Ⅱ
あんなにも待ち焦がれた朝を迎えた俺の心情は、決して明るいものではなかった。
明け方の空は墨絵のようだ。薄い雲が細くたなびき、徐々に明けゆく東の山際で淡く消えゆく。長遐のなだらかな稜線は陽光で薄っすらと白んでいた。
小鳥も歌わない、白い霧立ち込める朝。何の変哲もない夜明けにこの惨めさが余計に際立つ。俺は膝を抱えるようにして、だんだん明るくなる光が霞かかった大気中の水粒を溶かす様を眺めていた。
未だにどこへ消えたともしれない追手のことを考えれば、胃の底がずんと重くなる。翔や白狐さん、そして家のこと。心配事も尽きない。
不意に、俺のうなじに小さな刺激が走る。ほんの小さな針を刺されたような痛みの正体は、藪柑子の葉だった。風か何かのせいかと思えばそうでもなく、細い枝がぴしりと弾け、棘のある葉が次から次へと俺に襲い掛かってきた。
出ていけ、と言われているらしい。
「分かったよ」
俺は仕方なく、肩を窄めるようにして藪から逃れた。振り向けば深緑の灌木が何事もなかったかのように佇んでいるだけで、ため息が漏れる。素っ気ないものだ。
むしろ、得体の知れぬスコノスを一晩は匿ってくれたのだから、感謝すべきだろう。俺は人の言葉ではあるが、一帯を漂う霊たちに礼節を尽くして感謝した。
霊と話すとき、大切なのは気持ちだよ、と言った相棒のことを思い出す。ああ、無事でいてくれ。俺は薄い桃色の空を仰いだ。そうして、周囲に気を配りながらしっとりと朝露に濡れた針葉樹林を後にする。
異様に寒い。具合も悪かった。濡れた部屋着が肌に吸いつき、雨上がりの外気と相まって俺の体温を奪ってゆく。指が悴んで動かない。このままでは風邪を引いてしまう。さしあたって俺は苦労しながら帯を解き、上着を脱いだ。
そして、ばさりと布を広げて乾かそうとしたそのとき──懐に仕舞っていたものが、はらはらと地面に舞い落ちる。折りたたまれた紙だ。二枚ある。
拾い上げ、首を捻った。
一枚は、例の書簡に入っていた上品な菊色の文だった。よく覚えていないが、あのとき咄嗟に懐へ押し込んで仕舞っていたらしい。紙が分厚いので、文字もそれほど滲んでいない。皇帝からの手紙が燃えずに済んだのは幸いだろうか。
もう一枚は……全く記憶にない薄い紙だった。白っぽいその麻紙は庶民が文字を書く際に一般に使われるもので、丁寧に三つに折りたたまれ、宛名には他でもない俺の名が認めてある。
一目で分かった。白狐さんの字だ、と。
俺は震える指で開くのを堪え、ひとまず安全の確保を優先することにする。どこか身を隠せ、かつ暖められる場所を探さなければ。上着を肩に掛け、冴えた外気にぶるりと震え上がる。いや、その身震いが本当に寒さだけのせいだったのかは分からない。
裸足で地面を踏むたびに、苔にたっぷり含まれた雨水がじわりと浸み上がってきた。日向を避け、湿った草丈を掻き分けておよそ東へと早足で向かう。
俺の頭は世捨て人の主のことで一杯だった。彼が文を俺の懐に忍ばせることが出来たのは、俺が眠りこけている間のみ。つまり、やはり彼は食事に薬を混ぜて俺と翔を眠らせたのだろう。そして、恐らく、こうなることもおおよそ分かっていた。
そんな寒々しい憶測も、今自分が置かれている状況を鑑みればあながち間違いでもないように思える。白狐さんも、七星たちも、あまりに用意周到なのだ。俺と翔ばかりが置き去りにされてゆく。
気分が悪い。不明な点が多すぎた。そして辺りが明るくなるほどに現実が冷たく照らし出され、拠り所を失った喪失感が募ってゆく。
燃えゆく家に背を向けて逃げることしか出来なかった無力さが、今もなお気怠く胸に蔓延っていた。たった一晩で、俺は世の無常を悟ってしまったような気分だった。
さて、人目を避けて慎重に俺が向かったのは、いつも翔と釣りに行く渓流のひとつである。釣り場は幾つかあり、昨年の五月、初めて渓流釣りをやったのもここだった。
俺の息は少し切れている。遠回りして来たため随分と時間がかかってしまった。身体を動かしているうちに体温が上がってきたのは幸いだったが、歩いている時はいつ追手が現れるのかと全方位に気を配り、まるで生きた心地がしなかったのである。
飛沫を上げ、雪解け水を山頂から運ぶ渓流。樹木が生い茂り、薄暗くすら感じる緑の山林を走り、夜の小雨のためか少し淵がぬかるんでいる。水の音に俺は僅かな安堵を覚えた。川上から押し出された黒い土の間を、清らかな水が弾けて飛び散る。流れに沿って吹く風は、熱を帯びた身体には涼しかった。
俺は詰襟の襯衣も脱ぎ、上半身を裸にして外気に晒す。外気温に相応しくない恰好に思えたが、濡れた服が肌にべたつくのがどうにも癪だった。脱いだものは日の当たる枝木に干し、乾かす。
次に、渓流の浅いところで手を洗い、冷たい水を両手に掬って口を漱ぎ、二口目からはぐいぐい飲んだ。雪解け水は頭が痛くなるほど冷たく、喉がすっきりと洗い流される。ついでに顔も洗えば目も冴えてきた。俺は滴る水を振り払い、改めて二つの手紙を読むことにする。
周囲を確認してから乾いた岩場に腰掛け、まずは白狐さんからの文を開いた。さらさらと流麗な筆の文字は紛れもなく世捨て人の主その人のもので、嘆息する。白い紙には漢字に似た孑宸文字が数行に渡って続いていた。水で濡れ、下の方は滲んでいる。俺は目を凝らし解読に耽った。
まず一行目には、彼らしくない走り書きでこんな内容が書かれている。
──こんな形でお別れすることになって残念です。
残念どころの騒ぎではない。
──今まで黙っておりましたが、かつて私は皇国の朝廷に仕える身でした。故あって先代の当今皇上より疑いをかけられ、辺鄙な長遐まで逃れたのが六十二年前になります。此度、恩赦を賜り、都へ帰ることとなりました。急なお別れで本当にごめんなさい。
そんな謝罪で、文章は一度途切れている。しかし思い立って付け足したかのように、以下の文が追記されていた。
──此度の恩赦、どうも胡散臭いです。当今皇上はまだ私を赦していないのだと思います。吉草の効力が消えたら、巻き込まれない内に翔とお逃げなさい。もう二度と生きてお会いすることはないでしょうが、どうかお元気で。
「……」
最後に書き留められた、“白狐”という綺麗な字。俺は、突き付けられた別れの手紙にしばし愕然としていた。
腰掛ける岩の固さが尻に染み入る。幾度も手紙を読み返し、意味を噛み砕いて反芻する。白狐さんが残してくれた簡略な言葉を、一片たりとも逃すまいと。
とりあえず、と俺は深呼吸をして、落ち着きを取り戻す。情報そのものはそれほど増えなかった。つまり、翔の言った通りである。俺たちが今まで共に暮らしてきたあの世捨て人は、孑宸皇国の朝廷の人だった。
優雅な立ち居振る舞いや整った所作、更には教養の深さから、彼がただの世捨て人ではないと薄々勘付いていた。政治的な身分を想像したことがなかったと言えば嘘になる。要するに“白狐さん”の正体は今までの彼を考えれば何の意外性もなく、しかし俺にとっては衝撃的だった。
呆気なくも明かされた正体、仙人と揶揄してきた彼の姿が急に具体的な世俗さを纏い、遠くなっていくようだ。
朝廷に仕えるということは、官僚か、或は貴族か。今となって知る由もない。そしてそんな彼は、前皇帝から“疑い”とやらをかけられ、追放され、此度の恩赦で帰京を許された、と。
しかし、当今皇上はまだ自分を許していないだろうという自嘲気味な文面と、最後の覚悟を決めたような一文に、この一連の展開のきな臭さが漂う。あの七星の刺々しい態度も気にかかった。都に帰っても、彼が歓待されるとは思えない。飽くまでも、勘に過ぎないが。
最も縁のないと思っていた政の中枢のこと、俺は彼らを取り巻く事情を知らない。六十二年前に一体何があったのか。何故、寛大な恩赦を賜りながらも白狐さんの手紙には死にゆく決意のようなものが滲んでいるのか。
分からない。ただ分かるのは、俺が立ち入ってどうこう出来る話ではないということだけだ。
頭を掻く。汗のためか、髪は湿っていた。これからどうしようという漠然とした不安に駆られる。菊色の文も開いてみたが、これはこれで形式的な言い回しが多く、孑宸語に不慣れな俺には少々難しい。
首を傾けて読んでみても、ただそこには慇懃無礼な文面で“影家の御君”への恩赦と、帰京を促す内容が綴られているだけ。末尾には「翰林院」の署名と判が押され、そこでようやくこの文が皇帝の直筆でないことを理解する。翰林院というのが何なのかよく分からないが、恐らく公文書を皇帝の代筆として作成する組織があるのだろう。
俺は二枚の手紙を見比べ、途方に暮れた。風に煽られ、紙の端がぴらぴら暴れる。汗ばんだ身体も体温が下がり、寒くなってきた。皮膚に鳥肌が立っているのに、俺はなかなか動く気になれない。岩の上に腰掛け、呆けた思考は組み立てる傍から散らばっていく。
その内に、空腹を感じ始めた。気付けば太陽は真上に昇りつつある。俺は唸る胃袋のあたりに手をやり、肩を落とす。黙っていたところで、どうにもならない。自分から動かなくては始まらないのだ。
夜になったら動き出そう、と俺は決める。頼みの綱は翔だった。七星を相手に立ち回り、幾ら軍人相手とはいえ、あの相棒がそう簡単に死んだとは思えない。否、思いたくない。きっとうまく逃げおおせて、俺と同じようにどこかで様子を窺っているに違いない。
太陽のある内は隠れてやり過ごし、夜になったら探しにゆこう。追手がまだこの辺りにいないとも限らないから、慎重に。
──生き延びる方法を探さなくては。俺は立ち上がり、生乾きの襯衣を纏った。