Ⅴ
神に意志を委ねる、裁判の名を借りた占術は、世界各国に似たようなものがある。
古代日本の盟神探湯、ローマの彫刻「真実の口」。縛った罪人を水に放り込んだり火の上を歩かせたり、やり方は様々であるが、どれも決まって無実の者は傷ひとつなく済むという。
こうした神明裁判の孑宸皇国版が、国宝〈天石〉を拝し、手で触れて神意を覗うというこの儀式である。具体的に言えば、火で炙った天石に、清めの塩を塗った手で触れるのだとか。
罪人が触れると心臓が止まって死ぬという言い伝えそのものが俺には胡散臭く思えるのだが、そこで皇帝たちは何らかの不正を企てるのではないかというのが千伽の目論見だった。
「私は、当今皇上が天石を擦り替える可能性が高いと見ている」
昨夜、自身の計画を俺たちに話したとき、千伽はそう言った。
「すり替える? 贋物に、ってことですか?」
「そう。考えてみれば容易いことだ。天石は普段厳重に廟の中に安置され、天壇に上がれるのも、廟の中に入れるのも現役の皇帝のみ。姿の見えない国宝を守っているのだから、それが贋物になったところで誰も分からない」
「天石がどんな形のものなのか、誰も知らないんですか?」
俺の問いに、千伽は頷く。
「概ねそうだな。私も昔、神明ノ儀に参列したことがあったが、よく見えなかったというのが正直なところだ。遠すぎたのか、天石そのものに形がないのかは分からない」
或いは、と俺は思う。天石なんてものは初めから存在しないのではないか? 朝廷の人たちはそれが存在すると思い込んでいるだけなのではないのか?
しかし、それが愚かな憶測か心のどこかで分かっていた。この朝廷の中心には、確かに〈天石〉と呼ばれる何かがある。それが神話に伝えられる通りの月天子の心臓か、或いは月の欠片かはともかく。
確かに、存在する。
では、その真贋をどう見極めるのか。それこそ、千伽が俺に課した使命である。
神の前では、偽りを口にしてはならない。
「贋の天石に関しては私に心当たりがある。お前たちはただそれを証明すれば良い」
イダニ連合国の綺羅たちの目的が天石を奪うことなら、重要なのはそのタイミングである。
綺羅たちが事前に天壇に忍び込み、天石を贋物にすり替える場合。盗るだけならまだしも、何故贋物に置き換える必要があるのか──。
「本物の天石では、例え皇帝であろうとその判定を覆すことは出来ない。文字通り神の意思だからな。事前に贋物に替えておけば、自分の都合のいい方向に捻じ曲げるとでも思ったんじゃないか。だから皇帝は、綺羅たちと結託した」
千伽の見解は、そのときは的を射ていると感じた。だからもうひとつの場合である、綺羅が神明裁判のその場で天石を力尽くで奪うという可能性はあまり本気では取り合わなかった。ただ、翔がぽつりと呟いた言葉だけが印象に残っていた。
「じゃあ、綺羅はどうして神明裁判に参列する必要があるんだろう。そのために六十二年もここで暮らしていたんじゃないのか?」
確かに、それもそうである。考えなくてはならない。連中は目的に従って動いている。千伽と綺羅は、俺や翔、司旦やコウキを使って将棋をしているのだ。
この朝廷は、非常に微妙な場所である。習慣や因習が、人々の心の中で強迫観念となって強固な根を張っている。それを利用しようと言ったのは千伽本人なのだが、一歩違えればこちらの立場が危うくなることは間違いない。大勢の人が、信仰を建前にした貴族の利権を守ることに躍起になって、脈々と繋いできた伝統と、婚姻によって結ばれた派閥、その他諸々の柵に雁字搦めになりながら澄まし顔をしている。
その癖、心のどこかで天を畏れているのだ。
***
翔とともに牢から連れ出されてから、俺は途切れ途切れに夢を見ていた。
何もかもが、光を帯びていた。水面の煌めき、木々の枝先、青葉のひとつひとつ、風の揺らめきすらも、柔らかく発光している。
大気に溶ける、水彩画のような淡く青色、金、橙、桃。様々な色と光を薄く幾重にも筆で伸ばしたような、透明感のある空を眺めながら、これは豊隆の目を通じて雰王山の景色を眺めているのだとぼんやり理解する。
夕暮れに染まる神域の景色が、水面にそのまま逆さに映り、五色に輝く。太陽はもどかしげに、雲の中にじりじりと隠されている。西の方角の雲の縁が、鮮やかな極彩に燃えていた。
風が傍らを吹き抜けた。穏やかと言ってもいい。静かすぎて、時間が止まっているようだった。木々の影がか細く揺れている──。
ふと目を見開く。突然白い砂利が視界に広がり、膝に食い込んで痛んだ。俺は夢から醒めたように瞬く。ここはどこだろう。
顔を上げようとして、首が上がらない。首輪のように括られた縄が脚に繋がり、上手く動けない。一拍遅れ、俺は思い出す。翔とともに、天壇へ連れられてきたのだった。
神明裁判は既に始まっていた。俺たちは舞台袖に控えるような位置で、その全貌を見ることは叶わない。ただ人々の影から、何かを唱える声と楽の音が反響し、夕空に染みていく。
「……」
翔が傍にいる気配を感じた。俺は大きく息を吸う。肺に流れ込む空気がしっとりと霊気を帯び、再び目を瞑った。
ぱたり、ぱたり。伏せた白い砂利に染みがつく。気付けば夕靄が光を攪乱させ、白んだ橙に染まる広寒宮の天壇に、音もなく雨が降り出した。あまりに静かだったので、人々は皆、透明な水の膜に包まれたようだった。
小雨の音が遠くから騒々しい空気を運んでくるが、俺の耳には風のように通り過ぎてゆく。
肌がざわついた。空気中の水蒸気が、磁力に引かれるよう動き出す。その気流の流れが、俺にははっきり分かる。その力場の中心に、何がいるのかも。
──やがて、巨大な翼が暮れかけた太陽の斜光を遮った。濡れているのか、その白銀の羽毛が、きらきらと光の粒を撒き散らす。どこかにいる豊隆の羽搏きが生み出す大きな風を、白昼夢の中で感じていた。
「じゃあ、行こうか」
俺は身体を置き去りに、豊隆とともに意識だけで空を飛んでいる。
***
数日ぶりに心を繋げた豊隆は、全て分かっているとばかりに俺に何かを伝えることはない。
神というのは世界の果てのことまで知っている。それを頼もしいと思うべきか、恐ろしいと思うべきか、判断に困るのだが。
上昇気流に乗り、頬を切る風には細かい雨粒が混じる。風を受けて力強く撓む豊隆の翼。雲の高さを優に超え、その風切り羽の一枚一枚が硝子質に輝く。地上で浴びるのとは違う、どこか冷ややかでよそよそしい、不純物のない太陽の光線。
そして一面を染めるのは、暮れなずむ淡い紅。ああ──豊隆の見たこの景色を何と表現すればよいのか。夕暮れの空を、飛んでいるのか泳いでいるのか、その区別もつかなくなるほど、空はどこまでも果てがなく、明々とした光を彼方まで送っている。
目線を下に転じれば、神秘的な波を作りながら雲海が広がり、雲間が途切れたかと思えばまたその遥か下に雲がある。流れる風が刻一刻と天の地形を変えていくのに、あまりに奥行きがありすぎて、現実味がない。
白銀の羽に残った雨粒が零れ落ちて、煌めく。豊隆は東を目指している。俺が待つ場所、天壇を。天の外縁から、じわりと濃紫が迫る。夜が、空の端にほんのりと指先を浸す。そんなささやかな薄墨色が、水に溶けたよう、少しずつ夕焼けを奪っていく。
酸素が薄い、生命の失われた天上の世界。そこは紛うことなき、神の領域だった。
「──」
突如、喧騒が俺の幻想を打ち破る。酷い痛みに目を醒ませば、俺の肉体は翔とともに地面に投げ出されたところだった。いつしか小雨は土砂降りに変わり、降りしきる滴に抗うこともなく芋虫のように転がるほかない。
「白狐様、あなたはご自身の立場を弁えておられるのですか?」
冷え切った声は、微睡みの余韻を消し飛ばすには充分だった。雨の音が鼓膜を打つ。横倒れになった俺は、視界の端に冷淡を貼りつけた万和の顔を捉えた。それからざわつく人々の隙間から、裁判の様子が垣間見える。
俺が意識を失っている間に何がどう進展したのか、拘束された白狐さんの傍には司旦が儀式を司る装束の者に押さえつけられ、修羅場のど真ん中を迎えていた。酷く混乱したまま、しかし俺は何をするべきか知っている。
さあ来い。
千伽の策に乗るのは全くもって不本意だが、神鳥の巻き起こす気流の渦はそれを易々と上回った。今の俺にあるのは、明確な使命感だけだ。
──天壇に神を降らす。
こうして万和に拘束されたのは想定外だったものの、常人なら足を踏み入れることも許されない天壇という現場に連れられたのはむしろ好都合だったかもしれない。いや、この文字通り手も足も出ない体勢を思えば、こちらの方が有利とは到底言えないのだが。
空一面に、網目模様の雷光が広がる。間髪入れず、大地を揺らす轟き。どよめき。人々の顔が天を見上げては口を開けたまま呆気にとられる。皮膚を掠め、ひりつくような稲妻も俺は感じない。
瞼を閉じれば、天壇の動揺の広がりが、豊隆の目を通じて手に取るように見渡せる。それでもまだ整列を大きく乱すほどではない。皇帝の面前でひれ伏すという絶対命令は、落雷による死の恐怖より効力を持つのだろうか。大したものだ。
あれは──と俺は意識を集中させる。大きな白い舞台に立つ、一人の男。二十四の旒を垂らした冠はその男が何者であるかを示していた。
「当今皇上……」
俺の呟きは幸い誰にも拾われなかった。地面に横たわる俺の位置からでは分からないが、空に顕れた豊隆の目からははっきりと見える。天地を知ろ示し、この国を統べる皇帝。六十二年前、白狐さんを蹴落としてその座に上り詰めた、望家生まれの元儲君。
その肩書しか聞いたことのなかった、頂点の男が確かにそこにいる。
尋常ならざる雷雨が、皇帝にも等しく浴びせられていた。冠によって顔は隠され、儀礼的な装束が大袈裟なほど風にはためいている。実のところ、後になって思い出したのはその豪華な布地の眩しさだけで、その下に生身の肉体はなく、衣裳だけが立っていたのではないかと思うほどだった。
旒の向こうにある顔立ちは、美しかったように思える。驚きと、憎々しげな歪みが浮かべられた表情は、ちらりと垣間見えた限り、凛々しいと言っても良かった。
だが、彼は細かった。体躯が、というより、佇まいがどこか心もとない。俺は何だか皇帝のことが哀れになった。
彼の人生が如何なる卑劣な形で帝冠へと導かれたかはともかく、確かに千伽の言う通り彼は皇帝に相応しい器ではないように見えた。一国を背負うには余りに頼りなく、その力不足をいつも苛立ちに代えて抱えている。
「──」
数秒にも満たない僅かなひと呼吸で、それほどまでのことを読み取れたのはやはり豊隆の力だったのかもしれない。
石礫のように頬を打つ雨粒に目を細め、俺はこの場のどこかにいるであろう千伽に向けて言う。土砂降りの雨を引き連れ、約束通り天壇に神を呼んだぞ、と。
がちがちに固められていた腕に何かが触れる。翔の手の温度を感じるのと同時に、拘束が緩んだ。縄が切れた。翔のスコノスが起こした風の気配が、束の間俺たちの周囲の雨粒を弾き飛ばす。
「立てるか?」
身体を動かせば、首と腕に巻かれていた縄の破片が地面に落ちた。頷くのが精一杯だった。全身のあちこちが痺れて仕方がなかったが、気力だけで這い蹲るよう脚を立たせる。
周囲の関心が空に向いた、ほんの僅かな隙だった。
行かなければならなかった。完全に予定通りという訳ではないが、この裁判に異議を唱え、糾弾するのは俺たちの役目だと思った。
このぼろぼろになった身体でどうやって人波を掻き分けたのか、後になっても良く分からない。ただ翔の手に引っ張り出され、俺たちは天壇の真正面、白狐さんが膝をつく目の前に躍り出る。
「貴様ら何を……!」
顔を上げる。神明裁判の場に乱入した曲者など前代未聞であろう。一斉に目線が浴びせられた。悲鳴が上がったのは、翼を広げて滑空する豊隆がこれまで以上に地面に近付いてきたためだろう。大きな風が巻き起こり、衣服の裾と髪の毛がばさばさと舞う。
丁度俺の頭上を通り過ぎた豊隆の長い尾羽を追いながら、甲高い鳴き声が己に同調しているのをはっきり感じる。警護の者たちはじりじりとこちらの足元に距離を詰めながら、それ以上近付くことを躊躇しているのが見て取れた。
周囲の反応を見るに、俺の顔がコウキと似ていることに、気付いたものは今のところいないらしい。雨のせいか、髪を切ったせいか、ともあれ不幸中の幸いではある。
「近づくな」
翔の手の制止に、周囲の者はぴたりと動きを止める。声は掠れていたが、迫力はあった。俺と翔は互いを支え合い、改めて自分たちの立った地点を見回す。
天壇は一面広大だった。視界の端から端まで首を回してもまだ足りない。規模の大きさは信仰心のそれだと言わんばかりに、馬鹿馬鹿しいほどだだっ広い。金持ちがごてごてと黄金や宝石で下品に飾り立てるのに似て、自暴自棄気味に途方もない敷地を割いた印象がある。
前方には巨大な円形の舞台があり、その足元で砂利に膝をついている白狐さんが、白い髪をぐしゃぐしゃに濡らしたまま俺を見つめていた。その傍らまで歩み寄り、立ち止まる。戸惑い、不安。その瞳に浮かぶ感情を読み取ることは出来ない。同時に彼はもう世捨て人ではないのだという、手を伸ばしても届きようがない、言葉にし難い感情の波が押し寄せる。
「……」
視界を足元に転じれば、気の毒にも砂利に直接押さえつけられている司旦と目が合う。窮屈そうに身を縮め、ずっとその体勢で倒れていたのかと嘲笑したくなるのを堪える。計画が狂ったのはお互い様だ。責めたり笑ったりするのは後でいい。
恐らく同じことを司旦も思ったのだろう。その証拠に忌々しそうな苦笑を浮かべ、影家の懐刀は俺たちにだけ分かるよう片目を瞑ってみせた。
「其処の」
不意に、呼びかけられたのが自分たちだとすぐ分かった。遠くから発せられているのに、雨音にも掻き消されず、肉声にしては響きすぎたその声。音の霊を通じて呼びかけているのだと理解し、そこから滲む怒気に身体の芯から震えるような心地になる。
「如何なる所以があってこの神聖な儀式を妨碍するのか、答えよ」
問われ、雨に濡れた前髪をそのままに、俺ははく、と口を動かした。空から見下ろしたときは侮ったその男──遠目からとはいえ対面すると、さすがに脚が竦む。
皇帝である。
目が合い、途端にひやりと刃を首筋に当てられたようだった。豊隆の目を通じて大空を飛んだ俺はすっかり遠近感が狂ってしまって、舞台の上に立つ皇帝の姿が近付いたり遠ざかったり奇妙に揺れて映る。誰もが口を閉ざし、空気は凍っている。しかし、膝を屈するのは得策ではない。
衆目に晒される中、先に口を開いたのは翔だった。
「名乗るほどのものではありません。長遐に住む世捨て人。それだけで御座います」
空気が揺れる。動揺が共鳴している。この状況で声を張るのはかなりの勇気──蛮勇と言っていい──を要すが、先陣を切った相棒の勇ましさに励まされた。何のために家を燃やされ、ここまで傷だらけになりながら来る羽目になったのか。その全てに決着をつけるときなのではないか。
俺は顔を上げ、無謀にも天下の皇帝に真正面から向き合う。語気は震えなかった。
「世を捨て、縁を捨て、それでも義、捨てきれず、非礼を承知で御前に参上した次第に御座います」




