ギルドのこと・三編
「……君……今のは、魔法…………?」
静まり返った一室に、ギルバートの呆然とした声が響く。
先ほどまでの喧騒は嘘のように消えて、皆我が目を疑うように律の姿を見つめていた。どよめきすら起きないほどの衝撃に誰もが唖然として言葉を失う中、ただ一人部屋の奥に座する男のその小綺麗な顔に、薄い笑みが人知れず落とされた事はきっと誰にも知られる事はなかっただろう。
律も同様にその笑みに気づかぬまま、ギルバートの言葉に当然だとばかりに答える。
「魔法が使えないって一度でも言ったか?俺は」
「……え……いや、それはそうだが……でも魔力がないんじゃ……いや、それよりも詠唱を唱えずに魔法を使ったのか……?」
「だから、それを知りたいからここに来たんだろ?」
うんざりするように答えて、律はロゼに向き直る。
「……で?そこに何が書いてあるって?ロゼさん」
「…!ええええええ……っと……!」
「……………そんなに怯えなくても取って食ったりしないって」
「は、ははははははい………!!!」
あまりに怯えているのか歯の根が合わず声が震えている。よくもまあ、こんな小心者の身でギルドで働こうなんて思ったものだと内心で呆れながら、律はもう一度、今度は少しばかり穏やかな声音を心掛けて尋ねた。
「……それで?スキルが何だって?」
「…!あ……は、はい……!…実はスキルの欄に何か書かれているのですが、私では判読不可能で……」
「判読不可能?」
「見たこともない文字なので……」
「…!」
ロゼの言葉に、律の勘が働く。
異世界の人間の能力を調べたら、見たこともない文字が出てきた。ならば、そこに書かれている文字がどこの世界の文字かは明らかだろうか。
「見せてくれ…!リッカはそこに居ろ!!ギルバートっ、リッカを頼む!!」
「え…!?あ、ああ…!」
有無を言わさずリッカをギルバートに託した後、律はそのままカウンターを飛び越えてオーブの前に近づく。ロゼがすぐさま明け渡してくれた場所に立って、律はざっと上からオーブの揺らめく文字を視界に入れた。
その中頃から少し下に行ったところで、律の視線がピタリと止まる。
この世界の解読不能な文字の中に異彩を放つように存在する、見慣れた文字────…。
「──────…『言葉綴り』……?」
「…!……リツさまは読めるのですか……?」
「俺の国の文字だからな」
さらりとロゼにそう返答しながら、律は日本語で書かれているその箇所を穴が開くほどに凝視した。
「……どういうスキルか判るか?」
「……言葉綴り……ですか?」
「…俺は聞いた事がないな」
「……私もです……」
ロゼもギルバートも小首を傾げながら頭を振るので、律は二人に向けた視線をもう一度その文字に向ける。
これは紛れもなく自分の固有スキルだ。
どういうものかが判れば、この先この世界で暮らす上できっと役に立つだろう。
だが悔やむべきは、思い当たる節がない事だろうか。数多くのゲームや小説、漫画を見てきたが、律は少なくともこれとまったく同名のスキルを見た事がなかった。
(……言葉通りに捉えるなら、当然『言葉』を使うスキルって事だよな……?)
思い当たるとすれば、『言った事が現実になる』あるいは『誰も言った事には逆らえない』のどちらかだろうか。
(……『言った事には逆らえない』────…絶対服従のスキルだな。あれば便利だけど……)
思いながら、カウンターの向こうでつま先立ちになってこちらを見ているリッカの姿を視界に入れる。
少なくともリッカは、自分に対して服従していると、といった風ではない。それどころか言う事すら聞いてくれない事もしょっちゅうだ。昨日の一件はその最たるものだろう。
(……………………ま、これは十中八九はずれだな)
見つめてくる律に小首を傾げるリッカを視界に留めながら、律はどこか自嘲気味な苦笑を落とす。
現にこのギルドでも一度目の『黙ってろ』と怒鳴った律の言葉を無視して、外野は腹立たしいほどに野次を飛ばしていた。少なくとも、自分の言葉に絶対服従を見せた者はいないだろう。
そして『言った事には逆らえない』という事ではないのなら、『言った事が現実になる』もまた違うという事に他ならない。この二つはある意味同義であると言ってもいい。『言った事が現実になる』のなら、黙れと言った律の言葉に沈黙が返ってくるはずなのだ。
(あるいは────…)
あるいは、発動条件が存在しているのだろうか────?
思った律の耳に、同じくオーブの文字を見ていたロゼが声を掛けた。
「…!リツさま…!こちらにも判読不可能な文字がございます…!」
「…!?」
目を見開いて、律はロゼが示す場所に視線を向ける。オーブの下の方に書かれている、やはり見慣れた文字。
「………『文字綴り』……?」
「…?…よく似ておりますね?その二つは……?」
「………ああ」
同意を示しつつ、律は内心で頭を振る。
だが────。
「……似て非なるものだ」
ぼそりと呟いた瞬間、唐突にギルドの一室に地響きにも似た音が鳴り響いた。一定の間隔で響くそれは、地震の類というよりもむしろ足音に近い。それもかなり重量のある者が一歩一歩、地面を踏みしめる音だ。
律は慌てて再びカウンターを飛び越えてリッカの元に戻り、守るようにその小さな体を自分に寄せる。どうやらその足音は二階に続く階段のその奥から聞こえるらしい。
「……何だ……?誰か降りてくるのか……?」
『誰か』というよりも『何か』と言った方が正鵠を得ているかもしれない。
音から推測するに、巨大な何かが二階から降りてくるようだと律は思った。見渡せば律のように狼狽はしていないが、そのどれもに畏怖と敬重が入り乱れたような複雑な表情が見て取れる。
「……気を付けてくれ。あの人を怒らせると手に負えないんだ……止められるのはロゼさんだけだから」
律に小声でそう耳打ちしてくれたのは、隣にいたギルバートだ。
その二人の耳に、腹の底を震わすような重低音の効いた声が届く。
「……騒がしいな、何をしている?大きな物音が聞こえたが、何か揉め事か?」
「い、いえ…!揉め事ではありません、ゼフォル様…!その……っ、少し変わった方がいらしておりまして…!」
(…!待て待て…!その言い方じゃ、俺が騒ぎを起こしてるみたいじゃねえか…!)
ロゼの言い回しにぎくりとして、律は内心でそう独白を落とす。
確かに騒ぎの中心は間違いなく自分だろうが、だからと言ってこれは明らかに不可抗力ではなかろうか。
思いつつ、下手な言い訳をすると逆に不興を買いそうで、律は黙したまま固唾を呑んで階段を見守った。
「変わった奴?誰だそれは?」
重低音を響かせながら少しずつ露わになるその足は、人間の者とは思えぬほど大きく太い。腕も同じく大きく太いが、その手足はどちらも思っていたより短いようだ。わずかに覗くのは、股まであろうかと思うほどの長い顎鬚。そしてその顎鬚に促されるように視線を上に上げたところで、ようやくその人物の全容が露わになった。
身の丈は三メートル近いわりに、手足が短くずんぐりとした筋肉質な体形に大きな顔が乗っている。長い顎鬚と同様、鼻下の髭も長く、大きな鼻に雄々しく上向きの太い眉の下にある目はぎょろりとして大きい。
律は、今まさに目前にいる人物を形容するに相応しい言葉を知っていた。
「────…ドワーフ…!?あんた、ドワーフか…!?……いや、でもドワーフにしては大きすぎるよな?普通ドワーフって子供みたいに小さ─────!?」
「こ、こら…!!?ゼフォルさんにその話題は禁句だ…っっ!!?」
律の言葉を遮って、隣にいたギルバートが慌てて律の口を抑える。同様にギルド内に緊迫した空気が走って、皆一様に青ざめた顔で成り行きを見守っていた。
「何だよ…!?ドワーフはドワーフなんだろ?このおっさん─────」
「馬鹿!!!?いいから黙れ!!!」
「お前は口の利き方を知らないのか!!!?」
「もう二度と喋るな!!!!」
「うわ…っっ!!?」
「リツお兄ちゃんっっ!!?」
口を抑えるギルバートの手を払ってまたもや不躾な言葉を吐く律を、今度は周囲の人間が蒼白な顔で慌てて取り押さえる。勢い余って地面に倒れ込む律たちを襲ったのは、一拍置いた後に小さく吹き出してから鳴り響いた、闊達なほど大きな笑い声だった。
「…!!!?」
「こりゃあいい!!!儂の姿を見ても物怖じしないとはな!!!肝の据わった人間の子だ!!!」
「…!何だ、やっぱり気のいいおっさんじゃねえか。怖がり過ぎなんだよ、お前ら」
「……せめて名前で呼んでくれんか?儂はゼフォルという」
「俺は律だ。……鳴神 律」
「…!」
「よろしくな、ゼフォルのおっさん」
「………おっさんにこだわる奴だな」
困惑気に眉を八の字に寄せながら、げんなりしたように返事を返すそのゼフォルの様子に、ギルド内の人間は皆、唖然としたような表情を落としていた。ある意味、魔力がないはずの律が魔法を使った事と同じくらい驚くべき事かもしれない。
ゼフォルはその厳つい外見通り、気難しい事で有名だった。
何よりも礼儀を重んじ、笑う事は滅多になく、険しい顔で他を圧倒する。どんな荒くれ者もゼフォルの前では赤子同然と言わしめるほど、誰もが恐れおののく存在だった。
にもかかわらず、今目の前にいる彼はどうだろうか。
どう見ても礼儀を欠いたあけすけな物言いを繰り返すこの青年に対して、ゼフォルは不機嫌になるどころか闊達な笑い声で迎え入れ、まるで孫を相手にしているように目尻にしわを寄せている。彼がこの青年を気に入った事は明らかだろうか。
その滅多に見られない稀有なゼフォルの姿に皆、一様に目を白黒とさせている事に気付いて、ゼフォルは少しバツが悪そうに咳払いした後、ロゼに声を掛けた。
「……変わった奴というのは、こやつの事か?ロゼ」
「は、はい…!……魔力量を測りに来られたようなのですが、オーブで調べたところ魔力が全く検出されず……なのについ先ほど、リツさまは魔法を使われたのです……」
「……ふむ、なるほど」
ひとしきりロゼから説明を受けたぜフォルは、もう一度律を上から見下ろす。
他と比べても特別変わりのない、人間の子供。きっとこのギルドの中にいる者たちとそう変わりはないのだろう。
なのに、なぜだろうか。
この青年の声は、嫌に心地がいい。
何を言われても嫌味がなく、心にスッと入り込んでくる。
(……いや、むしろ幸福感で満たされるようだ……)
この青年の言葉に阿り、彼の言うことは何一つ漏れなく叶えてやりたくなるような、そんな気にさせる不思議な声────。
ぜフォルは律をしばらく眺めた後、誰にともなく頷いて踵を返す。
「…リツよ、上で詳しい話を聞こう。ロゼ、お前も来い」
「あ…は、はい…!……リツさま、どうぞ」
律とリッカは一度不思議そうに顔を見合わせた後、ロゼに促されるまま階段へと向かう。その後姿をギルドにいた面々はただただ目を丸くして眺め、そうしてしばらくした後、誰かがぼそりと呟いた。
「………………あいつ、一体何者なんだ……?」
**
ギルドへと向かう道すがら、ザラは辟易とした様子でため息を吐きながら、隣を歩く人物を一瞥した。
「……………どうしてカッティ様までギルドにいらっしゃるのですか?」
「私が行くと邪魔か?」
「………いえ、そういうことではなく」
げんなりとした表情を落としながら、ザラは言葉尻を濁す。
カッティは曲がりなりにもレオスフォードの執政補佐官だ。レオスフォードに対して執務を行えと言った身で、なぜその補佐官が補佐を放り投げてついてきているのかという事をザラは言いたかったのだが、どうやら本人は聞く耳を持たないのか素知らぬ顔で足を進めている。
(……カッティ様はレオスフォード殿下第一主義ではいらっしゃるが、ご自分がお知りになりたい事が出来ると途端に探究心が勝ってしまわれる癖がおありだからな……)
特に今回は、異界の旅人と出会っているにも関わらず故意にその事実をレオスフォードに隠している。その意図がどこにあるかはともかくとして、自分の目で確かめなければ気が済まないのだろう。
一人ぽつねんと執務室に取り残されたレオスフォードの姿を思い浮かべながら、その第二皇子に虚偽の証言をした罪悪感を吐き出すように盛大にため息を吐くザラをちらりと視界に入れて、カッティは訊ねる。
「……ザラは見たか?」
「…?何をです?」
「ヘルムガルドだ」
「…!……まさか、街にヘルムガルドを連れてきていると…?……それはないでしょう。そんな事をすれば嫌でも目を惹きますし、何より騒ぎになっているはずです」
「だが私は見た」
思わぬ返答に、ザラは目を丸くしてカッティを見返す。
「………………ヘルムガルドを、ですか……?」
「ああ」
「………この街で?」
「そうだ」
「………あの青年と一緒に?」
「………そんなに私の言葉が信じられないのか?」
「…!い、いえ…!そういうわけでは…!」
しつこく聞き返すザラに眉根を寄せて不機嫌そうな顔を返すカッティが視界に入って、ザラは慌てて頭を振った後、取り繕うように一度小さく咳払いをする。
「……それは、その……あの青年─────異界の旅人と出会った時でしょうか……?」
見たとすれば、その時しかない。まさか街中にヘルムガルドを放置したまま歩き回るような真似はしないだろう。
そのザラの心中を察したように、カッティは首肯を返す。
「……ああ。あの青年がリッカを追って駆け出した瞬間、彼の鞄から小さく黒い生き物が出てくるのがわずかに見えた。彼が異界の旅人なのであれば、あれはヘルムガルドと考える方が自然だろう」
「………………貴方は相変わらず目聡い方ですね」
「目端が利かないと補佐官なんてできないからな」
当然だろうとばかりに告げるカッティに半ば呆れと、それ以上に敬慕の念を乗せたため息を、ザラは落とす。
カッティは周りが思う以上に優秀なのだ。
口うるさいし、レオスフォードと子供のような喧嘩もするし、好奇心や探求心が勝れば執政補佐官としての務めを放り投げて、そちらに傾倒するどうしようもない一面があるものの、カッティの能力自体はずば抜けて高い。状況を洩れなく把握し、観察力、洞察力に優れ、一の情報から十の情報を引き出す。目端が利くのでありとあらゆる面でカッティの采配は適正かつ的確だった。
現にあの場に同じように居合わせたザラは、ヘルムガルドの存在には一切気が付いていない。リッカを探す事ばかりに頭がいっぱいで、そこまでは気が回らなかった。どういう状況でも見落としてはならない事を必ず拾い上げるのが、カッティという人物なのだ。執務室に籠って机と睨めっこするのが苦手なあのレオスフォードがつつがなく執務を行えるのは、ひとえにカッティのおかげなのだろう、とザラは思っている。
そんな主に畏敬の念を抱きつつ、ザラはふと疑問に思う。
「……ですが、小さい生き物……ですか?確かヘルムガルドは身の丈十尺はあるはずですが……?」
十尺とは約三メートルの事だ。
ヘルムガルドは通常、魔獣の森の奥深くに棲みつき滅多に姿を見せないので、実際に見た者はほとんどいない。文献に残る情報と姿絵だけが、この世界に住む者たちの常識として広く知れ渡っている。
「……文献の情報が間違っているのでしょうか?」
「いや、レオスフォード殿下はヘルムガルドを『大きな』と表現されていた。情報が間違っているわけではないだろう」
「……では?」
「……ヘルムガルドには小さくなる術がある、という事だ」
魔獣の生態はよく判っていない事が多い。特に魔獣の王であるヘルムガルドは唯一無二の存在だ。歴史上、ヘルムガルドが人間の手に落ちた事実はなく、それゆえに謎の多い存在だった。
「……では小さくなったヘルムガルドが人知れずこの街を徘徊していると?ずいぶんと物騒な話ですね」
「物騒どころの話ではない」
「……え?」
「歴史上、ヘルムガルドが魔獣の森から出る時は必ず国を一つ滅ぼした。そのヘルムガルドが国を蹂躙することなく街を歩いているのだぞ?奇跡だと思わないか?ザラ…!」
その嬉々とした表情に恍惚とした瞳を乗せるカッティの様子に、ザラは冷ややかな視線を返す。
「………………まさか、その知的好奇心を満たしたいがために殿下に虚偽の報告を?」
「…!!?ち、ち、ち、違うぞ…!!ザラ…っ!!!!」
(………半分当たりだな……)
カッティの慌てぶりに、ザラはそう悟る。
そのカッティの知識欲のために自分も虚偽罪に加担させられたのか、と内心で深いため息を吐きつつ、必死に頭を振るカッティにザラは追及の手を緩めなかった。
「では、どう違うのです?」
「そ、それはだな…!ほら…!殿下が首を突っ込まれるといつも厄介な方向に進むだろう…!一で済む話が二にも三にも膨れ上がる…!」
「それは…同意します」
「そうだろう…!あの方が首を突っ込まれる前に、異界の旅人の善悪を見極めなければ…!」
「それは門の番人であるリシュリット様の職分ではありませんか。貴方のなさる事ではございません」
「う…っ!そ、それは……っ!いや、だが…!今回は特にヘルムガルドという大きな危険が孕んでいる…!殿下にもしもの事があれば困るだろう…!」
「それは貴方にも言える事ですよ、カッティ様」
「…!」
「貴方の御身に何かあっても、私は困ります」
そのザラの言葉に目を見開いた後、カッティはわずかに思案して誰にともなくぼそりと呟く。
「……………そうだろうか?」
「……え?」
途端に歩みを止めて再び思索に耽るカッティを、ザラは反論することなく待った。
普通に聞けばカッティの言葉は、まるでザラがカッティを心配する言葉を否定したように聞こえるだろう。だがカッティに限っては、そうとは限らない。カッティはよく何気ない会話から急に別の何かを閃くことがままあった。こういう時は特に口を挟むことなく、カッティが思索に耽るままに留めた方がいい結果を生むことを、長年仕えたザラは承知していた。
そうしてわずかに思案した後、カッティは思い至ったようにザラを振り返る。
「……ザラ、お前はあの青年の言葉────…いや、声に違和感を持たなかったか?」
「…?違和感、ですか…?言葉でなく、声に?」
その質問の意図が判らず、ザラは小首を傾げる。
言葉であれば、彼が口にした台詞をよく吟味すればまだ判ったかもしれない。だが『声』と言われればさすがに返答に困った。少なくともザラはあの異界の旅人の声を異質なものと捉える事が出来ず、ただ悪戯に思考が宙を舞うだけ。返答に窮して渋い顔をするザラにカッティは短く、そうか、とだけ返すのでなおさら理由が判らず、ザラは困惑を極めた顔でたまらず訊ねた。
「……それはその……つまり、カッティ様は彼の声に違和感を覚えられた、と……?」
「逆になぜ違和感を持たない?」
「………質問に質問をお返しにならないでください…!」
判らなくて悪かったな、と言わんばかりの態度で渋面を取るザラに、カッティはため息を落として続ける。
「……そうだな。彼の声は、妙に心地がいいのだ」
「…?それは…カッティ様の好みの声なのではありませんか?」
「私にそんな趣味はない…!声質がどうという話ではなくて、これは感覚の問題だ」
「感覚……ですか?……ではなおさら、私が判らなくても仕方のないことではありませんか」
「そうではなくて……難しいな、この感覚を判らない者に説明するのは…!」
思うように伝わらない事にわずかな苛立ちを覚えながら、カッティはそれでもザラに判るように説明を始める。
「………そうだな……ザラは幼少の頃、母親の声を聞くと安心する、といった覚えはなかったか?」
「……ええ、ございましたね」
「それは別に母親の声が優しいからでも綺麗で耳障りがいいからでもないだろう?どんな声だろうと、それは母親の声だから無条件に安心する」
「……ええ、そういうものでしょう」
「彼の声はまさにそういう感じだった。聞いていると心地よく安心感があって、無条件に警戒心を解いてくる。そうだな……言い換えれば彼の声は『否応なく身の内にある幸福感を刺激してくる声』─────……とでも言えばいいのか」
「────…」
そこまで聞いても、ザラはいまひとつ理解が難しかった。
カッティが言わんとしている事は判る。だが、あの異界の旅人の声に、そのような感覚を感じた覚えがない。
あの時の事を必死に頭の中で繰り返し思い出すように考え込むザラに、カッティは核心を告げる。
「…もしこれを、ヘルムガルドも感じていたとしたら?」
「…!……だから誰にも膝を折らないと言われた魔獣───…それもヘルムガルドが、彼に付き従っていると……?それは…一理ありますね」
「異界の旅人の善悪はともかくとして、少なくともヘルムガルドは彼の指示がなければ暴れたりはしないだろう。だから危険がない、とは言わないが……」
「……ですが、本当にあの彼にそのような声が……?私にはごくごく普通の声に聞こえましたが?」
「……本当か?」
「嘘を吐いて私に何の得があります?」
それもそうだ、と得心したように頷いて、カッティは考える。
「……そうか。では私が感じて、ザラには感じない『何か』がある、という事だな……」
その『何か』─────……。
この感覚を感じているのは、きっと自分だけではない。ヘルムガルドと、そしておそらく精霊も例外ではないだろう。彼自身には魔力の存在を少しも感知できなかったのに、反面、精霊の気配は嫌と言うほど彼の周囲に満ちていた。
あの時、自分が何気なく口にした言葉。
─────『あるいは、精霊が何の代償も求めず彼に力を貸している────か…』
(……当たらずとも遠からず、と言ったところか)
ヘルムガルドや精霊、そして自分には感じて、ザラには感じない『何か』─────……。
そこから導かれる答えに、カッティは一つだけ思い当たるものがあった。
「……『何か』とは何です?」
思いのほか長い時間、思索に耽っていたのだろう。しびれを切らしたザラが、小首を傾げた顔をカッティの視界に入れるように覗き込ませている。カッティはそのザラの顔をしばらく眺めてから、何とはなしに訊ねてみた。
「……ザラ、お前の家系は確か、人間以外の血が入っていない純血血統だったな?」
「…?ええ、そのように聞いておりますが……というよりも、ほとんどの家系がそうでしょう。異種の血が流れている混血血統の方が圧倒的に少ない。皇族はもちろんの事、カッティ様の家系も人間の純血血統ではありませんか」
脈絡のない質問が唐突に降って湧いて、ザラはやはり怪訝そうな顔で答える。それがどうしたのだろう、と続く言葉を待っていたものの、肝心のカッティは何やらこちらを見返すだけで答える気がなさそうだ。その様子になおさら怪訝な表情を深くするザラを視界に入れて、カッティはようやくため息を落として見せた。
「……そう、だったな」
そのまま不機嫌そうに再び足を進ませるカッティの後ろ姿を、ザラは慌てて追う。
「…?…カッティ様…?お待ちください…!」
「…ああ、もう一つ可能性があったな」
「…?可能性、ですか?」
「私が感じて、ザラには感じない理由」
「何です?」
「お前が救いようのない鈍感だから」
「…!…………………一言余計ですよ、カッティ様…!」
眉間にしわを寄せて不機嫌を露わにするザラにカッティは笑い声を送って、歩みを進めつつ振り返る。
「…まあ、あれこれ考えたところで推測の域は出ない。会えば否応なく判る事だ。さっさとギルドに向かうぞ」
ザラを促すようにそう告げてそのまま歩を進めるカッティの背を、ザラは憮然と眺めていた。
(………また、はぐらかされてしまった)
カッティは時折、こうやって壁を作るように途端に言いたい事を呑み込む事があった。まるでその胸の内に、誰にも言えない何かをひた隠すように────…。
言いたいのに、言えない。
言えない事への申し訳なさと、秘匿にしなければならない罪悪感。
そういう複雑な表情を一瞬覗かせた後、すぐさまこうやってはぐらかすのだ。言及しようと思ってもその度に、訊いてくれるなと言わんばかりの寂しげな表情を落とす。それがなおさら壁を作っているようで、ザラは今まで何も訊けずにいた。
(……いつか話してくださればいいのだが)
それがどれほど重い事実だとしても、二人で背負えば少しは軽くなるだろう。
いつの日か、そう思ってもらえる日が来るだろうか。
(……せめて、罪悪感など抱かずともよろしいのに……)
ザラは一度大きく息を吐いて、ギルドに向かうカッティの後ろをただ黙って追従した。




