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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十六話 決着
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 天壇のざわめきが波のように広まってゆく。その中心には、しゃがれ声で笑う綺羅がいる。


「悪かったな、皓輝。私はお前を見縊っていたよ。この土壇場で他人のために命を懸けるとは、てっきりニィを前に尾を巻いて逃げるものだと思っていたが」


 一通り笑ったかと思えば、急に声を低くするので俺はぞっとする。ここまで推理を披露して綺羅の余裕が未だに崩れないこと、それが気掛かりだった。


「ニィとスコノスは相性が悪い」


 急に綺羅が大きな声を出したので、誰が天石を贋物にすり替えたのか、いや世捨て人の言うことを簡単に信用するものか──などと喧々諤々しかけていた七十二吏は戸惑ったように口を閉ざす。彼らにとっては、ニィとは全く耳慣れない言葉であったに違いない。


「特にお前はな」


 綺羅の人差し指が俺に突き付けられる。俺はそれだけで心臓が止まる心地だった。今、何と言った。綺羅の高らかな言葉を反芻し、同時に何となく予想できていたことを噛み締める。


「ニィ……?」


「ニィとは何だ?」


 困惑を掻き消すよう、万和が目線を鋭くする。「影家の御君、一体何を仰っているのです?」


「あのちゃちな贋物が見抜かれたとなると、こちらも種明かしをしなければ神に礼を失するかと思ってな。何、もう堅苦しい思いをしなくて済むなら我々も清々する」


 酔っ払ったように一人でくすくすと笑う綺羅。一様に視線を受け止めながら彼は似合わない公服の裾を引き摺り、列の中から歩み出た。


「これほど近くにありながらその正体に気付けず、廟の中に眠らせるだけとは文字通り宝の持ち腐れ。その癖畏れるだけ畏れて人を近づかせない面倒な禁制とやらのせいで、無駄に長い時間を過ごしてしまった」


 思わず身構える。本当ならば白狐さんや司旦も自由の身にしてやりたかったが、先に手を出して罪になど問われるなど、後々厄介なことになりかねない。返す返す、朝廷において最底辺に位置する俺たちは下手に動くべきでないのである。

 俺たちを庇うように半歩前に出た翔が口を開いた。


「綺羅、天石はお前たちがニィと呼ぶものだったんだな」


「その通り。世捨て人の方が勘が良くて助かる」


 綺羅はくるりと円を描くように天壇を見回してみせた。水を吸って重たくなった着物の裾が広がる。


「机上の空論しか能のない官吏でも、『天介地書』程度は当然頭に入っているだろう。この国の祖、月天子とその兄の日天子。彼らが胸に宿していた心臓はそれぞれ〈天石〉と〈天火〉と呼び分けられるが、我々の国の言葉ではそれらをまとめてニィと呼ぶ」


 我々の国。その言い方にざわめきが大きくなる。重ねるように、千伽が苦々しげに呟く。「ようやく化けの皮が剥がれたか」と。


 綺羅が自ら正体をひけらかしたことを喜ぶべきか分からなかった。俺たちが必死になって朝廷が敵国に害されていることを訴える必要はなくなったが、逆に言えば綺羅には勝算があるということなのだろう。


「天石をすり替えたのはお前か?」


 千伽は手にしていた贋の天石を足元に転がす。綺羅は電気石をちらりと見やり、人の良さそうな笑みを浮かべた。


「せっかく見事な謎解きを披露してくれたのだ。その電気石は記念としてあなたに差し上げよう、朧家の君。あなたの家は石ころを集めるのが趣味らしいからな」


「そりゃあどうも。しかし石集めならお前らも大層ご執心じゃあないか」


 目を細めた綺羅の顔は獣のようでもある。


「生憎泥付きの石には興味が湧かなくてね。無邪気な貴族様にはせいぜい似合いの玩具だよ、その電気石は」


 その声を遮るように雷鳴が鳴り響く。豊隆の放つ目に見えない圧迫感は依然として頭上を渦巻いている。それに答えるようにして、綺羅は周囲に向き直った。


「勘のいい朧家の御君はもうお気づきだろうが、騙されやすい諸君にも分かるよう名前くらいは名乗っておこう。私はイエルダ。イダニ連合国で執政官を務めている。まあ、面倒なら引き続き綺羅という名で呼んでくれて構わない」


「西大陸の忌敵だ。捕らえろ!」


 千伽が鋭く指差す。それを見越していたように綺羅は微笑んだ。動揺しながらもさすがはネクロ・エグロといったところか、七十二吏の中で反応が素早かった数人が綺羅との距離を詰める。イダニ連合国の名は天壇で刃傷沙汰という前代未聞の事態を引き起こすほど、皇国民の中に敵意とともに刻み込まれているのだと分かる。

 幾ら綺羅といえど、この数の不利は容易く覆せないように思われた、が。その瞬間の違和感に気付いたのは、同様の経験をした俺たちだけだろうか。

 肌がざわつくような、空気の揺らぎ。空間が捩じれ、歪む。綺羅に迫っていた者たちが後ろによろめいた。泥のような血潮が雨に混じって飛ぶ。人々の隙間から白羽の刃が光った。


「急に呼び出すんじゃない」


 げほっ。突如綺羅を守るように空間を裂いて現われたコウキは、焦げ臭い煙を吐いて咽る。首元と左頬に生々しい火傷のような痕があった。綺羅が自身のニィを使って強制的に転移させたのだろうが、一体どんな状況だったのか理解が遅れる。

 皇帝や七十二吏たちからしてみれば何の脈絡もなく現れた近習に驚愕したことだろう。その隙を突くよう、コウキが身を翻して剣を振るう。悲鳴と倒れる人影。反応が遅れる。


「白狐様!」


「動くな」


 司旦の叫びと、コウキの低い声が重なった。一瞬の出来事だった。白狐さんの襟元を掴んだコウキがその首元に刃を押し付ける。俺たちは固まった。後ろ手に拘束されたままだった白狐さんは無抵抗のままコウキの前で膝をついている。

 しまった。せめて縄だけは解くべきだった。今更後悔しても遅い。誰もが動きを止め、今にも白狐さんの頭を落とさんと首筋に刃を押し当てるコウキを、息を飲んで見守っている。

 司旦は己を押さえつけていた閤門司を押し退け、飛び掛かる隙を窺うよう身を低くしている。まさに髪が逆立つ怒りを露わにし、「主を返せ」と獣のように唸った。


「イダニ連合国で執政官を務める、コウキだ。救世主(ソティラ)と呼ばれることもある。以後お見知りおきを」


 コウキはそんな懐刀など歯牙にもかけない。慇懃な自己紹介はむしろ挑発ととれる。執政官という肩書が綺羅と同じであることに気付いた者も少なくないだろう。


「陛下、こちらへお逃げ下さい……!」


 見上げれば、皇帝が天壇の階段を降りて行くところだった。衣裳が風にはためき、体に貼り付き、足取りが覚束ないのがここからでも見て取れる。その姿に、さすがに同情せざるを得ない。

 神明裁判の何もかも滅茶苦茶だった。皇帝の思惑も、初めこそ綺羅からの入れ知恵が多少あったに違いないが、今となっては誰も彼に頓着しない。上空は豊隆が荒らし、地上は小心翼々と生きてきた貴族や官吏が突如現れた敵国の狼藉に狼狽えている。綺羅はもう取り入ることを辞め、それどころか儀式の攪乱を楽しんでいる節すらあるのだ。

 もしも、と思う。もしもこの世に正解というものがあるのなら、きっと選ばれるべきはこの男ではなかった。この男だけではなかったのだ。しかし、とも考える。誰であれ、正解を引き続けることは出来ない。国が、歴史が、誤ることもあろう。そして誤ったとき──何が起こるのだろう。

 お付きの近習たちを引き連れ、慌ただしく去っていくその背中を俺は見送るほかない。


「……イダニ連合国の執政官が如何なる理由でこの天壇を穢すのか、答えよ」


 舞台付近から響いた激情の声に、人々は疎らに注目する。皇帝を無事に逃がして後始末を買って出たのか、とにかく万和の毅然とした態度だけでは収拾がつかないところまで来ている。

 保身を図って逃げ出したものの影が交錯する。儀式としての体裁も裁判としての役目も失った今、俺が今やるべきことは何だろう。コウキがこの場に居合わせたこと、互いの因縁を改めて実感しながら、俺は逸る気持ちを押さえている。

 激情に顔を歪める、万和の顔。次に、コウキに捕らえられた白狐さんを見る。司旦は目の奥を爛々とさせ、その熱気が雨すら蒸発させているように錯覚した。

 緩やかに目を細める綺羅が手を広げる。鳥が翼を広げるようだった。如何にも己に向けられた敵意のことなど興味がなさそうに、軽やかな嘲笑を交えながら。


「ご機嫌麗しゅう、万和様。無能な皇帝陛下を持ってあなたも苦労している」


「答えよ」


 万和は口調の固さを崩さない。豊隆の手前、演技にも見えなかった。俺と翔は、今朝方の万和の言葉を思い出す。皇帝は清心派を許す気はない、と。白狐さんが〈天石〉を拝したとき何が起こるか見物だ、とも。

 万和は、天石を電気石にすり替えるのを手引きしたのかもしれない。そうして白狐さんを殺そうとした──清心派の最後の光を潰すために。万和の立場を考えれば、そのために綺羅と手を組み、何らかの取引が為されていたとしても不思議ではない。

 しかし、綺羅がそれを守らなかったらしいということに今更何の驚きもない。万和もまた彼らが敵国の者であるとはつゆ知らず、手駒にされただけなのだろう。


「貴国の宝、天石を頂きに参った。ああ、心配せずとも我々イダニ連合国は廟に眠らせるよりは幾分有効な使い方が出来るだろうさ。わざわざ執政官二人で来てやったんだから、手ぶらで帰るつもりはない」


 そうして視線を横に流す。綺羅の目に睨まれて怯まなかった司旦の方も大概ではあるが、次に出た言葉にはさすがに背筋が凍るような思いだった。


「主の首を落とされたくなければ、大人しくその天石を寄越すがいい」


「断る」


 司旦の声は地の底から響くような凄みを孕んでいる。「白狐様を離せ」


 コウキは答えない。ただ、これが答えだとばかりに白狐さんの細い首筋に当てた刃をぐいと迫らせた。濡れ髪が切っ先に触れた傍から切れていく。息絶えた白髪が砂利に落ちる。緊張で息が出来なくなるようだった。


「どうしてその懐刀が本物の天石を持っているのか知りませんが、絶対に天石を渡してはなりません」


 そう言ったのは万和だった。慎重に、イダニ連合国の二人を刺激しないように歩み寄るその毅然とした姿はやはり千伽によく似ている。


「〈天石〉は我が国の心臓。罪人の首ひとつで守れるなら安いものです」


 もし許されるならあの宦官を黙らせる何かしらの手段が欲しかった。俺でさえそうだったのだから、翔など放っておけば暴力に訴える可能性もある。白狐さんの首と国宝を天秤に懸けて即座に前者を斬り捨てる判断をするその冷酷さが、わざとなのか素なのか分からないのが尚のこと不気味だった。

 司旦は万和のことを真っ向から無視し、しかし綺羅の要求に応じる気配もない。司旦の心情を思えば主の命よりも重んじるものなどあるはずがない。この膠着が続けばいずれ不利に傾くのはこちらの方だった。


「……」


 動けない俺は、ふと眉を顰める。縛られて抵抗できないはずの白狐さんの表情が妙に凪いでいる。白いまつ毛は雨の滴を乗せて煌めいて、硝子玉のような瞳がただ暗澹とした景色を映していた。

 白狐さんはそのまま司旦に視線を移し、静かに周囲を見回すような素振りを見せた。あまりにもさり気なく、表情が動かないので誰も気づかなかっただろう。コウキに拘束されたまま、白狐さんは遠目に千伽と目配せした。


「……司旦、万和くんの言う通りです。彼らに天石を渡す必要はありません」


 感情の窺えない声で、白狐さんは言った。静かな声音だったが、不思議な磁力を伴って雑音を鎮めていく。


「どういう意味だ」


 コウキは眉を顰める。己に刃を押し付けられていることなどまるで見えていないかのように、白狐さんは微かに口元を緩めた。


()()()()()()()()()()()()()()()


 コウキは素早かった。白狐さんを突き飛ばし、目にも留まらぬ速さで繰り出した剣で司旦の心臓を狙う。俺に見えたのはそこまでで、泥水を跳ね飛ばした司旦が後ろ向きに倒れ込み、鋼同士のぶつかる涼やかな音が響く。


「下衆が」三枚刃の槍を振り上げた翔が唾のように吐いた。「不意打ちとは卑怯だぞ、救世主」


「不意打ちなら俺の方が得意なんだけど」


 後頭部を撫で、司旦が身体を捻って起こす。着物の襟元が破れていたが、寸でのところで翔が弾き飛ばしたらしい。息もつかせず降ってきたコウキの追撃を躱し、間合いを取って身構える。

 殺気に目を煌めかせる翔と司旦が、コウキと対峙した。加勢すべきか足手まといゆえ引くべきか、逡巡とは別に一歩下がりたくなるような気迫に足が竦んだ。


「確かに、忌々しいことに、こいつを殺すことはまだ出来ないが」


 コウキは剣を振り上げ、雨粒が弾ける。突き飛ばされた白狐さんが動けないまま倒れていた。心臓が止まる。


「残ったほうの目くらいなら潰してやっても構わないぞ」


 白羽が煌めく。そのとき、だった。


()()()()


 千伽の叫びが奇妙な奥行きを伴って一帯に反響した。言葉というより、言霊を宿した呪文のように感じられた。

 収束。千伽の指差した先の、空間の一点に生まれた引力。え、と見開かれた瞳。驚愕の表情のまま固まったコウキが、次の瞬間跡形もなく消えた。文字通り、影も形もなく。


「──……」


 騒然とする天壇に、雨が注ぐ。千伽はため息を零した。性質の悪い冗談を目の当たりにしたようだった。俺は他の者たちと同じく信じられない気持ちで立ち尽くしていたが、一方で何が起こったのか理解できる頭はあった。

 千伽のスコノスは、現実を自在に変えるのである。


「そのつもりがあったのかは知らないが、時間稼ぎ御苦労。お陰で気づかれずに術を掛けられた」


 やや間抜けな面持ちで棒立ちしている翔と司旦を一瞥し、千伽は仄暗く笑う。


「どうにも連中はニィとやらの力のせいで、私の()()には惑わされにくいらしいからな」


 消した。人間一人を。俺はぞっとする思いで、しかし心のどこかで確信もしている。殺したわけではない。あれは、まるでニィを持った者が使う移動の術のように、コウキをどこか別の地点へと飛ばしたのだ。

 千伽はようやくといった様子で幼馴染のところまで歩み寄り、膝をついてその縄を解く。


「また髪が切れたなぁ。奇麗な髪だったのに」


 子どもが揶揄うように笑った。自由になった手首を振って強張りを解く白狐さんは、含みを持たせて笑い返す。


「髪も目も、この際どうなっても構わなかったのですが」


「そんなことを言ってくれるな。もうこれ以上、奴らにくれてやるものなぞ髪の毛一本ない」


 手を貸して起こしてもらい、立ち上がった白狐さんはすっかり短くなった自身の白髪に触れる。透明な滴が指先から伝った。


「あなたを護るためなら、少しも惜しくありません」


「──それはどういう意味だ?」




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