第17章「かげ」 1-1 にじり口
第17章「かげ」
1
多忙の合間を縫い、かろうじて無理やり作った時間に帝都の路地裏を訪れたルートヴァン。そのまま次元回廊を通り、「オッサン」のほうのマーラルが居るはずの、無何有の里を訪れた。
皇帝府への報告や諸届出へ自ら出向いた出張の際の、ほんの1時間ほどの休息時間の最中だった。
変わらぬ小春日和が永遠に続く穏やかな空間で、ルートヴァンは草萌えるなだらかな丘をこえ、さわやかな風の吹き抜ける泉のほとりの庵に向かった。
前回、訪れた時は、マーラルは庵の側の籐の長椅子にひっくり返り、酔いつぶれて寝ていた。
だが、今回はそこにはいなかった。卓の上に、酒瓶もない。
(いない……か……?)
ルートヴァンが目元を細めた。当然のこと、ここへ来る前に古書店の無楽堂へ寄っているが、閉まっていた。それゆえ、ここに来たのだが……。
念のため近づいて、庵の入り口を探した。
(待て……留守なのに、ここに部外者が入ることができるのか? なんと不用心な……)
「いるよ。こっちだ」
庵から声がして、ルートヴァンがホッとした。
「どこから入るので?」
「ここだよ」
壁の地面の近くに空いた穴? から、掌だけが見えた。手招いている。
「な……なんですか、ここは……出入口ですか?」
ルートヴァンが、身をかがめて云った。ただの穴ではなく、壁が四角く切り取られ、木枠と引き戸もついている。
「躙り口だよ。履き物を脱げよ」
「履き物……靴を?」
「中はイェブ=クィープの様式なものでね、土足厳禁だ」
「はあ……」
「杖は壁にでも立てかけておけ」
「わかりました」
ルートヴァンが杖をそこらに立てかけ、這うようにして躙り口より室内に入った。
「これは……どういう意味があるので?」
初めての体験で、ルートヴァンが苦笑してそう云った。
「この部屋の中は、身分の上下が無いんだ。王も平民も、這いつくばって入るんだよ」
「なるほど……?」
なんのこっちゃ……と思いつつ、小さな窓より光が入るだけの薄暗い室内で、ルートヴァンが畳のような硬い敷物の上に胡坐をかいて座った。
「本来なら、堅苦しい様式の茶をのむ儀式があるんだが……私もよく分からん」
正座のマーラルがそう云って、抹茶を差し出した。
「はあ」
茶を飲むのに儀式が必要とは……イェブ=クィープとは不思議なところだと思い、ルートヴァンが出された土色の陶器の茶碗を持った。
イヌか何かが水を飲むような粗末な茶碗にしか見えなかったが、中の泡だった緑色の液体は良い香りで美しいと思った。
そのまま片手で椀をもって、ゴクゴクと飲み干した。
「うまいかね」
「ええ……まあ、はい。不思議な味ですが……まずくはないです」
「そうかい」
マーラルが苦笑。
「ちなみに、その茶碗は700万トンプする」
「えッッ!!!!」
ルートヴァンが椀を落としそうになり、あわてて両手で支えた。金額に驚いたというより、
(こ……このイヌの水飲みが700万……!?!?)
その価値観に驚いた。
「さしものルートヴァン代王も、魂消たようだな」
楽しそうにマーラルが笑った。
「御戯れを……!」
恐ろし気に茶碗を返して、ルートヴァンが眉をひそめた。
「ま、人の価値観や美の基準など、そんなもんだよ。さて……」
水差しの水で茶椀を洗い清めながら、マーラル、改まって、
「かつて私が亜空間に封印した魔導都市マーラルを完全に滅してくれ、感謝に堪えない。礼を云う。この通りだ」
マーラルが深々と頭を下げ、ルートヴァンが意表を突かれて戸惑った。
「な……何をおっしゃる、全て異次元魔王様の御力にて……私どもだけでは、とうてい成し得なかったことにて」
「御主を通して、ストラ殿に礼を云っておるのだよ」
「はい……」
マーラルも足を崩し、寛ぎながら、今度は酒瓶を取り出した。




