4・不幸な君と僕の幸福・
日が昇ってすぐに目を覚まし、旅に出る支度をした。
空は分厚い雲で覆われており、太陽の姿は見えない。
降り注ぐ雨が屋根を叩いている。
ジメジメとした外の景色は、僕たちの別れを惜しんでくれているようだった。
「……さよなら」
ゼラの寝顔に語りかけ、布団から出た左手の薬指に指輪を嵌める。
王女にふさわしい煌びやかな装身具だ。
大人用に作られていたため少しサイズは大きかったが、端正な顔立ちの彼女によく似合っていた。
物入れの中身を確認する。
ナイフや食料、水などが入っていた。
これだけあれば、しばらくは生活に困らない。
旅の目処は立っていないが、当面の目標は集落を見つけることになるだろう。
足音を殺して歩き、そっと扉を開いて建物を出る。
チラリと背後を振り返ってみたが、ゼラが目を覚ました様子はない。
雨を凌ぐため笠を被り、靴につま先を通す。
早朝の街中は物静かで、鳥のさえずりや風で揺れる木々の音しか聞こえない。
重い足取りでぬかるんだ道を歩いた。
頭の中がゼラでいっぱいになっていく。
引き返そうと何度も考えた。
同時に自分の『不幸』に対して苛立ちも覚えていた。
失うばかりで、何かをもたらせてくれるわけでもない。
命のみならず愛した人すらも失ってしまうこの呪いさえなければ、これからもずっとゼラと暮らすことができるというのに。
街の門が目の前に迫った。
獣が街に入ってくるのを防ぐため鍵がかけられている。
集落を転々として得た知識を使って、ゼラが提案したものだった。
ゼラのいない日常を考える。
食事を摂る時も眠りに就く時も独りだ。
色のない景色はひどく物悲しく思えた。
僕がここまで生きてこられたのはゼラが隣にいてくれたからだ。
「ヒルコ」
息をするよりも先に、その声がゼラのものだと理解することができた。
「起きたの?」
背後を振り返り、笑ってみせる。
ゼラは肩で呼吸をしながら嵌めた指輪を指先で弄んでいた。
「出ていくの?」
「うん。一緒にいるとゼラが不幸になるから」
嘘を吐いても見破られてしまうような気がした。
それにはっきりと伝えれば、後になってゼラが悲しむこともない。
「これからこの街を豊かにしていかないといけないんだから、不幸になっちゃダメだよ」
「でも」
「それに、せっかく手にした幸せなんだから大事にしないと」
「だからいなくなるの?」
ゼラの寂しげな表情を見ていると気が変わってしまいそうで咄嗟に背を向けた。
施錠を外して門を開く。
立ち並ぶ木々の先は暗く不気味だ。
「ねぇ、ヒルコ」
濡れた袖を引っ張ってゼラが言う。
「離してよ。僕だって辛いんだよ」
喉奥が熱くなり、森林の景色が歪んでいった。
彼女の手が震えているのがわかった。
「ずっと昔、この世界が平和になったら欲しいものがあるって言ったでしょ」
今すぐにでも手を振り払ってこの街から出ていく必要がある。
頭では理解できていても、行動に移すことができなかった。
「覚えてるよ」
「平和以外、まだ一つも手に入れてないの」
「ゼラが平和を守り続ければ、いつかきっと手に入る」
僕がそばにいなければ彼女は幸せに暮らすことができる。
これからの長い人生の中で望んだ様々なものが手に入るだろう。
そう考えると、集落で役人を殺して回ったあの日々は無駄ではないように思えた。
「……幸せが一つじゃないのと同じで、不幸も一つじゃないんだよ」
雨に濡れた左手のひらが柔らかな感触に包まれた。
冷え切った手の中に微かな暖かさが残っている。
指に触れているゴツゴツした感覚の正体は、僕がゼラの薬指に嵌めた指輪だ。
「それを教えてくれたのは、ヒルコでしょ?」
「でも」
「一番不幸なことは死ぬことでも反乱が起こることでもないよ」
ゼラの左手にグッと力が込められた。
「今の私にとっての不幸はヒルコを失うことなの」
吐き出すようにゼラは言った。
「明日死んでもいい。街の平和なんてどうだっていい。ヒルコを失うくらいなら、また前みたいな薄暗い世界に戻ってもいいの」
トンっと背中に小さな重みがかかった。
「だから死ぬまでの間、私と一緒にいてほしい」
ゼラは人々を不幸にさせてしまう僕の生きる意味だった。
彼女が死を望んでいたからこそ、生きる意味を見出して旅を続けた。
そうだったはずなのに、今は彼女を失うことが何よりも怖い。
とんだ矛盾を抱えたままここまできてしまった。
幸せを手にしたゼラを不幸にすることはできない。
選択肢は一つしかなかった。
「……一緒にいると不幸になるよ。それでもいいの?」
「いい」
「ゼラが嫌いな世界になるかもしれないよ?」
「言ったでしょ。ヒルコを失うくらいなら平和なんていらない」
「不幸になったら、死ぬかもしれないんだよ」
「死ぬのは少し怖い。ヒルコと一緒にいたいから」
「そっか」
小声で返事をして首を縦に振る。
関わったものすべてを不幸にしてしまう僕ができることは限られている。
「ならもう少しだけ二人で不幸に生きようか」
不幸と引き換えに小さな幸福を選び、震えるゼラの手を握り返して呟いた。