Ⅲ
「今更? 謝るのが遅かったということか」
「それもあるかもしれない」
表情を曇らせる撥里に、俺はあまり暗くならないよう軽率を装う。「今更何もかもが手遅れなんだよ」
さわさわと場違いに優しい風が吹き込む。翔は髪を耳に掛ける素振りの後、慎重に言葉を並べた。
「確かに俺たちの家を全焼させたのはお前だ。手癖の悪い弟たちは色んなものを盗むし、はっきりしたことが分からないまま皓輝に殺人の濡れ衣を着せて──まあ、あれは不可抗力だったかもしれないけど──」
あのとき対峙した光景を思い出し、翔の曖昧な笑いに翳りが差す。
「責めようと思えば幾らでも責められる。でも、お前を責めてももう仕方ないだろう」
「……」
そう、もう仕方がないのだ。蒸し返すだけの気力がないといってもいい。
長遐の家を燃やされてから今に至るまで色々なことがありすぎて、責任の所在は四方八方に飛び交い、結局全員がそれぞれ痛い目を見て喧嘩両成敗に終わった。少なくとも表向きは。
今更彼個人に怒りをぶつけたところで、この泥沼な結末が変わる訳ではない。誰か一人が背負うには事態が大きく成りすぎていた。豊隆という神の名でさえ、俺だけが負うには重すぎるというのに。
こちらの抱える遣り切れない無力感を察したか、撥里は姿勢を崩さずに頷きを瞬きに代えた。
「分かっている」
それくらい分かっているよ。彼の直向きな無表情は、俺たちが投げ遣りになって方々に放り投げた感情のひとつひとつを具に拾い集めて持ってきたかのようだった。
翔が静かに問う。
「分かっていながら謝りに来たのか」灼けた目が、彼の気真面目さを挑発するとも揶揄するともとれる色に揺れる。「そうしないと気が済まなかった?」
撥里は少し黙った。目蓋を伏せ、言葉を探している。
「俺は」ようやく紡がれたのは、存外内省的だった。
「お前たちを見て、自分が情けなくなったんだと思う」
「情けなくなったというと?」
首肯する。彼の鈍色の目は真剣そのもので、石を嵌め込んだかのようだった。
「今だから言う。俺は自分から進んで七星の首になった訳ではない。それでも自分に恥じないよう生きてきたつもりだ」
「……」
「七星は表沙汰に出来ない汚い仕事をしていると蔑む輩もいるが、秩序を保つために必要な役割でもある。実力を持ちながら後ろ盾を持たず、路頭に迷う浮浪者を七星の中に組み込んだこともあった。地縁血縁もなく、組織に属さない者がこの国でどれだけ生きにくいか、俺は知っているから」
撥里の物言いには実感が籠っていた。司旦が口汚く罵っていた、彼の持つ偽善的な威圧感を彼自身はとっくに自覚している。司旦がこの場にいれば何と言っただろう。尚も唾を吐いただろうか。
「だからこそお前たちに腹が立った」撥里の目にやや力が宿る。「誰の肩を持つにしろ、あまりにも無鉄砲で自分を顧みないやり方で白狐様を助けようとしていただろう」
「正論だな」翔が苦笑を零す。
「俺は、あのときお前たちのやることを蛮勇だと侮った。たかが二人の世捨て人に何が出来る、と。語弊を招いたことは認めるが、見下したわけではない。ただ取り入る狡猾さもなく、向こう見ずな若さだけで政治に首を突っ込むのがどれだけ危険か、そういう世間知らずへの腹立たしさを抱いた」
真弓に言われたことが脳裏で重なる。瞬きで促すと、撥里は続けた。
「それでもお前たちは自分たちを枉げなかった。神明裁判に豊隆を呼び出すなど、全く正気の沙汰とは思えないが、お前たちは最後まで義を貫くことを選んだ。それが朧家や他の大人の思惑が多少混じったものだったとしても、だ。“選ぶ”というのは“選ばない”ことよりもずっと勇気を伴う。俺はお前たちの、その勇気を称賛する」
「そんな、大層なもんじゃないよ」
真っ向から肯定されると思わなかったのだろう。首を竦めて萎縮しかけた翔を、彼は遮る。
「冴家の御方に言われてようやく気付いた。独り善がりになっていたのは自分だったと」
撥里はそこで少し言葉を切った。
「司旦の件もそうだ。奴が皇帝陛下に恭順しないことなど端から分かっていたとはいえ、奴の忠義を、執着を甘く見た」
「そうやって軽視されることを、司旦は一番嫌いそうだからな」
「ああ」彼は俺に苦々しく頷く。「結局は奴の意志の強さに俺は敗けた」
恐らく──これは単なる正義と悪の話ではない。彼もきっとそれを分かっている。撥里たちが守ろうとした秩序を、俺や司旦が破壊した。或いは、組織化された伝統に、個々の意志である俺たちが風穴を開けた。その無鉄砲ともとれる暴挙を、他でもない七星の首に認められるとは思わなかった。
翔も同様のことを感じたに違いない。神妙な面持ちで、「たまたまだよ」と言う。
「たまたま、今回は俺たちが上手くいって、お前がそうじゃなかっただけ。あのとき俺たちが失敗すれば、立場は全く逆になっていたよ」
心なしか、撥里は笑みのような息を漏らした。その表情に、彼が積み重ねてきたであろう年月の重みが見え隠れする。
「運が味方したと、本気で思うか? 神の後ろ盾がついたんだから、もっと自信を持っていいんだぞ」
彼の言葉は皮肉でもなく、彼の性格そのものであるように実直に響く。今更ながら、撥里の謝罪に狼狽えた理由を理解した。既に曖昧になり、誰も触れようとしない過失を自ら認め、けじめをつけに来たその真っ直ぐさが俺たちには新鮮だったのだ。
「お前たちは、俺が思うよりもずっと謙虚なんだな」
撥里は目を細め、改めてこちらに向き直る。
「だからこそ、きちんと謝りたかった。お前たちに働いた無礼の数々はもとより、たかが蛮勇と見縊ったこと。そして知っていて欲しかった。巷ではお前たちへの悪評が盛んに喧伝されているが、誰が何と言おうとお前たち世捨て人の貫いた義は称賛に値する、と」
それから双子に目を向け、手招きをした。兄に呼ばれた二人は、ぽてぽてとその傍らに来てはにかむように互いの顔を見合わせたかと思えば、「ごめんなさい」と頭を下げる。その片割れを蹴り飛ばしたこと、崖端にまで追い詰められて殺されかけたあのときの戦いの記憶がまだ薄れたわけではない。しかし。
俺は長く息を吐き出し、三人の兄弟に向けて口を開く。
「お前らに対して全く怒っていないと言えば嘘になる。でも──わざわざ頭を下げに出向いてくれた。俺は、それだけで充分だ」
同調するように翔は微笑んだ。
「今回の件で誰かに謝罪されたのは初めてだったし」
「恐らく、最初で最後だろうな」
付け加えると、撥里は怪訝を通り越して哀れみを込めた眼差しで俺たちを交互に眺める。
「俺が言うのも何だが、つくづく性質の悪い大人たちにつけ込まれたな」と。
「尤もそれを分かって自分から首を突っ込んだから、彼らを責めるつもりもないんだが」
俺は肩を竦めた。彼ら、すなわち千伽や司旦を初めとする、俺たちを利用せんとした大人たち。それから、逃げてもいいんだぞと忠告してきた真弓の顔が脳裏を過る。
全部分かって、豊隆を呼んだ。いや、正確には分かったつもりになっていただけなのかもしれない。
「お互いに生きてまた会えた。だからこれでチャラだ」
軽く手を広げた翔の笑い方は、空気を僅かに軽くした。それを見て、撥里はようやくほっとしたようだった。
肩の荷を下ろした兄の傍らで、あの隻腕の双子たちはもじもじと何か言いたげにしている。ぎこちない笑みを浮かべる彼らに気付き、翔が首を捻った。
「何だ?」
「……」
「あのね」
開いた口から飛び出た声は、まだ幼い。くるりと額に丸まった毛先が無邪気に飛び跳ね、それなのに兄によく似た眼差しは不思議な落ち着きを帯びている。
「ひとつ訊きたいことがあるんだけど、いい?」
俺は頷く。「いいよ」
そうして投げかけられた双子からの問いは、少し意表を突くものだった。
「──後悔している?」
何に、と彼らは言わなかった。ただ鈍色の瞳が俺と翔を真っ直ぐ見つめる。俺たちは顔を見合わせ、ほんの数秒考え、首を横に振る。
「後悔はしていない」
「そっか」そっくりな二人が無邪気に破顔する。「それが聞けて良かった」
「……」
満足したようにぱたぱたと足音を鳴らしてまた室内の探検へと向かう彼らの背を、俺は無言で見送る。後悔している? という問いかけが心の中で反芻される。
いや、と俺はもう一度声に出さずに答えた。後悔していない。多分、この先も。
「お前の弟たち、変わっているな」
翔が率直に言うが、撥里は特に気を害した様子もなく「よく言われる」と返した。
「あいつらもあいつらなりに、お前たちについて思うところがあるんだろう」
「心配されている?」
「かもな」
双子はもうこちらのことなど意に介さず、銀糸で編まれた屏風の煌めきや凝った装飾の燭台をきらきらした目で、ともすれば不用意に触って倒してしまいそうな危うさとともにはしゃいでいる。
時折吹き抜ける風が、彼らの空っぽの片袖をはためかせていた。
「弟たちのために金が必要だった。生きていくために」撥里がおもむろに口を開く。
「だから、七星になった」
「……あの二人の腕は」
慎重に翔が訊ねるが、彼は双子たちから目を離さない。
「見て分かると思うが、あの二人は普通じゃない産まれ方をした」
その言葉の質感を確かめるように言う。「奇形だった」
「……」
「死なずに産まれただけで奇跡だったが、生き永らえるには片腕を切り落とさなければならなかった。おまけに親にも見棄てられ、医者に診せるのも、生活していくのにも、金がかかった」
「あの二人はお前が育てたのか」
撥里はゆっくりと首肯した。
「弟を見棄てる兄が居て堪るか」
その言葉が石のような固さで心に落ちる。俺はそれを表情には出さず、何となしに一卵性の双子がもたらす神秘的なまでに鏡映しになった背中を目で追った。赤茶けた癖っ毛が、風を浴びて猫の毛並みのように乱れた。
俺は撥里の方と見比べ、彼らの歩んできた人生の道のりを想像してみる。それは勿論憶測の域を出ないが、正常でない状態で産まれた者がどれだけ生きにくいか、俺は理解している。ましてや出自に生涯縛られるこの国ともなれば、尚更だろう。
あいつ叩き上げだからなぁ、と。妬ましそうにこの男のことを語った司旦のことが思い出される。奇形の弟たちを抱えて一から実力でのし上がる生き方が、生まれながらに一生奴隷として後ろ指さされることよりもずっと楽だと言われるこの国の不公平さに思いを馳せ、撥里の咳払いで現実に返る。
見ると彼は口許に皺を寄せ、自分の話に後悔している様子だった。
「余計なことを言った。同情を買いたくてこんな話をした訳ではないんだ」
「分かっているよ」
翔は背もたれに寄り掛かる。そうして懐から何かを掏るような仕草をして笑った。
「ただ、やっていいことと悪いことがあるということは教えるべきだな」
「悪かったよ。善処する」
そこで初めて撥里は釣られて小さく笑った。「治安が悪いところで育てたもんで」
「これからどうするんだ?」
「ほとぼりが冷める前にとんずらさせて貰う。刺客に寝込みを襲われるのは御免被るからな」
俺の問いに、撥里は気負った様子もない。これしき挫折の内にも入らないといった心強さで、空気は重くならなかった。
「行く当ては?」
「ない。都から離れて、しばらく大人しく其の日暮しだ」
窓辺に腰掛けて会話を聞いていた双子がからからと笑い声を立てる。
「清虚の景色も見納めだねぇ」
「今度はどこへ行こうか?」
まるで旅でもするような物言いに、暢気なものだ、と笑みを零しかけるも、「お前たちの方こそ、これからどうするんだ?」という至極真っ当な疑問に、俺たちは揃って肩を竦めた。
「どうすればいいと思う?」
「俺に訊いてどうする」
撥里は呆れて眉を顰める。
「ここに残るつもりなのか? 俺が言うのも何だが、あまり良い選択とは思えないな」
「やっぱりそうだよね」
遠い目をする翔も、俺と同様に投げ遣りだ。撥里が危惧したよう、入り口に置かれた護衛の意味する通りの危うさを俺たちは抱えている。針の上に立つようなぎりぎりの均衡で保たれたこの朝廷に、大きすぎる風穴をぶち空けた代償であろう。
四方に敵をつくり、あらゆる方面から警戒される八方塞がりのこの状況。撥里のように遠くへ逃げるには、あまりに俺たちは目立ちすぎた。
「さしあたり、綺羅に下される沙汰が決まるまでは自由に動けないだろうな」
「なるほど」
天壇で捕らえられた綺羅に対する処罰は、まだ正式には決まっていなかった。敵国に属し、これまで皇国でしてきた数々の所業を思えば生かしておく理由など当然ない。実質的に処刑が決まっている一方で、これまであまり知られていなかったイダニ連合国の内情を吐かせる貴重な機会として、囹圄に勤める拷問吏が存分に活躍しているらしい。
綺羅が名乗った“執政官”という肩書が、イダニ連合国の政治を司る最高職であるという話は、俺たちのところにも下りてきていた。その他、彼らの言うニィが人体に不老不死をもたらすだとか、ニィに憑かれた者は得体の知れない奇術を使うとか、この辺りはまだいいのだが、綺羅の正体が月天子の兄である〈日天子〉だとかいうとんでもない噂まで流れ、まるで始末がつかない。
「いずれにせよ、今の朝廷にこれ以上刺激を与えたくない。綺羅が処刑されて落ち着いた頃、今後について考えることにするよ」
そうか、と撥里はそれ以上深堀りしなかった。互いのこれからについて、干渉しないほうが平和に済むと考えたのかもしれない。何かに加担するだけで睨まれ、後ろ指さされるのがこの朝廷である。俺たちもその利口さに倣うべきだろう。
さて、と撥里が立ち上がる。「俺たちはそろそろお暇させて貰おう」
俺も翔も腰を上げた。そうするのが礼儀であるように思えた。
「じゃあまた」
そう言いかけた翔が口を噤む。いつか俺たちは、果たして彼らの行く末と交わることがあるだろうか? かつての気ままな暮らしとは別の意味で、次を保証してくれるものは何もない。
撥里は口の端から歯を覗かせた。
「いつか会う日が来るかもしれない。そうでなかったとしても」翻った着物の裾。逞しい横顔に、思わぬ優しさが垣間見えた。
「幸運を祈っている。後悔のないように生きろよ」
「……」
人生の先輩からのアドバイスと言ったところか。何となく背筋の伸びる思いで彼を見送る俺たちの横を、あの双子が通りすぎてゆく。
「それじゃあね」
「元気でね」
それぞれが踊るような足取りでくるりと一度振り向き、そのまま笑いながら兄の後を追って退室した。たん、たたん、と二人分の足音がリズミカルに遠ざかっていく。
飄々とした彼らの振る舞いが、別れに慣れているためなのか単に俺たちに頓着するだけの思い入れもないのか定かでないが、彼らの行く先がどこであろうと、いつまでもああしてくるくると笑っているのだろう。根拠のなく前向きな彼らは、少なからず俺たちの鬱憤を晴らす明るさがあった。
撥里たちが帰った後、俺と翔は言葉少なく冷めた白茶を啜った。明日、明後日どうなるか予測のつかない不安定な情勢に頭を悩ませても仕方がないという、ある種の開き直りが俺たちを沈黙させていた。
苛立ちにも似た閉塞感は、今は少し遠ざかっている。後悔のないように生きろよ、と彼が残した言葉を口の中で繰り返す。きっとそれは不可能だ。彼はそれを知って尚、そう言った。
人生は難しい。俺たちはこの先も鬱屈とした現実感と開き直りを重ねて生きていくことになる。そんな漠然とした予感がした。
綺羅が脱獄したのは、その日の真夜中だった。




