4. シリウス役・黒崎士狼の最後の舞台
読んでいただきありがとうございます!
ここから先は、転生世界です!
「クラウディア・ロレーヌ侯爵令嬢、ご入場!」
何百回も聞いた同じセリフが、記憶の中の暗闇を一瞬にして光のある世界に変えた。
戻ってきた光の世界はだだっ広い、どこかの舞踏会みたいな景色だった。
もしかして、ここは天国か?とも思ったが、それにしてはどうも雰囲気が異なっている気がする。
ざわめく華美なタキシードやスーツの老若男女。
やけに人数が多いが、かつて舞台で何度も見たエキストラ達の姿を彷彿とさせた。
そして会場の中央にはいつの間にか、1人の少女がいた。
人の群れに避けられた小魚のように、でもどこか毅然とした立ち振る舞いでその少女は立っていた。
青と黒を基調としたドレスを着た金髪の少女。
やけに遠くて下から覗いているような感覚があったが、自分がやや高いステージから見下ろしている、という事に気付く時間はそれほどかからなかった。
ああ、ここは舞台の上だったか。
まだ意識はぼんやりとしていたが、それくらいは理解できた。
道理で、天国とは違うはずた。
そうか、さっきはまで帰宅していたはずだったがあれは白昼夢か、今の俺は仕事中だったのか。
最近の仕事はワーカーホリック並みに忙しかったので、自分では自覚していなかったがストレスでとうとう頭もやられてしまったのだろう。
これから先どのような演技をしなければいけなかったか、ぼんやりとした頭を働かせる。
どこまで場面が進んでいるか把握はできていなかったが、周りのざわつきがそこまで騒がしくない様子を見ていると、まだ断罪のセリフは言ってないのかもしれない。
とりあえず、思い出せるだけの演技くらいはこなさないといけない。
ゆっくりと一歩前に進み、彼女に向けてまるで兵を差し向ける将軍のように、腕を真っすぐ伸ばす。
そして、いつもと同じように何百回も繰り返したセリフを叫ぼうと口を開く。
「…クラウディア・ロレーヌ。今日限りで君との婚約を破棄し、断罪する…」
思ったよりも声が出せずにヒヤリとしたが、周りが急にざわつき始めたのでとりあえず無事にクリアできたようだ。
青と黒を基調としたドレスを着た金髪の女の子は、断罪の言葉に怒りの表情を露わにする。
遠くに視線を向けてみれば、先ほどまで扉で待機していた従者2人が、ジリジリと彼女を捕らえようとやや早足で距離を詰め始めていた。
また、同じ展開かよ。
思わず、軽く舌打ちをしてしまう。
両親と仕事のためにも慎重に行動していた俺だったが、今までの鬱憤が溜まっていたせいか今回だけは我慢に蓋をする事ができなかった。
なんで好きにもなれないシリウスを、まだ演じれってか。
いつもと同じ展開に、いつもと同じセリフ。
俺は心底うんざりしていた。
もう降板されてもいい。
どのみちこんな世界から足を洗いたかったんだ。
せめて俺の納得いくこのシナリオとは違う展開で、俺の舞台俳優人生に終止符をつけてやろう。
揉め事は後でちゃんと対応すればいい。
佐藤さんには……きちんと、頭を下げよう。
そうと決まれば、ぼんやりとはしているが心持ちは大分良好だ。
ステージから舞踏会の中央へとゆっくり階段を降り、断罪した彼女の前へゆっくり向かう。
俺の予想外の行動に驚いた従者2人は足を止めてしまった。
その反応に『ざまあみろ』と心の中でほくそ笑む。
ゆっくりと歩き、彼女の1歩手前で足を止めた。
今までちゃんと前に立った事はなかったが、ライバルでもある婚約者役の女優は他の女性よりも身長が高い女性だった事に初めて気づく。
それから急に、彼女に対して申し訳ない気持ちが後から生まれた。
これから俺がやろうとしている事は、恐らく彼女どころか世の女性には嫌われる行為だろう。
でも、俺はこれから芸能界から消えてなくなる存在だし、彼女に嫌われても別に構わなかった。
「勝手な事をして、ごめん」
目の前の彼女は、わなわなと身体を震わせ『なっ』と怒りの言葉を漏らす。
その表情を見て、『俺がシリウスの立場だったら相手の女の子にそんな可哀そうな事絶対しないのになぁ』と思っていた自分の気持ちを思い出した。
そうだ、1度くらい彼女が華を持つ展開でもいいじゃないか。
華を持たせるのは俺の勝手な判断だが、別にこの後も主人公が華を持つ展開は延々と続けられるのだ。
1回くらい、イレギュラーな展開があってもいいだろう。
彼女は今にも噴火しそうな火山みたいだ。
これから俺のやる事で、きっと完璧に噴火するだろう。
俺はそんな彼女の態度に構う事なく、アドリブで勝手に思いついたセリフを言い始める。
「俺は、もう君の知っているシリウスじゃないんだ」
思ったよりも噛まず、リラックスしていう事ができた。
仕事のため役者をやってきたせいだろう、キザだと馬鹿にされる覚悟で俺は自分の身振りにもアドリブを効かせる。
彼女の前に1歩詰め寄り、更に距離を縮める。
彼女は少しのけぞったが、怖気づいたと思われるのが癪に障ったのだろうか、それ以上後退する事はなかった。
急な展開でのアドリブだったが、不備を出さないようにするためか、彼女も俺の演技に合わせてくれている。
その事を確認できた俺は『よし』と心の中で気合を入れ、彼女の演技によって怒りで震える手を優しく握り、俺の胸にそっと近づけた。
彼女の方は、怒りを通り越してもはや呆気に取られているようにも見える。
ごめん、もう少しだけ俺の我儘に付き合ってくれ。
心の中で謝罪しながら少しだけ軽く息を吸い込み、勝手に考えた最後のセリフを呟いた。
「だから婚約を破棄して、今度は“ただの”シリウスとして、0から君とやり直したい」
本当は、このセリフを言いきって手の甲にキスをするつもりだったが。
手を握り、胸に近づけた時の彼女の顔が予想以上に可愛らしかったので、ついつい魔が差した。
ちょっと行き過ぎたアドリブだったかもしれない。
彼女の後頭部を握っていなかった手で添えて自分の身体に近づける。
そして、俺は目を閉じるとそのまま自分の唇に彼女の唇を重ねた。
俺にとって、実はこれはファーストキスだったが、別に特別想う相手もいなかったので抵抗はなかった。
彼女もキスされるアドリブまで想定してなかったせいか、カチコチに身体を固くしている。
初めて触れた他人の唇は、思ったよりも柔らかかった。
両親も時々は俺がいるにも関わらずキスをしていたが、人前でやるのはともかくその行為自体はとても心が落ち着くものだった。
そして、俺はそう感じている自分自身にも、密かに驚いていた。
ゆっくりと唇を離し、目を開くと。
目の前の少女は、予想以上に可愛い反応を見せていた。
先ほどの怒りとは違う、恥ずかしさと居たたまれなさから赤く染め上がったであろう頬。
思ったよりも柔らかかった、先ほどキスした形も良いピンク色の唇。
そして、特に俺の心を掴んで離さなかったのは。
きちんと初めて見る、潤んだ黄緑の瞳だった。
可愛い。
思わず頬が緩み、麻酔を施されたような感覚に囚われる。
基本的にツボに入らなければ笑う事などあまりなかったが、今日はなぜだかツボにも入ってないのに笑みが零れた。
それはきっと、怒ってばかり顔しか見せない彼女がこんなにも愛らしい、小動物のような顔ができるのにギャップを感じたからかもしれない。
笑ったせいだろうか、ほんの少しだけ自分の身体が熱くなる。
もう1回キスをしたら、今度はどんな顔するだろう?
仕事中だった事も忘れ、好奇心にも近い衝動に駆られながら顔を傾けて彼女にまたキスをしようとした時、左の頬に激しい衝撃がやってきた。
元々気分が良くなかった事もあり、いつもならこれくらいの衝撃なんて些細なものだが。
今回ばかりは刺激が強すぎて、意識を保つ事はできなかった。
再びやってきた暗闇の世界。
でも、久々に落ち着いた気持ちだった事もあり、思ったよりすんなりとその世界に身を預ける事ができた。
始めて知った柔らかな唇の感触をぼんやり思い出しつつ。
本日2回目となる、暗闇の世界へと誘われた。