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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十七話 雨去りぬ
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 淡い午後の光が窓辺から射し込んでいた。からりと晴れた初夏の空に、豊隆の気配はもう感じない。

 目を覚まして更に数日。開けたままの窓からは心地よい風が吹き込み、髪を、室内の屏風を揺らす。波打つ光に手を翳し、眩しく目を細めた。


「今日は起き上がって大丈夫なのか?」


 所用で席を外していた翔が、湯気の立つ素焼きの茶碗を手に戻ってくる。馨しい白茶の匂いに誘われて振り向いた。相棒は陽光を浴び、髪の毛先を金色に躍らせている。


「もうすっかり元気だ。熱もない」


「なら良かった」


 翔は低卓に盆を置き、俺に茶を勧める。影家の別邸で過ごすようになって、翔は随分俺の世話焼きが板についたようだ。正邸からやや北向きの庭園に建てられたこの邸宅は、貴族の主が日頃の多忙さを忘れて憩うための別荘のような趣で、特にこの離れの棟はいつもひっそりとした静寂に満ちていた。

 よく手入れされた庭園の樹々が瓦屋根を隠し、邸宅内を行き交う召使の微かな足音と、囁くような葉擦れのみが耳を撫ぜる。白木で造られた佇まいは瀟洒ながら、贅を尽くした調度品や出入り口を昼夜見守る護衛を宛がわれた俺たちは、影家の中で格別の待遇であることが窺えた。


 とはいえ、俺は神明裁判以降、白狐さんにも司旦にも会っていない。正確には会えていないというべきか。一度俺が熱で重篤な状態になったとき、白狐さんが無理を言ってここを訪れたらしいが、俺はそれを人伝に聞いたに過ぎない。

 その後白狐さんと交わしたやり取りといえば、俺が目を覚ましたという報せを受け取った翌日彼が寄越した、見舞いの言葉と感謝を綴った文のみ。書簡を届けた使者から、返事を書くなと耳打ちされたことをぼんやりと思い出す。


 ああ、彼は随分と遠くに行ってしまった。もう俺たちの自由な意志で白狐さんに謁見を申し出ることも、手紙の返事を書くことさえ許されない。

 影家に保護下にいる以上、俺たちの迂闊な行動は全て主人である白狐さんの足元をぐらつかせるきっかけに成り得る。直接言われたわけではないが、天壇であれだけ悪目立ちした俺たちは、保護を名目にこの邸宅で軟禁されているも同然だった。


「まあ、千伽に加担したときに取り付けた、俺たちの身の安全を保障するという約束は一応果たされたよね」


 確かにその通りである。中書省という、民政を司る最高官庁は俺たちを無罪として解放した。俺も翔も判決の場に出席した訳ではないが、その拍子抜けするような通達が出るに至るまで、朧家を初めとする清心派の圧力があったことはまず間違いない。要するに、俺たちがここにいる理由は、少なくとも法的にはなくなった。

 本気になれば俺たちがここから出ていく方法など幾らでもある。白狐さんが俺たちに接触しようとしないのも、悪意があってのことではない。それが俺たちを守る最善の方法だからだ。彼の優しさを分かっているから、俺たちも余計な噂が立たないよう、ここで静かに療養の日々を送っている。


 ここにいると長遐の家で過ごしたことを思い出すけど、部屋の外に出ればすぐ知らない人に出会うので落ち着かないと翔はしきりに腕をさすって笑っていた。俺は小さく笑い返し、柔らかな布地の張られた寝椅子に腰掛ける。そういえば、と。


「──寝ている間、ずっと同じ夢を見ていた」


 湯気の立つ茶碗を手に取り、俺はおもむろに口を開いた。じわり、と熱が指に染みて行く。


「暗い場所を延々と彷徨っている。どこもかしこも真っ暗で、何か生き物のような曖昧な気配が近くにいるのに、俺にはそれが見えない。俺は何となく、それを見つけたいと思っている。でも同時に見つけてはならないような恐怖も感じる──そんな夢だ」


「嫌な夢だな」


 翔は顔を顰める。俺は瞼を閉じた。そうすると、あの昏い夢の名残が漂っているように感じられる。陰鬱でねっとりと絡み付くような闇の質感。あのとき俺が口から吐き出して辺りを騒然とさせた大量の謎の液体とどこか似通っているのも、偶然とは思えなかった。


「結局あれが何だったのか分からなかったんだろう」


「皓輝が気絶した後、すぐ消えちゃったからね。血じゃないってことは確か」


 翔は茶を啜って顔を顰める。「皇城仕えの学士や博士は、凶兆だって騒いでいたみたいだけど」


「豊隆は多分吉兆だから、合わせてプラマイゼロにならないかな」


 ならないだろうな、と思いながら俺は投げ遣りに呟く。幾重にも塗り重ねられて既に原形を留めていない俺への奇聞怪聞を差し引いても、自分に起こる得体の知れない病症が不吉なものであることに変わりない。

 今まであんなことはなかった。しかし一度起こってしまった以上、いつまたあの惨劇が身体に起こるとも知れず、頑健さが取り柄だった俺は幾分消沈していた。それも、ただの病気でなく霊的な現象だと薄々自覚しているだけに。

 翔はひじ掛けに身体を寄りかけ、首を傾げる。


「雰王山で水を吐いたときのこと、覚えている? 俺は何だかあのときに似ているなと思ったけど」


「また俺は何かに憑かれているのか?」


 掌を開く。眉を顰め、表と裏を返して確かめるが、特に実感はない。ただ確かに翔の言うことも可能性のひとつとして留意しておくべきだろう。医師が「原因不明」と匙を投げたのなら俺たちが何を言おうと憶測の域を出ない。

 凶兆と言えば、と俺は少し気持ちを切り替えるように呟く。


「皇帝は最初から最後まで振り回され損で気の毒だったな」


 彼からしてみれば、俺たちが凶兆そのものだっただろう。そう続けようとすると、翔は「身から出た錆だよ」とにべもなく肩を竦めるので、口を噤む。翔は義憤というものに心を割くだけの優しさと単純さを持つ。俺よりもずっと。

 天壇に集った七十二吏たちの面前で、月天子の後継者たる資格なしと間接的に告げられてしまった彼の処遇や如何に、とやや動向を気にしていたのだが、実際目が覚めてみればほとんどの人はそのことを覚えておらず、現皇帝を頂点に戴いた階層構造は変わっていなかった。

 やはりそれは、あの時の白狐さんの言葉のせいなのだろう。


「月天子の御子たる当今皇上の御心に感謝いたします。菊色の貴き聖旨(おことば)にかけ、今生の信を尽くすと誓いましょう」と。


 千伽こそが月天子の本当の後継者──言い換えれば天石すなわちニィに認められる存在──だった。本来、六十二年前に帝冠を戴くのは千伽でなければならなかった。

 白狐さんに曰く、幼馴染が皇帝にならないのなら誰がやっても紛い物にしかならない。自分であろうと、現皇帝であろうと。そうして結局、今回の天石に関する騒ぎは全てイダニ連合国の連中が仕組んだことで済ませ、現皇帝へ直接的な制裁は下さないまま終わらせた。恐らく、千伽のスコノスをどこかで作用させて。

 あの騒ぎを経ても尚、千伽は皇帝の座を辞退したまま現状維持を選んだのだろう。それを無責任だとか意気地なしと詰るのは難しかった。俺も翔も結局は無頼の世捨て人。社会の外で自由に生きている以上、図々しく社会に介入する資格はない。

 それでも翔は、現皇帝が咎められることなくのうのうと生き永らえていることが不満で仕方がないようだが。


「罪のない父君と妹君を処刑されて……それでよく平然と膝を付けるよなぁ」


 あの時の光景を思い出し、翔は思い切り顔を顰めている。そうだな、と頷く自分の声はどこか上の空だ。

 千伽の力を以てすれば、皇帝から冠を取り上げ、その顔に泥を付けることなど容易だったはずだ。仇敵が生き続けるということは、白狐さんにとって憎悪が永遠に続くということである。それは辛くはないだろうか。

 同胞ゆえ、輪を乱すことを避けた。或いは、今回の首謀者が彼でないことを踏まえているのか。いずれにせよ大切な人の命を奪った相手に一生叩頭して生きて行くというのは、その仇敵を破滅に追いやるよりも遥かに困難な生き方であることに違いなかった。


 翔の気持ちは分かる。しかし死を生で償わせる白狐さんのやり方が間違っているとも言い切れない。怨嗟の連鎖は誰かが許すまで終わらないのだと尤もらしい言葉が脳裏を過り、それを吐き出す代わりにため息が漏れた。


「……政治って難しいねぇ」


 結局俺と翔の行き着くところはそこから一歩も進まない。


「……」


 穏やかで重たい静寂が満ちる。衣食住、何ら不自由していないのに、上手く身動きが取れない。言い知れぬ停滞感がずっと付き纏い、ここ数日の俺たちを何となく無口にしていた。

 邸の門が俄かに騒がしくなったのはそれからしばらくしてからだった。

 玄関先から響く、来客を告げる門衛の声。離れにいるにも拘らず、そのざわめきは窓から風と共に舞い込んできた。


「誰か、来たのか?」


 二人で顔を見合わせる。翔がまず立ち上がり、廊下へと出た。何やら入口の護衛と一言二言交わす声の後、気配が遠ざかる。立ち上がって窓辺から首を伸ばすが、ここから正面の門は見えない。しばらく経って、転げるような足音と笑い声が近付いてきた。


「こんにちはー!」


「生きてる? お見舞いに来たよ!」


 がらり。何の断りもなく開け放たれた戸と、そこから飛び出る元気な二人の子どもの影。室の中で追いかけっこするように跳ねる姿はじゃれ合う仔猫のようだ。止める間もなくあっちへこっちへ行った挙句、寝台にダイブする双子の勢いに、俺は声も出ない。


「邪魔するぜ」


 おまけに、翔に続いてあの七星(チーシィン)の首が姿を現したので、俺は面食らうほかなかった。


「おいコラ、遊びに来たんじゃねえんだぞ。大人しくしてろ」


 兄に咎められて双子は多少居住まいを正す素振りを見せたが、大きな目はきょろきょろ上へ下へ彷徨い、内装を興味深そうに観察している。ちらりと翔に目線をやれば、「見舞いに来たそうだ」と短く説明する。

 見舞い? 何故? 俺は彼らの扱いに窮しつつ、とりあえず座椅子を指して「どうぞ」と勧めた。門前払いできなかったのは翔の表情を見れば分かった。


「お構いなく」


 大きな掌を向けて遠慮の意を示す七星(チーシィン)の首に、翔は恐縮されるほうが居心地悪いと半ば強制的に座らせる。確かに見るからに筋骨隆々で威圧感のある彼が畏まっている様子は何だか俺たちから落ち着きを失わせた。


「悪いな、弟たちは置いて来ようと思ったんだが」


 七星(チーシィン)の首の眦は鋭く、双子たちを目で追う。二人はそんな視線を意に介さず、窓から見える青葉の庭を熱心に眺めていたが。


「……生きていたんだな」


 お互いに。翔が最後まで言わなかったことを俺も首も感じ取った。あれから互いに色々あった。共通点といえば天壇を乱した不届き者という不名誉な肩書のみ。白狐さん当代の影家という強力な後ろ盾を得た俺たちと違い、不敬罪を首ひとつで償うと自ら申し出た彼は、結局のところ生き延びたらしい。


「朧家の千伽様が俺の身元を保証すると言い出した」


「千伽様が?」


「保証といっても、せいぜい怒り狂う皇帝陛下の目につかないようさり気なく逃がす、程度のものだ。七星(チーシィン)という立場は失ったし、また一から人生やり直しだな」


 また、という言葉の意味を俺も翔も深くは訊ねなかった。どん底に落とされた境遇に反して、彼の声色は存外明るかったから。窓から身を乗り出して何やら指さして笑い合う双子の後ろ姿を一瞥し、「もう七星(チーシィン)じゃないのか」と翔が呟く。


「じゃあ、何と呼べばいい?」


撥里(ハツリ)だ。そういう名前で呼ばれている」


 言い方が引っ掛かり、俺は首を傾げた。「本名か?」


「想像に任せる」彼は頓着なさそうに分厚い肩を竦めた。「七星(チーシィン)なんてものに入る連中は皆何かしら過去があるものだ。俺も例外ではない」


 それは意外だったし、彼が七星(チーシィン)のことをぞんざいに扱うのはもっと意外だった。今にして思えば、ずっと陽の当たる場所を歩んでいそうな彼が七星(チーシィン)という朝廷の裏の世界に身を置いていたということに、違和感を覚えるべきだったのかもしれない。

 翔も俺も卓を囲んで席につき、しばらく誰も口を開かなかった。白茶の湯気が時間の流れを緩める。話す隙を窺っているような沈黙の後、撥里が俺の方を窺った。


「もう容体は大丈夫なのか?」


「ああ」


 社交辞令かと思ったが、彼の目は存外本気で心配しているらしい。俺はぎこちなく頷く。


「一時は命も危ぶまれたが、今はこの通り回復した」


 俺が少し肩を回して見せると、撥里は小さく頷いて「良かった」と言う。


「都では死んだという噂も出回っていたから」


「死んだ方が都合が良かったのかもしれないな」


 多少空気を軽くしようと口にした冗談はあまり気に入らなかったようで、無機質な視線が寄越されただけだった。気まずさを振り払おうと「で」と言いかけた俺を、彼が遮る。


「今日ここに来たのは、お前たちに謝罪するためだ」


「謝罪?」


 予想していなかった訪問の理由に声が撓む。その意味するところを理解するよりも先に、撥里は立ち上がり、俺たちの目の前で深々と頭を下げた。彼の真っ赤な頭髪が、ぱらりと解れて垂れた。


「長遐の家がなくなったのは俺の責任。冴領では誤解の末にお前たちを殺さんとした。そしてお前たちを侮ったこと。全ては七星(チーシィン)の首として俺の浅慮が招いた結果だ。謝って許されるものとは思っていないが、謝らせてくれ」


「……」


 誠心誠意が服を着たような彼の直角九十度の謝罪に俺と翔はどう反応したかというと、何故か意味もなく同時に立ち上がってしまった。翔など勢い余って倒しかけた椅子を支え、慌てて狼狽を取り繕っている。

 揃って撥里からの怪訝な目線を受け止める俺たちは、この複雑な感情をどう説明したものか、ちらりと上目気味に眉を顰めた「俺は何か変なことを言ったか?」という彼の尤もな疑問にどうにか首を横に振るのが精一杯だ。


「……とりあえず、頭を上げてくれ」


 翔がそう言いながら、椅子に座り直す。沈黙が一層気まずかった。


「謝罪が気に障ったか?」


「いや、違う。そうじゃないんだ」


 翔はやや早口に否定する。「あのね」と。


「お前が悪い訳じゃない。いや、悪いのかもしれないけれど、俺たちが言いたいのはそういうことじゃなくて」


 まとまりを欠く相棒に変わり、俺は自分の心情を整理するようにゆっくりと言葉を選んだ。


「何と言うべきか……今更なんだ」




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