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散らない桜はない。咲かない桜もない。

 暗い夜道を歩く青年の姿が一つあった。

 足取りはどこかおぼつかなく、 本人はまっすぐ歩いているつもりだが、時折体が左右に揺れている。理由は明白だ。先程まで友人宅で酒を飲んでいたせいだろう。飲みすぎには注意していたが、一杯、もう一杯と、酔い潰れるほどではないが手が伸びてしまった。

 それもこれも、近々行われるという宴会の準備に日々追われているせいだ。今回は今まで以上に盛大に行うらしく、そのための準備も例年とは比べ物にならない。

 彼は村の中でも若い部類だ。そのせいもあってか、年上の連中からあれしろこれしろと指図を受け、半ば便利屋のように扱われていた。今日も重い荷物を運んだり、現場の調整をしたりと、肉体的にも精神的にも疲弊している。両者の間に深い溝があるわけではないが、酒の席で愚痴をこぼすくらいには不満もあった。それに付き合ってくれた友人に感謝はしているが、その友人に唆されて飲みすぎてしまったのだから感謝しきれない部分もある。

 明日、頭痛が酷かったら文句の一つでも言ってやろう。と、そんなことを考えていたその時だった。

 青年の耳に声が、まるでこの世の絶望を音にしたかのような、低くじゃがれた声が聞こえてきた。そのあまりにも悍ましい声に彼の酔いは瞬時に覚め、代わりに顔から血の気が失せていく。

 おかげでもう意識もはっきりしている。だというのに、青年の耳をまた同じ音が撫でた。幻聴などではない。


「誰だッ!?」


 青年は大声で誰何するが、返事は返ってこない。悪戯では無いだろう。にしてはあまりに悪質だ。それに、真っ先にその可能性を外すほどに、あの声は異質だった。

 青年は震える体で周囲を見渡す。すると、この村に根を張る巨大な桜の木。下からでは天辺も見えないその木の下に、誰かが立っているのが見えた。

 青年は目を凝らす。

 ――それは美しい女性だった。作り物のように整った大人びた顔立ち。風に揺られた桃色の髪は散り際の桜の花を想起させ、立っているだけでその存在感に目を引かれる。彼女には、そんなどこか浮世離れした印象があった。

 青年は彼女の姿に目を奪われ、先程の恐怖なんて微塵も忘れてただただ立ち尽くした。

 そうしてどれだけの時間が過ぎたか……ふと瞬きをした次の瞬間、彼女の姿は消えてしまっていた。

 まるで夢でも見ていたかのような出来事だったが、あの時感じた恐怖も、反対に魂を揺さぶるような衝撃を受けた感覚も鮮明に残っていた。

 青年にはあれが夢だとは到底思えなかった。だから翌日、その話を友人やその他周囲の人達に話しても、誰一人として信じてはもらえなかったことが悔しくてたまらなかった。誰もが、酔って夢でも見たんだろうと笑った。

 もはや誰も信じてくれない。

 そう諦めかけた時。

 彼の前に現れたのは、御年いくつかも分からない年齢不詳、しかし今にも倒れそうなその外見でハキハキと歩く謎生物――この村の村長だった。

 村長はその長く生きた経験からか、青年の悩みを察したらしい。どうしたのかと尋ねられた青年は、昨夜あったことをぽつりぽつりと話し始めた。そんな彼の話を、村長は穏やかな笑みで、相槌を打ちながら最後まで耳を傾けた。

 青年が最後に「誰に話しても信じてもらえず悔しい」と締めくくると、村長はなるほどと深く、二回頷いてこう言った。


「お主が目にしたのは、精霊様じゃな」


 答えはあっさりと返ってきた。

 村長は青年の話を夢と切り捨てず、その女性は精霊だと言った。青年が「精霊様?」と問い返すと、村長はその通りという風に深く頷いた。


「精霊様はこの村の一本桜に住まわれる、桜の精霊様でな。昔は村総出で信仰しておったのだが、あまりお姿を見かけなくなってから皆の信仰心も薄れてしまってなぁ。今となっては、ワシと他数名しかあの方の存在を信じておらん」


 そう話す村長の目には諦めの色があった。

 古いものが淘汰されていくのは世の常だが、それが己の信仰対象ならその想いも察するに余りある。現に、青年は彼女の姿を見ていなければ、例え村長が必死に精霊の存在を訴えたとしても聞く耳を持たなかっただろう。実際にその目で見て、あの感動を体験していなければ、真にその存在を認めることはなかったに違いない。

 そんな内心で複雑な思いを抱える青年に、村長は去り際にこんなことを溢していった。


「と、そうじゃったな。お主の言う不気味な声に関しては問題あるまい。あの方は邪を払う神聖な力をお持ちじゃ。あの方にお任せしておけば良い」


 しかし、青年はそんな一言では止まらない。

 謎の正体がはっきりしたとなれば、もう一度見て、いや会ってみたいと思うのは当然の帰結と言える。その相手が絶世の美女とあればなおのことだ。

 青年はその日の夜、また同じ時間の同じ場所に出向いた。あの悍ましい声が気掛かりだが、彼女に会うためと思えば勇気が湧いて出てきた。

 そうしてどれだけの時間が過ぎたか……。残念なことに、声が聞こえてくることも精霊が姿を見せることもなかった。

 村長の話もあってその存在を疑ってはいないが、いつも居るわけではないのだろう。

 青年は諦めて帰路に着こうとしたが、ふとその足を桜の木の真下へと向けた。


「やっぱり、綺麗だなぁ」


 月光の元に輝く巨大な一本の桜の木。去年よりも花の数が減っているものの、その幻想的な姿は健在で、毎年村総出の宴会をする会場になるのもよく分かる。青年はいつだったか、他所の桜の木を見たことがあるが、それとは比べるのも烏滸がましい。皆の目が奪われるのも無理はない。

 そう。それはまるで、先日の彼女のようで――


「さようですか。ありがとうございます」


 ――。

 幻聴でも、幻覚でもなかった。

 青年が瞬き一つ済ませた瞬間、彼女は突如として彼の前に現れた。もはや疑いなど微塵もない。彼女は間違いなく、人ならざる存在なのだろう。

 青年が驚きのあまり声を出せずにいると、精霊は首を傾げながら、


「どうかされましたか?」

「――っ。……い、いや、なんでもないです」


 自分でも声が出せたことに、青年は驚いた。心臓が激しく鼓動し、息が詰まったような感覚が治らない。それでも、こうして得られたチャンスを逃せるはずもなく、必死に声を出そうと喘いでいると、精霊はクスリと笑いながら言った。


「ふふっ。慌てなくても構いません。私に会った人は誰もがあなたのようになってしまうのです。落ち着いて。姿を見せておいて、はいさようならと直ぐに姿を消すようなことはしませんから」


 青年は顔に熱を感じながら、その言葉に甘えてゆっくりと深呼吸をする。そうしていると、夜の冷めた風が少しずつ彼の顔の熱を奪っていった。桜独特の甘い香りが激しい鼓動を整えていく。

 精霊の「もう平気ですか?」という声に、まだ少し熱を感じながらも、ようやく彼女と対面した。


「初めまして。俺は――」

「ええ。知っていますよ。あなたが小さい頃、それこそ赤ん坊の頃から、私はあなたを知っています」

「では、やはりあなたは」

「夕刻、村長と話をしていましたね。彼の言っていた通り、私はこの桜の精霊ですよ」


 青年はその言葉に思わず息を呑んだ。

 彼女は聞いていたのだ、村長と話したことを。その内容を。であれば、昼間散々青年が村の人たちに彼女のことを話してまわっていたことも、おそらくは。

 そんな青年の硬い表情を見て察したらしく、彼女は心配ないと語る顔で言った。


「別に私のことを隠しているわけではありません。仮にあなたが明日、私とこうして会ったことを誰かに話しても何の問題もありませんよ」

「そうなん、ですか」

「はい。彼は現状を残念に思っているようですが、私が姿を見せなくなったのは私自身の選択です。その結果信仰心が薄れようと、それは仕方のないことでしょう」


 精霊はそうはっきりと言った。言い淀む様子もなければ、顔に感情が出るわけでもなかった。きっとそれが彼女の本心なのだろう。

 そうなると、青年の頭に一つ疑問が浮かぶ。


「では、どうして俺には姿を見せてくれたのですか?」

「昨夜、あなたには姿を見られてしまいましたからね。あなたが嘘つきと、村で孤立するようなことは避けたかったのです。居るかいないかも分からない幻想を追いかけられるより、こうして面と向かって話をすれば気持ちの整理もつくでしょう?」

「それは……そうですが。どうして俺なんかのために?」

「それはもちろん。あなたもこの村に住む者の一人ですから」


 彼女のその一言には強い想いが込められているように思えた。

 それはきっと――親愛。

 青年は察する。彼女はこれまで村の人々から信仰を集めていた。と同時に、彼女にとって彼らは愛する庇護の対象でもあったのだ。それは青年も例外ではなく、彼女は彼を、ひいてはこの村をずっと見守り続けてきたのだろう。

 青年は、村長達が彼女を信仰する気持ちが分かった気がした。


「人に姿を見せたのも久しぶりですね。……少し話でもしましょうか」

「良いのですか?」

「誰かとの会話に良いも悪いもありませんよ。……そうですね、あなたは確かこの村から離れたことがありましたね。私はこの村から離れられないのです。外の世界の話を聞かせてもらえませんか?」

「……だったら、是非とも」


 それから青年は彼女との会話を楽しんだ。友人と一緒に旅行に行ってきた時のこと。街はここと比べ物にならない人の多さで疲れたこと。宿に泊まる際、友人が財布を落としたことに気づいて、狭苦しい部屋に二人で泊まる他なかったこと。その後、友人の旅費を稼ぐために、旅行のはずが働き口を探す羽目になったこと。

 青年も男だ。少々誇張した部分はあったものの、どの話も彼女は心の底から楽しそうに聞いてくれた。彼女はかなりの聞き上手で相槌のタイミングもよく、青年は自分でも驚くほどに話せていた。

 正に幸せを感じる時間だった。


 ――その声が聞こえてくるまでは。


「――ヅぁ゛あ゛ア゛ア゛ア゛アッ!」


 その瞬間、青年は全身が粟立つのを感じた。

 先日よりも、もっとはっきりとした声。あの悍ましい声が直ぐ近くから聞こえてきた。

 青年が体を震わせながらゆっくりとその音のする方へと視線を向けると、そこには輪郭のぼやけた、かろうじて人型ととれる姿をした何かが居た。

 青年はそれを目にした瞬間理解した。――あれは良くないものだ。――この世に存在してはいけない。

 あまりの恐怖に青年は身動きが取れないでいると、精霊がそれの前へと一歩歩み出た。

 彼女に恐れた様子は微塵もなかった。

 そうしてしばらく相対していると、やがてそれは煙のように姿を消した。

 精霊は振り返って、


「私には邪を払う力があります。恐れることはありませんよ」


 と、言った。

 しかし、なぜなのだろうか。

 その言葉とは裏腹に、彼女はどこか悲しげな顔をしていた。




 翌日。

 青年は宴会の準備を進めつつも、その動きは精彩さを欠いていた。ちょっとしたことでミスをし、周囲に責められてもどこか上の空の返事しかしない。

 挙げ句の果て戦力外通告され、休養するよう言われてすごすごと家に帰ってきた。布団にくるまってふて寝するこの男が、今現在の彼だ。

 彼の脳裏には、昨夜の悲しげな彼女の顔が浮かんでいた。どうにかしてあげたい気持ちはあるが、あの存在に対抗する手段が思いつかない。こちらはその手のスペシャリストではなく、ただの村人A。特殊な力もなければ、戦う術すら持たない。都会で不良に絡まれた時は、友人を置いて脱兎の如く逃げ出した。そんな小心者な青年である。

 そんな彼が、体が震えて逃げ出すこともできなかった相手に何ができるというのか。

 鬱々と考えていると、あっという間に夜も更けてきた。

 結局考えが纏まることはなかったが、それでも。青年は彼女に会うために家を出た。



 約束もなく訪れた青年を、精霊は嫌な顔ひとつせず迎えてくれた。

 昨日よりかは慣れてきたらしく、出会った直後は緊張したものの、話し始めればどうということはない。また、昨日の話の続きを聞かせて欲しいと言うので、青年はまた面白おかしく話し始めた。

 精霊は昨日と同じく楽しそうに笑っていた。

 会話は楽しいし弾んでいる。けれど、青年の頭の片隅から昨日のあれが消えることはなかった。

 そうしてしばらく。遂に友人との旅行話も終わりを迎えようという頃に、やはりというべきか、それは悍ましい声と共に姿を現した。

 青年は恐怖から体が動かなくなる。精霊がそれへと一歩近寄る。


(――このままじゃ、昨日と同じだッ!)


 青年は勇気を振り絞って一歩、また一歩と踏み出すと、彼女を庇うようにして前に出て、その霞がかったそれへと怒鳴りつけるようにして言った。


「彼女に近寄るんじゃねぇッ!」


 きっと青年がこんなことをしなくても、彼女が害されることはないだろう。おそらく彼女の方がよっぽど強い。力も持っている。

 それでも、青年にはただ見ているだけの現状がどうしても耐えられなかった。守られているだけの自分が情けなかった。震えているだけの自分が、恥ずかしくて仕方なかった。

 そんな想いから踏み出すことのできた青年。しかし、頭の中は恐怖が八割と後悔が二割占めていた。

 睨み合って(相手が睨んでいるかはさておき)どれくらいが経ったか。それは昨日と同じように徐々に形を崩していき、周囲に溶け込むようにして姿を消した。

 青年はその瞬間、生を実感した。旅行先で仕事した際、怖い上司の前で失敗を見せた時以上に生きていると実感できた。

 そうして人心地ついた後、彼が振り返って目にしたのは――今まで以上に悲しげな表情をした精霊の姿だった。

 一転、青年は冷や水を浴びせられた気分だった。


「あの――」

「もうここには来ないでください」


 精霊の口から出たのは拒絶だった。今までとはまるで様子が違っていた。

 青年が言葉を返す前に、精霊は続けて言う。


「……私にはもう時間がありません。人で言うところの寿命、なのでしょうね。もうすぐ、この桜は枯れるでしょう」

「なっ――」


 唐突だった。

 けれど、青年には彼女の言うことが理解できた。……できてしまった。

 そもそもの話、今準備が進めらている宴会は、この桜と共に毎年行われてきた行事だ。それがどうして今回に限ってこれほど盛大な催しになったのかと言えば、村のシンボルでもあるこの大きな桜の木がもう直ぐ寿命を迎えてしまうことに起因する。

 だから最後はもっと盛大に、と。そうした理由で準備されてきたのが今回の大宴会だった。


「私の力ももうほとんど残っていません。ですから、あなたを守ることはできないでしょう。だから――もうここには近づかないでください」


 そう言って、彼女は青年の前から姿を消した。

 その後のことは彼もよく覚えていなかったが、いつの前にか家に帰ってきて、布団にくるまって眠っていた。

 翌朝、あれが夢などではなかったと知ると、より憂鬱な気分になって二度寝に耽った。

 昼過ぎに起きてきた青年は、ひたすら宴会の準備に勤しんだ。昨日とは打って変わってテキパキとこなす彼の姿に誰もが心配の声をかけるが、彼はそれを「大丈夫」「平気」と一刀両断。作業終了の夕刻には、誰よりも早く足早に家へと帰った。


 そうして訪れる、いつもの時間。

 たった二回。彼女を見かけたあの日を足してもたった三回だが、青年はあの時間が思っていた以上に好きだったらしい。邪な気持ちが無かったとは言い切れなかったが、彼女との時間が純粋に楽しかったのだと、今なら言える。

 だというのに。彼女には拒絶され、おまけに残りの時間が少ないときたもんだ。青年の弱弱なメンタルにはなかなかに厳しかった。

 けど……だけれど。

 このまま終わりだなんて、彼には納得できなかった。


 ――青年の足は、今日もあの場所へと向かう。

 いつもより少し遅くなってしまった。それもこれも、彼がうじうじと布団の中で悩み悩んでいたせいだろう。「嫌われた、なんデ、ドウシテ……」と、こぼした涙の痕は既に洗い流してある。そのせいで、さらに遅くなってしまったが。

 そんなこんなで。

 今日も訪れたその場所で。青年が見にしたのは、彼女の前に佇む例の怪しげな奴だった。

 昨日よりも、強いて言えば最初に見た時よりも人の形に近づいているように見える。今ではそれが男なのだと分かるようになってきた。

 一見してみれば絶世の美女に怪しげな風体の男が近寄っているようにしか見えない。それは遠くから見ていた青年とて同じで、思わず彼女の元に駆け出そうとする、が……どうにも様子がおかしい。いつもの彼女らしくない。恐る恐るといった様子でその怪しげな風体の男に手を伸ばしているようだった。

 青年は立ち止まった。邪魔してはいけないような気がしたから。

 そのまま遠くから見ていると、男が徐々に震え出した。そして輪郭がぼやけ始め、遂には先日までと同様、周囲と同化するようにして消えてしまった。

 男を見送る彼女は、やはり悲しそうな表情をしていた。

 そんな今にも泣きそうな彼女に声をかけることはできず、青年は静かにその場を後にした。……そうするしかなかったと自分に言い聞かせて。



 翌日。

 青年は今自分にできることは何かを考えた。彼女の笑った顔を取り戻すためにはどうしたら良いのか、と。

 考えに考え……青年は村長の元を訪ねていた。


「村長、実は……」


 青年は精霊のことについて話した。村長の言葉を無視して彼女に会いに行っていたことも、どんな話をしたのか、どんなことがあったのか。そして、彼女の笑顔を取り戻したい。彼女が何をそんなに悲しんでいるのかが知りたい。知恵を貸してほしい、と。

 村長は青年の話を聞き終えると、何度も頷いた。頷いて、頷いて、そうして見せた皺だらけの顔は、寂しげながらも、どこか嬉しそうだった。


「お主はこの村に伝えられた……いや、伝えられていた昔話を知っておるか?」


 村長は語る。

 この村はその昔、大きな戦に巻き込まれたことがあった。村の存亡がかかった、避けられないものだったらしい。

 その時、村のとある若者が、この村を守るため戦いに参加した。彼は戦いの経験などないのに血気盛んに挑み、そしてその戦績は誰もが目を見張るものだったという。

 彼のおかげで戦は勝利に終わった。村にも被害は及ばなかった。しかし、彼は最後の戦いで大きな怪我をして、そのまま敵地で帰らぬ人となってしまった。

 彼は戦の前に精霊に宣言していたという。

 必ずここに戻って来る、と。


 村長は、青年の見たその男が彼なのだろうと言った。約束を守るため、死して戻ってきた。

 けれど、出会うことは叶わなかった。

 青年がなぜ、と問う。

 村長は答えた。


「精霊様が神聖な存在だからじゃ」


 青年は理解した。彼女が抱く悲しみの理由も、全て。

 彼女は彼に会いたかったのだ。戦場で命を落とし、村を守り切った彼に。戻ってくると宣言して出ていった彼に。

 しかし、その身に宿る神聖な力が彼を苦しめ遠ざけてしまった。もしかしたら何年も、何十年も。だからあれほどまでに悲しげだったのだろう。

 けれど、それももう終わりを迎える。

 彼女は力がもうほとんど残っていないと言っていた。それが無くなれば、きっと彼女は彼と会えるだろう。

 しかし、それは同時に彼女の最期でもあるはずで――。


 青年は決意を胸に顔を上げた。


「村長」

「うむ。お主の好きにするといい。お主はあの方に好かれておるようじゃしな」

「えっ?」

「そもそもの話、あの方が姿を見せたくないと思えば誰も見られん。お主の前に姿を現したということは、そういうことじゃ。昨夜もまだ見えたのであれば……きっと、そういうことなのじゃろう」

「……そっか。そっか!」


 見るからに元気を取り戻した青年を、村長は温かい目で見る。そして、今にも飛び出していきそうな彼に、最後にもう一つ助言をする。


「……名というのは人にとって重要なものでな。『名が体を現す』とも言う」

「突然どうしたのさ?」

「まぁ、聞くのじゃ。その男、形が不安定と言ったな? であるなら――」


 そうして青年は村長から得た武器を手に、その夜、彼女の元へと向かう。

 明日はいよいよ大宴会。

 今日はその最後の夜となる。



 青年がいつもの時間、いつもの場所へ向かうと、そこには既に精霊の姿があった。彼女は青年を見ると、困ったような笑みを浮かべて、「来てしまったんですね」と言った。


「すみません。どうしても……謝りたかったので」


 青年は彼女に近づき目を合わせ、そして深く頭を下げた。


「あなたの大切な人を、俺なんかが拒絶してしまってすみませんでした。そのせいで、あなたを傷つけてしまった」


 彼がこの地に、彼女の元に戻ってくるそのチャンスを潰してしまったのだ。彼女がこれまで傷ついてきた月日を思うと、青年は自身のことが許せなかった。その気持ちは本人にしか分からないが、今この場でもう一度拒絶されてもおかしくない。もっと罵声を浴びせられても仕方ないとさえ思う。

 それでも、彼女の返答はただただ優しかった。


「いいえ。謝るのはこちらの方です。八つ当たりしたようなものですから。昨日も見ていたのでしょう? 私と彼のやりとりを。まだその時じゃなかっただけのこと。謝罪は必要ありません」

「いや、でも」

「いいんです。許しが必要ならば、私が許します。私も許してもらえますか?」

「……その言い方はずるくないですか?」


 そして二人して笑った。

 青年はあの時間が戻ってきたように感じられた。


「……村長から全て聞いたのですね」


 切り出したのは彼女の方から。唐突だったが、青年に驚きはなかった。

 青年が「はい」と頷くと、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。


「あの話は事実です。当時信仰心の強かった村の一人が、言い伝えるべきだと主張して広めていましたね」


 精霊は「私は恥ずかしいので反対だったんですけどね」と言って、続ける。


()は本当にお馬鹿な人でした。大して強くもなかったのに正義感だけは一丁前で。いつも文句ばかり言ってるのに、誰よりも頑張り屋さんで。私と会う時は、いつもキョドキョドしていましたね。……そう、あなたみたいな人でした」

「えっ? ……キョドキョドしてますか? 俺」


 精霊はじっと青年を見てから、「少しはマシになったかもしれませんね」と笑った。

 堂々としていたつもりだったが、側から見ればそうではなかったらしい。青年は彼女と初めて話をした時のように顔が熱っぽくなるのを感じた。

 続く彼女の「そんなところですよ」という言葉がさらなる追撃となる。

 ……精霊の話は続く。


「そしてここぞという時には逃げない。逃げられない人だった。だから――行ってしまった。帰って……こなかった」

「……」

「あの頃は、私はまだ未熟でした。きっと、私一人で村を守ることはできなかったでしょう。それを見越して、彼は行ってしまったんです。そして――私にもできなかったことを成し遂げてしまった」

「凄い人ですね」

「ええ、凄い人です。私の自慢の人です。こうして死んでも帰ってこようとする人ですから……本当、凄いのかお馬鹿なのかよく分かりません」

「俺は尊敬しますよ。村を救った英雄じゃないですか」

「英雄……ですか。彼には似合わなそうですけど」

「普段はどんな人だったんですか? もっと聞かせてください」

「そうですね。いつもはイタズラが好きな子供っぽい人で――」


 いつもとは逆で、今度は彼女が青年に話をした。青年は不慣れながらも聞き手にまわり、村を救った一人の英雄のことを魂に刻み込んでいった。

 そうして時間は過ぎていき、ふと彼女は青年を見て言った。


「あなたは、彼に似ていますね」

「顔が、ですか?」

「いえ、雰囲気がです。それに、あなたもここぞと言う時には逃げたりしないのでしょう? ……今日みたいに」

「それは……」

「ふふ、困らせる質問をしてしまいましたか。今日あなたがここに来なければ、私を知る村長にでも代わりに伝言を任せようと思っていました。ですが、あなたはちゃんとここに来てくれました。……あなたはやはり、彼に似ています」


 青年が渋い顔で無言を貫くと、彼女は少し困った笑みで、


「気をつけてくださいね。あなたみたいな人は、他人のために無理をし過ぎますから。私からの、最期のお節介です」


 それは、と口にしかけたが、精霊の体が傾きかけたのを見て、青年は慌てて彼女を支えに駆け寄った。

 そしてすぐに彼は気がついた。彼女の体が透けている。今にも消えてしまいそうだ。けれど、その深緑の両目だけは未だに活力が漲っていた。

 青年はもう残り時間が少ないのだと悟った。それは当人もよく分かっているだろう。けれど、死への恐怖は一切感じられない。

 必ず成し遂げる。そんな彼女の意思に呼応するように桜の花が散り乱れるが、それと同時に新たな蕾も花となって咲き誇る。

 幻想――まさに幻のような光景だった。


 しかし、今日に限ってなかなか件の彼が姿を見せなかった。霊体だけに何かあったとは考え難いが、こうして命を燃やしながら待つ人がいるのだ。とっとと姿を見せろという苛立ちが、青年を突き動かした。

 青年は彼が――英雄がどこかで聞いていると信じて力の限り叫んだ。


「あんたを待ってる人が居るんだよ……とっとと出てこい桜山タケル(・・・・・)!」


 ――変化は劇的だった。

 目の前に現れた人型のそれが、みるみるうちに色づいて生前の姿を取り戻していく。

 獣の皮を鞣して作られた傷だらけの胸当てを身につけ、刃がボロボロに欠けた抜き身の剣を腰に下げた男。悪戯が好きそうな悪ガキのような顔つきだが、目は優しく慈愛に満ちている。

 青年と彼は一瞬視線を交わし、全てを分かりあったかのように互いに頷いた。

 言葉なんて必要なかった。

 青年は彼に後を任せて、その場から立ち去る。

 チラリと振り返れば、そこにはかつてない笑顔で涙を流す彼女と、それを優しく支える彼の姿がある。

 お似合いの二人を見て、青年は思わず笑みをこぼした。


「おかえりなさいませ」


 そんな万感の想いが込められた彼女の言葉が青年の耳に届いた時。桜はかつてない大輪を、その枝に抱えきれないほどいっぱいに咲かせたのだった。




 翌日の昼下がり。

 満開を超えて咲いた桜に一部を除く皆は驚いていたが、村長の一声で予定通り大宴会は行われた。大量の酒と大量の料理が振る舞われ、誰もが笑って、声をあげて楽しんでいる。村を出た者達も帰省していて、かつてない賑わいだ。

 皆、何度も何度も上を見上げ、少しずつ散っていく桜に目を奪われていた。これだけ大量の花だ。全て散るまで何ヶ月かかるか分からない。もう一度や二度くらい宴会ができるかもしれないな、と青年はそんなことを考えながら、ゆっくりチビチビと酒を楽しんでいた。

 そこへ件の友人がやってきて、彼の隣にどかりと音を立てて座り込んだ。


「よう、お一人で寂しいもんだな」

「いや、そうでもないさ。どこかの誰かさんに邪魔されなければ、もっと楽しいんだけどな」

「まぁまぁ、そう言うなよ。ほら、追加の酒持ってきてやったぞ。感謝しろ」

「はいはい、感謝感謝。で、何のようだ?」

「何の用とは酷いな。友人がボッチで可哀想だと思って来てやったというのに」

「言っただろ。……一人で飲みたい気分だったんだ」

「へぇ……女か?」

「ぶフォッ!?」


 青年が思わず口に含んだ酒を吹き出すと、友人はニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべながら近寄ってきた。


「おっと、図星か? 相手は誰だ? この村の奴か? それとも隣村か?」

「……ちげーよ。その人は……もう居ない」

「何だ、失恋か? 始まってすらなかったのか?」

「どうでもいいだろ?」

「どうでもよくはないだろ。ほれっ」

「……」


 友人から酒を差しだされ、青年は無言で盃を突き出す。

 トクトクトク、と酒が満杯になった時、ひらりと舞い落ちた桜の花びらが波紋を作って浮かんだ。

 二人して思わず上を見上げる。


「今年は随分と咲いたもんだ。もしかしたら来年も期待できるんじゃないか?」

「いや、無理だろう。村長も言ってただろ? ……もうこの桜は死んでる」

「はぁー残念だよな。この桜が見れなくなるなんてよ」

「ああ、本当に残念だ。でも――」


 青年は一旦そこで言葉を区切ると、視線を下の方へとずらしていく。見れば、大樹の桜の隣には、新たな桜の木と思われる小さな挿し木があった。

 誰がしたかは分かっていないが、来年再来年は無理でも、何年何十年もすれば、きっとこの桜のように満開の花を咲かせてくれることだろう。


「昨日までは何ともなかったんだが。一体何があったのやら」


 友人が酒をコクリと一口飲んで言うので、青年は一気に全ての酒を煽ってから言ってやった。


「きっと、桜にとって嬉しいことがあったんだろうさ」

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