5.シリウス・ルドルフ・リーテルシュタイン
暗闇の中を、ふわりと浮かぶ。
黒以外何も見えない景色の恐ろしさから人を求めて彷徨っていたが、景色は変わらず、叫んでも己の声が木霊するだけだった。
まるで、本当に1人だけの世界。
何もない、孤独な世界。
どうやら人目をいつも嫌っていたツケが、今になって回ってきたようだ。
もう、諦めよう。
そう思って動く事をやめようとした時、不意に背中から抱きしめられた。
自分よりも小さい誰かが、まるで死に急ぐ大切な人を引き留めようと必死になっているように。
背後からくるものには白昼夢のせいか常にビクビクしていたが、この抱擁だけは拒絶することなくすんなりと受け止める事ができた。
俺の身体に回されている両腕にそっと触れようとした時…
*****
「殿下!」
すっかり目が覚めた。
抱擁されていると思ったら、自分の身体に対して3倍ほど大きいキングサイズベッドで横になっていた。
掴んだのが人間の腕である事は間違いなかったが、掴んだのは自分のほぼ同じ体格の男の腕だった。
俺を呼んだ人物は、目が覚めた事に安心したのだろうか『よかったです、殿下』と微笑んだ。
でも、拭いきれない違和感が俺の中に確かに存在していた。
「…え?なんでお前、俺の事、“殿下”って呼ぶんだ?」
「え?」
「いや、いつそんなあだ名ついたんかと…」
「…はい?いや、殿下そもそも“俺”って…」
俺も相手の男も、お互い困惑の表情を露わにする。
それに俺が拭いきれなかった違和感は、殿下呼びだけではない。
相手の男は俺の共演者で、役は俺の専属の付き人でもあり同じ攻略対象でもあるルシエ・カニスミノル。
容姿は襟足もきちんと整えられた茶髪に、透き通る氷のような水色の瞳が特徴の爽やかイケメン。
この国でもかなりの権力を有する名門貴族・カニスミノル公爵家の嫡男であり、俺と生まれた年が同じである縁もあって親友に近い間柄だ。
が、それはあくまでも設定の話。
実際の俺達は犬猿の仲で(正確には、向こうが一方的に毛嫌いしているだけだが)下手をしたら一言も話さない日があるほど関係は悪い。
そんな奴が俺に話しかけるのも疑問だったし、しかも何故か俺の事を『殿下』って呼ぶ。
正直言って違和感しかない。
だが、対する相手……ルシエは俺に全く敵意を向けないどころか、俺の態度にひたすら混乱しているばかりだ。
そもそも、今は舞台の上でもないのに。
むしろ、今は芸名の方で呼ぶのが自然なのではないだろうか…。
そこまで考えて。
俺は知りたくなかった衝撃的な事実に、全身の血の気がさああ…と引くのを確かに感じていた。
『そんな事ない、勘違いだ…』と自分に言い聞かせながら、俺はおもむろに口を開く。
「お前、名前なんだっけ…?」
「え…?で、殿下専属の付き人、ルシエ・カニスミノルですが…」
「いや、そうじゃなくて、げ、芸名の方…」
「げ、芸名!?し、失礼ですが、い、一体何をおっしゃっているのですか…?!」
ルシエの表情は、都会で不審者を見てしまった観光客のような顔をしている。
その瞬間、俺は自分の記憶の危うさを呪った。
ルシエ役である彼の芸名を思い出そうとした時、全く思い出せなかった。
それどころか、自分の芸名だけでなく、マネージャーの名前、友達の名前、両親の名前、……自分の本名さえも、全く出てこなかった。
その代わり、自分の名前がシリウス・ルドルフ・リーテルシュタインである事。
自分の立場がリーテルシュタイン王国の第一王子である事。
まだまだあるがとりあえず割愛。
最新の記憶としては不本意ながら、つい最近までゲーム及び舞台において主人公に当たるオットー伯爵家の庶子・オリビアに現を抜かしていた事。
そして、あろう事か卒業式の舞踏会で自分の婚約者であるクラウディアを盛大に振った後…。
え?振った後?
ぐあっと腹を何かに掴まれたような感覚に、自分の記憶がフラッシュバックする。
そして追加で思い出した、暗闇に行く前の自分のやっちまった事に関する記憶がどんどん鮮明になる。
引いていたはずの前身の血の気は元気を取り戻したように巡り、顔が一気に火照り始めた。
自ら発している熱に耐えかね、ボフッと大きすぎる枕に頭を預ける。
ルシエはというと、俺が急に発熱を起こして再び横になった事に大慌て。
すぐさま部屋の隅で待機していたらしい使用人に『大至急医者を呼ぶように』と指示を出していた。
あまりにも居たたまれなくなって、つい自分の右腕で両目を隠す。
「マジかよ…」
色々思い出し過ぎて頭が追い付いていないが、追加で分かった事はとりあえず2つ。
1つ目は、自分が現実世界にいた親しい人の名前を思い出せず、代わりに演じていた仮想世界の人物の名前は完璧と言っていいほど思い出していた事。
2つ目は、自分が振ったくせにクラウディアに対して特別な情を持っていたという事実を自覚した事。
1つ目は俺にとって最悪だったが。
2つ目の事は、不思議と悪くない気がしていた。