漆黒病のこと・一編
「何があったんだ…?」
ギルドの扉を開けたザラは、その異様な雰囲気に唖然と言葉を落とした。
活気がある、とはまた違った雰囲気の喧騒────確かにここは、いつも絶えず話し声や笑い声、時には喧嘩とそれを囃し立てる声まで聞こえる騒がしい場所だ。品性があるとは到底言えない場所である事は、何度も足を運んでいるザラも承知の上だった。
だが、これはまたそれとは違う喧噪だろうか。
何か衝撃的なものを目撃して、皆一様に興奮している感じ────中には憤慨しているような者も若干、見受けられるが、多くはやはり興奮して気が昂り、妙な高揚感で場が満たされている。
こういう時は思いのほか厄介な事をザラは経験上、承知していた。
特に、見るからに上級貴族と判る人物が共にいる場合は─────。
「ザラ、どうした?何かあったのか?」
「…!」
懸念材料である張本人が、なかなかギルドの中に入らないザラに業を煮やして後ろから声を掛けてくる。ザラは慌てて振り返って、その人物を見下ろした。
─────カッティ=ラングドシャー侯爵公子。
侯爵という家柄の権威を示すように、控えめではありながら上品かつ一目で質がいいと判る装いに、いかにも温室育ちだと判る綺麗で整った容姿。白い素肌と肌荒れ一つないすらりと伸びた長い指の手は、いかにも育ちがいい事を物語っている。
このカッティを伴って中に入るという事は、飢えた獣の群れに餌を放り投げるのと同じこと────。
ザラはどうしたものかと、もう一度ギルドの中を見渡した刹那、その隙を突いて後ろにいたカッティは堪え切れずに隙間を潜り抜けた。
「行かないのなら、私が先に行くぞ」
「…!?お、お待ちください…!カッティ様…!」
ザラが上げたその声に、ギルドの中にいた者たちが一斉に二人へと視線を向ける。ザラはその視線から、理由も判らず小首を傾げるカッティを守るように前に立ちふさがったところで、聞き馴染んだ声が掛けられた。
「ザラ様?どうなさったのですか?」
「…!ロゼさん…!」
その人物の名を呼んで、ザラはほっと胸を撫で下ろす。
ギルドという荒くれ者が集う場所にあって、唯一品行方正で信頼に足る人物────小心者で気が弱いところは玉に瑕だが、なぜだかここに集まる荒くれ者は皆、彼の言う事には大人しく従う傾向にある事をザラは知っていた。
ロゼはザラの肩越しに彼の主の姿を見つけて、小さく目を見開く。
「……おや?カッティ様まで……」
「…すまない、ロゼさん。訊きたい事があって来た。ゼフォルの旦那に会わせてもらえるか?」
「…!ああ…!」
ザラの様子に何やら得心して、ロゼは小さく声を上げる。
「承知いたしました。こちらへどうぞ」
ロゼに促されて、カッティと共に二階に上がりゼフォルの執務室へと通される。そこにいたのは普段の険しい仏頂面とは違って、ずいぶんと機嫌がいいのか朗らかな笑顔を湛えるゼフォルの姿があった。
「ああ…!ザラか…!来るとは思っていたが思いのほか早かったな。……とは言っても、鼻の差で逃がしたようだがな」
にやりと笑って告げるゼフォルの言葉に眉根を寄せるザラとは反面、カッティはすぐさま意を得て目を見開く。
「一足遅かったか…!」
「え…っ!!?いたのかっ!!?ここにっ!!?異界の旅人が…っ!!?」
「つい今しがたまでな。……それにしても、わざわざカッティ様まで足を運ばれたのか」
「……異界の旅人はわが国では幸福の使者だからな。逃げられたとあっては面目が立たない」
バツが悪そうにそう吐き捨てるカッティを、ゼフォルは闊達な笑い声で迎え入れる。
「違いない!!レオスフォード殿下まで異界の旅人の迎えに出向かれたとあっちゃあ、その補佐官であるカッティ様が出張られずにはいられんか!!」
上機嫌で笑い含みにそう告げるゼフォルの姿に目を丸くしつつ、ザラは己の主を馬鹿にされたような気になって不機嫌そうに目を細める。
「………ずいぶんと機嫌がいいんだな?ゼフォルの旦那」
「…ん?……まあな。異界の旅人と話をしたからだろう」
「…?どういう─────」
意味かと訊ねようとしたザラの言葉の先を奪って、カッティがその返事を返す。
「幸福感をあの声に感じたからだろう」
「…!?」
そのカッティの言葉に、ザラのみならずゼフォルやロゼも大きく目を見開いた。
「……それは……先ほどカッティ様がおっしゃられていた……?」
「……カッティ様にも判るのか?あの感覚が─────…」
茫然自失とゼフォルは呟く。
だとすればなおさら自分の推測は間違いという事だろう。人間であるカッティまでもがあの感覚を異界の旅人の声に抱いているのだとすれば、『人ではない者にだけ幸福を感じ取れる』という前提は成り立たない。
己の考えが的外れであった事にため息を落とすゼフォルを見やって、ザラは目を瞬きながら訊ねる。
「………あんたも彼の声に幸福感を感じたのか?ゼフォルの旦那」
「………そのようだな。というか、お前たちもリツと会った事があるのか?」
「……成り行きでな」
「…ちなみに、お前は判らんのだろう?ザラよ」
「……あ、ああ…」
二人の会話を聞くともなしに聞いていたカッティは、同じく目を丸くしながら二人の会話に聞き入っているロゼに視線を向ける。
「様子を見るに、ロゼも幸福感を感じたか?」
問うカッティに、ロゼは呆然と首肯を返す。それを確認してからわずかに思案した後、得心したように「やはりな」と小さく呟きを落とすカッティを、ゼフォルは見開いた目で視界に留めた。
「…!…何か判ったのか?感じる者とそうでない者の差異がなぜ生まれるのかを」
その問いかけにはやはりしばらく思案してから答える。
「………まだ推測の域を出ていないけどな。それよりも異界の旅人の情報を売ってくれ。金に糸目はつけない」
「…!?カッティ様…!!軽はずみにそんな事をおっしゃられては足元を見られますよ…!!」
「いいだろう、別に。金は腐るほどある」
「そのおっしゃりようは庶民の反感を買いますのでおやめください…!!!」
「はははは!!さしものザラもカッティ様の前では形無しだな!!」
またもや闊達な笑い声を上げられて、ザラはじとりとした視線をゼフォルに返す。
いつもの仏頂面もやりづらいが、この外見で何度も豪快な笑いを上げては揶揄してくるゼフォルもなかなか絡みづらい。諦観するようにうんざりとしたため息を落とすザラをもう一度笑って、ゼフォルはロゼから受け取った登録票を二人に見えるように手に持った。
「ここに、異界の旅人『ナルカミ=リツ』の登録票がある」
「…!」
「…当然、この情報は金と交換だ」
言いながらゼフォルは、テーブルの上に登録票を裏返しに置いて、その上に自身の大きな手を添える。
「……いくら払えばいい?」
「異界の旅人の情報だぞ?そりゃ破格だろう。────…三万でどうだ?」
「三万…!?他の情報料に比べればあまりに法外な値段だろう…!」
三万リラは日本円に換算すると三百万円ほど。当然その情報の重要度で料金は多少上下するが、それでも相場は数百から千の間くらいが一般的だ。それに比べれば三万はあまりに高い。
目を見開き食って掛かるザラを尻目に、だがカッティは躊躇う事も考える事もなくはっきりと告げる。
「いいだろう、三万だな」
「カッティ様…!!安易に受け入れれば今後ここで情報を仕入れるたびに法外な値段を突き付けられますよ…!!」
「異界の旅人の情報は他の情報に比べて重要度が極めて高い案件だろう。三万払うに値する情報だ」
「……っ!」
あまりに正論で、ザラは二の句が継げず思わず閉口する。
その二人のやり取りを聞いていたゼフォルは、やはり闊達な笑い声を上げた。
「さすがはカッティ様だな!!!その潔さに免じて、二千にまけてやろう!!」
そこで、くすくすとロゼの笑い声が耳をかすめる。
「ゼフォル様もお人が悪い。初めからその値段にするおつもりでしたので、どうぞお気になさらず」
「…………ばらすな、ロゼよ」
「………珍しいな、金の亡者のゼフォルの旦那が」
「人聞きが悪いわ」
落ちが付いたところで、ゼフォルは改めて登録票を表に返す。
「あまりに法外な値を付けると、情報そのものの信憑性が損なわれる可能性があるからな。先ほどの値はカッティ様にどれほど金を出すおつもりがあるのかを試させてもらっただけだ。…それに、情報源の張本人から渡してやってくれと頼まれたからな」
「…!張本人……あの青年が?」
「あやつが考えている事は判らん」
異界の旅人は皆そうだが、とため息を一つ落として、ゼフォルは手に持つ登録票をロゼに渡す。それをロゼから受け取って目を通す二人に、ゼフォルはにやりと告げた。
「つい先ほど出て行ったばかりだ。今から行けば宿に着く前には追いつくだろう」
**
ゼフォルに渡された登録票に書かれている住所には、『エドゥルネ』という宿の名が書かれていた。
「あそこの宿は確かフォトラカソが絶品だったな」
「そうですね────…って、どうしてご存じなのですか?」
「何度か通って食べた事がある」
「………またお一人で街を歩かれたのですか…!危ないからおやめくださいと何度言えば判るのです…!!!」
怒鳴るザラの声から耳を守るように両手で塞いで、カッティは涼しげな顔を彼から背ける。自分が言えた義理ではないがザラは少し過保護が過ぎる、と内心で漏らして、何気なく視線を移したその先に、気になるものが飛び込んできた。
「聞いておられるのですか…!?」
「待て、ザラ」
「…!……どうかなさったのですか?」
カッティは眉根を寄せるザラを尻目に、視界に入った違和感のある方へと足を進ませる。
表の大通りから一本奥に入った路地裏へと続く細い路地────そこにある、降り積もった雪に残された数人の足跡。
「……足跡……こんな細い路地にしてはずいぶんと多いですね。それにわずかに争った跡まである……」
「……ああ、数にして六人と言ったところか。そのうち一人はずいぶんと小さい」
「…!リッカ……ですか?」
それには答えず、カッティはその足跡が続く先へと足を進ませる。路地を進んだ先には、滅多に人が通らない裏通りがあった。主要な店や露店はそのほとんどが表通りにあるため、その裏通りに面した場所に用でもない限り決して誰も通らない─────そんな場所。
その裏通りに、つい今しがた通ったと思われる橇跡があった。見ればそれは街の外へと続く門へと延びている。
カッティはその橇跡を確かめるように、その場に膝をついた。
(……跡がはっきりと残っている。通ったのは、つい先ほどだろう)
この国は絶えず雪が降り続いている。足跡も橇跡も、わずか三十分足らずで雪がすべてを覆い隠すのだ。それをよく理解しているザラも、カッティと同じことが念頭に浮かんだ。
「まさか…攫われたのですか?」
「その可能性がある、という事だ」
言ってカッティは立ち上がり、門へと続く橇跡を視界に入れる。
最悪の可能性を、常に想定しなければならない。
異界の旅人とリッカが攫われた可能性。
それ以上に、ヘルムガルドがその本性を現わしたりはしないだろうか。
カッティはわずかな不安を胸中に押し隠しながら、踵を返す。
「とにかくエドゥルネに急ごう。考えるのはその後だ」




