)


 あの若者の言葉が、声が、嫌に心に刺さる。耳の奥深くに浸透し、妙に心を揺さぶって頭から離れない。今もまだあの若者の声が耳の中でこだまして、忘れようと思っても忘れられないのだ。

 ───なのに、それに対して嫌悪の情が何一つ表出してこないのが、また解せない。むしろ心地良い響きにおもねてしまいたくなるほど、得も言えぬ幸福感で満たされるのだ。


 その要因が何かは判らない。少なくとも今まで幾人かの異界の旅人と相見あいまみえたが、これほど心をかき乱してくる者は存在しなかった。咄嗟にあの若者の前に出ないという判断を下したが、おそらくそれは間違いではないのだろう。


 リシュリットは未だ胸中に居座る高揚感を押し隠すように、ぽつりと呟く。


「…あの若者と言葉を交わせば、おそらく私は正常な判断ができないでしょう……」

「…!……それはどういう……?」


 言葉の意を掴み損ねて怪訝そうに眉根を寄せるレオスフォードは、その視界に自分以上にその答えを欲するように困惑気な笑みを落とすリシュリットが見えて、たまらず閉口した。これ以上質問を繰り返しても答えが出てこない事を悟って諦観のため息を一つ落とすと、レオスフォードは仕切り直すように律たちが去った森の奥を見据える。


「…リシュリット殿は彼を善人だとお思いか?」

「お答えでき兼ねます」


 即答されて、レオスフォードはうんざりしたように視線をリシュリットへと流す。


「………少しは協力しようという姿勢を見せていただけると助かるのだが」


 苦言を呈するレオスフォードにくすりと笑みを返して、リシュリットもまた瞼を閉じたままの瞳で彼らが消えた森の奥を見据えた。


「少なくとも悪人ではないでしょう。…あのヘルムガルドを手懐けてはおりますが、あの若者はそれを笠に着る事も脅す事もせず、逃げる時でさえ人を傷つけるなと言い聞かせておりました」

「……どうやってあのヘルムガルドを手懐けたと思う?」


 それにはゆっくりとかぶりを振った。


「…判りません。魔獣は決して誰にも膝を折らない。それは神にも等しい聖女に対してもです。…ただ────」


 言い差して、リシュリットは自身の胸に手を当てる。

 今も自分の胸に居座るこの幸福感を、あのヘルムガルドも感じていたとしたら───?


 確証はない。だがリシュリットの中で憶測から確固たる真実に変わろうとしている。

 それを悟られないよう小さくかぶりを振って、リシュリットは再び森の奥に顔を向けた。


「…ただ、早く見つけ出して保護する方がよろしいでしょう。あの若者の言葉を借りるとすれば、異界の旅人は総じて、常識では測れない能力を持っていると相場が決まっておりますから」


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