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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十七話 雨去りぬ
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 綺羅が脱獄した件は瞬く間に朝廷中を巡り、全く騒ぎに事欠かない男だと感心するほかない。

 問題の夜、囹圄に配されていた宮中警護の者たちは全員漏れなく晒し首になったと聞いたが、全ては皇帝の八つ当たりとしか思えなかった。鬱憤晴らしのために死ぬことになった名も知らぬ者たちへの感慨はない。

 都はこういう場所なのだと、息を顰める生き方を俺も翔も身に着けつつあった。それが正しいことなのかはともかく。


 結末から言えば、綺羅がこの国から脱走したことは朝廷の基本的な力関係にさしたる影響は与えなかった。要するに、神明裁判であちこちの螺子が緩んでガタガタになってしまったこの国の上流階級の人間関係は、保身が賢明とばかりに足場を組み直すのに必死で、綺羅如きにかまけている余裕がなかったらしい。

 多くの人は皇帝と、復権した影家や朧家の顔色を窺っていた。皇帝に媚びを売り、機嫌を取る貴族家は悲しいほど少なかった。どちらに転ぶか分からない、或いは全く予測付かない方向から突然矢が飛んでくるような政情は人々を慎重にさせ、同時に皇帝を孤立させた。

 神明裁判で皇帝唯一の手柄──正確には捕らえたのは司旦なのだが──である綺羅がいなくなったことに彼は怒り心頭だったようだが、禁軍を動かして何としてでも捕縛せよという命令は計画性を欠き、数か月の間に目ぼしい成果を上げることはなかった。


 そして結局朝廷の七十二吏も、都に住む人々も、俺がそうしたように、紆余曲折を経て結局綺羅の件は諦めという形で収束しつつある。

 誰もが心のどこかで不安を燻らせながら、得体の知れないニィの転移の奇術を思えば具体的な解決策など浮かびようがない。追跡を任されたという、禁軍の一部隊長の晒された生首がこの騒動の終止符となった。


 夏になった。


 本の頁が捲れていくよう、俺と翔の日々は単調に過ぎ去っていった。長い療養は充分に傷を癒し、そろそろ身の振り方を考えなければならない時期に来ている。

 そんな中、影家の主、すなわち白狐さんがささやかな宴席を設けるという話を聞いた。この場合、宴とは貴族たちの娯楽というより、社交の場という意味合いが強い。

 実のところ、影家の別邸に引き取られてから今に至るまで、俺や翔もそういった場に誘われたことが片手で数える程度あった。それは大抵、神明裁判に神を嗾けた俺たちを物珍しく思う貴族の好奇心──と言えばまだ聞こえがいいが、純粋な興味というより下心が透けて見えることも少なくない。

 つまり、俺たちを飼い馴らすことが出来れば神の後ろ盾が得られるやもとか、そうでなくとも影家に取り入るきっかけになり得るかもとか、或いは俺たちを公の場に引き摺り出して何かと恥をかかせて影家の顔に泥を塗ろうとか、そういった政治の世界に蔓延るいやらしさである。

 それが分かっているので、相手や宴の規模や格式に関わらず、俺も翔もそういった招待には一切応じないことにしていた。時に、丁重に断るのも難しいほど巧妙に影家の名を絡めてくる者もいたが、どうにか角が立たないよう白狐さんが取り計らってくれているらしい。


 そんな彼が主催の宴ということで、俺たちにも一応声はかかったものの、やはり辞退することにした。ただ、ずっと同じ邸に籠っているのも良くないだろうと真弓が言い出したらしく、見物という形で正邸の上階からこっそり宴を見下ろすことを許された。

 実のところ、夏の夜の庭園で開かれる煌びやかな貴族の宴会にさしたる興味はなく、どちらかといえばそこで饗される料理のおこぼれに預かろうという魂胆なのだが、気晴らしが出来るのなら何でもいい。

 長きに渡る籠りきりの生活に、先に参ってしまったのは翔なのである。

 珍しいものが食えるかもしれないぞと誘うと「行く」と翔は二つ返事で承諾した。食い意地が張っているというより、単に気晴らしをしたいだけのように見えた。


 そういう訳で、辺りが宵闇に包まれる頃。案内された影家の正邸の上階の一室。窓の隙間から窺えば、後庭に設けられた宴席は夏の夜に相応しく、花ござを敷いた上に長卓が配され、それを囲うよう客人たちが各々寛いでいる。

 人々は、肉や魚、山海の珍味をふんだんに使った多種多様の料理を小皿に取り分け、笑いさざめき合いながら泡の立つ飲み物や酒盃を口に運んでいた。

 ここから見る限りでも、彼らが手にした磁器や銀製の箸、何から何まで贅を凝らした代物だと分かる。傍に配された篝火の灯りが、人々の衣裳に縫い込まれた金糸銀糸を、漆塗りの酒器の艶を、清流の奔りを弾いて煌めいていた。


「あ、舟だぞ」


 翔が指さす先、丸い提灯を幾つも下げた一槽の白木舟が緩やかに庭の池を回遊している。

 船首には細い首の水鳥を模した彫刻が施され、睡蓮の花がその波に揺られて路を開けた。様々な楽器をもった楽士が舟上でささやかな音楽を奏し、それが涼しい風のように歓談と混じって心地よく響く。

 昼間の蒸し暑さが僅かに残った庭園を見晴らせば、土の匂いや緑の匂いが風に運ばれ、花の盛りを終えた木々が夏らしい青葉を垂らしている。その向こうには、暗緑がかった闇がどこまでも続き、水墨画を思わせる築山や灌木の茂みに沿った園路、蛇行する川に架かる橋の遠景がぼんやりと見えた。

 上流に造られた階段滝の飛沫が、霧となって中空に四散している。どこかで咲いている、夏椿の艶っぽい香りがする。影家の当主が何百年とかけて造り上げてきたであろう広大な庭園は、朧家のそれと同じく、仙界に憧憬する貴族の美意識をそのまま映しているかのようだ。

 そうこうしている内に、俺たちの元にも宴の膳が運ばれてきた。さすがに大皿ではなくそれぞれ二人分に取り分けられていたものの、豊富な品数が如何にも豪華だ。中には食材や調理法が推測しにくい珍妙な料理も見受けられる。


「毒見は済ませております」という逆に落ち着きのなくなるような物騒な言葉を残して女官が退室した後、行儀が悪いと知りつつ俺たちは皿を覗き込んだり匂いを嗅いだり、珍しい美術品を前にしたよう一通り鑑賞してからようやく箸をとった。


「何だろうな、これ」


「白身魚だと思うけど種類が分からない」


 川魚と蕪を炊いた羹に始まり、白木耳の甘味、海老と青菜を薄い米皮で包んで油で揚げたもの、紅焼という、骨つきの豚肉を甘辛いタレに漬けこんで焼いた肉料理、黒胡麻の冷たい汁物、その他諸々。逐一挙げては切りがない、様々な宴会料理が所狭しと並ぶ。

 どれもこれも呆れるほど手が込んでいて、これだけの品数がありながら飽きさせないよう味付けは細やかに工夫されていた。見たことも食べたこともない珍味に時折躊躇いつつ、俺たちはこれが旨いだのあれがどうだの話しながら箸を進める。


「これ美味しいな」


 翔が頬張っているのは、祝いの席で好まれる陳皮を練り込んだ花巻である。陳皮とは乾燥させた蜜柑の皮であり、それが小麦の生地の香りと相俟ってふわりと香る。

 俺が蓮華で食べているのは、何と亀を捌いてからじっくり煮て冷ました料理で、肉ではなく汁を飲むのだという。恐る恐る蓮華で掬って口に運ぶと、ゼリー状になった煮凝りが口の中で蕩けた。

 しかし、たった一皿のために亀を十匹以上も捌くと聞いたこの料理、確かに旨いことには旨いのだが、なるほどこれが贅沢かと諸々噛み締めて唸るほかない。


「貴族っていうのはすごい生き物なんだな」


 適当に感想を投げつつ、空になった食器を端に押しやる。酒も勧められたが、俺も翔も揃って酔うと収拾がつかないので遠慮しておいた。それに、酒を飲むと腹が膨れてせっかくの料理を残してしまいそうだった。

 尤も、到底完食を前提に作られた品数ではないのだが、そこは俺も翔も胃袋の若さが幸いし、美味な料理を食べきるのには苦労しない。半分ほど平らげた辺りで、ふと外のざわめきが大きくなる。

 少し首を傾け、僅かに開いた窓の隙間から覗けば理由はすぐに分かった。乾杯の席にはいなかった、冴家の御方が姿を現したのである。


「……」


 その容貌を知る俺も翔も、一時言葉を失った。白狐さんに手を取られてその隣に腰を下ろした彼女は、人間離れして、思わず見惚れるほど美々しかった。

 滑らかな額を露わにした御方は、左右に大きな房をつくった髪の毛に冠のような珠連を重ねている。髪飾りに着けられた薄絹は花嫁のベールを思わせた。

 それは文字通り、公の場に出る際の姫君の衣裳だった。身ごろは淡い藤色で、たっぷりとした生地を引き摺る裾にゆくほど薄く透ける。艶めいた絹の布地には小粒の真珠があしらわれ、銀糸の刺繍が明け方の星空を描いていた。襟元に二つ結ばれた羽のような紐飾りは、床に届きそうなところまで垂れて揺れている。決して派手ではないが、典雅で繊細な宮廷衣裳だ。

 唯一、あまり機嫌が良くなさそうな御方の表情が宴の席に相応しくないように思えたが、そのつんとした無表情もまた少女のようで可愛らしい。どう考えても社交的でない彼女の性格からして、こういった公の場に出席すること自体が稀なのではないだろうか。

 ざわめきと称賛のため息の中心にいる御方は、夫である白狐さんの隣にゆったり腰を下ろし、受け取った酒盃をさらりと横から白狐さんに取られていた。そのやり取りが如何にも夫婦といった空気感で居たたまれない。


「そういえば」翔が現実を思い出したように呟く。「あの夫婦が揃って公の場に出てきたのって、今日が初めてなんじゃないか」


 人付き合いを嫌う御方の性格に、女性を排する朝廷社会の伝統が乗じ、こうして人前で男女が並ぶ機会が極端に少ないのだろう。なるほど、と俺は思う。今夜二人が揃って宴席に現れたのは、夫婦関係が安泰であることを周囲に示すためでもあるのかもしれない。


「傍目から見るとあまり相性が良い組み合わせとも思えないんだけどね」


 礼を欠いている翔の素直な感想も、高みの見物だからこそである。まあ確かにね、と相槌をついて、俺は茶を一口飲んだ。


「本人たちにしか分からない何かがあるんだろう」


「そうだね」


 白狐さんが彼女のことを誰よりも愛していることは間違いない。そうでなければ、あんなに優しい眼差しで見ることもないだろう、と野外の宴席の仲睦まじい夫婦の背を眺めながら考える。

 この宴の席ですら、影家にとっての横の繋がりを強めるための社交の場だ。食事や酒、音楽や着物の豪華さも、裏を返せば生半可なもてなしをすれば周囲から軽んじられかねないという、戦略めいたものを感じる。

 庶民の価値観とはかけ離れた、非合理的で息苦しい世界。俺たちには馴染みようがない、雲の上の世界だ。


「俺たちは、長遐に帰ろうか?」


 冗談めかしたようにいう翔は、そこに本音を隠しているように見える。細い隙間から白狐さんたちを垣間見る、その眼差しは寂しげだ。俺は肩肘をついて、その視線の先を追う。


「……」


 幾分伸びた白い髪を背中に垂らし、くすくすと歓談に微笑む白狐さん。いや、影家の当主。

 長遐の安寧とした辺鄙な暮らしを捨て、朝廷という厳しい時代の荒波へと漕ぎ出した彼のことを、俺たちは見送ることしか出来ない。

 願わくは、彼の行末が明るいものであれ、と。俺も翔もただ祈っている。




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