漆黒病のこと・三編
レオスフォードが異界の旅人の拉致事件を知ったのは、その日の夜遅くだった。
ギルドに行かせたカッティとザラの帰りが遅く、堪りかねたレオスフォードは執務を終えた足でそのままギルドへと向かった。そこでギルド長であるゼフォルから異界の旅人が泊っているという宿を教えてもらい、向かってはみたものの異界の旅人はおろか二人の姿すらない。女将の話では、異界の旅人がまだ戻っていないと知ると二人深刻そうに言葉を交わし、そのまま慌てて宿を出て行ったと言う。
レオスフォードは手当たり次第、街中を探し回り、探す所も尽きていよいよ街の外に捜索範囲を広げようとした矢先、外から戻ってきた二人と鉢合わせしたのだ。
それはもうすっかり陽が落ちた夜半過ぎの事だった。
「カッティ…!!今まで一体どこで何を─────」
「どこに行こうとなさっていたのです…!?レオスフォード殿下!!!」
レオスフォードの言葉を遮って、カッティは出合頭に問い詰める。
「まさかお一人で外に出ようとなさっておられたのですか!!?それもこんな夜更けに!!!?」
「外から帰ってきたお前に言われたくない!!こんな時間まで外で何をしていた!!?どれだけ探し回ったと思ってる!!!」
「私にはザラがついておりますので危険はございません!!!!」
「………………念のためお伝えしておきますが、殿下は私よりもずっとお強いですからね?」
二人のいつもの痴話喧嘩に、ザラは諦観を込めたため息を落としつつ冷静にそう言葉を添える。
レオスフォードはすっかり冷え切った顔に渋面を取りながら、白い吐息を落とした。
「……それで?何があった?」
その問いかけにカッティ達は互いに顔を合わせて、諦観するようにレオスフォードと同じく白い吐息をわずかに落とす。
「……異界の旅人が、何者かに拉致されました」
「…!……どういう事だ!?」
「……判りません。どうやらギルドで我々と行き違いになったようで、すぐに後を追いかけたのですが………」
言葉尻を濁して、ザラはカッティをちらりと視界の端に入れる。どこまでの情報をレオスフォードに話していいものやら判断に困って、カッティに確認の意を込めた視線を送っているのだろう。それを受けて、カッティもいよいよ降参するように言葉を続けた。
「……ギルドを出て異界の旅人が泊っているという宿に向かう途中、裏道で数人が争ったような足跡を見つけました。そのうち一つは明らかに小さい……幼子ほどの足跡のように見受けられました」
「…!……あのシラハゼか?」
レオスフォードの言葉に、カッティは首肯を返す。
「我々もそう思い、その足跡が続く方へと向かったところ、裏通りに門へと続く橇跡がありました。念のため宿に向かい異界の旅人の所在を確かめようとしたのですが、女将に訊ねたところまだ戻っていないという事でしたので、その橇跡を追って街の外を捜索していたのです」
「……無茶な事を…!」
レオスフォードはカッティの説明を聞きながら、眉根を寄せて嘆息を落とした。
「もし犯人と出くわしたらどうするつもりだ…!?お前には身を守る術がないだろう!!」
「私にはザラが────!!」
「お前はザラの命まで危険に晒したんだ!!それを自覚しろ!!」
「…っ!!」
あまりの正論にカッティは反論できず口を噤む。肩を落として俯く主の姿に、ザラはたまらず擁護するように口を挟んだ。
「……レオスフォード殿下、どうかカッティ様をお責めにならないでください…!止められなかった私にも責はあります…!」
「ああ、そうだ!!主を諫めるのもお前の仕事だろう!!自覚があるならこれ以上カッティを甘やかすな!!」
─────どうやら藪蛇だったようだ。
叱責を受けて返す言葉もなく仲良く閉口する二人に呆れたようにため息を送って、レオスフォードは誰にともなく突然、ある人物の名を呼ぶ。
「─────リシュリット殿」
呼ばれた相手は唐突に何もない空間からふわりとその姿を現わして、重力を感じさせない軽やかな動きで地面に降り立った。まさかそこにリシュリットがいるなど夢にも思わなかったカッティとザラは、目を丸くして唐突に現れたその人物を凝視している。
「……申し訳ありません、私が短慮でした……」
一連の会話を聞いていたのだろう。姿を現わした途端、リシュリットは頭を垂れて謝罪を口にする。
「悠長な事を言わず、すぐにでも彼を保護すべきでした……」
「言っても仕方のない事。とにかく彼らを探す手助けを願いたい」
「もちろんです」
承諾を示すように頷いてから、リシュリットは唖然としているカッティに向き直る。
「カッティ。その橇跡を見つけたという場所まで案内願えますか?」
「は、はい…!」
カッティとザラの案内で橇跡があったという裏通りに到着したリシュリットは、そこにあったであろう橇跡の痕跡に触れるように、膝をついて雪道に手を添える。
「ここに橇跡があったのですね?」
「はい。ここから門へと続いておりました。我々はその橇跡を辿って外まで追いかけたのですが、途中で降り積もる雪に痕跡を消されて後を終えず、断念して街に戻って来たのです」
カッティの説明にリシュリットは一つ頷いて、門がある方角へと視線を向ける。
当然、そこにあったであろう橇跡はすでにその痕跡すらない。この国は雪が際限なく降り積もる。どのような跡も、雪が綺麗にその姿を覆い隠してしまうのだ。そうなればもうそこにあった事実でさえ証明する事が難しく、不確かな事実としてしか認識されない。
それを確かな事実として視覚化できる術を、妖精の血を受け継ぐリシュリットだけは持ち合わせていた。
リシュリットはおもむろに立ち上がって、手に持っている魔杖を掲げる。暗闇の中に青とも緑とも言えない光が場を一瞬包み込むと、何もなかった雪道に門へと延びる橇跡が、やはり青とも緑ともつかない色にふわりと輝き始めた。その光の道を、カッティとザラは目を瞠って眺める。
「これは…!?」
「かつてそこに存在した任意の痕跡を浮かび上がらせる妖精の魔法です。ですがこの魔法が効力を得るのはたった一度きり、それもそう長くは持ちません。急いで後を追いましょう」
リシュリットの言葉に全員が頷き、その光の道を追って門から街の外へと出る。その光の道は魔獣の森に沿って南東へと続いていた。歩きやすいようにリシュリットが雪を溶かしながら先頭を歩き、ある程度進んだところでザラが声を掛ける。
「私たちが後を終えたのはこの辺りまでです。もうこの先から橇跡はなく、これ以上進むと街が見えなくなるという事もあって断念いたしました」
「……賢明な判断だ。森から魔獣が出てくる可能性もある。…特に夜は奴らの独壇場だからな」
レオスフォードの言葉に一つ頷いてから、ザラは伸びる光の道の先を見据えた。
「……それにしてもこの橇跡…ずっと魔獣の森に沿って続いておりますね?」
「ああ……まさか魔獣の森の中に連れ去られたのか?」
それにはリシュリットが頭を振った。
「…いえ、橇で連れ攫われているところを見ると魔獣の森ではないでしょう。森の中は雪がありませんから」
この街は魔獣の森からほど近い場所にある。魔獣の森に入るつもりなら橇は返って邪魔になるだけだ。
「……なら、この道はどこに続いている?この先に何かあったか?」
「………この先─────」
訝しげに光の道が続く先を見据えながら何気なく落としたレオスフォードの疑問を、カッティはぽつりと復唱して気づく。
「…!森の教会────…!」
同時に声を発したのは、カッティとリシュリット。その二人を、レオスフォードとザラは訝しげに視界に捉えた。
「森の教会?そんなものがあったか?」
「……打ち捨てられてもう二、三百年は経っておりますから」
カッティの言葉を受けて、リシュリットが続ける。
「……闇が広がるにつれ、魔獣の森の面積も徐々に広がっている事はご存じでしょう。まだ魔獣の森が今ほど大きくはなかった頃この辺りにも街はあったのですが、年々森が広がり街は場所を移さざるを得なくなりました。それが今のフリューゲルです。当時の家屋のほとんどは取り壊されるか、そのまま新しい街に移築されましたが、教会だけはここに街があった記録としてそのまま残されたのです」
「それが森の教会か?」
リシュリットとカッティが頷く。
拉致したのなら、監禁する場所が必要だろう。この辺りにある建物がその森の教会だけなのだとしたら、そこに異界の旅人たちがいる可能性は極めて高い。
レオスフォードはそう確信して、促すように皆を視界に入れた。
「よし、急ごう」
ほどなく歩いたところで、ようやく魔獣の森の近くにひっそりと佇む教会と思しき建物が見えてきた。光の道がその前で途切れている事を確認できたところで、ふわりと光が消える。
「……ここか」
消えた光の道の代わりに、リシュリットは魔杖に淡い光を灯す。その光の中に浮かび上がる、朽ちた教会と思しき建物─────。
二、三百年もの間、雨風に晒されていたからだろう。風化し始めているのか、風が吹くと石壁からさらさらと砂のような細かい粒子が闇の中に舞う様子が見て取れる。壁はどこもかしこもヒビ割れ、屋根には穴が空いているのか薄いベニヤ板のようなものが置かれていた。
明らかに人の手が加えられたような跡。
だが、とレオスフォードは怪訝そうに眉根を寄せた。
「……おかしい。人の気配がしない」
「…!……ですが、橇跡は間違いなくここまで続いておりましたが……」
「いえ、レオスフォード殿下のおっしゃる通りです。この建物の中には人の気配がない」
ザラの疑問を払拭するように、リシュリットはそう断定する。カッティはザラと一度目を合わせた後、目の前の廃墟に視線を移して口を開いた。
「…とにかく中へ入ってみましょう。何か手がかりが残されているかもしれません」
皆一様に頷いて、廃墟に足を向ける。朽ちかけた扉をレオスフォードがゆっくり開くと、錆び付いた蝶番が鳴らす甲高い音が建物中に鳴り響いた。それがいかにも中は無人だと物語っているようで、底気味が悪い。
闇が視界を奪ったその室内を、リシュリットは魔杖で淡く照らし出した。色褪せて風化した石壁の砂埃と崩れた壁から落ちたであろう瓦礫が、所狭しと床に散乱している。隙間風が絶えず建物の中を流れているからだろう。室内とは言っても、外の気温とそう変わりはなかった。
その教会の面影をわずかばかり残した建物の中を、レオスフォード達の足音と時折踏みしめる砂利の音だけが響いていた。
「……人がいた形跡があるな」
「…ええ、それもかなり数が多い」
砂埃の上に、大小いくつもの足跡が見て取れる。ざっと見積もっても十数人分の足跡はあるだろうか。
一行はそのままわずかに開いている扉に視線を向けた。やはりレオスフォードが先陣を切って扉を開くと、そこにはおざなり程度に置かれたテーブルや椅子、そしてソファとベッドが視界に入ってきた。
「…?……最近まで誰かが住んでいたのか?」
そういう生活感が、この一室から見て取れた。
テーブルの上に置かれた食器やベッドに使われているシーツや布団は、どれも薄汚れてはいるものの、どう見ても二、三百年前の物には到底見えない。明らかに、つい先ほどまで使われていたかのような痕跡があった。
「……殿下、こちらには幼い子供が数人暮らしていたような形跡もございます」
別の一室を見ていたカッティとザラが、そう声を掛ける。レオスフォードは足をそちらに向けて、部屋の入口に立った。
おそらく慌てて出て行ったのだろう。人形や積み木、絵本などが散乱したままとなっている。ほとんど襤褸と言ってもいい子供用の衣服も数着残されているのが見て取れた。
(……拉致された異界の旅人と、数人の子供の形跡────。普通に考えれば、この子供たちも拉致された子供たちだと考える方が妥当だろう。だが……)
心中で思案しながら、レオスフォードは取り残された人形を手に取る。
薄汚れた、ボロボロの人形。よくよく見ると、どうやら手作りなのだろう。決して上手いとは言えないが、それでも使う者への精一杯の愛情が見て取れた。絵本も、積み木も、そして残された衣服すらやはり手作りのようで、それは明らかにここに住んでいた者が子供たちに与えた物のように思える。
拉致してきた子供たちに、わざわざ手作りの物を与えるだろうか─────?
異界の旅人を拉致した行為と、子供たちに対する対応がひどくかけ離れていて、どうにも印象が一致しない。
(……何のために異界の旅人を拉致したか、だな)
それが判れば、おそらく犯人像もおのずと浮かび上がるのだろうか。
その疑問の答えを見つけたように、ベッドに手を添えていたリシュリットが告げる。
「……病人がいたようです」
「病人?こんなところに病人が?」
どう見ても病人が養生できる環境ではない。むしろ衛生面では最悪だろう。朽ちた石壁から絶えず風化した砂のような粒子が舞う所為で空気が常に悪い上、隙間風が吹いて底冷えするように寒い。おざなり程度に暖炉があるが、火を灯したところで焼け石に水だろうか。
怪訝そうな視線をベッドに向けるレオスフォードは、だが続くリシュリットの言葉に目を見開くことになる。
「……それも、漆黒病の罹患者です」
「…!漆黒病…!?」
レオスフォードの兄の命を、今まさに奪わんとする憎きその病名─────。
その名が唐突に出てきた事で、レオスフォードの渋面はなおさら深く刻まれる事になった。その親の仇でも見るような視線を、ベッドに手を添えるリシュリットに向ける。
「……おそらく、もう末期なのでしょう。このベッドには闇が深く染みついております」
「漆黒病の罹患者が異界の旅人を拉致したのですか?」
なおさら意味が判らないと言わんばかりに小首を傾げるザラに、リシュリットは首肯を返す。
「状況を見る限り、そうとしかお答えできません」
「なぜ漆黒病の罹患者が異界の旅人を拉致する必要がある?」
その質問には、リシュリットが間髪空けずに答える。
「異界の旅人には、漆黒病を治癒する手立てがある」
「…!?」
「─────少なくとも、彼を拉致した者たちはそう考えたという事でしょう」
リシュリットのその返答に、レオスフォードは息を呑んだ。
あれほど探し求めたものが、異界の旅人の手の内にあるかもしれない─────その事実が希望が差したように嬉しく、その希望を目の前にして取り逃がしてしまった事実が、ひどく腹立たしい。
無意識にか拳を握り自分自身に対する怒りを持て余したかのように険しい表情を取るレオスフォードを視界に入れて、リシュリットはわずかに窘める色を乗せながらやんわりと告げる。
「レオスフォード殿下、あくまで可能性の話です。あまりご自分を責めないように」
「…!……判っている」
そう言いながらもやはり納得していないように、レオスフォードは渋面を取る顔をリシュリットから背ける。そんな彼に小さくため息を落としつつ、リシュリットは驚嘆する皆の一番奥でただ一人、確信していたように強い眼差しをこちらに向けるカッティに視線を移した。
(……やはり、カッティも気づいていた……)
カッティは聡い。
そして自分に近しい存在だ。
自分が気づいたのなら、カッティもまた気付いていても何らおかしくはない。
それでもレオスフォードに何一つ報告を上げていないのは、他意があったわけではなく単に間違いなく確信を得てからと考えたからだろう。カッティは一番近くでレオスフォードを見てきた。兄に対する強い想いを知っているだけに、ぬか喜びさせたくはないと考えるのはごく自然な事だろうか。
わずかに告げるべきではなかったかと、人知れず後悔にも似た感情に胸を苛むリシュリットに、そうとは知らないレオスフォードが訊ねる。
「リシュリット殿、彼らがここからどこに向かったのか、先ほどの魔法で追跡して頂く事は可能か?」
問われたリシュリットは、ゆっくりと視線を窓の外へと向けた。
闇の中に浮かぶいつもと変わりのない、その雪景色。変わりがないはずなのに、どこかしら違和感のあるその雪景色を視界に捉えながら、リシュリットは思う。
本来であれば追跡する事は可能だろう。先ほどの魔法はフリューゲルの街から目的地である森の教会に着くまでの道を指し示した。今から行うのは、ここから別の目的地に向かう道を指し示すための魔法だ。一度きりという使用制限の範疇ではない。
だが────。
「……申し訳ありませんが、追跡は出来そうにありません」
「…!?なぜだ…っ!!?」
「何者かが追跡の妨害魔法を使用しております。彼らの痕跡を一つ残らず消されてしまっては、追う事も叶いません」
そのリシュリットの言葉を聞き終わるか否かといった瞬間、唐突にガラスが割れる音が部屋中に響き渡った。途端に外気温の冷えた空気が部屋に充満し雪が入り込む。その割れた窓ガラスの前で拳を握りながら隠しきれない怒りを顕わにしていたのは、他ならぬレオスフォードだった。
「…!!?レオスフォード殿下…っ!!?何をなさっておられるのです…!!!?」
蒼白な顔でカッティが真っ先に駆け寄り、窓ガラスの破片で血まみれになったレオスフォードの拳を手に取る。持っていたハンカチーフで傷を強く抑えるカッティに目もくれず、レオスフォードは傷だらけになった拳から力を一向に緩める気がないのか、ずっと固く拳を握っていた。
「まただ…っ!!!」
絞り出すように、レオスフォードは声を出す。
「また…!!私は唯一の希望を取り零すのか……っ!!?」
一度目は、そうと知らずに取り零した。
そして二度目は、そうだと判った瞬間にその指の隙間から呆気なくすり抜けていった。
そのまま下まで落ちて砂に紛れ、もうどこを探しても見つからない───そんな絶望感。
レオスフォードはその絶望感を拒絶するように、未だ傷ついた拳を固く握っていた。
それはまるで、その手からすり抜けていった希望に込めた恨みを、その拳に強く刻んでいるようだった。




