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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十六話 決着
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 千伽が眉を顰める。二人の目線は、自然と綺羅の方へと向く。薄闇の雨に煙りながら、その顔は蒼白で亡霊のようだった。コウキが消えた場所を見つめたまま、呆然と目を見開いている。


「どういうことだ」


 綺羅の口が動く。怒りが突き抜けたのか、感情が丸ごと抜け落ちたような表情だった。そうしていると彼の持つ無機質さが殊更不吉に際立つ。

 白狐さんはここが神聖な場であることを心得ているよう、すっと居住まいを正した。ある意味では、先程皇帝の前で挑発的に慇懃な振る舞いをして見せた綺羅への意趣返しのようだった。


「確かにイダニ連合国の執政官の方々は、我が国の天石を奪わんと朝廷まで来ていたようですが、それ以外にも欲しいものがあったんですよ」


「何だ?」


「月天子の血を引く後継者です」


 戸惑いの眼差しが交錯する。綺羅の冷たい無表情が、白狐さんの言葉を肯定していた。


「ニィ、すなわち天石を使うのは月天子の正統な血を引く者でなければならないのです。我々もそうやって天石を守り継いできた──そうですね?」


 振り仰ぐ先には、天壇の上に建てられた白亜の廟がある。舞台に上れるのは皇帝だけ、というこの国の因習はあながち的外れでもないように思えた。

 かつてニィの力を使ってスコノスを引き剥がし、不老不死の生命をつくり出すという実験の過程で幾人ものネクロ・エグロが犠牲になった経緯を思えば、確かに天石には人を選ぶ何らかの特性があるのだろう。


「僕たちが儲君だった頃、綺羅が潜入先として影家を選んだのは偶然ではなく意味があってのことだったのでしょう」


「白髪には霊性が宿る──」


 そう、影家には時折、白い髪を持つ子どもが生まれる。この国で生来の白髪は神聖なものとして持て囃され、白狐さんもまた人形のように檻に入れられた一人だった。

 過剰な信仰は彼を守り──同時に敵を惹きつけた。


「自分で言うのも憚られますが、あの頃は誰もが影家の僕が次期皇帝になると思っていました。だから気付かなかったんです。これがただの白いだけの髪だと」


 しっとりと艶を帯びた髪の毛先を指で梳くと、次々と滴が零れる。涙のようだった。白狐さんの透明な目が、消えかかった篝火の光を弾いて微かに光る。


「彼らはニィだけでなく、それを操る資格を持った者を盗み出すために、わざわざ六十年もかけてこの国に来た」


「……」


「でも、本当の月天子の正統な後継者は、あなただったんですよ、千伽」


 辺りは水を打ったように静まり返った。降りしきる雨だけが素知らぬ顔で天壇を、人々を濡らしている。千伽ですら、白狐さんの言葉に絶句したようだった。


「──いつから、そのことに気付いていたんだ?」


 幾度か息を飲み込み、ようやく出てきた言葉は千伽のものとは思えないほど小さい。白狐さんは肩を竦める。


「ごく最近ですよ。でも、小さな頃から何となくそんな気はしていました。僕はずっと、何でも出来るあなたが羨ましくて仕方がなかったんですから」


 拗ねたように微笑む白狐さんは、悪戯っ気のある少女のようだった。そうして少し寂しそうに呟く。「僕は天から選ばれなかったんです」


 綺羅を見やれば、判断力も気力も何もかも失せたように呆然と突っ立っている。ああ、そうだ。彼らは、いや他の朝廷の誰もが千伽のスコノスの本来の特性を知らなかったのだ。ほんの一握りの身内だけがひっそりと、何となく秘密を守っていた。

 なるほど、と俺はひとり腑に落ちる。千伽のスコノスがニィの万能性とよく似ているのはやはり偶然ではなかった。たった今千伽が見せた、人間を一人、瞬きの間にどこかへと移動させる術がそうであったように──。

 かつての三人の儲君たちの中で、一人だけ突出したスコノスを宿していた千伽こそ、本来は選ばれるべきだった男だったのだ。

 奇跡的な確率で朧家が早々に帝冠を辞退し、表立って次期皇帝候補と持て囃された白狐さんは、イダニ連合国の連中に()()されたのである。そうして、あの六十二年前の事件が起きた。


「でも、幼馴染を守れたのなら、僕はあなたと同じ時代に生まれたことを誇りに思います」


 そうやってとびきりの笑顔を見せる白狐さんはどれだけの葛藤を一人で乗り越えたのだろう。結果的に、とはいえ幼馴染を守るために自らを犠牲にし、影家粛清の悲劇を誇りに変えられるその精神は献身や愛といった次元を超えているように思えた。

 台風の目のように一連の事件の間沈黙を守っていた白狐さんは、最後まで敵を欺くためにこの裁判の場に臨んだのである。その潔い捨て身ぶりに、さすがの千伽も綺羅も言葉を失ったようだった。


「あなたが帝冠を戴かないのであれば、他の誰がやっても贋物にしかなりません。本当に皇帝になるべきはあなた唯一人で、僕らはあなたを守るただの紛い者に過ぎなかった」


 白狐さんは囁く。俺たちだけにしか聞こえないように。その横顔はやはり少し哀しそうではあった。どう見ても野心とは無縁そうな男だが、それでもやはり選ばれないという事実は彼の人生に翳りをもたらし続けたのだろうか。


「ふざけるなよ」ようやく感情が追いついたよう、息を切らせ、激怒に顔を歪ませたのは綺羅である。「──無能な幻術使いが、月天子の後継者だと?」


 逼迫した空気がぴりぴりと尖り、気管を阻む。綺羅からしてみれば、ようやく追いつきかけた二兎を目の前で鮮やかに掻っ攫われたような気分だろう。何せ、突如披露されたのはコウキをどこかへと飛ばすほどの反則技。種も仕掛けもない、規格外かつ門外不出のスコノス。文字通り、指先ひとつで彼の積み重ねてきた六十余年が根底から覆されたのである。

 もし今発言を許されるなら、俺と翔の心情はざまあみろという一言に尽きるのだが、ただそんな暢気なことを言っている場合でないのも事実で、爛々と光る綺羅の目が徐々に理性を失していく。


「何のために苦労して──電気石を手に入れたと」


 俺は足元に転がっている真っ黒な鉱石を見つめる。そういうことか。一瞬で人間を感電死させられる電気石がこの世に存在するのか疑問だったが、恐らくこれを使って白狐さんを気絶させる程度の算段だったのだろう。彼の命を奪うつもりはないというあの弁は本当だったらしい。

 コウキが天石を盗み出し、神明裁判で意識を失った白狐さんを綺羅が拉致する。そのタイミングをどこに想定していたのかは分からないが、綺羅があっさりと自身の素性を明かした辺り、恐らく皇帝の目の前で決行する予定だったのではないか。性格の悪そうな綺羅のこと、皇帝が月天子の後継者たる資格なしと宣言して、朝廷を攪乱することも視野に入れていたに違いない。

 二兎どころか三兎を追う見事な強欲ぶりだが、確かに全てが噛み合えばこの国を根底から覆す綿密な計略である。

 そしてこれはやはり俺の憶測だが──綺羅の思惑のどこかしらに皇帝や万和が一枚噛んでいたのではないか。影家当主の座を奪い、天石を盗むという大胆不敵な計略の裏に、強力な後ろ盾の存在を感じる。尤も、万和の反応を見る限り綺羅が天石を完全に己のものとして裏切ることまでは想定していなかったのだろうが。


「避けろ!」


 鼓膜を突く声に、思考の膜が弾ける。瞬きの間の出来事だった。目の前で鮮血が飛び散り、千伽の美しい眉間に皺が寄る。誰も動く間もない速さに対し、急所だけを外した千伽の身のこなしは奇跡だった。


「う──……」


 喉の奥から吐き出すような唸り声。千伽の手に噛みついたまま離さない綺羅の形相に、思わず喉がひくつく。まるで正気を失った獣のようで、目の焦点も合っていない。剥き出しになった歯の間から赤い血がとめどなく滴る。


「やはり護られるのは性に合わんからなぁ」


 咄嗟に白狐さんを突き飛ばした千伽は、自身の右手に食らいついた綺羅を見て苦笑した。

 数秒にも満たない静けさ。真っ先に動いたのは白狐さんだった。幼馴染の掌に噛みついた綺羅の喉に電光石火の手刀を繰り出す。

 苦しげな喉音を漏らし、口が離れた。唾液交じりの血液が真っ白な砂利を穢す。唸り声。鬼の面のように開かれた口元は、閉じるのも忘れて歯の根を剥き出しにしていた。


「千伽」


 白狐さんが千伽の袖を引く。千伽の手の甲はここからでもはっきり分かるほど綺羅の歯型が付き、ぼたぼたと血を垂れ流していたが、本人は存外平気そうである。肩を怒らせる綺羅に向け、威嚇するような調子で笑って宙に手を翳す。ゆらりと空気が不穏に揺らいだ。


「スコノスを使ってはいけません」白狐さんがその耳に囁く。


「何故だ?」


「まだ後でやってもらわねばならないことがありますから」


 そうして司旦に目線で合図すると、懐刀は隙のない動作で前に出る。少し躊躇った後、翔がその背後を守るように手元の得物を構えた。俺は静かに後退りする。

 全員が息を飲んだ。少し離れた位置から見ても、今の綺羅の殺気は空気を通じて肌に伝わった。喉から低い声を漏らし、今にも目に入った動くもの全てに飛びかからんとしている。


「何だあれ」


 思わず困惑の息が出る。あの狂気には見覚えがあった。かつて自身のスコノスに身体を乗っ取られた翔と対峙したときも似たような感覚になった。向かい合うだけで胸がざわつく──人間が理性で構築してきたものが突き崩れていく恐怖。自身の正気さえも失われていくように錯覚して、脚が竦む。


「気を付けろ」


「分かってる」


 翔は心得ているように頷いた。司旦もかつて主の片目を食われた相手を前に隙を晒すような男ではないだろう。


「近づくな」


 綺羅の背後に近付こうとした閤門司を手で牽制し、同時に飛び掛かってきた影を躱す。まるで獣のように四足で着地した綺羅の鼻先を翔の槍先が掠めた。ぎゃ、とも、が、ともつかない鳴き声とともにその焦点の合わない目が痙攣しながら翔を虚ろに映す。

 刹那、派手な音とともに砂利が弾ける。身構えたにも拘らず突進を防ぎきれず、翔が背後に吹っ飛ばされた。「たくあんくん!」と叫び、その上に馬乗りになった綺羅に司旦が体当たりをする。

 その拍子に司旦の懐から零れたものがあった。紫色の光。宝石のような鋭い煌めき。ああ。肌が粟立つ。神様と目が合ったようだった。同時に色々なものが動いた。

 地面に転がり落ちた天石。尻もちをつく翔。身を低くして体勢を戻す司旦。そして地面に転がって砂利を掴み、司旦に威嚇の咆哮を向ける綺羅──誰も天石に目を向けない。俺はそこに伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。全員の視線が一点に集中する。しまった、と思った。


「守れ!」


 何を、とは言えなかった。咄嗟に司旦が天石を蹴り飛ばす。周囲の砂利が薄埃と水飛沫とともに散乱した。綺羅がしなやかに前足をつき、その後を追う。先に拾われたら終わりだった。そして天石に触れられるのは、天石に選ばれた者だけだ。

 ほんの数秒、時が止まったように錯覚した。間に合わない、と直感する。綺羅の速さは常人では目で追いきれない。その感覚は動きを見るというより、次に現れる地点を本能で予測すると言った方が近かった。

 人ならざる者たちの戦いはあまりに速い。司旦がぎりぎりで綺羅の前に立ち塞がるよう腕を伸ばした。その目が見開かれ、双眸が明るく輝く。薄暗い雨に濡れる天壇が、突如真っ赤な光に照らし出された。


「え?」


 爆弾が炸裂したかと思った。名状しがたい音とともに全身を炎に包まれた綺羅が、何事か絶叫している。言葉にならない断末魔。呆気にとられ、しばらく誰も動けない。人間が突然発火した。油を被った焼身自殺の現場を目の当たりにしたようだった。


「失礼、取り込み中だったか」


 聞き覚えのある声。厳つい人影が地面に大きく揺れる。人々の間を割って現れた体格のいい男を見て、俺と翔は、あ、と声を出しかけた。


七星(チーシィン)の首……」




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