とある世界、亡国に捧ぐ愛執病
死んでしまったそのあとでさえあなたを愛したい。
たとえあなたが討つべき魔性であろうと。
忘れ去られた廃教会、割れたステンドグラスの破片の散らばる鈍い青の絨毯。
ひび割れた黒檀の祭壇に不敬にも腰掛け足を組み、葉巻から紫煙を立ち上らせる美女は妖艶に微笑んで讃辞の言葉を贈った。
「やるじゃないか。こんなに美味い煙は初めてだよ。さすが一番の側近の男だっただけあるね。あたしの好みをよぉく、知ってる」
「側近だった、ではございません。今でもわたくしめは、女王陛下の側近でございますれば」
美女は鼻で笑って再び吸い口に唇を触れさせた。そっと咥えて、吸う。この、私を。
紫煙を吐き出しさらなる讃辞。その言葉が私の体中を駆け巡り、えもいえぬ快楽に脳髄を溶かしていく。
「お前は努力家だ。あたしの一番の側近は昔から泥臭い男だったね。しかし、さしものあたしも驚いたよ。まさかお前自身の血肉を天下一品の煙草の葉に変える魔法を編み出しちまうなんて」
良い趣味じゃないか、と我が女王は笑う。
私は忠誠を誓う騎士さながら、膝をつき、こうべを垂れたまま、畏れ多くも口を開いた。
「……この煙草葉の魔法は私の肉体のみに適用されます。他の人間の血肉では粗末な葉しか生成されませぬ。されば、願わくばわたくしめを――」
「喰わず、その身が葉を生成できなくなるまで生かせ、か。ふん。お前ほどあたしのことを愛してくれた人間はいなかった。だからこそあたしはお前を頭のてっぺんから足の爪の先まで、余すところなく喰いたかった」
「……承知しておりました」
遠からず、陛下は私を喰らうつもりだった。我が女王は自らを愛する命あるものを食らう。いかがわしい趣味などでは断じてない。そう生まれついてしまった。
「あたしはもともと、食欲より煙欲の方が強いんだ。最期の時に絶品の肉と火のついた葉巻を選べと言われたら、当然後者を選ぶ。――いいだろう。その身が魔法陣を描けなくなるまで、呪文を紡げなくなるまであたしはお前を生かそう」
妖しいほどに美しい横顔が恍惚の表情で葉巻を吸うのを見た。なんとも麗しいことか。この身の全てを捧げ愛を誓おう。この身の果てるまで、あなたを守る騎士であろう。――騎士。騎士だと。国を守れなかった惨めな騎士め! しかし女王はここにいる。気の触れた我らが女王。女王あるところに我が王国あり。トレリチア栄光王国よ永遠なれ。栄光は暗愚蝕心の森の煤けた廃教会を領土に停滞する。
トレリチア栄光王国はこの世界――サニフェルミアの最西端に栄えた女王君主制の大国だった。女王は絶対君主であり、我が国の象徴。優れた魔法を次々と生み出し富んだ我が王国は学問に芸術に栄華の時を謳歌した。我が国は有り余る国力から自由を謳い、人間の宿敵たる異種族でさえも受容した。異種族の文化や技術を吸収し、トレリチア栄光王国は栄えに栄えた。
しかれども、この世界は急速に転換しつつあった。
世紀の天才と称された偉大なる精霊魔女が「魔素」と呼ばれる因子を発見してからのことだった。
トレリチア栄光王国の栄華に翳りが見え始めた。魔素と我が王国の魔法は相容れず、我が王国の魔法は時代遅れの産物となった。そのさなかに隣国であるオピウム永久帝国は四方八方に侵略戦争をけしかけた。我も王国はこの世の春から一転、合戦一色になった。
スピネル姫殿下はその乱世に女王となった。
姫殿下は美しく、一目見た人間を容易く虜にする。霊妙な美貌は国民の誰もに愛された。而して国民はスピネル女王陛下を愛しすぎたのだ。
「――もう、お前だけになってしまったねえ」
スピネル女王陛下は哀愁にそっと目を伏せた。長い睫毛がスピネルの名の通り赤い瞳に影を落としていた。
「誰もが、あたしを愛してくれた。無償の愛だった。愛してくれた人間はみんな美味かったよ。――でもねぇ、やっぱり思うのさ。本当にあたしは愛されていたのか? その愛は人間の本心だったのか? やっぱりあたしは異種族だ。人の心は理解できない」
「陛下は愛され親しまれる立派な女王でございました。たとい我が王国が人々の記憶から忘れ去られようと、そのことだけは永劫不変でございます」
有り余る自由の代償。
この世の一切を受容したその結末は、栄光の自壊であった。
スピネル姫殿下の母であるカメリア女王陛下は自由奔放を絵に描いたような女性であり、まさしくトレリチア栄光王国の象徴であった。スピネル姫殿下は女王陛下の寵児でありながら、父親については露ほどの情報も公開されなかった。それを咎める国民はいなかった。満ち足りた国民から不平不満など出るはずがなかった。愛らしい姫殿下。自由の国の姫殿下。そうして成人し女王となったあの日、乱戦の時代のある蒼天の日、スピネル女王陛下はその異能を如何なく発揮した。
魅了感染。
淫魔の根源たる異能である魅了の最上位能力。淫魔の真祖であるたった一つの異種族個体しか持ちえない、強制的な愛執病の感染能力。
国民は盲目に女王陛下を愛した。偏執狂と化した国民は口々に女王陛下を賛美し溺愛し全てを捧げた。女王陛下以外に興味を失くした国が衰退するのに侵略国家の手など必要としなかった。宮殿には日夜問わず人が押し掛けた。女王陛下に愛を捧ぎ、国民はそれ以外を行わなくなった。
「あたしの父は淫魔の真祖だ。母様はそれをずっとあたしに隠していた。お前が調べてくれなかったらずっとわからないままだった」
王国の淫魔の組合を徹底的に洗った。真祖の行方を知る者など誰もいなかった。その種族の長に君臨する真祖の行方を誰も知らないという事実が私にある憶測を焚きつけた。
淫魔真祖は死んでいる。
スピネル女王陛下は淫魔真祖と番った。
そうして限りなく低い確率であるはずの異種族真祖の子の懐妊を果たした。
各々の異種族の頂点に君臨する真祖は継承される。その継承は異種族間では行われず、必ず異種族から人間へ継承される。継承形式は種族により異なるが、例外なく人間が次代の真祖の標的となる。神話の呪いめ! 忌々しい! 継承に適合する確率は限りなく低く、継承は長ければ数百年に一度だという。不死である真祖は悠久の時間を継承者を探し彷徨い続けるのだ。そうして継承に成功すれば、その真祖は命を終える。
この憶測に私は噛み切らんばかりに唇を噛んだ。我らが女王陛下が異種族の真祖だと! こんな不幸があるか。人間を盛栄させるべき王が人間を廃滅させる命を持った異種族だというのか。人の心を持たぬ化物だというのか。
成人し、女王となったその日に初めて発現した異能を陛下は制御することはできなかった。国民もろとも愛に溺れるひびを送った。やがて自らへの愛に染みきった国民を抱き――
喰った。
「陛下が何者であろうと、国民は変わらず陛下を愛したことでしょう」
淫魔は自らの愛へ溺れた人間を嗜食する。魅了し、愛させ喰らうのが神話以降の世界の淫魔だ。人間の不俱戴天の仇として天上の悪神が使わせた鬼だ。
「ありがとう、ベオ。お前はいつでもあたしの味方だった」
女王陛下は文字通り国を喰らいつくした。一人一人を愛おしみ、慈母のような優しい眼差しを向けてで肉を食む姿はまさしく愛すべき女王そのものではなかったか。私は憶測に激昂した己を恥じ、心新たに我らが女王に忠誠を誓った。一分一秒でも長くこのお方に我が身を捧げよう。側に仕えていよう。いずれ陛下は一人になる。呪われた不死を背負い、時代に取り残される運命を進む。否、そのようなことは建前であろう。私は女王陛下を心の底から愛しているのだ。愛する人の側に少しでも長く。その姿を目に映していたい。耳に声をとどめていたい。その香りを吸い込んでいたい。かなうことならこの腕に抱きとめたい。
「わたくしめは女王陛下が姫殿下であらせられた時分から仕える身でありますゆえ。たとえ陛下がいかなる化物であろうとお慕い続けましょう」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、陛下は葉巻に口をつけた。それは、私の右膝下の脚だ。たった五本の葉巻を作るのに歩くための脚を失った。一体何日生き長らえることができるだろう。もはや何日でもかまわぬ。ここには陛下と私の二人きりしかいない。たった二人の王国で、私は陛下にこの身を捧ぐ。そうして私の身体は煙となって陛下の肺へ流れ込み、黒く沈着する染みとなることだろう。肺に沈着した煙は二度と落ちることはない。息をするたび、陛下は私を思い出すだろう。
それが、私が葉巻にこめた呪いだ。
麗しの我が女王陛下よ。あなたはけして知りはしないだろう。私は騎士でありながら、あなたを一人の女として愛慕していた。幼子から少女へ、少女から成熟した女性となるまで、あなたへの劣情を膨らませていたことを知りはしないだろう。私は最後まであなたの騎士であった。これは私の騎士としての誇りであった。
あなたはこれから真に人間ではなくなるのだろう。人間であったときのことを忘れ、淫魔として生きていくのだろう。しかし、どうか私のことだけは、その御心の隅にお忘れなきよう。私はあなたを愛していた。愛していた。愛していた! これからも愛し続けるために、あなたの胸のうちに、肺に黒く黒く棲み続けよう。
レコード・オブ・サニフェルミア。