家族のこと・後編
「エルファス殿下、お加減はいかがですか?」
アレンヴェイル皇国の首都ノーザンカエラにある皇宮の一室に足を踏み入れた皇宮医シェラハザードは、ベッドの上で休んでいるだろうと思っていた人物が窓の前で外を眺めている姿を見止めて、呆れたようにため息を吐いた。
「……殿下、私はお休みくださいと申し上げたはずですよ?」
「…許せ、シェラハザード。少し外を眺めていただけだ」
「昨夜は遅くまで政務に励んでおられたとお聞きいたしましたが?」
「…!」
不意を突かれたエルファスは一度シェラハザードに向けた視線をバツが悪そうに背けて、苦虫を潰したような表情を落とす。
「…どうやら口が軽い者がいるようだな」
「…さて?どなたでしょうね」
「察しはついている。我が補佐官殿は普段は寡黙なくせに、こういうところは口が軽い」
的を射た答えに、シェラハザードはくすりと笑みを返す。
「…殿下の事を心配なさっておいでなのですよ、ヴィンセント様は」
「…あれは少し過保護が過ぎる」
「貴方がそれを仰いますか?」
またもや、くすくすと笑みを落とされて、エルファスはやはりバツが悪そうにため息を落とした。
「…お前は私を揶揄いに来たのか?それとも診察に来たのか?」
諦観するようにベッドに腰を下ろして、エルファスは不機嫌そうにそう告げる。もちろん本当に機嫌が悪いわけではない。エルファスは昔から七つ年上のシェラハザードには頭が上がらなかった。聡明でありながら穏やかで、それでいて正鵠を得た返答を容赦なく切り返してくる。彼と話していると返答に窮して言葉を詰まらせる事も多く、特に漆黒病を患ってからは皇宮医である彼に苦労のかけ通しだっただけに、なおさらだろうか。
そんなシェラハザードに対する少しばかりの意趣返しの意味を込めて不機嫌なふりをするエルファスを一笑に付し、シェラハザードは当然だとばかりに答える。
「もちろん、診察ですとも」
そのままベッドに横になるようエルファスを促して、シェラハザードは当初の予定通り診察を始めた。
エルファスが漆黒病を患ったのは、彼が十七の時だった。
特別、体が弱かったというわけではない。気管支が他の子供よりも少しばかり弱く時折咳き込む事はあったが、それ以外は他の子供と何ら遜色のない健常者だった。勤勉で剣の腕が立ち、物の道理をよく弁え、臣下や民からの信望も厚い。誰からも慕われ非の打ち所もなく、次期皇王に最も相応しいと評されたエルファスは、ある日突然、大量の血を吐いて倒れる事になる。それは皇太子に任命される、立太子式の前日の事だった。
医術の才を見出され若くしてすでに皇宮医の座に就いていたシェラハザードは、出来得る限りの救命措置を行った。それが功を奏して一命を取り留めたものの、エルファスの体を蝕む病が漆黒病だと判明して、誰もがその顔に諦観を示した。
漆黒病────世界に広がりつつある闇によって引き起こされる病。治癒できるのは唯一、光の精霊による治癒魔法のみ。闇が広がるにつれその罹患者は徐々にだが確実にその数を増やしている。にもかかわらず治す術がない、不治の病だった。
「…どこか痛みはございますか?」
「……ない」
「ご気分が優れないところなどは────」
「ない」
「……食欲はございますか?」
「…それなりには」
いつも通りの問いかけにいつも通りの答えを返す、いつもと変わらないその質疑応答に、シェラハザードは半ばうんざりしたような嘆息を落とした。
「…エルファス殿下、本当の事を仰ってくださらないと診察ができません」
「……嘘は言っていないはずだ」
「…ここ最近、ほとんどお食事を召し上がらないのだとヴィンセント様に伺いましたが?」
「……………あれは余計な事ばかりシェラハザードに密告するのだな」
常に傍にいるヴィンセントがどうやらシェラハザード側についたらしい。こうなっては諸手を上げるしかない、と諦観のため息を落として、エルファスは素直に答える事に決める。
「…痛みがひどい。常に眩暈がして吐き気もある。…こんな状態で食欲など湧くと思うか?」
「…痛みはどこが?」
「全身だ」
「…!」
「体中どこもかしこも痛みがある。その所為でなかなか寝付けない。寝ても痛みですぐに目が覚める」
「……吐血はございますか?」
「…毎日だ。大量に吐くわけではないが、朝となく夜となく時間を問わずに何度も吐く。……これだけ吐くと、全身の血液がなくなったような気になるな」
笑い含みにそう告げるエルファスを視界に入れて、シェラハザードは思わず盛大に顔をしかめた。
────これはもう、末期の症状だ。
隠すつもりはもうないのだろう。エルファスの口から素直に出た症状の数々は、末期患者のそれと寸分違わなかった。こうなればもう、エルファスに残された時間はそれほど多くはない。
(………このような状態で、あれほど平然と公務をこなしておられたのか……)
こなせるような体ではない。四六時中痛みに苛まれ、ベッドから起き上がる事も出来ず、ただひたすら痛みに耐えながら悶え苦しみ死を待つしかない状態────少なくとも、シェラハザードが今まで診てきた末期患者はそうだった。
見ればエルファスの顔色はかなり悪い。食事もままならない所為か、頬もこけ痩せ細って見える。これだけ予兆があったはずなのにまだ大丈夫だと楽観視していたのは、おそらく当の本人であるエルファスが何でもない事のように振舞っていたからだろう。医者でありながらそれを見抜けなかった己の不甲斐なさを悟って表情を曇らせるシェラハザードに、エルファスは思いのほか穏やかな笑みを返した。
「…そう険しい顔をするな、シェラハザード。この年まで生きられるとは思っていなかったのだ。それもこれもすべて、お前とリシュリット殿のおかげだ。………本当に感謝している」
漆黒病と診断されれば、その余命は長くて三年と言われている。エルファスは罹患してからすでに十二年が経過した。ここまで生きられたのは奇跡に近い。そしてその奇跡の一端を自分が担っているという事実が全く存在していない事も、シェラハザードはよく理解していた。理解していたからこそ、エルファスのこの謝意を受け取る資格が自分にはないという事も、嫌と言うほど痛感せざるを得なかった。それを示すように、シェラハザードは渋面を取って拳を握り締める。
「…っ!私は…!………私は何もしておりません…!漆黒病の治療法を探すためこの病を研究してまいりましたが、調べれば調べるほど医学ではどうしようもないのだと痛感する事しかできませんでした…!…この奇跡は偏にリシュリット様のおかげなのです」
漆黒病に罹患してすぐ、助けを求められたリシュリットは病の進行を遅らせる魔法をエルファスに施した。
リシュリットが使う魔法は、精霊ゆかりのものではない。半分、妖精の血を受け継ぐリシュリットは、妖精独自の魔法を扱うことが出来た。千三百年の時をかけてその魔力は膨大に膨れ上がり、ありとあらゆる妖精の魔法をリシュリットは習得した。その魔法の中に、唯一存在していたのだ。病を根治させる事は出来ないが、進行を遅らせる事の出来る魔法が────。
そのおかげでエルファスの病は他の罹患者に比べてひどく緩やかに進行していった。猶予を得たシェラハザードは、その間に漆黒病の治療法を見つけるはずだった。なのに蓋を開けてみれば、ただ十二年の歳月を無為に過ごしただけに終わったのだ。
────自分の無能さたるや、何と愚かしい事か。
「そうではない」
「…!」
まるで自分の独白に応えるようなエルファスの言葉に、シェラハザードは驚き白黒させている視界の中にエルファスを入れる。
「…お前も手を尽くしてくれただろう?治療法の模索だけではない。痛みを和らげる薬や吐き気を抑えてくれる薬、体に巣くう闇を体外に排出してくれる薬まで開発してくれた」
「………そのようなもの、気休め程度に過ぎません」
「気休めでもいいのだ。そのおかげで、私は今もこうやってお前と笑って話ができる」
そう言って穏やかに笑うエルファスの姿に、シェラハザードは遠い昔の彼の姿が重なって見えた。
十二年前、彼の体を蝕む病が漆黒病だと判明した時、誰もが皆その顔に諦観を示した。ただ一人、エルファスだけを除いては────。
あの時、エルファスの死を受け入れたかのように俯く彼らに、エルファスは「諦めないでくれ」と告げた。
(…諦めないでくれ。たとえ私の未来に確実な死しか存在しないのだとしても、その心にまで終わりを作るような真似はしないでくれ。…私は、生きていたいのだ。残された時間がたった三年だとしても、前を向き懸命に生きていれば三年分、私は前に進むことが出来る。それがたとえ一年でも、たった一歩でも構わない。私はただ後ろを向くことなく、死を迎えるその瞬間まで生きていたいのだ─────)
そう言って死に臆する事もなく穏やかな微笑みを見せたエルファスの姿が、今もシェラハザードの脳裏に焼き付いている。
その言葉通り、エルファスは決して諦める事も自暴自棄になる事もせず、懸命にこの十二年を生きた。
その心の強さに畏敬の念を抱きつつ、それが永遠に失われるのかと思うと胸が痛い。
シェラハザードは胸の痛みを心の片隅にしまいながら、その輝かしい穏やかな笑みに何とか微笑みを返しつつ、ふと窓辺に立っていた先ほどのエルファスの姿を思い出す。
「……先ほどは何をご覧になっておられたのです?」
「…何の事だ?」
「私がここに訪れた時、窓の外をご覧になっておいででしたでしょう?」
問いかけながら、シェラハザードは窓の外へと視線を向ける。その視界に入る景色はいつもと何ら変わらない、いつもと同じ風景だ。雪が降り積もり、銀世界の中に見え隠れする皇都ノーザンカエラの街─────。特段、見るべき珍しい物はないように見受けられる。それを訝しげに訊ねたシェラハザードに、エルファスは「ああ」と小さく声を漏らした。
「…今日レオから文が届いてな」
「レオスフォード殿下から?…あの方は三日と明けずエルファス殿下に文を送ってこられますね」
笑い含みに告げるシェラハザードの言葉に、エルファスもつられてくすりと笑みを落とす。
「…あの子は私に対してだけ甘えん坊だからな」
「エルファス殿下が過保護にお育てになられたからですよ?おかげで貴方にばかり懐くものですから、陛下から何度泣きつかれた事か」
抱っこも遊ぶのも兄上がいい、と息子に振られて、肩を落とす皇王を何度も慰めたのはもう遠い昔の事。その甘えん坊な顔もすっかり鳴りを潜めて今では立派な第二皇子の顔をしてはいるが、それでも変わらずレオスフォードはエルファスをこの上なく慕っている。それは今でもこうやってレオスフォードを子供扱いするエルファスに原因があるのだろう、とシェラハザードは内心呆れたように苦笑を落とす。
「…それで?今度は何が書かれておられたのです?」
レオスフォードからの文は、その大半がエルファスの体調を案ずる文章ばかりだった。そしておざなり程度にフリューゲルでの些細な出来事を書いて、最後に必ず「兄上の病を治す方法を、必ず私が見つけて見せる。だからどうか待っていてほしい」と締めくくられるのだ。今回もきっと変わり映えしない内容なのだろうと思いつつ問いかけたその質問に、だがいつもとは違う返答が返ってきた。
「…どうやら異界の旅人がこの世界に降り立ったらしい」
「…!異界の旅人が?」
「魔獣の森に現れたそうだ。ちょうど一番近いフリューゲルにレオがいたから、リシュリット殿の要請に応じて魔獣の森に向かったらしい」
「それは…!吉報ですね…!異界の旅人は必ずこの国に発展と吉兆をもたらしてくれます…!」
いつになく嬉々とした表情を見せるシェラハザードに、エルファスもまた笑みを返して同意を示す。
「それで?その異界の旅人はいつ頃皇都に来られるのです?」
「それが逃げられたそうだ」
「…!……………逃げられた?………レオスフォード殿下は一体何をなさったのですか……?」
レオスフォードは兄であるエルファスと同様、物の通りをよく弁えてはいるが、反面穏やかなエルファスとは違って、豪気で余計な事に首を突っ込み物事を大きくして収拾をつけるという厄介な癖があった。それを重々承知しているシェラハザードは、また何かをやらかしたのだと想像する。
同じくそう想像したエルファスは、シェラハザードの心中を悟って苦笑を漏らしつつ、続ける。
「どうやら今回ばかりは違うらしい。魔獣の森に現れた異界の旅人は、レオ以上に破天荒な人物のようだな」
「破天荒…ですか?」
「ああ、どうもあのヘルムガルドを従えたらしいぞ」
その常識を逸した言葉に、シェラハザードはやはりいつもの達観したような落ち着き払った顔を崩して、目を丸くする。それには思わずエルファスは失笑した。
「お前のそんな顔を拝めるとはな。長生きはするものだ」
「……………ちょ……………お、お待ち下さい…!……どうやら私の聴力がおかしくなったようで………何を従えたのです……?」
「だからヘルムガルドだ。ヘルムガルドの背に跨って逃げおおせたらしい」
「……殿下が私を謀る理由に心当たりがないのですが……?」
「…それはそうだろう。謀っているつもりはないからな」
そこまで言っても未だに信じられないといったように、茫然自失と目を見開いたままのシェラハザードを、エルファスは笑う。
「…そうだな、にわかには信じがたい話だ。異界の旅人はいつも奇跡を起こす。その奇跡の恩恵を受けて、雪に閉ざされたこの国は発展と変化を繰り返してきた。…百年ぶりに現れた今回の異界の旅人は、この国をどう作り変えるのだろうと街を眺めていたのだ…」
そう言って、ベッドに横たわったままの顔を窓の外へと向ける。その未来を見据えたエルファスの視線を追うように、シェラハザードももう一度視線を窓の外へと寄越した。
「…きっと、良き方向へと導いてくれます」
「…そうだな。できれば変わりゆくこの国をこの目で見てみたかったが……」
きっとそれは、叶わないのだろう。
シェラハザードの苦渋に満ちたあの表情から鑑みるに、自分に残された時間はおそらくないに等しい。
(………三年と覚悟していたが、十二年もの歳月を与えられた……。その奇跡に心底感謝はしているが……)
人間の欲というものは際限がない。与えられれば、次はまた与えられた以上のものを欲する。人間は欲深い生き物だと、エルファスは自嘲気味に小さく笑みを落とした。その笑みが何やら自分の死を受け入れ諦観を表した笑みのように見えて、シェラハザードはたまらず眉根を寄せる。
「………エルファス殿下…」
「…勘違いしないでくれ、シェラハザード。私はまだ諦めるつもりはない。あの子が…レオが諦めていないのだ。あの子はきっと私が死ぬその瞬間でさえ、諦める事をしないだろう。なのに私が真っ先に諦めてどうする?」
レオスフォードからの文の最後には必ず「待っていてほしい」と書かれていた。レオスフォードがフリューゲルへと発ったその日、別れを告げる言葉の代わりにエルファスへと送った言葉だ。その言葉に、エルファスは「待っている」と答えた。その誓いを、約束を、破るつもりはない。
「…ただ……一つ心残りがあるとすれば、レオの立太子式を見られない事だろうな」
「…………え?」
「あの子は私が死ぬまで、立太子するつもりはないだろうから」
「…………あ」
諦めるつもりはないが、それでも死が決して避けられるものではないという事も自覚している。できれば生きている間に皇太子となった最愛の弟の姿を目に焼き付けておきたかったが、それも叶わぬ夢なのだろう。
返答に困って眉を八の字に寄せるシェラハザードに一つ笑みを送って、エルファスはもう一度窓の外へと視線を移した。
「……楽しみだな、シェラハザード」
「…え?」
「…百年ぶりの異界の旅人だ。彼がこの国に……いや、この世界にどういう奇跡をもたらしてくれるのか…私は楽しみで仕方がないんだ…」
自分には過分すぎる奇跡が与えられた。
十二年もの歳月を与えられ、そして今また異界の旅人が降り立つという奇跡が起こった時代に居合わせる事ができた。
できれば、その人物に会ってみたい、とも思う。
だがこれも、自分には過分な願いなのだろう。
ならせめて、この国が、この世界が、変わりゆく様を想像する事は許されるだろうか。
未来に思いを馳せ、変革を成し得た世界で最愛の者たちが幸せそうに笑う姿を想像しても、欲深だと咎められたりはしないだろうか。
きっと異界の旅人は、自分が与えられた奇跡以上のものをこの世界にもたらしてくれるはずだ。
そんな未来を想像しながら、エルファスはゆっくりと瞳を閉じた。




