そこにいたのは
誤字がありましたら、報告してくれると幸いです。
踏み込んだ瞬間──僕は心臓が飛び出そうになった。
詳しく言うと踏み込んでとあるものが視界に入った瞬間。
「…………え?」
思わず声が筒抜けるように出た。
何か言葉を発しようとしているのか、口は開けっぱなしのままなのに言葉は一文字以降、一向に出る気配はない。
頭の情報処理が追い付いていなかった。
ただ心臓が限りなく圧迫され、ぐにゃぐにゃと捻じ曲がるように視界が揺れる。
水の中に潜っているかのように周囲の音は濁っている。
僕は何か夢を見ているのだろうか?
そう考えはじめて数秒後。あるいは長い長い時間が経った頃。
現実に戻すかのようにドアが閉まると同時に、僕の思考と焦燥は再び動き出し、体感時間はまた低速になった。
焦るというのも変なのかもしれない。
鍵がかかっていた部室の中に──
──外を眺めている一人の少女がいただけなのだから。
不思議ではあっても、変ではない。可能性的にはあり得ることだ。
何の可能性で……?
頭の働きが徐々に回復していき何故僕が焦っているのかだんだんと分かってきた。
動けないのだ。
鎖で縛られている。警備員に取り押さえられている。
そんな生半可なものじゃなく、時間が止まっているかのように僕の身体は固定されていた。
奇妙なものだ。
恐怖と焦慮は感じているのに、息を荒げるどころか、足の震えさえも生まれない。
ただ。
逃げなければいけない。
筋肉が、血管が、細胞が、本能が──僕にそう伝えている。
ドアが閉まった音に反応して少女はゆっくりこちらを振り向いていた。ゆっくりゆっくりと。
金縛り──入眠時または睡眠からの覚醒時に数秒から数分間全身が動かなくなる現象。
今、それに遭っているということはきっとこれは夢なのだろう。そして大抵こういう夢は悪夢だ。食われるか、痛めつけられるか、殺されるか。
ホラー番組でもお馴染みの展開なのである。
だが夢だ。所詮夢だ。なら──覚めてくれ、頼む。
覚めない。
頼む、頼む。
覚めない。
頼む頼む頼む頼む──
やっぱり覚めない。
せめて目が瞑れればいいのだが、金縛りは瞼にも適応しているらしい。
何の抵抗も出来ぬまま気が付くと僕は──少女と目が合っていた。あった気がした。
その目がどんな形なのかを僕は認識できない。
何故なら。
その少女は狐の半面を着けていた。
顔の半分から上は狐の面が覆っていのだ。
見覚えがある。
昔、大筆先輩がつけていた──つまりは伊規須市の伝統工芸品の一つ。
夏祭りで実際買うことの可能な面だ。
そんな身近なものが、今はものすごい遠いものに感じる。
目の部分は細く吊り上がった形で、注目してやっと、その面の奥にかろうじて瞳を認識できた。
そして認識した瞬間、なんでだろう。
すぐにでもここから離れた方がいいと考えていたはずなのに、そんなことどうでもよくなっていた。
気づけばその少女から目が離せなかった。
──恐怖心から動くことができないのか。
──突然の状況に頭が真っ白になって身体が応答しないからか。
──はたまたその風姿に見惚れていたからなのか──そのどれもが正解な気がした。
真っ直ぐに僕を見つめる天然水のような透き通った瞳と、対照的に藍のように濃く、艶やかな髪。
浮世離れしたその容姿は15年間という霜月光の人生の中で──最も綺麗なものだった。
服装は我が校の女子生徒の制服を着ていて総合して観ると、おかしな点は狐面だけ。
分析ができているということは、いつの間にか僕は平静を取り戻したのだろうか。
心臓の鼓動がだんだんと聞こえてくる。
なんだ、もしやこれが伝説の一目惚というものなのか?
女気を今まで感じたことも感じさせたこともなかった僕が?
これからラブコメが始まるかもしれないのだ。
僕は心臓に全集中を注ぎ込む。
ドク……ドク……ドク。ドク。ドク、ドク、ドクドク──あれ、なんか加速してないか?
心動が短くなるにつれ感覚もだんだんと鮮明になっていく。
背中が妙に少し涼しい。
密閉された空間で風が起きるはずもなく、それに既に春なのだ。吹くとしても撫でるような温かなものだろう。
となるとこれは冷や汗によるものらしい。
惚気を感じる未来などやはり僕にはないらしく、現在抱いているのは紛れもない怖気だった。
血の巡りを全身で感じられたからか、今なら筋肉を稼働することができる気がした。
目は少女から離さぬまま少し足を動かしてみる。
熊の対処方法が狐に汎用できるかは不明だが、そうするしかなかった。
──よかった。金縛りは緩くなっている。
生まれたての小鹿のように震えつつも、少しずつ身体の自由を取り戻していってる。
ドクドクドクドク──心臓はまだ加速し続けている。
──時間が流れれば春夏秋冬と移り変わるように。
──大きな水たまりも日光を当て続ければ徐々に消えていくように。
そんな自然の理のように僕はできるだけゆっくりと回れ右をする。音を立てず、必要最低限の動きしかしない。
……大丈夫。さっき睡眠研の前でしたことをするだけだ。
息を殺す。
苦しい。
早く、ここから去りたい。
ドアに向かい合って、僕はゆっくり──でも着実にドアノブへと手を伸ばす。
また時間がゆっくりと流れはじめる。心臓の音もそれに伴いゆっくりと聞こえる。
あと、数十センチ──
……色々と謎だが明日大筆先輩に聞いてみよう。
──あと数センチ──
いや、こういうのって知ってしまったら、巻き込まれるのがオチか?
──あと数ミリ──
だったら僕の中だけの出来事にしとくべきなのだろうか。
──ようやく僕の手に冷たく硬い感触が伝わる。
それを僕は握る。
でも。
変だな。
ドアノブを握っている手の反対の手からは、対照的に温かくて柔らかい感触が伝わってくる。
それは僕の手を握っている。
勘弁してくれよ……。
僕はドアノブを強く握る。
握ってるのに、回せない。
力が上手く入らない。
汗はこんなにも強く握っているのに。
絶望とはこういう状況を言うのか。
そんな風にどこかで諦めてしまったからか。
次の瞬間に来る引寄せるような力を僕は踏ん張ることができなかった。
握られた手の方向から強い力が加えられ、ドアノブから僕の手が離れる。
僕は半身になって、嫌でもドアノブと反対方向へと──少女の方へ向いてしまった。
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