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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十八話 岐路
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 「太學?」


 鸚鵡返しにすると、司旦はそんなことも知らないのかという顔をする。


「官吏を育成するための教育機関だよ。優秀な成績を修めて卒業すれば、国に仕えることになる」


 ゆっくりと瞬きした。司旦の言葉がじんわり体に染みていくように感じた。


「つまり、官僚になれと?」


 翔は困惑しているようだった。考えたこともないといった声音で、首を窄めている。

 当然だろう。翔は僅か九歳で社会から外れ、それから長遐に骨を埋めるつもりで生きてきた世捨て人である。帰るべき故郷も、これから自分の人生を構築していく時間もない。

 俺は少し考えて、言葉を探す。


「そうなる方がいいと、白狐さんはお考えなんですね」


 彼は頷いた。白い髪が肩にかかって撓んだ。


「念のため言い添えておきますが、僕はあなたたちを政に利用しようなどとは考えていません。出来ることなら、もう二度と朝廷に関わらず、どこかで平穏な暮らしを送って欲しいと思っています」


 少し俺たちから視線を外した、その眼差しは寂しげに揺れている。


「でも、現状それは危険であると僕らは判断しました」


「僕ら?」


「失礼。千伽と相談したんです。あなたたちの今後について」


 一度唇に指の節を当てた彼は、話し出す。


「今の朝廷にとって、二人は見過ごせない存在です。神明裁判であれだけの騒ぎを起こしてしまった以上、残念ながら以前の生活にすぐ戻ることは難しいでしょう。世俗を離れ、誰とも関わらない自由な生活──言い換えれば、何の後ろ盾もない危険な暮らしです」


 俺はふと、かつての翔の言葉を思い出す。

 世捨て人とは、すなわち社会の規則から外れた生き物である。皇国に税を納めず、戸籍もない。何の義務も負わないが法に守られることもないゆえ、暴漢に襲われようが殺されようが、俺たちは何の文句も言えないのだ、と。

 国にとって、世捨て人は人間ですらない。得体の知れない、野良犬のような存在なのである。


「今や、お前たち二人は影家の所有物という見方が定着しつつある。厄介なことに、お前たちが世捨て人であることを理由に、これ幸いと影家の名を貶めようとする輩もいる」


「でも、俺たちは何の迷惑もかけません。どこか遠くに行けば──」


 翔が小さく首を振るが、司旦は瞼を伏せた。「もう遅すぎる」


「残念ながら」白狐さんは続ける。


「先日、影家の別邸で、お二人の食事に毒を盛られていました。幸い死んだのは毒見役だけでしたが、今後もこのようなことは続くでしょう」


 思わぬ事実に、俺と翔は言葉を失う。俺たちに心労を掛けないよう、内々に処理されていたのか、それがいつ起こったのか、死んだのが誰なのかすら俺たちは知らない。

 何か言おうと細く息を吸った翔に、白狐さんは素早く唇に人差し指を当てて黙らせた。大きな声を出すことを懸念したのかもしれない。


「僕たちに迷惑をかけたくないと、そう言いたいのでしょう。しかし、二人が都から離れるほど、命の危険は一層高まります。僕たちはあなたたちを護らなければなりません」


「他所で捕まって、人質にでもされるほうが影家には迷惑だし」


 口を挟んだ司旦に、白狐さんはいい加減にしなさいと睨みを刺すと、さすがの司旦も居住まいを正して黙った。俺は如何にすべきが最善か、ぐるぐると頭を巡らせる。


「現状、無戸籍、無職、無所属であることが二人を危険に晒しているのではないかと僕たちは考えます。地縁も血縁もない世捨て人ならば殺してもさしたる罪には問われないだろう、と軽んずる輩が多いのです」


「それで、太學に入るのが最善だと……」


 白狐さんは神妙に頷いた。一瞬目に悲しげな光が過ったが、口調は毅然としていた。


「太學を卒業して士となれば、庶民の出自であろうと多少なりとも影響力を持つようになります。そうすれば、誰しもあなたたちに無暗に狼藉を働くことは難しくなるでしょう」


 つまり、官吏という肩書を抑止力に使おうという提案である。逆に、庶民が立身出世するには太學に行くしかないとも言える。

 しばらく混乱して、俺は口を閉ざした。空気は重たかった。入り組んだ障害の隙間を進むため、どうにかうねるように生きる方法を見出そうともがいている気分だった。

 今更ながら、真弓の言葉が思い出される。神明裁判の前日、俺に忠告してくれたあの言葉だ。

 この国の朝廷に関わるってことは、お前が考えているより重大なことだ。多分、思いもよらない方向に人生が変わる、と。

 その通りだ。裁判が終わり、全てが丸く収まった訳ではない。物語が終わり、俺たちはまた新しい頁を自分の意志で始められるわけではない。俺たちはあのとき、豊隆の羽搏きとともに人生の行き先を大きく変えてしまったのだ。

 長く思考に耽っていることに気を遣ったのか、白狐さんはゆっくりと目蓋を上下させた。


「ゆっくり考えてください。今のまま客人として影家の別邸にずっといてくれても、僕は構わないのです。ただ、それではあまりに自由がなさすぎる」


 冷めてしまった茶をようやく思い出したように、白狐さんは茶碗に手を伸ばしながら言った。


「どうぞ二人で選んでください。太學入学を望むなら、影家の名を使って推薦をすることが出来ます。何をするにしても、時間のかかることですから、慌てることはありません」




 ***




 別邸に戻ってから、俺たちは口数も少なく、ただ無為に時間を過ごしていた。

 突然訪れた転換点。いや、俺も翔も見ない振りをしてきた道筋に線を引き、そこを岐路とした。いずれ、俺たちは選ばなければならない。豊隆を天壇に降らせたときのように。

 とはいえ、太學──聞いたこともなかったその新たな選択肢に、俺はかなり困惑していた。何せ、最終学歴は辛うじて中学校卒業。そこから一年半以上も学問から遠のき、再び自分が“学生”に戻る可能性など微塵も頭になかった。

 翔に至っては、学校に通ったこともない──義務教育制度のない皇国の庶民の多くは当然そうなのだが──官吏から最も遠い底辺に身を置き、そこから飛び立つことなど考えたこともない生粋の世捨て人である。

 しかし、白狐さんの言葉を脳内で反芻するほど、それが最も良い選択に思えてならないことが、殊更に憂鬱だった。


 何故、気が滅入るのか。俺はしばらく長椅子に寄り掛かって考えてみる。


 こんなことをしている場合ではない。おおよそ、その一言に尽きた。

 俺は一体何のためにここにいるのか? 白狐さんを助けるという目的を果たした以上、俺が都に留まる理由はない。不本意にもこの危険な政情に巻き込まれたことへの苛立ちも少なからずある。

 それに、気掛かりだったのは翔のことだった。翔が太學入学を望んでいないことなど、俺でなくても分かるだろう。長遐の気ままな生活を誰よりも愛していたのは翔だ。

 翔は俗世の身分にも金にも興味はない。四季の移ろうまま、あの辺鄙な山で素朴な生活を営むだけで、人生に満足していたのである。それも、終わりに差し掛かった短い人生に、だ。


 そこまで考えて、俺は気付く。いや、認めたというべきか。それは主のために、どこまでも合理的な思考しか持ち得ないスコノスらしからぬ感情だった。

 長遐にはもう戻れない。あの世捨て人の生活は、きっともう二度と戻ってこない。俺はその喪失を、惜しいと思っている。悲しいと思っている。出来ることなら、また三人で暮らせたらと、心のどこかで願っている。

 そんなことは絶対に不可能だと分かっているのに、そう思っていたい。不思議な感情だった。それを翔に伝えるべきか逡巡したとき、唐突に翔が口を開いた。


「俺、太學に入ろうと思う」


「え?」


 頓狂な声が出て、理解が遅れる。しばらく耳を疑い、翔の顔色を窺えば、存外真剣な表情がそこにあった。


「どうして」


「だって、それしかないんだろう。白狐さんたちが最善だと言ったんだから」


 顔を背けて紡がれた言葉は、どこか突き放すような響きがある。前髪の間から覗く翔の目は、仄暗い。少し気圧され、追求の言葉が出遅れた。

 白狐さんが最善だと判断したからといって、それが翔の将来にとって最善とは限らない、というのは考え過ぎだろうか。俺が長遐の日々への懐古に耽りすぎなのだろうか。


「皓輝はどうするんだ」


 矛先を逸らすよう問われ、俺は答えに窮する。

 改めて反芻してみても、白狐さんの明示した太學が最も危険の少ない選択肢であることは認めざるを得なかった。それを積極的に選びたいと思うかは別として、考え得る他の選択肢があまりに絶望的で心許ないのである。

 束の間、自分だけ単身西大陸に乗り込む無謀な案をどうにかして実現できないか思索する。俺は翔とは違う意味で、社会に束縛される生き方は性に合わなかった。


 どうしても、俺には妹を探し出すという目的がある。白狐さんの身の安全が確保された今、それ以上に優先すべきものはない。俺の言動ひとつひとつが今後の影家の足を引っ張りかねないというのはかなり不本意で不便な立場だった。


「俺は──」


 口を開くが、言葉が続かない。どうするべきか分からなかった。豊隆の後ろ盾を得た今、世俗を脱してすぐにでも状況を打破したい思いがある一方で、神は都合よく利用できるものではないことを本能が悟っている。

 長く沈黙した後、ようやく口から出たのは力のない一言だった。


「少し、考えさせてくれ」


 翔は小さく頷く。撥里が別れ際に言った。後悔のないように生きろよ、という言葉が脳裏で反響する。

 やっぱり無理じゃないか、と今はもうどこか遠くにいるであろうあの三兄弟に向けて俺は呟く。

 いずれ後悔はするだろう。だが、選ばなければ。




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