第17章「かげ」 1-6 夜月香
マーラルが顎をさすり、
「仮にも魔王で、異世界の存在だ。こちらの法がどこまで通じるものか、想像もつかん。あまり長い時間使ったり、短い期間で何度も使ったりしていると、支配を脱する恐れがあるとか……」
「なるほど……!」
ルートヴァンがマーラルを凝視した。
「説得力がありますな!」
「いま適当に考えただけだよ……」
マーラルが苦笑して、また手酌で杯を傾けた。
「だがね、あんなやつを支配できるのは、タケマ=ミヅカ殿だけだよ。やはり、何かが違うんだ、アイツ……あの、ゲントーというやつは。存在自体がね。多次元同時存在体というだけではなく……我々の世界には、そもそも存在しない存在だ。そんなやつを、我々の法で支配できようはずがない。たとえ、世界の裏側の未知の法でもね……そう思わんか」
マーラルが小さくため息をつき……この穏やかな世界の遠くを見つめた。
「そうですね……」
ルートヴァンが、そんなマーラルの疲れ切ったような横顔を、いつまでも見つめ続けた。
ほぼ、そのころ。
バーレ王国王都幻。王宮である。
バーレ王国第48代国王にしてタン家当主、タン=ルォンが青ざめた顔で王宮の奥より「裏」に向かっていた。
タン家は、いつのころよりか王家内で分裂し、特殊任務や裏の仕事を専門に行う分家が現れた。それを裏王家という。通常は、そう云った家は遠からず臣籍降下し、バーレの法では王から侯に降下する。
しかし、裏王家は表王家を事実上支配しており、いつまでも同格の王のままだった。
もっとも、表の政治にはけして関わらず、裏王家のことを知っている者はバーレ国内の貴族諸侯でも少ない。よほど王家に近しいか、それこそ直系の親戚筋でないと、その存在すら知らなかった。
また、知っていても実際に出会ったことのある者も非常に少なかった。一種の王族特務機関であり、いったい誰がそうなのか、知る由もない。
広い宮城で、国王が王妃や側室らと住まう一角である奥宮から細い回廊で続き、一見すると宮城内に設けられた寺院のような区画に、裏王家があった。実際寺院であり、一族が住まうというより、裏王家当主と強力な御庭番の部隊が常駐している。裏王家の一族郎党が普段どこに住まっているのかは、当の裏王家の人びとしか知らない。少なくとも、この寺院には当主と当主に仕える精鋭しかいなかった。
「陛下、御待ちくだされ。陛下と云えど、前もって知らせも無くいきなりここへ来ることは禁じられておりまする」
宮城内で、さらに高い塀に囲まれた一角へは、その細い回廊からしか入ることができない。裏王家を知らないものは、そこは国王が秘儀を行う王専用の秘寺であると伝えられてきた。
「どけ!!」
寺に入る回廊の扉の前で両袖を合わせ、深く腰を曲げて礼をしたまま微動だにしない宦官に向かって、王が血相を変えて詰め寄った。
「なりませぬ」
「夜月香に用があるのだ!」
「なりませぬ」
「無礼者が、どかぬか!!」
「なりませぬ。改めて使者を遣わし給い、それをもってこちらから連絡をいたします」
「それではいつになるか分からんから、余が直に来ておるではないか……国家の大事ぞ!!」
「なりませぬ」
「おのれ……!!」
「よい、非常事態である」
回廊の扉に設えられている小窓が少しだけ開き、太い男性の声がした。
「畏まりまして御座りまする」
宦官が深く腰を曲げたまま、王ではなくその声がした小窓に向かってさらに深く頭を下げ、場所を開けて回廊の隅に跪いて控えた。まるでロボットみたいな動きだった。
高く分厚い塀に備え付けられている古びた片開きの小さな扉がゆっくりと開き、寺院内へ入ることができた。
タン=ルォン王が身を屈めつつ勢いよく中に入ったが、太く低い声の主であろう男は、どこにもいなかった。
国王はそのまま寺院の庭を通って、本堂のような建物の正面に向かった。
だが、その途中で、
「ルォン殿! こっちこっち。こちらに御座る」
若い女性が、王をそう呼び止めた。
見ると、寺院の敷地内の小さな庵の前に、簡素な道服と宮廷装束を合わせたような不思議な着物を着た豊満な女性が、手を振っている。
イエユエ=シャンことタン=イエ=ユエ。裏王家の当主である。




