Ⅰ
それから俺は高熱が出て、しばらく生死の境を彷徨った。
豊隆の神気に中ったという人もあれば、あのような形で天壇を乱したのだから天の怒りを買ったという人もあったようだ。いずれにせよ、内臓が枯れるほど謎の液体を吐いた末に気絶した俺は問答無用で牢に投獄された。その間、分厚い黒雲は皇城上空から立ち去ることなく雨を降らせ続け、都の人々を大層畏れさせたらしい。
危険な容態が続いたことによる医師の進言と影家の申し立てにより、俺の身柄が解放されたその当日──とうとう雨は止んだ。数日ぶりに切れた雲間から覗く青空と、降り注ぐ太陽の光は、俺への厳しい処罰を望む声を黙らせるのに充分な畏怖をもたらした。
豊隆と心を繋げた世捨て人。俺に関する噂はまことしやかに人から人へ伝い、尾ひれ背びれに足まで生やして朝廷中を泳ぎ回った。そうして誇大化する馬鹿げた妄想をよそに、俺は昏々と眠り続けた。
ようやく熱が治まり、意識が戻った頃、白狐さんの復権は正式に決まっていた。俺はそれを寝たきりの体勢で翔から聞くことになる。
俺と同じ期間を牢で過ごし、解放されてからは影家の別邸で俺の看病をしていた翔は幾分憔悴した様子で、俺が意識を失ってから起こったことを少しずつ話してくれた。
「白狐さんが影家当主として復権することに、難色を示した人もいたんだけどね」
七十二吏の中でも伝統を重んじる層は、あのような裁判中の暴挙の数々に、白狐さんがこの国の中枢である朝廷に戻る資格なしという見方をする者も決して少なくなかった。
しかしその一方で、八家の門閥貴族のひとつである影家当主の座につく資格を持つ男は、血縁から言えば白狐さんをおいて他にいない。そう、かつて“清心派”の筆頭として名を馳せていた影家前当主の、一人息子。
綺羅の悪行が散々暴露された今、朝廷内に敵国の要人が長年潜入していた動揺はあっという間に広まり、現在の皇国の政治の脆さが露呈した。脆さ、すなわちそれは人間関係の綻びが生む心の隙間や猜疑心、或いは度が過ぎた出世欲。濡れ衣という汚い手段で皇帝に成り上がりながら周囲から真の心服を得るに至らず、結果的にイダニ連合国に利用された現皇帝の前時代的な、武力による政治の在り方。
底が見えた、と言うべきか。神の直接的な介入という前代未聞の出来事のため仕方ない部分もあるが、あのとき神明裁判の混乱を御すことなく真っ先に逃げた皇帝の姿に、少なからず現政権に限界を感じた者も多いだろう。
白狐さんの復権はすなわちかつて瓦解した清心派の復活を意味する。皇帝が濁ならば、その汚れを押し流す清らかな湧き水。この先しばらく混乱や小規模な諍いはあるだろうが、長期的な目で見れば情勢は影家に有利な方向に傾くに違いない──という見方は些か楽観的すぎるだろうか?
尤も、それを差し引いたとしても、第三時代から続いてきた八家の内の一家を欠くわけにはいかず、復権に反対する派閥も結局旧習のしきたりを重んじるゆえそれに同意せざるを得なかったらしい。これはこれで、伝統の限界だよねぇと翔は力なく笑う。
「まあ、それでいいんじゃない」俺はがさがさに乾いた唇を動かす。白狐さんたちがそれを選んだのなら、俺たちはそれに従うのみだ。
この政治の舞台で世捨て人の肩書きが如何に無力で蔑まれるべきものであるということを、俺たちはよく知っている。これ以上出しゃばったところで白狐さんの将来を妨げるだけだろう。それに、もうやるべきことは残っていない。
影家内部も少しずつ、新しい変化を受け入れつつある。すなわち白狐さんを新たな当主として迎えた、本来あるべき形へと。
「冴家の御方が立役者になったんだ」
翔が話すには神明裁判の最中、冴家の御方、すなわち白狐さんの妻が影家に仕える者たちに団結を呼びかけたらしい。六十二年前の粛清の記憶に怯えながら過ごす日々をやめ、真に忠義を誓える主を選ぶ勇気を奮い立たせた。長年行方不明になった夫を独り待ち続けた彼女の言葉は、さぞ生々しい説得力を以て響いただろう。
白狐さんが裁判で実質的に特赦されたという報せはその流れを後押しした。お陰で主の首が突然すげ変わったことによる正邸の混乱や反発は想定よりもずっと少なかったようだ。
あの光景を見せたかったよ、と翔は遠くを見るような目をする。
俺が意識を失った後、すったもんだありながらその日の内に影家の正邸へと帰ることを認められた白狐さんを待ち受けていたのは、かつての粛清事件で謂われなく親類縁者を殺されながらも影家に残らざるを得なかった、近習や女官、身分の低い者たち。これまでの間仕えていた綺羅が天壇で拘束されたという報せを受け、不安と期待半々で浮足立っていた人々。
主に付き従って正邸に帰還した司旦は、彼らの顔をぐるりと見回し、高らかに宣言した。
「白狐様。我ら一同、ご帰還お待ちしておりました!」
そうして恭しく膝をついて衣服の袖を合わせて敬礼する司旦に続き、冴家の御方を除くその場にいた全員が白狐さんに向けて一斉に跪いた。それは誰の目から見ても疑いようのない、白狐さんへの忠心の証である。
目に見えるものを重んじるのは如何にも司旦らしかった。現在影家に仕える者たちが新たな主へ膝をついたという事実は、いずれ他の貴族や官吏にも伝聞されていく。所詮は取るに足らない近習たちのしたことかもしれないが、彼らが白狐さんを主として認めた事実もまた説得力のひとつとしてこの先の影家を支えるのだろう。家は主一人で成り立つものではない。
司旦の合図で跪いて出迎えた人々をゆっくりと眺め、白狐さんは目を細めた。白いまつ毛は柔らかく濡れ、目の中は仄かに滲んでいた。
「只今、戻りました」
その一言に、どれだけの感慨が込められていただろう。父親と妹の死。親しい者たちとの別れ。途方もない孤独と絶望を乗り越えて都に戻った彼は、ようやく憩う。生まれ落ちてからずっと自身を縛り続け、かけがえのない千伽や冴家の御方、司旦が待つこの地へ。
翔は少し考えながら、濡らした布を弄っている。熱を下げるため俺の額に乗せていたものだ。
「大変なのは、きっとこれからだよ」
白狐さんが朝廷で、引いてはこの国で過去の汚名を晴らすにはまだまだ時間がかかるだろう。復権はようやく一歩目を踏み出したに過ぎず、厳しいことに、二歩目、三歩目を踏み外さない保証はどこにもない。
政治という複雑怪奇な界隈で自身の価値を知らしめ、波風立たせず信頼を積み重ねていくのは、想像よりもきっとずっと労苦を伴う。社会で生きるというのはそういうことだ。
「あー、それにしても騙されたよ。白狐さんが結婚していたなんて」
「騙されたって」
俺は苦笑を禁じえない。とはいえ冴家の御方が、自身が白狐さんの妻であることを知らせた際の心境を思えば、翔の言い分も分からないではない。白狐さんは本当に、俺たちには何も教えてくれなかったのだ。何も知らせず、去るつもりだったのだ。
それが彼なりの優しさだったのか、今更白狐さんを問い詰めることは無粋なことであるように思われた。多少の苛立ちが混じっていることは認めるが、終わり良ければ総て良しに水を差すのは些か子どもっぽい。
「ところで、夫婦関係は無事なのか?」
一途に尽くす価値もない、と言い切った冴家の御方のことが思い出される。彼女が白狐さんのことを想っているのは疑いようもないが、その一方であの厳格な女性が六十二年も音信不通だった挙句に神聖な儀式で大騒ぎを起こした夫を簡単に許すだろうかという一抹の疑念と好奇心があった。
翔は肩を竦める。「俺たちが心配することじゃないよ」
「確かにね」
相棒のその言い方に、部外者が介入しようのない夫婦間の何かがあったのだろうと予想できた。それが前向きなものであるならば、確かに俺たちが口出しする必要はないのだろう。とはいえ。
「あの二人がどうやって出会って結婚に至ったのか、気になるけども」
「いつか聞く機会があるかもね」
翔は口の端から歯を見せた。言葉とは裏腹に、知っても知らなくてもいい、という曖昧な笑みだった。俺は静かに頷き、仰向けになって天井を見上げる。
***
あの日、影家一同に迎えられた白狐は、遠目からこちらを見つめる妻の姿を見止めた。
華奢だが、どこか芯の強さを感じさせる佇まい。記憶にあるより幾分痩せただろうか。銀細工で飾った美しい髪を結い上げ、白藍の柔らかな衣裳が青白磁のような肌に溶け込んでいる。睡蓮の花びらを纏った天女のように。
ああ、かつてと何ら変わらない。宮廷の女性がこぞって色とりどりに染めた織物に艶やかな花の色柄を描いたものを身につけるのに対し、彼女は昔から鮮烈な色の着物をあまり好まなかった。淡い宮廷衣裳は、大勢の人の中でそこだけ清らかな水が流れているように錯覚させる。
「……」
目が合うと、さゆはふいと顔を背けてそこから立ち去った。邸の奥へと消えたその背中を、白狐は無言で追う。傍に控えていた司旦は付いてこなかった。
生まれてからずっと過ごしてきた、勝手知ったる影家の正邸。どこにどの棟や室があるのか、歩いている内にはっきりと思い出せる。何もかも白木で造られた、眩しいほどの内装。妻がどこにいるのか、白狐は考えずとも知っている。
内階段を上り、戸が開け放たれた幾つかの室を見送り、丸い閤のその先へ。
東向きの星見台は、透明な水に濡れてどこか神秘的だった。未だ降りやまない静謐な小雨の向こう、仄暗い朝陽が煌めいている。
さゆは柱の陰で、夜明けの空を眺めていた。白狐が星見台に上がってきても、一瞥もくれない。初めから夫が追いかけてくることを知っているかのように。
「……さゆ」
裾を引き摺って近くまで歩み寄る。時折吹く風が、細かな雨粒を降らせた。静かに濡れる二人の髪が、艶めいて靡く。透明な滴が零れ落ちる。
星見台から一望する景色は、暗澹とした鈍色に翳って薄暗かった。一日の始まりを告げる一筋の暁光が、その仄かに黄金を帯びた光線が、雨雲の凹凸を禍々しいほど際立たせている。光と陰が複雑に混ざり合い、都はようやく夜明けを迎える。
「やっと帰ったのね」
さゆはこちらを見ずに呟く。ため息混じりの、凛とした声だった。白狐が恋し、愛した、誰にも媚びない女の横顔。
「怒っていますか?」
思わず肩を窄めて訊ねる。その様子を見れば、不甲斐ないとまた懐刀に鼻で笑われるだろうか。
さゆは静かにまつ毛を伏せる。
「怒っていない」
「……」
「心配はした」
間近で、目と目が合う。初めてこちらを見上げた、妻の顔。化粧っけのない色白の頬。薄いが形の整った脣は真一文字に結ばれ、少しむくれているようでもあった。人を遠ざける冷ややかな眼差しの中に、硝子のような少女の脆さが見え隠れする。
「……ごめんなさい」
白狐は小さな声で謝罪し、おもむろに彼女の手に指を伸ばした。僅かに躊躇う素振りを見せ、白魚のような妻の指を優しく、音もなく握る。
まるでそれが、さゆに許されている唯一の接触であるかのような、壊れ物を扱う手つきだった。その指をそっと持ち上げ、白狐は恭しく首を垂れる。そして妻の右手を、そっと自身の頬に押し付けた。
「……」
やっと帰って来られた、と。白狐は心から安堵した息を漏らした。やっと、真に帰ってきたかった場所に。
さゆは額に付けられた手をそっと握り返し、指を絡める。互いの手を握り合う指先が、二人の影が、小雨に染まって奇麗な滴を垂らした。




