Ⅰ
その翌日。俺と翔は思わぬ人から呼び出しを受けた。影家の当主、白狐さんその人である。
神明裁判の後、二か月半余り顔を合わせることのなかった彼が、一体何の用なのか。半分訝りながら正邸にある彼の私室へと向かった。白木の廊下を粛々と案内され、戸を開けて入室する。
「失礼します……」
昼下がりの光が、室の隙間を伝い、雫のように垂れていた。陽光を厭う影家らしく、外に面した一切が閉ざされ、白絹に金の刺繍を施した垂れ幕が間を区切っている。幾重にも重なった布地を透かす薄光が花鳥風月の模様をぼんやりと浮かび上がらせていた。
貴族の当主の私室とは思えない質素な内装は、なるほど白狐さんらしいと妙に腑に落ちる。比較対象が贅を凝らした千伽の別邸だから、余計にそう思うのかもしれない。何もかも眩い白木で統一され、雪の彫刻のような長椅子に、白狐さんが腰掛けていた。
「こんにちは、お二人とも。急にお呼び立てしてすみません」
ゆったりと首を傾ける彼は、真っ白で艶のある絹をたっぷり使った衣裳こそ違えど、その表情は世捨て人だった頃と何ら変わりないように見えた。
おずおず垂れ幕を持ち上げて近付けば、どうぞと椅子を勧められ、卓を挟んで彼の前に腰掛ける。彼の後ろには、不機嫌そうな司旦が控えていた。
「お、お久し振りです」
「そんなに畏まらないでいいですよ」
動作が堅くなる俺たちに、白狐さんが小さく吹き出す。こちらの心境としては、門閥貴族の当主として復権を果たした彼にどう振る舞えばいいのか躊躇っているのが半分、司旦があからさまに嫌そうな顔をしていることに困惑しているのが半分といったぎこちなさなのだが、口には出さない。
間近で目が合うと、硝子のように透明な瞳が快活そうに明滅した。それでいて些細な仕草ひとつひとつが優雅で隙がない。改めて、この人が貴族らしからぬ子どものような明るさと、世捨て人に似つかわしくない品格を同時に備えた、矛盾した雰囲気を持っていたのだなと実感する。
長遐にいた頃から彼は奇妙に浮世離れした人だったが、俺たちは半ばふざけてそれを仙人という曖昧な言葉に押し込めていたのだ。
ほどなくして近習と思しき男が恭しく茶を運んできたが、すぐに退室した。自分の役割を心得ている、慇懃で無駄のない所作だった。
大勢の人が仕えるはずの影家の正邸は、建物そのものが息を顰めるように静寂に包まれている。
「お二人には随分と力になっていただいたのに、お礼をするのも遅れてしまって」
「いえ、いいんです」俺は首を横に振る。「今まで世話になった恩に報いたかっただけですから」
「しかし……」
白狐さんは顔を曇らせる。伏せられたまつ毛が躊躇いがちに上下した。
「正直なところ、お二人をこんなことに巻き込みたくなかった。事情を話せばそれだけで無関係ではいられなくなるでしょう。だから何も言わずにいたんですが、きっと余計に混乱させてしまいましたね」
「……」
「今回は迷惑をかけてしまって本当にすみませんでした。何とお詫びをしたら良いか……」
心から申し訳なさそうにする彼を前に俺と翔は顔を見合わせる。口を開いたのは翔だった。
「謝らないでください。白狐さんのせいじゃないですよ。勝手に首を突っ込んだのは俺たちです」
そうして笑った翔の言葉は、いつも通り真っ直ぐ響く。
「白狐さんが無事でいてくれるだけで俺は良かったです」
ちょっと間を空けて、白狐さんが背後に立つ司旦をちらりと見上げた。困ったような、嬉しいような微笑を浮かべる主に、司旦はさして感慨もなさそうに肩を竦める。
「ね? 言ったでしょう」と。
なるほど、白狐さんは俺たちが思っているよりも、俺たちを巻き込んだことに罪悪感を持っていたのかもしれない。
確かに騒動には半ば巻き込まれ、千伽などは特に個人的に思うところがないでもないが、そもそもこれは綺羅に端を発する政治問題。被害者の一人である白狐さんに責任を負わせるのもおかしな話だ。
司旦が咳払いをする。「俺の意見を、失礼を承知で言わせていただきますが」と。
「匿ってやっているだけ有難いと思って欲しいですよ。影家だって今微妙な時期なのに、訳あり世捨て人の面倒なんて見切れません」
「本当に失礼な奴だな」
「こらこら、喧嘩しちゃ駄目ですよ」
身を乗り出しかけた翔を、白狐さんが眉を下げて制止する。次いで目線で咎められ、司旦は眉を顰めながら口を噤んだ。それでも腹の虫は収まらないと見え、苛立って忙しく足を踏むのを隠そうともしない。
「今日、お二人を呼んだのはですね」静かに白狐さんが前に向き直る。「お二人の将来について、相談がしたかったからです」
直感的に、ここを追い出されるのかと顔が強張った。少なくとも司旦はそれを望んでいるだろう。こちらの緊張を察し、白狐さんは表情を緩める。相変わらず空気を弛緩させるような、柔らかな笑みだった。
「出ていけなんて言いません。それに、飽くまでもひとつの提案です。これからどう生きるか、最終的に決めるのは二人ですから」
俺はちらりと始終不機嫌な司旦を窺い、続きを促して頷く。白狐さんは口を開いた。
「皓輝くんと翔、もし二人が望むなら──太學に入ってみては如何でしょう?」




