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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十六話 決着
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 儀式の進行を司る閤門司がずぶ濡れになった紙を広げ、途切れ途切れの声で神明ノ義の終わりを宣言するのを、俺も翔も夢の中にいるように聞いている。

 既にばらばらになりかけていた七十二吏たち、及び警護の者たちもすっかり疲れ果てたように、位階に従って並び直して順番に天壇を去っていく。

 俺は、目の前で行われた票決とその結末を如何にして受け止めれば良いか、ただ呆然としていた。


 千伽のスコノスは現実を変える。人の心の在り方も、記憶すらも。

 そんなことが可能なのか、という疑念を今更挟み込む余地はなかった。まだ後でやってもらわねばならないことがある。千伽にそう耳打ちした白狐さんのことが蘇った。

 彼らは何を、どこまで変えてしまったのだろう?

 分からない。分かったのはただ、千伽は自身の宣言通り幼馴染の居場所を守り切ったこと、その証を七十二吏の決によって揺るぎないものにしたこと。そして綺羅の件を除けば、朝廷の権力構造の土台を大きく突き崩すような復讐は手控えたということだけだ。

 千伽たちがその気になれば皇帝からその帝冠を奪うことも容易く出来たはずだ。しかし白狐さんはそれをしなかった。


「ああ、七十二吏の皆様方が、天の星々の廻りのよう寸分の狂いなく正しくありますよう」


 票決の集計が終わったあと、白狐さんは着物の袖を合わせるようにして玉砂利に膝をついた。その口許から白い歯が零れる。


「月天子の御子たる当今皇上の御心に感謝いたします。菊色の貴き聖旨(おことば)にかけ、今生の信を尽くすと誓いましょう」


 それが儀礼の終わりの合図となった。尤も、如何に七十二吏によって裁判の不当性が認められたとて、勅書の通り恩赦が為されるとまだ決まった訳ではないのだが、実際この様子では白狐さんの無罪放免は暗に受け入れられたも同然だった。

 何故皇帝の面子を守るような真似を、と動揺した俺は、そのとき垣間見た白狐さんの表情に口を噤む。

 気圧された。見たことのない表情だったし、この先同じものを見ることはきっとないだろう。それは勝利を確信し、いつでも刃を振り下ろして留めを刺せる相手を足元に転がして甚振る、残酷な笑みだった。

 ああ、と心の中で息を漏らす。白狐さんはそっちを選んだのだ。彼は皇帝を殺すよりも別の復讐の手段を選んだ。仇敵を生かし、その背中に刃を突き付け続ける、永続的な絶望を。

 思えば、それは当然の選択だったのかもしれない。彼は元々、父親の意思に従って傀儡と成り下がっていたに過ぎない。父親亡き今、彼が誰かを押し退けてまで帝冠を欲する理由などないのだ。そして、あの白狐さんが政治的に失脚させた上に相手を殺すなどという、相手と同じやり方に拘泥するとも思えない。


 白狐さんが千伽へ目配せをした。千伽は苦虫を噛み潰したように口許を歪める。「これでいいんだろう?」と唇を動かさずに問うた彼が何をしたのか、そのときになって俺はようやく気付いたのだった。


 嘘をつくにはそれなりの説得力が必要だ、という司旦の弁の通り、天壇の混乱に混乱が重なって心の隙が生じ、千伽のスコノスは存分に力を発揮した。これだけの波乱があったにもかかわらず全体を通して俺たちの目論見から大きく逸れることなく白狐さんと天石を守り切ったのは、俺が認識できない水面下でも千伽の力が存分に動いていたのではないだろうか。

 拘束された綺羅の沙汰はまた別の機会に下されることになるだろう。地面に横たわる黒焦げの綺羅が連れられて行くのを俺たちは何だか他人事のように眺めている。


 また雨が強くなってきた。

 篝火の灯りの中、横殴りに斜めの線を引いては消えていく。散々濡れた身体がようやく寒さを思い出すにつれ、現実感が戻って来た。俺は後ろ手で縛り上げられながら、空の向こうにいる豊隆を探す。

 まだそこを旋回しているのだろうか。天壇からあの霧のような神気が遠ざかっていることに、翔も気づいただろうか。


「お待ちください」


 白狐さんが、連行される俺たちの後を追ってきた。凛とし佇まいは、雨に濡れる百合の花のようだった。その目は真っすぐと俺たちに向けられている。


「その者たちの処罰を、如何にするおつもりですか」


 俺と翔と司旦、そして七星(チーシィン)の首は顔だけでそちらを振り向いた。真っ先に口を開いたのは七星(チーシィン)の首だった。


「如何様にも。元より陛下の命に叛いたばかりか、禁令を承知でここまで馳せ参じた次第。端からこの首ひとつで償う覚悟で御座います」


 その物言いは男らしいと言えば男らしかったが、彼が俺たちに向けて言った蛮勇というそれにも近いように思えた。

 彼は俺のような神の意思でもなく、司旦のような忠義でもなく、ただ自分の正しいと思う方向に進んだという意味で誰よりも勇敢だったかもしれない。聖地を重んじるこの国の信仰に理解がない訳ではないが、見殺しにするのも後味が悪い。

 それに、俺たちも聖地に対する信仰心だけで首を落とされては堪ったものではない。


「そこの世捨て人は」千伽が指したのは俺である。「豊隆と心を通じ合わせ、雨と雷の加護を宿している。我々が害すれば禍が降るのではないか」


 万和や閤門司の誰もが昨晩の落雷事件を、そして俺と翔の頭上をすれすれに飛んでみせた豊隆の姿が生々しく記憶に残っているだろう。戸惑いながらそれもそうだと頷く声に、この調子ならば翔も罪に問われる可能性は低いのではないかと思えた。


「豊隆と心を通じ合わせた……?」


 万和はその言葉を反芻する。信じられない、といった表情だった。違う、と俺は心の中で否定する。

 実際には神と心を通じ合わせるなど到底不可能で、俺と豊隆の関係はそんなに平易な言葉で言い表せるものではない。対等からは程遠く、俺の意志で一切コントロールが出来ないという意味でむしろ自然災害じみた危険を孕んでいる。

 尤もそれを口に出すつもりはないし、「ではこの者は一体何者なのですか」という万和からの至極真っ当な疑問には窮する。俺もまた、豊隆に関しては手に余している。神のことを人間の言葉で語るのも気が進まなかった。


「ただの長遐に住む世捨て人で御座います」


「お前には聞いていません」


 ぴしゃりと翔の口を封じた万和の険しい表情に、俺は考えあぐねる。疑問を生じさせられては力技で押し通すのは難しくなる。


「いずれにせよ、この者たちの処罰については中書省が決めること。門閥貴族の当主ともあろう方が口添えすれば、それこそ公平性を欠くというもの」


 万和の高い声はやはり歌うように、それでいてまだ毅然としていた。俺たちの身の安全は保障するという約束を千伽は違えないだろう、と思う。しかし、豊隆が役目を終えたとばかりに俺の中から遠ざかってゆくのが気掛かりだった。


「異論は認めません。神聖な場で豊隆の加護を騙ったこと、相応しい処罰が下されるでしょう」


 視線が惑ったのを捕らえるように、不意に万和の大きな目に意識を吸い込まれた。


 ──息を止めろ。


 う、と喉が引き攣る。突然身体が重くなり、萎えた脚が上体を支えられなくなる。その場に崩れた俺を見て、翔が何か言っていたが、それも聞こえなかった。

 目を合わせるな。催眠術みたいなの使うぞ。

 忠告が脳を過る。両膝がぎこちなく軋んだ。立ち上がろうとしても、身体が上手く動かない。

 他人の身体を操る──万和が千伽の弟なら、これが万和のスコノスだと言われても頷ける。抗おうと明滅する意識が近付いたり遠ざかったりする。急激な眠気に襲われたようだった。手放してしまえたらどれだけ楽だろうと思う。


 殺されるのかもしれない。万和の力の全貌を俺は掴み損ねていたが、ほぼ敗北したに等しいこの状況でまだ平静を保っている。決して自暴自棄になっている訳ではない。神明裁判で白狐さんの強力な後ろ盾ともなった豊隆、その要を潰そうという、急所を外さない暗殺者のような的確な判断を俺は朦朧と感じ取る。

 助けてくれ、と頼りない五感に縋る。何でもいい、スコノスの力でも。無意識に手を伸ばした先にいたのは豊隆だった。

 曲がりなりにも神に何かを見出されたのなら、その恩恵があってもいいのではないかと、一縷の望みと言うには幾分図々しい願いをかける。神ならば俺を助けてくれるだろう、と。


「──っ!?」


 喉の奥に痛みが走る。喉そのものが、というより気管が詰まった痛みに近い。口腔から鼻にかけて何か粘着質なものが逆流する。


「皓輝、血が……」


 翔が俺の肩を掴んだ。反射的に口を押えようとした、どす黒いものが地面に滴り落ちる。鼻血が出ているのだろうか。意識が朦朧とする。鼻を覆うが、ぼたぼたと隙間から溢れる生温かい液体が止まらない。

 手足の感覚が遠のく。光が消える。雲間に見えていた豊隆の尾羽の煌めきが感じられなくなり、代わりに地の底で横たわるような暗い冷たさに満たされた。太陽のない、死の暗闇。何かが競り上がる。

 脳裏に死が過る。次の瞬間、俺は嘔吐していた。口から吐き出したのは胃の吐瀉物でもなく水でもなく、真っ黒な粘液だった。どろりと不吉に粘り、どす黒く地面を濡らし、清浄な白を汚染するように広がってゆく。


「何、だこれ……」


 目が見えない。視界が黒く塗り潰され、自分の声だけが辛うじて拾える。外界の感覚がなくなり、内側に意識が閉じ込められるような、閉塞感。外で何が起こっているのか俺には分からない。

 口から、鼻から液体は流れ続け、傍から見ればさぞ惨憺とした光景なのだろう。しかし何故だろう、万和によって掻き乱された精神は凪いでいる。重たく生温かい暗闇に包まれているような、奇妙な安心感があった。痛みも徐々に引いていき、今はただ眠い。


「──やあ、お前か」


 どこからか声が聞こえる。か細く掠れているが、少し笑っているようだった。ちょっと考えて、それが先に連行されてゆく綺羅の声だと気付く。とっくに遠ざかっていたはずの綺羅が不自由そうに首を動かし、こちらを見たのが分かった。


「久し振りだな。ここに帰ってきた気分はどうだ?」


 それが俺に向けられた挨拶でないことは理解できた。では一体誰に? 分からない。翔が必死に俺を呼ぶ声が耳障りで、俺は自分から意識を手放す。

 お前がこの国の命運を握っている。そんな言葉が脳裏に蘇った。はったりでも安直な嘘をつくとは思えない綺羅が吐いた言葉が、不穏さを伴って共鳴する。自分が自分でなくなるような錯覚に襲われながら、俺は暗闇に呑まれた。




 ***




 昏い昏い、闇の底。それが現実でないと何となく知りながら、俺はいつまでもいつまでも、そこを無為に彷徨っていた。地底に追放され、永遠に迷う罰を課せられた罪人のように。

 ここに落ちてからどれだけ経っただろう。時間の感覚はとうに失われ、神明裁判のことも、白狐さんのことも、豊隆のことも、どこか意識の遠くへ追いやられてしまったかのようだった。

 歩いているのに、地面の感触はない。暑くもなければ寒くもない。四方を占める濃密な闇は決して心地よいとは言えない空間ではあるが、さほど不愉快でもないのがまた不思議だった。


 どうして自分が進んでいるのか、どこに向かっているのか。何も分からない。ただここが精神世界のようなものなら、随分陰鬱とした場所だな、俺らしいなぁという漠然とした感想が浮かんだ。思考する力というのが少しずつ戻りつつあった。


「……」


 鼻先に感じる空気を吸ってみても、空間の全貌を把握することが出来ない。広いとか狭いとか、そういった概念がない。首を上げ、目線を向ける先は、混濁したとしか言いようのないぐちゃぐちゃとした何かが絡まり合っている。

 大きな生き物が作った巣のようだ、と思う。夢だとすれば悪趣味な妄想の産物である。

 俺が見上げる先、意識に呼応するように何かが蠢いたような気がした。少し首を傾げ、無駄だと思いつつ目を凝らす。黒に塗りこめられた一点に、微かな光が感じられた。これも気のせいだろうか。発光したのではなく、俺の目玉の光をそのまま反射したかのようだった。

 誰かいるのか?

 訊ねてみたが、喉は掠れ、声は出ない。そもそも口が動かない。ただし何かに自分の疑問が届いたような、仄かな手応えがあった。知性を持つ、生き物。或いはもっと漠然とした、思念のようなものがそこにいる。


「え?」


 突然響いた、自分の声に驚く。急に手の中に落ちてきたよう、現実感が戻った。音の反響が、ねっとりと籠った空間の質感を伝えた。

 背後から音が聞こえる。ぽたり、ぽたり、と何かが滴る。俺が吐き出した、あのどす黒く粘った液体のようなものが──。

 はっと俺は振り返る。

 それは生物の本能的な直感だった。振り向いてはならないというのはこの世ならざる場所の鉄則だというのに。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


 目が合った。



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