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物語の始まり

「確かに君の書く小説は面白いし文才もあると思うよ?だけどねえ、題材がねえ…」


 この台詞を聞くのは一体幾度目だろうか。


「ほら、今は悪役令嬢に転生して断罪イベント回避を目指すとか、婚約破棄された令嬢が王子様に溺愛されるとか、もしくは最弱スキルしか持っていない主人公が無双するとかさ、そんな話が受けるのよ。読者の受けを狙うならそんな話を書かないと」


 むしろそんな小説しか出回ってないだろ、と幾度目かになる悪態を心中で呟いた鳴神なるかみ りつは、この日を最後にずっと夢見ていた小説家の夢を諦める事になる。


**


(…昔はよかったなあ)


 出版社からの帰り道、律は悄然とため息を落としながら白い吐息を追うように空を仰ぐ。


 昔はよかった。

 王道と呼ばれるストーリーはあるものの、そのジャンルは比較的自由だったし読者も多彩なジャンルから自分好みの物語を選べた。なのに今や右を向いても左を向いても、同じ話が恥じらいもなく並んでいる。


 悪役令嬢に転生する話。

 婚約破棄された令嬢が溺愛される話。

 何度も人生をループする話。

 チートスキルで無双する話。

 異世界転生、あるいはゲームか小説に転生する話。

 そして、聖女召喚と称した異世界転移─────。


 書店で並んでいる漫画も文庫本も、そして小説大賞と銘打ったものもすべて、これらのジャンルに侵食された。小説大賞の応募規定に書かれている『このジャンル以外でも応募可。あくまで作品の面白さで判断します』という文言を信じてはいけないと悟るのに、そう長くは掛からなかっただろう。その文言がついている小説大賞の受賞作品は十中八九、未だに前述した作品ばかりだからだ。どうやら出版業界はそれ以外の物語が世に出ることを阻むように、全員右に倣えしているらしい。


(…もう飽きたんだよな、この系統の話)


 これらのジャンルが台頭し始めた頃、律も例に漏れず物珍しさもあって色々と読み漁っていた時期があった。律が書きたいものとは違っていたのでそれを小説にする事は当然なかったが、素直に面白いと思ったのも事実だ。


 だが、だからといってこう何年も同じ設定の同じ話ばかり続けば、嫌でも飽きてしまう。真新しさが何もなく、今ではもう長ったらしいタイトルだけで九割九分どんな話か判るので、読む気さえ起きない。何より腹が立つのはそれ以外の物語が少数派に追いやられて、読みたいと思ってもほとんど目につかない事だろう。


 出版業界のみならず書き手や読み手、そして世間までがこれらのジャンルを妄信的に担ぎ上げ、模倣と呼ばれる行為を恥じ入る事なく平然と行っている。流行りと呼ばれるものに安易に乗っかり、自分で新しいものを作ろうともしない。


 同じ場所でひたすら足踏みを続けるその現状を、小説家くずれである律の心にわずかに残った、なけなしの矜持が許さなかった。


(…自分で流行りを作ってやるって気概のある編集者はいねえのかよ)


 もう一度深いため息を落として、律は自身が背負っているリュックをちらりと一瞥する。


 中には突き返された自分の小説が無造作に入れられていた。丁寧に扱うつもりも、ましてやこのまま所持し続けるつもりもない。だが、出版社を出てすぐ、くずかごに叩き捨てようと思ったそれは、結局未練という形で忌々しくリュックの中に収まっている。


(…未練がましいよな、男らしくないっていうかさ…。もう持ってても意味ねえんだし、潔く捨てちまった方がいっそ清々しいか…でもあんな街中のくずかごなんかに捨てて誰かの目に触れるのも癪だからな…。やっぱどっかで燃やすのが一番か…)


 そうやって思議を深めながら、律は通い慣れた帰路を進む。

 通い慣れていたからだろうか、律は油断していた。


 おそらく長年抱いていた夢を捨てたばかりで、自分で自覚している以上に気が動転していたのだろう。あるいは、その夢の捨て方を模索する事に夢中になって、周りが見えていなかったのかもしれない。


 まだ夕方と呼ばれる時間帯。だが冬になって陽が落ちるのが早くなった上、この日は鈍色にびいろの雲が太陽を隠している所為で、周りはもうすっかり薄暗い。


 その薄暗い世界を、一瞬の内に光が包む。

 目が眩むような閃光と、耳をつんざくようなクラクション。


 律が覚えているのは、その二つだけだった。


**


 土のにおいが鼻をくすぐった。

 これは雨を含んだ土と草の匂いだ。


(……雨……いつの間にか降ったのか……?)


 思って、律は瞳をゆっくりと開く。いつ瞼を閉じたのか記憶にはない。あの目が眩むような強い光を遮るように、無意識に瞳を閉じたのだろうか。


 何とはなしにそう思いながら開いた視界に、見覚えのない景色が飛び込んできた。


「…!!?」


 鈍麻になっていた思考が、瞬間一気に冴えわたる。

 目を見開き慌てて体を起こしたところで、自分がようやく地面に倒れていた事に思い至った。


「………ここ……どこだよ……?」


 茫然自失と呟いた律が座り込んでいる場所は、見覚えのない森の中。目前には悠然と佇む、樹齢千年は超えていそうな巨樹がひと際目を奪った。見上げれば葉と葉の隙間から陽光が差し込んでいるが、見える空はやはり分厚い雲が我が物顔で居座って、森の中は薄暗い。見渡せば見た事もない植物がそこかしこに見えて、律はたまらず眉根を寄せた。


「……何だ、これ…?…こんな植物、見た事もねえぞ…?」


 紫色に仄かに光る花や、いびつな形の赤い実。まるで触角のようなものが付いた気味の悪い花らしきものは、風もないのにそよそよと動いているのが、また底気味が悪い。好奇心を惹かれつつ、そのどれもが触ってみようと思わないのは、どれも不気味さ以上に毒々しい感じがしたからだ。


 律は伸ばした手を引っ込めて、もう一度周囲を見渡してみた。


「……誘拐でもされたか?」


 笑い含みに、そしてわずかに自嘲気味な調子で心にもない事を口にする。決してこの言葉が的を射ている事はないと理解しつつ手足を視界に入れるが、やはり縛られた形跡はない。一応、微に入り細に入り確認してみたが、体のどこも怪我をしている様子はなかった。


「…荷物はあるし、財布もある。靴も履いてるし、服もそのまま……」


 現状を確認するように、律は一つ一つ手に触れて声に出す。こうやってわざわざ確認行為をゆっくり行っているのは、心の平静さを保つ為と言うよりも、おそらく現実逃避をしているからだろうと律は自覚していた。


 今のこの状況───嫌と言うほど見た覚えはないだろうか。


「……はは……まさか、な……」


 冷や汗が止まらない。

 まさか自分がそんな状況に陥るはずがない。

 だいいち、あれはあくまで物語の中での話だ。それが現実に起こるはずなどない。


 そうかぶりを振りつつ、思い出す。

 最後に見た強い光と、車のクラクション。


 仮にこれがもし物語だと仮定すれば、今の状況から導き出される答えは一つだろうか。


 ──────『異世界転生』


「冗談じゃない…!!何で俺があちこちに転がってるような模倣作品の主人公やんなきゃなんねぇんだよ…!!」


 それも自分の夢を捨てるきっかけを作った諸悪の根源の、だ。その主人公を自分が演じるなんて笑うに笑えない。


 律は憤慨しつつ、慌ててスタジアムジャンパーのポケットをまさぐって携帯電話スマホを取り出す。カメラ機能を自撮りモードに切り替えて、自分の容姿を確かめてみた。


「…!…………俺…だよな……?」


 そこに映る、何の変哲もないあまりに見慣れた自分の顔。その顔を撫で回すように確認して、律はほっと胸を撫で下ろした。どうやら少なくとも、現世で死んだらゲームや小説のキャラに転生した系ではないらしい。


「……そりゃ、そうだよな……」


 冷静になれば、そうでない事は一目瞭然だ。持ち物も服装もそのままなのだ。『転生した』はありえない。


「…じゃあ、単純に異世界に転移したのか?死んだらそこは異世界でしたってやつか?…いや、死んだとは限んねえよな。轢かれる前にこっちに来た可能性もなくはない」


 もしくは誰かが召喚した───か。


「…はは……これもありがちだな……」


 聖女召喚の巻き添えを食って一般市民が異世界にやってきました系もまた、最近の流行りだ。


 どちらにせよ流行りに乗るのは御免被る、と忌々し気に一つ息を落として、律は再び現状を把握するために立ち上がり周囲をぐるりと見渡した。その視界に映るのは前述した巨樹とその合間から見える朽ちたような木、そして体をくねらせるように伸びた薄気味の悪い樹木に、まだ年数の立っていない若木─────。


「……………木しかねえな」


 見渡す限りの木々が鬱そうと茂ってどこまでも続いている。全方位、木々に囲まれ、どちらが出口でどちらが森の最奥部かさえ判断がつかない。その現状を表現するに相応しい言葉が律の脳裏に浮かんで、なおさら途方に暮れたように呆然自失となった。


「………おい、冗談だろ…?……異世界に来たら遭難してましたとか、どう見ても詰んでるだろ、これ……!!」


 もうこの際、百歩譲ってここが異世界でもいい。現実世界だろうが異世界だろうが、樹海とおぼしき場所で彷徨って遭難死とか冗談ではない。


 律は文字通り頭を抱え込み、思わずその場にしゃがみ込んだ。その途方に暮れた律の耳に突然甲高く響く悲鳴が聞こえて、律は弾かれたように後ろを振り返る。聞こえたのは律の後方、おそらくこの巨樹を超えた、向こう側。


 そう理解した瞬間、律は反射的にその悲鳴がする方へと全速力で駆けた。


「人……っ!!?人がいるのか…っ!!?」


 人助けのために駆けたわけではない。そもそも悲鳴がどういった時に上げるものなのかも失念していた。律はただ森の中で遭難していて二進も三進もいかない時に、人がいると判って反射的に駆けただけだった。


 それが後悔と言う形で律に襲ってきたのは、その悲鳴を上げた主がいるであろう場所に足を踏み入れた時だった。


「おい…!!大丈夫か…!!!?」


 まるでいかにも助けに来たような声掛けをして、律は視界を塞ぐ草木を腕で押し開く。その視界に入ってきた光景に、律は思わず体が硬直するのを自覚した。


 そこにいたのは、樹木に背を預け腰を抜かしたように座り込む一人の少年と、その数歩先にいかにもその少年を襲おうと身構える、よく判らない大きな一匹の獣の姿。


「………何だよ……あれ……?」


 身の丈三メートルほどもある、黒い獣。

 わずかに虎を彷彿させる顔立ちにライオンの鬣を思わせる長い毛をなびかせ、その耳は狼のように大きくピンと上に立っている。四足歩行でその手足は太く、爪も牙も獲物を殺すのに十分な大きさと鋭さだ。反面、尾は長くふさふさとしていて、狐の尾を思わせた。


 まるで闇をくり抜いたかのような漆黒の体躯の中に、ぎょろりとした異様な光を放つ双眸そうぼうがなおさら律の恐怖心を煽って、わずかに後ずさる。


(……だめだ……こんな獣……目が合ったら殺され─────)


 恐怖心に後押しされるようにその場から逃げ出そうと動いた体は、だがその獣と対峙している少年とわずかに目が合って、ぴたりとその動きを止めた。


 年の頃は六、七歳いくかどうかと言ったところ、少年と言うにはまだ幼い。この寒空の下、あちこちが破れた襤褸ぼろを身に纏い、痩せ細って傷だらけの体躯をかたかたと震わせて、顔面蒼白の顔をこちらに向けている。その怯え切った少年の瞳は、いかにも助けてくれと訴えているようだった。


(……冗談だろ……?……俺にどうにかできるわけ……)


 ───ない。

 できるはずがない。


 武器があるわけでもないし、例え武器があったとしても格闘と言えるものを何一つした事のない自分では、何の戦力にもなり得ない。あの間に割って入っても、ただ死体がひとつ増えるだけ。だったらまだ、生き延びられる方が生き延びた方が──────。


 頭の中で必死に少年を見捨てるための言い訳を挙げ連ねていた律は、だが黒い獣が少年に向かって飛び掛かった瞬間、体が意に反して動いた。


「『やめろ───っっっっ!!!!!!!!!!』」


 元来た道を戻るはずだった体は、気づけば雄たけびを上げて飛びかかる黒い獣の前にあった。

 ちょうど黒い獣と少年の間。少年を庇うように腕を広げ、盾になっている。目の前には大きく口を開いた、黒い獣。律はその恐怖から逃れるように瞳を固く閉じて、瞬間的に己の最期を悟る。


 ────思えばくだらない人生だった。

 結局夢見た小説家の道を諦め、その日に何の因果か異世界に飛ばされた挙句、ここがどんな世界かも判らないうちにやはりよく判らない獣に食い殺されるのだ。


 死の瞬間には、やはりこのくだらない人生を振り返る走馬灯というものを見せられるのだろうか。できればそんな無駄な時間など端折って、さっさと天国に逝かせてくれる方がずっといい─────。


 そんな事を考えながら死の瞬間を待っていた律は、だがいつまで経っても死どころか痛みさえ訪れない事に痺れを切らして、固く閉じた片方の瞳を恐る恐る開いてみた。


 その小さく切り取られた視界に薄ぼんやりと見えたのは、先ほど目前に迫っていたはずの黒い獣が少し離れたところで威嚇するように身構えたまま、じっとこちらを見据えている姿。


「……?……何だ……?」


 訝し気に眉根を寄せて、律は黒い獣を刺激しないようにゆっくりと後ろにいるはずの少年を振り返る。


「……俺……襲われたか……?」


 問われた少年は、怯えたように震える体はそのままで、やはり同じく目を丸くしながらただかぶりを振った。


「……怪我……ねえよな……?」


 再び問われたその質問に少年は、やはり無言のまま頷きを返す。

 それでなおさら訳が分からなくなって、律はゆっくりと黒い獣に視線を戻した。


「……襲う気がねえのか……?」


 その質問には黒い獣が応えるようにうなり声を上げて大きく吠える。律と少年の体はそれに呼応するように瞬間びくっと硬直して、しばらく黒い獣を注視した後、やはりその場を動こうとしない獣に二人仲良く小首を傾げた。


「……襲う気はありそうなのに動かねえな……。…まあ、いいや。とりあえず今のうちに逃げるぞ」


 言って、緩慢な動きで少年に近づきその細腕を掴む。


「……立てるか?」


 それにはやはり無言のまま少年はかぶりを振った。どうやら恐怖で腰を抜かしたのか、もがくように地面を蹴る足に力が入らないらしい。律は黒い獣の動向を気に留めながらその小さな体を難なく抱きかかえると、獣と対峙しながらゆっくりと体を数歩横にずらしてみた。その律たちを追いかけるように、ぎょろりとした双眸が二人を捉えて、いかにも逃がすまいとその行く先に己の大きな体躯を寄せる。


「……逃がす気はないってか?……くそ…っ!!」


 律は軽く舌打ちをして、小さく後ずさる。とにかくあの黒い獣との距離をもう少し確保したい。なまじ大きいだけに、こう近くては恐怖で委縮して咄嗟に体が動かない。


 黒い獣に気づかれないようにじりじりと後方に下がり距離を取ろうとする律の思惑を、だが黒い獣はすぐさま察して大きく一歩前に歩み出た。


「…!?」


 負けじと後方に下がる律と、距離を取らせまいと前に進む黒い獣。その静かな攻防は、時間が進むにつれ互いに歩みが早くなる。早くなり始めると、やはり有利なのは一歩が大きい黒い獣に軍配が上がった。少しずつ距離を詰められて、かと言って背を向けて走る勇気は律にはない。まるで真綿で首を締められているような感覚に陥って、近づく黒い獣に律はたまらず大声を張り上げた。


「『近づくなって…!!!止まれ…!!!』」


 その律の言葉に従うように、黒い獣は歩みをピタリと止める。双眸は相変わらず律たちを捉えたまま、やはり動きを止めてこちらを見据える黒い獣に、律と少年は訝し気に眉をひそめて互いに顔を見合わせた。


「……?……もしかしてこいつ……思ったより人懐っこいのか……?」


 それには少年が大げさなほど大きく顔を振って、否定を強調する。


「…そ、そんなはず…ないです…!!」

「お、喋った」

「魔獣が人に懐くなんて…!!聞いた事も見た事もないです…!!」

「…こいつ、魔獣なの?」

「……?…魔獣を、知らないんですか……?」


 目を丸くして小首を傾げる少年に、律は憮然とした態度でそっぽを向く。異世界に来たばかりなんだから知るわけないだろ、と心中で零して、律はもう一度動きを止めた黒い獣を視界に入れた。


「…人に懐く魔獣がいないとは限らねえだろ?」

「いません…!!千年前までこの世界にいた聖女さまでさえ、魔獣の膝を折る事はできなかったと言い伝えられているんです…!魔獣は誰にも従いません…!」


 唐突に嫌な単語が耳に届いて、律は思わず眉根を寄せる。あるいは、つい先ほどまで怯えきった様子で話す事さえままならなかった少年が、急に饒舌になったからかもしれない。


 何となく煮え湯を飲まされたような気分になって、律は十にも満たない子供に対して大人げなく弁駁べんばくを始めた。


「そんなの千年も前の話だろ?」

「そ、そうですけど…!」

「現に今目の前にいるこいつは、さっきから俺の言う事をきいているように見えるだろうが」

「……そ…それは……」

「そんなに若いうちから可能性を否定するような頑固頭になってどうすんだよ。先入観を持つって事は未来を閉ざす事だってよく覚えとけ」

「………」


 もはや反論する術を失って、少年は閉口する。

 律は論破できた事に溜飲を下げつつ、反面うなだれるように視線を落とす少年の姿になけなしの罪悪感が胸を疼かせた。何やら小動物を苛めているような気分に襲われて、律はたまらず大きなため息を落としながら抱きかかえた少年の体を下におろす。


「…!……何を…するつもりですか…?」

「…いいから見てろ。……もし俺に何かあったら、お前は委細構わず走って逃げるんだ、いいな?」


 その言葉に目を白黒させて引き留めようとした少年の動きをやんわりと制するように、律は笑顔を向ける。その笑顔が引きつっている事も額に冷や汗が浮かんでいる事も、律は嫌と言うほど自覚してはいるが、それでも強がって見せたのは今しがた抱いた罪悪感のためと言うよりも、おそらく彼よりも年上だからという些細な見栄からだろう。


(…見栄で死んだら世話ねえよな)


 そう自嘲気味に心中でひとりごちて、律は意を決したように黒い獣と対峙する。

 黒い獣と律との間は、わずか数歩の距離。その数歩先にいる黒い獣を宥めるように、あるいは制するように、律は右手を伸ばして黒い獣へと手をかざした。


「……いいか?よく聞け。『…俺たちはお前の仲間だ。お前を傷つけないし、お前も俺たちを傷つけない。俺たちは、仲間なんだ』 ……判るか?」


 まるで噛んで含めるように、律はゆっくりと黒い獣に向かって言葉を発する。

 この獣が人の言葉を理解するかは判らない。だが少なくとも二回、彼は律の言葉に従った。偶然も三回続けば必然───その言葉が示すように、必然になるにはあと一度偶然が起こればいい。


 黒い獣を刺激しないように、そして言い聞かせるように穏やかな声音で落とされた律の言葉を吟味するように、黒い獣はその双眸をじっと律に向けている。そうしてわずかに考え込むかのようにその双眸をわずかに左へ泳がせた後、黒い獣は自身の中で決断を下したのかおもむろに座り込んで、ふさふさの長い尾を前足の上に置いた。


 その行為が友好の証なのか長期戦を覚悟して腰を据えただけなのかが判らず、律は後ろで成り行きを見守っている少年に声を掛ける。


「………どっちだと思う?」

「……ぼ、僕に聞かないでください…!」


 明確な答えが返ってこないと理解しつつ、それでもかずにいられないのは人間の性だろうか。思って、もう一度座る魔獣を視界に入れる。


(……大丈夫だ。異世界に飛んだ主人公が最初に出会う獣はだいたい懐くって相場が決まってる……)


 自分自身に言い聞かせるように、あるいは鼓舞するように律はひとりごちる。


 どのみち何かしらの方法で確認するしかない。

 律はそう腹を括って、ゆっくりと黒い獣に手を伸ばしてみた。何を思っているのか、黒い獣は微動だにない。それでなおさら後押しされてさらに腕を伸ばした律の体を、少年は唐突に強く引いた。その細く小さな体躯からは想像できないほどの力強さで強引に引っ張られて、その勢いのまま二人仲良くその場に尻もちをつく。


「…!!!?ばか…!!!何するんだ…!!!?」

「だ、だめです…っ!!!腕を食べられちゃいます……っ!!!」

「怖い事言うなよ…!!!俺だってなけなしの勇気を振り絞って手を伸ばしてんだぞ…!!!」

「だったらやめましょうよ……っ!!!」


 言いながら律の腕を離すまいと強く握る少年の顔は、今にも泣きそうだ。


「いいから離せって…!!」

「だめですってば…!!」


 黒い獣の存在などそっちのけで、二人は応酬を繰り返す。完全に魔獣の存在を失念していた二人が再びその事実を認識したのは、急に自分たちが座り込んでいる場所に大きな影が現れたからだった。


「…!!!?」


 慌てて見上げたその先には、大きな体躯とぎょろりとした双眸で見下ろしてくる、黒い獣の顔────。

 あまりの恐怖に二人は声にならない声を上げて、いよいよ死を覚悟するように固く目を閉じた。顔面蒼白となって、生きた心地がしない。


 その蒼白な顔を撫でるようにざらざらとした湿り気のある大きなものが顔に当って、律は目をぱちくりとさせた。まるで猫を彷彿とさせる、その大きな舌────。


「……!!」


 見れば喉を鳴らして、甘えるように律の体にその大きな顔をすり寄せてくる黒い獣の姿がそこにあった。


「……は…はは…!!何だよ、やっぱりこいつ人懐っこいじゃん!!」

「…!…………まさか……」

「言っただろ?人に懐く魔獣だっているはずだって…!!」

「……そんな……だってそんな事……ありえない………」


 少なくとも、少年が知る限りその実例はない。


 少年だけではない。

 ────魔獣は誰にも従わない。

 これがこの世界共通の認識だった。


 だとしたら今目の前で起こっている事の一切は、一体何だというのだろうか───?


 誰にも従わないと言われた魔獣は、少年の目から見ても律に甘えて懐いているように見える。

 あれでは魔獣と言うよりもただの大きな猫と言った方がいいかもしれない。体に触れる事を許し、母親に甘える子供のように嬉しさを尻尾で表現している。


 少年はその信じられない光景から、見開いた目が離れなかった。

 そうして、魔獣と戯れる律にぽつりと訊ねる。


「……お兄さん、一体何者……?」


 それには一瞬考えてから、律は答える。


「あー…。……ただの、遭難者?」


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― 新着の感想 ―
テンプレに思う所があるのは凄く共感しました。 でも、異世界転移なんですね。(苦笑) 自らふるマッチポンプに少しクスっときました。 ちょっとだけ思ったことを。 アンダーバーを使うより、──(罫線)を使…
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