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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十七話 雨去りぬ
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 草木も眠る丑三つ時。魑魅魍魎が跋扈するこの都の夜更けに、ひとりの影が目を醒ました。

 影家の別邸の離れにあるこの一室。設えられた調度品は如何にも高直で、美しい余りに生活感を欠いていた。きれいに片付けられているものの、その清潔感はむしろ死者が眠る地下墓所の寒々しさを思わせる。

 さて、室の奥。火の消えた燭台の下。広々とした寝台に、二人分の寝息が上下していた。皓輝と翔、この別邸に軟禁されている世捨て人たち。

 もう一室用意しようとした影家の狐の計らいを断り、安全のためひとつの寝台を二人で使い分けているが、狭さは感じさせない。むしろ長らく野宿生活を強いられてきた彼らにとって、金銀の刺繍が施され、綿の詰まった布団や枕は贅沢すぎる代物だった。

 二人は、それぞれ横になったまま目を醒まさない。魔法にかけられたように。


「……」


 ずるり。枕元から這い出したものは、皓輝でもなく、翔でもなく、人間ですらなかった。ただの影。黒々と粘つき、それでいて蛇のように蠢くもの。

 もし護衛が見れば悪霊だと腰を抜かしただろうか。幸い、音もなく雨戸の隙間をすり抜け、星見台を伝ってその影がどこかへと出ていった奇怪な様子を目撃した者はいなかった。


 深夜、皇城は不思議な眠りに包まれている。


 あの神明裁判以来、専らの噂の渦中となっている朝廷の牢獄、囹圄。たった一人の囚人のため何かと人の出入りの多いこの場所も、今宵限りは誰からも忘れ去られたように静まり返り、出入り口に立つ不寝番すら、生きているのか死んでいるのか、人形の如き虚ろさでただ突っ立っているのみ。

 格子で隔てられた牢の一室には、無残にも壁に張り付けられた男がいる。身動きが取れないよう手足を枷で拘束され、不自然な体勢を長時間強いられたためか首はだらりと力なく垂れていた。ほとんど裸に近い身体には生々しい拷問の痕跡が走り、流血が床にまで垂れている。

 不老不死をもたらすというニィの特性がこの国の拷問吏にどれだけ伝わっているのか定かでないが、随分と派手にやられたらしい。正確には、現状イダニ連合国で完全な不老不死を達成した者はいないし、ニィは痛みという生存本能を遠ざけもしない。

 幾度か骨ごと潰されたらしい彼の足は、乾涸びた死骸のそれのようではあったものの、辛うじて人の足と呼べそうな形にまで再生はしていた。

 ぐったりと半ば意識を閉ざし、束の間の休息に微睡んでいた綺羅は、ふとその気配を感じて顔を上げる。解れた髪の間から覗く双眸は、手負いの獣のように攻撃的だ。

 しかし蠢く黒々とした影がそこを這っているのを目に留め、ふっと眦を緩める。力が抜けたのか、その枷から垂れる鎖ががちゃりと重たい音を立てた。


「……何だ、お前か」


 声は掠れ、その弱々しさが痛ましい。それでも綺羅は微笑んでいる。格子の隙間から液体のように自在に形を変えながら、影は牢の中に易々と侵入した。

 そうして綺羅を見上げ──まるで人の頭部のように見える丸い塊を持ち上げ──しばらく沈黙する。丁度それは大きさも相俟って、赤ん坊が腹這いになっているようだった。微かに上下しているのは、まるで生き物が呼吸している様を彷彿とさせる。

 綺羅はひび割れた唇を舐め、それから自身の前歯の裏側をなぞるように舌を動かした。


「全てに肩入れし、身動きが取れなくなるのは自分だというのに、相変わらず優柔不断な奴め」


 揶揄ともつかぬその言葉が終わるとともに、その手首足首がするりと枷から抜け落ちる。四肢をもつれさせながらも、その場に崩れ落ちなかったのはニィがもたらす脅威の回復力のためか、或いは彼自身の矜持なのかはっきりしない。

 よろめきながらようやく床に足をつけた綺羅は、自身の手首の強張りを解こうと丁寧に関節を回した。きちんと外れず、適切な部品がついているのを確かめるように。


「ところで、うちのもう一人の執政官は私を助けにも来ないで、どこへ行ったんだ?」


 怪訝な眼差しは、格子に切り取られた砂っぽい闇へと向けられる。一時は怒りの余りその存在すら忘れかけていたが、千伽のスコノスの力によってどこかへと飛ばされていたのだった。


「絶海の孤島にでも飛ばされていたのなら面白いのだがな」


 綺羅は少しも面白くなさそうに呟くと、影のほうに向き直る。まるで綺羅の言動ひとつひとつを具に観察しているかのような、その黒い塊に。


「皓輝を巻き込んだのは悪いと思っているさ。これでもな。だが、影家の狐が絡むとなるとあいつも動かざるを得なかったんだろう」


 ぱさついた頭髪を耳に掛け、横っ面を張られたときにできた痣を撫でる。影を相手に話を続ける綺羅は、正気を失っているように見えた。実際、その影の持つあからさまな異様さは神が纏う絶対的な圧に似て、常人が見れば臓腑を圧迫され、まともに声を出すこともままならないだろう。

 正気などというものを遥か過去に置き去りにしてきた綺羅だけが、この世で影とまともに対話できる唯一の生者といっても良かった。


「天石に近付けばお前が出てくるのは想定内だが、あの神鳥までもが加担するとは私も思わなんだ。余程私のことが気に食わなかったと見える」


「……」


「お前も怒っているのか? だがお前自身が招いた事態でもあるのだぞ」


 微笑に病的な嘲りが混じる。影には挑戦的な表情に見えたかもしれない。


「腹が立つなら私を殺して見せるがいい。尤も、無理な話だろうが」


 一通り笑ってから、綺羅はふと視線を宙へと投げる。そこに自分の思考が浮かんでいるかのように。


「──だが血の味は覚えたぞ、朧家の如何様師め。私の目を欺いたこと、いずれ後悔させてやろう」


 低く呟いた言葉は呪いのように、怨念を帯びてその場に残る。不吉に翳る綺羅の横顔を、影は初めて眼を開けて見つめた。

 墨汁を垂らしたような不安定な形状に、宝石を埋め込んだかのような二つの瞳。


 紫色の、目。


 顔の位置が定かになったことで、その影はただの流動体ではなく、元々何らかの形を成していた、残骸のようなものであることが分かる。

 晩冬の名残の根雪、土に塗れた薄汚い氷塊のように。或いは想像を絶する高温の炉に放り込まれ、熔け崩れた人間の死骸のように。

 いずれにせよ、影の不穏さは綺羅の興味の範疇になかった。綺羅の頭は自国に帰ってからやらなければならないことで一杯だった。影家の狐に嵌められて六十二年の歳月を水泡に帰したことへの激情は既に僅かな反省と開き直りへと変換されている。


 報復する相手が増えた。それだけのことだ。

 伊達に、永遠にも近い年月を生きてきた訳ではない。


 綺羅は、床に這い蹲ってこちらを見上げる影へと、まるで語りかけるように視線を寄越す。人の形を保つことすら出来なくなった、過去の亡霊へと。


「それで? 私をイダニ連合国まで見送ってくれるのだろう? 下衆な輩に散々痛めつけられたからな、少し手伝ってくれると助かるのだが」


 その口調は、そんな形で頼まずともお前は私に協力するだろうという確信が籠っていた。そして実際に、綺羅の期待が裏切られることはなかった。

 微かに空間が渦巻くような、小さな気流が生まれる。時空を歪ませる、自然の理に反する転移。その気配を感じ取った綺羅は立ったまま目を瞑り、その流れに身を任せんとする。


「ああ、そうだ」


 ふと瞼を開け、綺羅は呟く。無責任にも、自分を遠くへと逃がさんとしている影に向けて。


「私はまだ諦めていない、とでもあの朧家の如何様野郎に伝えておいてくれ。お前に口を利く気があるならな」


 そうして今度こそ、空間の分断を感じて別れの一瞥を寄越した。


「お前たちとはいずれまた会うことになる。それまでせいぜい皓輝の子守りでもしているがいい」


 乾いた音と、砂埃を払う微風を残し、綺羅は姿を消した。文字通り、跡形もなく。

 影はしばらくそこに残り続けた。紫の瞳は星のように明滅し、そこに唯一の生気を宿していた。例えそれが、正確に生き物の目でなかったとしても。

 やがて、影は何かを諦めたように、形を崩した。どろり、と。ただの地を這う粘液と化したそれは、静かに、音もなく──皓輝の元へと帰っていく。

 夜は水底のように暗く、重たい。後には、空虚になった牢と、壁に飛び散った血飛沫とも吐瀉物ともつかない液体の染みだけが残った。




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