煙草の煙と共に
いつからだろうか、煙草の味が分からなくなったのは。同じようにして生活の色味と輪郭も不明瞭になっていた。
喉を抜ける炭酸の爽快さと、唇から溢れたビールの対比の結果が少しの不快感をもたらし、口元を拭った数瞬後には部屋の空気に消えていく。
鈍すれば貧すると言うが、鈍すればより鈍するし貧する事はとどまることを知らない。
それらを表すかのように、床に置いた、机として使っていた棚は散らかり、飲み終えた幾つかのビール缶やゴミが転がっている。
齢は二十五になっていた。
気づけば、日々の出来事に圧殺される精神を守るかのように、自分の眼から映る世界は平穏に満ちていた。
以前はあれほど望んだ平穏が、タバコの味と引き換えに多少の不快感に目をつむれば、そこにいたのだった。
それでも、文字を書くにしても指向性が見出せず、否、見出す意思が弱く霧散するか、霧散する前に書き連ねるのみである。何事も大抵その調子である。
最近の出来事を語ろう。人が死んだ。
詳細は省くが、第一発見者になる事はなかなかないことだと思うし、鮮烈な記憶として新しい。
一般的には赤の他人の死は忘れたい記憶で忌避する事柄だろうが、平和に満ちた日常(仮)を送っている僕にとって、こびりついたようなその記憶から煙草の香りがしたように思えたのだった。
あの時間の一瞬一瞬の記憶が、引き延ばされ、こびりつき、そのただの事実と記憶はある種の強制力を持って平穏に割り込んでくるには十分なものだった。
事実でないものから得られるものは薄く不味い。
そして平穏の中に、ただの事実を割り込むことがどれほど難しいことか。
眼に映る顔。心配蘇生で掌から伝わる骨を折る感触。肺から抜ける空気の音。
それらの事実がまだ記憶として残り、思い出せることに安堵しながら煙を味わうかのように記憶を反芻している。
いずれにせよ時間がたつほど記憶は忘却され、タバコは熱に身を焦がす。
煙のように消えていき、ヤニが精々壁の染みとなり、煙草の味が分からないままこれからも平穏が続いていくのだろう。