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君はセコンダ

作者: 都の錦

 ずっと眠っていたのだと思う。

 目覚めたら、私は彼女だった。

「うへー委員会長引いちゃった! あれ、先生まだいたんだ?」

 教室全体が冬の夕暮れ色に染め上げられる。埃のにおいがする隙間風は、私たち二人の髪に冷たくまとわりついた。

「お帰りなさい。委員会お疲れさま」

 彼女は踊るような軽い足取りで私に駆け寄ってきた。軋む古びた床の音とは似合わないその軽やかな動きを見て、私は浅いため息を吐く。

 無邪気。

「明日授業でスライド使うから、その準備してたの」

「へー」

 身体の重みを感じさせない動き、つまり身体を軽やかに見せる動きが出来る役者は、演劇の世界では重宝されるのだと、どこかで聴いたことがある。

 そういえば彼女は演劇部員だった。

「うわ、外暗っ。やっぱ冬は日ぃ落ちるの早いねぇ」

 窓まで歩み寄り校庭を眺める彼女の制服から伸びる手足には、しなやかな若い筋肉がついている。

「そうね」

 返事をしながら心の中で舌打ちをした。私は、どうもこの美しい女生徒が苦手だった。

 この子は、生まれながらのプリマドンナだ。

「暖房もついてない教室で大変だね、先生。老体に堪えるんじゃない? もう先生おばさんなんだから」

 子どものように無防備に笑うその姿を見ても、何故か私の胸はざわついた。

「誰がおばさんですって?」

 今自分は、きちんと平静に振る舞えているのだろうか。

 異様なほど黒く、長く伸びる自分たちの影が、私の胸をさらにざわつかせる。

 彼女の美しさは、いつも私を不安にさせた。

 ーーああ、しまったなあ。

 微かに遠くから聞こえるカラスの鳴き声が、私に『それ』を思い出させた。

 ーーそうだここは、

「放課後の誰もいない教室」

 背中から首筋にかけて、生ぬるい何かが駆け抜けた。一瞬、心を読まれたのかと思いどきりとしたが、すぐにそうでないとわかり、あえてゆっくりと彼女に視線をやった。速まる鼓動を悟られないように。

「ってさ、すごい演劇にぴったりな場面なんだけど、何でか知ってる?」

 いたずらっぽく笑う彼女の目が、細められる。表情が豊かなのは、役者をやっているからなのか、元からなのか。

「さあ、知らないわ」

 それだけ言って、私は手元に目線を落とした。

 ーーここは、二人芝居の舞台なのだ。

 やはり彼女が、苦手だ。

 よく変わる表情も、軽やかに動く手足も、澄んだ声も。

 教師という職に就いて、常日頃から『自分は今芝居をしている』という意識を持つようになった。

 教壇の上は、劇場だ。

 生徒と接するときも、面を被っている。

 誰に対しても等しく、優しく熱心に根気よく。演技を交えずにこれをこなす教師がいるとは思えない。

 教師とは、腕の立つ役者でないとやっていけない仕事だ。

 それでも。

「セミ・パブリックな空間だからだよ。誰でも入れるけれど、みんながいる訳じゃない。ほら、主人公の自宅、だとプライベートすぎて限られた人しか出入りできないし、休み時間の教室、だとパブリックだからガヤを用意しなきゃいいけない。ね? だから、セミ・パブリックがちょうどいい」

 それでも、彼女を見る度、私は卑屈にこう思う。

 役者としては、彼女のほうが一枚も二枚も上手だ。私の三文芝居なんか、見透かされているのだろう。

 と。

 喋る度に揺れる烏の濡れ羽色の髪。ちらりとのぞく白い八重歯。教卓の上に腰掛けた彼女は愉しそうに私を見下ろす。

「演劇もいいけど、あなた勉強もちゃんとなさいよ。自分の赤点の数、把握してるの?」

 痛いとこつかれた、というように彼女は少し舌を出して見せた。赤い、赤い舌だった。

「ていうか先生、いっつも私ばっかり注意してくるけどさ、なんでよ?」

「そんなにあなたばかり注意しているかしら?」

「そーだよ! いつもいつも狙いを定めたように! 先生もしかして私のこと好きなの?」

「勘違いしないでちょうだい。先生はね、あなたのことがかわいくて叱ってるんじゃないの。あなたのことが憎くて憎くてしかたがないから叱っているのよ」

「私先生に何かした!?」

 天真爛漫。

 素直。

 明朗快活。

「前世からの宿縁ってやつかしらねー」

 ああでもやっぱり、

「前世かー。じゃあしょうがないなー」

 無邪気。

 深読みしすぎなのかもしれない。けれども彼女のあまりに美しい一挙手一投足を見ると、『そういう芝居』をしているのでは、と思わずにはいられなかった。

 これが私が彼女を苦手な理由の一つなのだけれど。

「冗談はこれくらいにして。もう帰りなさい。そして私におばさんなんて暴言を吐いたことを深く反省なさい。この若く美しくちょっぴり破廉恥な女教師に向かってよくおばさんなんて言えたものよ、全く」

「へいへい。ってか先生、一個聞いていい?」

「何?」

「冬休みの宿題ってもう決まってるの?」

 テンポよく、リズムは崩さないで。

「ええ。そりゃあもうたっぷり出るわよ」

「ふぁっ」

「はい言わなーい。放送コードに引っかかるようなことは思っても口にしなーい」

 喜劇のように軽く、掛け合いの中で生まれる空気を感じて。

「別にファックって言おうとしたわけじゃな」

「それをやめなさいって言ってんの」

 生徒と話すときは、いつもそんなことを考えている。真剣に彼らの言っていることを聞くより、芝居のつもりで相づちを入れる方が上手く話が転がる。

 一つ、私には気になることがあった。

「これだからおばさんは」

「何か言った?」

「先生、宿題って何があんの?」

「色々よ」

「数学は?」

「ドリル50ページ。高校生も大変ね」

「50ページ! よし、頑張ろう!」

 彼女に関して。

「あら、あなたそんなに真面目ちゃんだったの?」

 天性の役者、彼女に関して。

「だって数学だよ! 岡崎先生だよ! もうこりゃ頑張るしかないって」

「そういうことね」

「岡崎先生まじハンパないよね。イケメンだし、背高いし。優しいし、ニコニコしてるし、気さくだし、それに、」

「それに?」

「えへへ、内緒」

 そう言って誤魔化すように笑った彼女の頬は、洗朱色だった。

 私は、彼女が、苦手だ。

「ふうん」

 完璧なまでに、美しいから。

 でも、これも理由のうちの一つにすぎない。一番重要な理由は、他にある。

「先生の国語科からは出すの?」

「勿論よ」

 私は、ひょっとしたら、

「ふぁっ」

「はい言わなーい」

 彼女の秘密を、知っている。

「先生! お願い! あれだけは勘弁して! 『古典品詞分解トレーニングノート』」

 かも。

「残念ながら宿題はそれじゃないの」

「ほっ。じゃあ宿題って?」

「調べ学習よ」

「ふぁっ」

「何よ。調べ学習の何が不満なのよ」

「調べ学習っつってもどうせあれでしょ? 調べるだけじゃなくてレポート書かせるんでしょ」

「あら、よくわかってるじゃない。さすが私のかわいい教え子」

 軽口を叩いていても、心の中は何となくそわそわしていた。

「レポートかああ」

 そういえば朝のニュースで言っていた。

「レポートが嫌なら違うスタイルで提出すればいいのよ。漫才とかミュージカルとか」 

 関東は今日の夜からぐっと冷え込み、明日の朝にはこの冬一番の寒さになるのだと。

 この薄ら寒さも、そのせいなのだろう。

「ないないないない」

「ただ調べたことをまとめるだけじゃ駄目よ。ちゃんと仮説をたてて根拠を述べながらある一つの結論を導き出すのよ」

 きっと、そのせいなのだ。

「へ? どういうこと?」

「例えば、『清少納言の枕草子の九割は自慢話である』という仮説をたてる。そうしたら、実際に枕草子の内容を章段ごとに分類するの。自慢話、世間話、好きなものの話、嫌いなもの話ってね」

「ふうん」

「で、調べた結果どうだったのか、自分のたてた仮説は正しかったのか正しくなかったのか、その結果を得て自分はどう思ったのか、をまとめる、と。こんな具合よ」

 段々と自分の声や話すリズムが安定してくるのがわかった。

「めんどくせー」

「調べる対象は文学作品に限定しなくてもいいわ。小説や古典、童話は勿論、マンガや戯曲でも、とにかく『物語』と呼ばれるものであれば」

「まじで!?」

「まじよ」

 ああ、どうして苦手なはずの生徒とこんなに話し込んでしまっているのだろうか。

「そんなら私頑張っちゃおうかなー」

 何となく、会話のペースを彼女に握られている気がした。

「あらもう乗り気になっちゃって。気持ち悪いわね」

「今サラッと暴言吐いた!」

「あなたが似合わないこと言うからよ」

「私だって課題に乗り気になることくらいありますー」

「・・・」

 会話に出来た間を埋めるように、チャイムが鳴った。昔ながらの、オルゴールのチャイム。

『まもなく、下校時刻です。生徒のみなさんは教室の戸締まりをして下校してください』

 心底ホッとした。

「さ、もう帰りなさい」

「えー自分が引き留めてたくせにぃ。ね、もうちょっと聞いてよ。あたしの話。もう何調べるか決めたんだ、レポート」

 生徒が前にいる間は、私は役者だ。役としての私なら。話の分かる若い快活な教師としての私なら

「しかたがないわね、もう少しよ。で? 何を調べるの?」

 と、答えるだろう。役者としての意地が、無意味にここで顔を出した。

「まずは・・・『アイーダ』」

 思わず息を呑んだ。

 アイーダ。耳について離れない名前。

「歌劇? ちょっと意外」

「時代はファラオ! 骨の髄まで溶かすような灼熱の世界。二つの国に引き裂かれた、アイーダとラダメスの愛の物語!」

 ーーそうか、そういうことか

 さっきからずっと感じている胸のざわつきの正体が、今になってやっとわかった。

 ーーこれ、『いやな予感』だ

「エジプトとエチオピア、それぞれの王家の人間だった二人は、国同士の争いのためその恋を実らせることができなかった・・・そんな話だったかしら」

「将軍ラダメスはねえ・・・もう、マッチョ」

「マッチョ?」

「ガチマッチョ」

「ガチマッチョ?」

「ガチガチマッチョ」

「なんか緊張してガチガチになってるマッチョみたい」

「違いますぅ。ラダメスの笑顔って、黄金色の太陽よりもずっと眩しくて、言葉は紳士で力強くって、でも守ってあげたくなるような子供っぽい一面もあって・・・ボトルのキシリトールガムの食べ方が本当に男らしくて・・・こう、『がっ、ばっ、ぱくっ』みたいな」

「妄想全開でお送りしております」

「本当にイケメンなんだよ!」

 饒舌な彼女に、私は正直気圧されていた。話を切り上げるタイミングが分からない。

「そんなの演じる役者によるじゃない」

「役者じゃなくてラダメスの話。・・・アイーダはね、本当にラダメスのこと好きだった」

 言葉や仕草はいつもの明るい彼女だ。けれど、目は、目だけは、いつもと違うように見えた。

「見てきたみたいに話すのね」

 猫のようなその目は、よく研がれた刃物をはらんでいるように爛々と光っていた。

「アイーダとラダメスは相思相愛だった。でも、アムネリスがアイーダからラダメスを奪った」

 アムネリス。歌劇アイーダに登場するセコンダ・ドンナ。アイーダからラダメスを奪う皆の嫌われ者。

「アムネリスはラダメスの婚約者だったのよ」

「でも! アイーダへの思いを捨てなければ殺すとラダメスを脅したんだよ!」

「知らないの? アムネリスもラダメスが好きだったの」

 そんな心情、何処にも描かれていないけれど。

「アイーダの方が絶対に好きだったもん!」

「・・・ま、主人公の肩を持つ気持ちは分かるわ」

「投獄されたラダメスと共に牢屋で死を待ちながら、アイーダは誓った。『次の恋は絶対成就させてやるんだから☆』」

 教室の、空気が変わった。

「次?」

「次」

 隙間風が急に強くなり、窓がガタガタと鳴り出す。古い蛍光灯は、瞬くように点滅し、すぐに元に戻った。

「アイーダはそのまま死んだんでしょ? 次って」

「生まれ変わったの」

「は?」

 分からない。

「アイーダの強烈な恋のパワーがぎゅいーんとね、ぎゅいぃいいんと働いて、再びこの世界に生まれてきたの」

「ん、ん、ん? なんだか話が急激にファンタジーになってきたぞ」

 彼女が、分からない。

「勿論今度はアイーダじゃなく、別人としてね」

「ちょっと、宿題は調べ学習よ、嘘っぱちなら」

 どうして。

「嘘っぱちじゃないもん!」

 呼吸することさえ許されないような、彼女の作った空気。

「アイーダは花の香る都、宇治の女として生まれ変わった」

「宇治って・・・日本じゃない」

 いつも通りに見える彼女。でも、

「アイーダに新しく与えられた名前は、葵の上」

 違う。

「ふざけてるの? さあ、下校時刻過ぎたわよ。もう帰りなさい」

「ねえ先生聞いてよ」

 違う。

「ちゃんと最後まで聞いて」

 怖い。

 彼女のまとう雰囲気が。幼く振る舞う奥に見える、熱を帯びた真剣さが。怖い。

「葵の上、先生なら誰か分かるでしょう」

「源氏物語、ね」

「葵の上は気付いていた。夫、光源氏に他に好きな女がいること」

「いい加減にしなさい。作者に対する侮辱よ」

 手足の先が、感覚をなくすほど冷たくなっている。

「作者なんか関係ないもん! 光源氏は葵の上以外にいっつも彼女が何人もいて、サイテーな奴だった。でも・・・花の、空の、季節の美しさがわかる人だった。操る言葉の色彩は、とても鮮やかだった。ふとした時に見せる仕草が、たまらないほど優しかった。そして何より・・・ハッピーターンをボロボロこぼさずに食べることができた」

「また妄想?」  

「葵の上は彼を好きにならずにはいられなかった。でも、六条御息所が、それを許さなかった」

 私は確信した。

 芝居はもう始まっているのだ。一度舞台に立てば、降りられない。

「生霊伝説。よく知ってるじゃない」

 私はとことんまで彼女に付き合うことにした。

「六条御息所は、光源氏の正妻である葵の上に嫉妬していた。葵の上の脳裏にはアムネリスがちらついていた。今度は、奪われないようにしなきゃ」

「・・・ちょっと。ちょっとだけど、面白そうね。いいわ。最後まで聞いてあげる」

 彼女の語る物語が何処に行き着くのか、この目で見るために、二人きりの舞台はお膳立てされたのだろう。

 そう思えて仕方がなかった。

「でも葵の上も予想できなかったの。まさか嫉妬に狂った六条御息所が生き霊になって現れるとは」

「なかなかぶっ飛んだ発想よね」

「毎晩毎晩枕元に来られちゃ、そりゃメンタルもやられるよねー。せっかく生まれ変わったのに葵の上は結局生霊に殺されちゃうの」

「ま、生霊ならしょうがないわよ」

「死ぬ直前、葵の上は誓った。『次の恋は、絶対に手放さない』って」

 そう言って彼女は、私の目を見据えた。口元だけ微かに笑わせた表情が『まだついてくる?』と私に尋ねている。

「・・・また『次』があるのね」

 『当然』私も表情で答えた。声に出さない台詞で、私たちは確かに会話した。

「当たり前じゃん! 先生、乙女の恋へのパワーを舐めちゃダメだよ!」

「そこまでくるといっそ恐ろしいわよ」

 まだだ。まだ芝居は終わっていない。

「そして彼女は今度は中流階級の家の娘としてイギリスに生まれる。名前は、ケイト」

「あなた『鳩の翼』なんて知ってるの!? あんなに古い小説を?」

「ケイトは真面目で誠実な新聞記者マートンに恋をしていた。でも、同じように彼に思いを寄せる女がいたの」

「ミリー。病弱な富豪の娘」

「身分違いの恋にケイトは身を引かざるをえなかった。アムネリスにも六条御休所にもミリーにも勝てなかった彼女は絶望の中で誓った。『次こそは』って」

 もう彼女に対する苦手もいやな予感も薄ら寒さも関係なかった。

「そうやって成就しない恋をくりかえしていくのね」

 彼女は私に何かを伝えようとしている。それを、掴まなくてはならない。

「決まって何かが彼女の邪魔をした。時代、革命、争い、病、そして嫉妬」

「嫉妬、か」

 プリマドンナの影には必ずセコンダドンナがいる。

「次の人生では。次の人生では。次の人生では。彼女は歩き続けた」

「歌劇、古典文学、戯曲・・・どんな媒体の上も平気な顔をして」

「平気じゃなかった。『アムネリス』の陰が人生に落ちる度に、何度も何度も彼女なりの方法で戦った。それでも結果は変わらなかった」

「しかたがないことなのよ」

「そんなことないもん!」

「『アムネリス』にとっても譲れない恋慕だったのよ」

「でも・・・一回くらい譲ってくれたっていいじゃんか」

「だから、アムネリスも六条御息所も想いを遂げていないでしょう」

「そうだけど・・・」

「あなたのフィクション、めちゃくちゃだけど、悪くなかったわ。普段教科書に載るような物語ばかり読んでると、たまには支離滅裂な話を聞きたくなるものなのよ」

「どうして、アイーダは幸せになれないの?」

 聞いたことがないほど乾いた声で、彼女は呟いた。

「自分の作った話でしょう? 」

 せわしなく笑ったり怒ったりしながら話していた彼女の顔が、一瞬にして表情を失った。

「つくりばなしじゃない」

 彼女は誰に向けるでもなくそう言った。

「え?」

「ねえ先生」

 無表情。

「なに?」

 私は声を震わせないように言った。

「岡崎先生さ、イケメンだよね」

「またその話?」

 唐突に切り出された話題に、私はぎこちなくあきれた表情をつくった。

「いつでも、誰に対しても優しくって、笑顔で・・・完璧すぎて隙がないの」

 少しだけ俯く彼女。初めて、下を向いた。

「まあ確かに、あの人が怒ってるとことか、見たことないわね」

「私ね、岡崎先生が校舎裏でこっそり煙草吸ってるとこ、見たことあるんだ」

 彼女は私に背を向けて教室を歩き出した。

「嘘でしょう、岡崎先生に限って」

「先生そのとき、笑ってなかった。当たり前だよね、誰もいなかったから。でもね、私、先生の素の顔ってそこで初めて見たんだ。だから、ちょっとびっくりして・・・そんとき思ったの。ああ、この人、人間なんだ、って」

 彼女はそう言ってこちらを振り返った。

 笑い泣きのような、表情だった。

「ふうん」

「おかしいよね、無表情な方の顔見て人間っぽいって思うなんて。でも本当にそう思ったんだ。この人、別に完璧じゃないんだって。生徒たちといて、ニコニコしてるとき、すごい自然体に見えたけど、そうじゃないんだって。汗かいて努力して表情つくってやっと、何も被ってないような面を被ってたんだって」

 口を挟む隙すらなかった。

「教師なんてみんなそんなもんよ」

 教師は芝居のプロだ。それは間違いない。

「生徒におばさんって言われたくらいでキレる先生が言っても説得力ないよ」

 彼女は再び歩き出した。

「悪かったわね」

「私、岡崎先生のこと本当に好き」

 間を詰められた。

「イケメンだからでしょ」

「それだけじゃないんだって」

「どうだか」

 ああ、センスのない返し。

「・・・だからね、困るの」

 彼女は自分の席の所で立ち止まった。机の上のスクールバックに手をかける。

「困る?」

「ここでアムネリスに登場されちゃ困るの」

 ジーッ。チャックが開く音。

「は?」

「今度こそ。今度こそアイーダは、私は、失敗できない」

「あなたやっぱりおかしいわよ。じゃあ何? あなたがアイーダや葵の上やケイトの生まれ変わりだって言うの?」

「そうだよ。何千年の悲劇をここで終わらせるの」

「あり得ないわ」

 まずい。

「どうして?」

「全部フィクションよ。作者がいる作り話」

「じゃあ先生、歴史の教科書に書いてあること、全部嘘じゃないって証明してみなよ。できるわけないでしょ? 自分の目で見てきたわけでもないのに」

「そういう話じゃないでしょう」

 テンポに、呑まれる。

「そういう話だよ。史実が証明できないなら、私の話を嘘だと言い切れるわけがない」

「馬鹿げてるわ」

「体験してもいないのに歴史とフィクションの境界線を引くことの方が馬鹿げてる。本当にあったことだと教えられたか、作り話だと教えられたかの違いしかないのに」

 言葉が口をついて出てくる。テンポを崩してはいけない。反射的に投げ出された浅い言葉は、彼女に届きすらしない。

「もういい。あなた、おかしいわ。あなたの話なんかもう聞きたくない」

「ねえ先生。全部忘れたの?」

「何を」

「先生なんだよ。アムネリスも、六条御息所もミリーも、全部」

「私も、生まれ変わりだって言うの?」

「先生、彼女達と同じ顔をしている」

「もうやめて! あなた狂ってるわよ」

 まずい。

「そんなことくらい知ってるよ。でも譲れないの。先生。ねえ先生、本当に何も覚えてないの?」

「覚えてないわよ。これでいいでしょう?」

 食われる。

「じゃあ、先生、私の邪魔しない?」

 何故だかそう思った。食われる。食われる。食われる。

「しない。さあ、これで満足した?」

「約束して。『二度と奪わない。そして目覚めない』と。そして私から奪うのはもうやめて」

「約束するわよ。前世のことなんか、思い出さない! もう帰ってよ。気味が悪いわ。あなたとこれ以上関わりたくない」

 見苦しい私の芝居なんか、これ以上見たくないでしょう。

「・・・先生、嘘吐いてる」

「嘘じゃない」

「また奪われたら嫌だな・・・やっぱり今ここで先生のこと、」

「何する気!?」

 彼女は開けたスクールバックから何かを取り出し、ソレを握りしめて走った。私の、元へ。

 動けなかった。来る。彼女が、来る。

 彼女が腕を振り上げたとき、私は手で顔をかばうようにして目を閉じた。




「・・・なーんつって」

「・・へ?」

 拍子抜けするような彼女の声が聞こえて初めて、私は顔を上げた。

「あはは! 先生すごい間抜け面! え、まさか今の話本気にしたの?」

「じょ、冗談だったの?」

 彼女は手を開いて、握りしめていたリップクリームを私の目の前で振って見せた。

「当たり前じゃん! 戯曲とか小説とかチャンポンしすぎて自分でもわけわかんなくなっちゃって最後の方は相当苦しかったけどね。先生、騙されやすいんだね! それとも私、女優の才能あるのかな!」

「ふぁっ」

「はい言わなーい」

「大人をからかうんじゃありません! 本当にびっくりしたじゃない」

 私は、本当にびっくりした顔をする。

「ごめんごめん。でも先生ってそんな顔もするんだね。ちょっと意外」

「全く、教え子に頭のおかしな子がいたのかと思ってヒヤヒヤしちゃったわ」

「あ、そっち? いやー、でも楽しかったし、冬休みの宿題終わらせられたし、一石二鳥だね!」

「冬休みの宿題?」

 私は、首を傾げる。

「レポートだよ。仮説『もし、様々な創作物の悲劇のヒロインが全て生まれ変わりとしてつながっていたら現代ではきっとこんな感じになっただろう』」

「あ」

「根拠『恋する乙女の力』」

「あ」

「結論『先生を騙せるくらいリアリティのある人物像を実演できた。つまり私の仮説は正しかった』」

「あああああ」

 私は、頭を抱える。

「ってことで先生! お疲れした!」

「くうう一本とられた」

「あ、でもね、先生」

「ん?」

「初めて先生の顔を見たとき、どこかで会ったことあるんじゃないかなって思ったのは本当だよ。なんでだろうね」

 私は、微笑む。

「・・・さあ。前世からの宿縁ってやつじゃない?」

 私は、意味深な言葉を吐く。

「そっか! なるほどねー。そいじゃ先生さよーならー」

「はいはい。気をつけて帰りなさい」

 私は、駆け足で教室を出ていく彼女を見送る。

「・・・はあああ。びっくりした」

 私は机に突っ伏して深いため息をつく。

 二人芝居が、やっと、終わった。

「本当にあの子、全部思い出したのかと思っちゃったじゃない」

 ここから私の独壇場。

「『二度と奪わない。そして目覚めない』ね」

 私は彼女が苦手だ。それは、彼女が演技しているように見えるから。美しいから。でも一番の理由はそれじゃないの。

「ごめんねアイーダ。アムネリスはそんな口約束守るほど馬鹿な女じゃないのよ」

 彼女がプリマドンナで

 私がセコンダドンナだから。

「・・・・・・あ、もしもし? 岡崎先生? まだ学校の近くにいますか?」

 ねえ、アイーダ。全て私の台本通りなのよ。

「本当ですか? 良かった。私も今仕事終わったところなんです。この後ってお忙しいですか?」

 気づかなかったでしょう?

「前々から一度岡崎先生とゆっくりお話ししたいって思ってたんです。せっかく同期なんだし」

 今世では、私がプリマドンナよ。

「はい。はい。いいですね。じゃあそこで待ち合わせにしましょう。はい」

 教室に差し込むアンバーが、徐々に青に塗り替えられていく。私のための舞台照明。

「ああ、そうだ先生」

 ノートパソコンを畳んだら、颯爽と教室の出口へと。

「前世とか、信じてらっしゃいますか?」

 最強の悪役。

「いえ、何でもないんです」

 最高の役者。

「はい。すぐ向かいます。ではまた後ほど」

 もうすぐ、カーテンコール。

「お休みなさい、アイーダ。せめていい夢を」

 目覚めたら私は、プリマドンナだった。

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