Ⅳ
生きていたのか。言葉は喉に引っ掛かったが、目が合うと七星の首はげんなりしたような表情を見せる。既に何度も同じようなことを言われながらここまで来たのだろう。
「お前、何やって」
「あれは殺していいのか?」
司旦に顎をしゃくる彼は、冷徹に問うた。目の奥で鈍色に反射する炎はちりちりと踊り、雨粒を蒸発させながら焦げ臭さを放つ。苦しげにのた打ち回る綺羅は何とまだ生きているらしい。
俺たちの視線は自然と白狐さんと千伽の方へ向いたが、彼らの顔は一様に冷ややかだ。
「……」
「殺しちゃまずいなら水でも被せておいてください」
少し間を置いて、ため息。指先を動かした白狐さんが周囲の水の霊を集める。空気中に動いた水粒が瞬きの間に塊となって炎上する綺羅にぶつかる。じゅ、と嫌な音を立てて、激しい黒煙が上がった。
「助ける必要があったか?」千伽は不思議そうに首を傾げる。
「僕の関係ないところで死なれる方が胸糞悪いです」
肩を竦める白狐さんは、「司旦」と近習を呼び、綺羅を拘束するように目配せした。司旦は小さく頷く。
当の綺羅はといえば、情けで消火させられたとはいえ正視に耐えない酷い有様になっている。燃えていた時間はおよそ数十秒。着物や髪の毛先は墨汁を浴びたように焦げ、隙間から覗く皮膚はどす黒く爛れていた。その癖見開かれた目は血走り、司旦を逆さまに映して尚も威嚇している。
手負いの獣だ、と翔が呟く。
「獣は火を恐れるというからな」七星の首が抑揚なく言う。「他愛もない」
「そんなことよりお前は何のためにここまで来たんだ」
彼のスコノスに苦しめられた記憶の生々しい翔は警戒を解かないが、七星の首は気にした素振りもない。それがわざとなのか単に無神経なのか俺たちには判断がつかなかった。
「これくらいやらなきゃ割に合わないと思っただけだ」
「割に合わない?」
「お前らには随分世話になったからな」
言葉選びが微妙に物騒なのも彼の性格のせいなのか、分からない。
七星の首は司旦が綺羅を縄で雁字搦めに拘束したのを確かめ、舞台を振り仰いではその場に膝をついた。
「万和様。天壇を乱したことをお許しください」
「……」
最早許しなど何の意味もないな、とこの場にいる全員が思ったに違いないが、それでも律儀に挨拶するあたりやはり彼は規律正しいのだろう。万和は左右に閤門司を護衛のように従え、舞台の足元で安全な距離を保っている。皇帝が逃げ、七十二吏もほとんど野次馬のように遠巻きにするこの天壇で、まともに取り仕切れるのは万和しかいない。
「……如何様にして参ったのです」
「七星の首として最後の務めを果たすべく参りました。俗物の分際で聖地に足を踏み入った罪はこの首で償います故、どうかこれについて陛下に代わり聖旨を頂戴したく存じます」
そう恭しく頭を下げて彼が取り出したのは、くたびれた菊色の紙である。それが何であるか、朝廷で生きてきた者ならすぐに分かっただろう。
翰林院が出す、皇帝直筆の勅書である。
「それは……」
万和の声が戸惑って撓む。七星の首の隣に歩み寄った千伽が、無言で手を差し出した。僅かに躊躇った後、菊色の紙は千伽に渡された。ぽたり、と咬傷から垂れた血痕が紙の端をどす黒く滲ませる。
「僕が持ちましょう」
「頼む」
白狐さんが代わりに紙を広げ、雨で濡れないよう袖で覆う。俺には見覚えのある文面だった。七星が初めに長遐に来たとき携えてきた、恩赦の文。千伽に曰く、皇帝が偽りの印を押したという贋の勅書だ。千伽が内容を読み上げる。
当今皇上が与えた恩赦の内容──六十二年前の廃位の撤回、新たに与えられる位階。影家当主の座は、今代に限り綺羅を据え、白狐さんには影家の血筋を途絶えさせぬよう取り計らいがなされる。
傷の痛みを感じさせない、千伽のよく通る声は周囲にざわめきを生んだ。更にこの文が、白狐さんを長遐へ迎えに来た際に七星の首に託されたものだと伝えると、その声はもっと騒がしくなった。
千伽が改めて紙の上に目を落とし、おやと片眉を上げる。その意図したところを瞬時に読み取る察しの良さは、恐怖を感じるほどだった。
「ほお。これは、翰林院の国璽が雨で消えているな」
遠目から見ても、千伽が目で指したそれが分かった。確かに言葉通り、紙面に押してあった翰林院の紋が水で濡れて滲んでしまっている。
そもそも渡される前から紙全体がくたびれ、ところどころ雨粒が落ちて染みを作っていたのだから、何も知らなければ違和感に気付けないだろう。国璽が偽造されたものである、ということさえ知らなければ。
俺は七星の首を見やる。彼はじっと前を見据え、視線を揺らすことすらしない。
「天壇に神が顕れ、嘘偽りを口にすることが許されぬ今、影家の白狐様の無実潔白を証明するのは易きことと存じます」
「……」
「畏れながら申し上げますに、イダニ連合国の者の件を踏まえ、影家の白狐様及びその近習の今後の処遇について一考の余地を設けて下さいませぬか。もしも影家に着せられた汚辱が不当なものだったと認められた暁には、この文書に書かれたことが叶えられ、六十二年の間に穢された全ての名誉を回復されますよう」
首の言葉に、今度は喧騒の波が引いていく。俺は脈打つ心臓が宙に浮いているように錯覚した。
この首、まさか全部分かった上で国璽を濡らして消したのでは。偽の証文をこの場に出せば、無効になるばかりか豊隆の怒りを買う恐れすらある。意味を為さなくなった紋を突き出し、ただ言葉による確証を得ようとしている。正直な、偽りのない言葉で。
紋が偽物であることを指摘すれば、それはすなわち万和がこの文書の偽造に関わっていた疑いに繋がり得る。知らないとも言えない。だから万和は、それを認める以外に何も言えないのだ。
「ひとつ問う」
冷静さを装った万和の声は、抜け道を探しているように聞こえた。
「何故七星の首だったお前が、影家の肩を持つようなことを言うのです」
その裏には、賄賂でも受け取ったのではないかという疑いがべっとりと泥のように塗られている。無論、周囲に残った七十二吏に聞かせるため問うたのは間違いない。
「俺はただ如何なる場においても正直で在りたいと、そう生きると決めているに過ぎませぬ。いえ、たかが下賤の一己のこと。洒落くさいと詰っていただいても構いません」
七星の首の言葉は、ただ彼の真っ直ぐな心根を証明しただけだった。司旦がしきりにこの男を煙たがっていた理由がよく分かると同時に、今のこの天壇においてそれが何にも代えがたい美徳にもなっている。
「……」
万和はじっと考え込むような素振りを見せた後、「それを」と菊色の紙を要求した。閤門司を通じて受け取ると、再びその文面を読み込む。不気味なほどの沈黙が流れた。砂利を打っていた雨音はもう鼓膜に染みつき、音として拾わなくなっていた。
「私ひとりの一存で決める訳には参りません」
ようやく口を開いて出た言葉はそれだった。苦し紛れに、それでも着実に自分に有利な方へ傾けようとしている。
「国璽が消えた文書を正式なものと扱うのは如何なものでしょうか。翰林院を通じて出された本当の勅書ならば写しが残っているはず。影家の白狐様の沙汰を下すのは、それを確かめてからでも遅くはないでしょう」
「その手間はさておいて、他に検めるべきことがあると思うが」
嘴を差し込んだ千伽は、こちらが不安になるほど余裕綽々としていた。弟一人など取るに足らない相手だとばかりに。
「今この場に豊隆が顕れたこと──その真意を釈きあかす必要がある」
誰もが示し合わせたように空を見上げる。いつしか雨は弱まりつつあったが、豊隆の神気がそこから洩れ出しているのを俺は感じる。空が幾重にも渦巻き、雲の中心だけが薄らと晴れている。夜空は黒々と濡れ、天中に差し掛かった月が雨の霞を白く透かした。天帝の片目が雲の狭間から地上界を見つめているかのように。
「昨夜皇城に雷が落ちたことを忘れたわけではあるまい。神明裁判で〈天石〉がすり替えられるなど前代未聞。神の怒りは裁判の不義に向けられたのではないか?」
「朧家の御君、何が言いたのです?」
「一度も会審の場を設けないまま神明裁判を行った。その判断が正当であったか不当であったかをまずはっきりさせるべきではないか。本来神明裁判を開くのにも、七十二吏で形式上の票決をとる習わしがあったはずだが、今回は喫緊の問題として手間を省いたのは周知の事実。立春よりも後に行うならば尚更のこと──私は勅書の真偽よりも裁判そのものを強行した是非を問いたい」
こんな状況でなければ興味深い攻防だった。千伽は嘘偽りを言わぬよう、そして己と相手の立場を最低限傷つけないよう、何食わぬ顔で綱渡りをしている。
万和の口ぶりからして、翰林院に勅書の写しなど存在しない。それが公になれば、不利になるのはこちら側である。しかし、千伽が衆人環視の場で文書の偽造の件を指摘しないのは、意図してか偶然か、万和の側を庇っているようにも見えた。それすら千伽の自己保身である可能性もあるが。
「今、この場にいる七十二吏に問えば良い」千伽は如何にも簡単そうに言う。「過半数が賛成ならば決として認められる。そうだな、閤門司よ」
急に水を向けられた閤門司の一人は、祭事の場に相応しい言葉もなく頷くのが精一杯という様子だった。
隣の翔はそれを気の毒そうな顔で見た後、少し周りを見回す。
「七十二人いるかな」
俺にしか聞こえなかったその呟きは、なるほど確かに、刃傷沙汰になった時点で逃げ出した者も少なからずいる。七十二人に含まれる綺羅はこの有様で、皇帝が身を守る判断をしたのは敵ながら正しかったが、票決を募るには些か場が乱れすぎている気もした。
雨が止みつつある天壇、視界が晴れたのにつられて周囲を見回せば文官武官が思いのほか残っていることに驚く。一様に顔色は悪く、自信なさげに目線をちらつかせる者もいれば、既に腹は決まったとばかりに佇んでいる者もいる。疑心暗鬼を囁く声は、目を向ければ静かになった。ばらばらとした足取りで、何かに引き寄せられるよう自然と列を為す彼らに、万和は唇を結んでいる。
「無問題。そもそも過半数がいれば良いのだから」
譲る気のない千伽、膝をついてじっと動向を見守っている七星の首も、書を押さえ置く文鎮のような重々しさがある。黙りこくる万和はまだ抜け目なく退路を探していたが、次の千伽の言葉が留めだった。
「それとも、七十二吏で票決を取ることに何かお前個人の不都合が?」
王手、と俺も翔も思ったに違いなかった。嘘をつけないこの場で、綺麗に詰め切ったなと感心するほどである。万和はもう何も言わなかった。
ただ息が詰まったようなその横顔を眺めながら、俺は考える。人間はどこまで無情になれるものだろうか。極限まで情を捨て去れる者こそが最も強いのだろうか。千伽は己が帝冠を戴けばこの国は強くなると言った。しかし彼はそれを幼馴染に譲ったのだ。天に立つより足元の花を愛でるために。
そんな彼の選んだ道の先にあったものが、千伽こそが月天子の正統な後継者という結末ならば、それはとても皮肉で哀しいことのように思えた。彼らの人生が、気遣いが、全て無駄であったかのような有様ではないか──。
「……」
俺はさり気なく、砂利に埋まるようにして転げていた天石を目で探した。しかし、司旦が蹴り飛ばした先にあったはずのそれはない。自然と顔が上がる。探していたものは千伽の手の中にあった。
相応しいものでなければ触れるだけで心臓を止めるという、聞いただけではこの上なく禍々しいニィを、千伽はいつの間にか怪我をしていない方の掌に収めて眺めていた。彼の横顔には、様々な感情が巡っていた。その中には、今しがた俺が考えたことも紛れていただろう。
「さて、それでは」千伽は顔を上げる。その瞳の奥が執念深い炎のように揺らめいた。
「神明裁判を行ったことへの是非を問え、閤門司」




