Ⅳ
司旦の右手に収まった天石は、当然のように目には見えなかった。
分かってはいても、不思議なものだ。指の皮膚に纏わりつくような、淡い輪郭。畏れていたような天石の力は司旦に反発することなく、むしろしっくり馴染むところが気味悪かった。
泥水を盛大に飛び散らせ、天壇へ向けて全速力で走る。雨が呼吸すら阻み、ほとんど喘ぐように息をした。苦しさに滲む涙も雨粒に弾かれて混じっていく。
心は高揚して浮遊しているのに、身体はもどかしいほど重い。脚が動かない。それでも走り続ける。自分の限界が近いことを、眩暈が教える。まるで天石が司旦の命を吸っているように、或いは降りしきる雨の神気が体力を奪っているように。
それでも脚を止める訳にはいかない。
外朝に通ずる門が迫っている。そこを守る門衛の影が四、五人、司旦を迎え撃つように臨戦態勢を取る。
「止まれ!」そんな牽制の声が飛んできたように思えた。しかしそんなもの聞こえないし、聞くつもりもない。
「どけ!」
叫ぶ。喉から振り絞るように。右手が熱い。血流の中に、溶岩が混じったかのようだった。司旦の声に呼応するよう、暴力的な突風が閉まっていた門に向けて吹きつける。それは風などという生易しいものではなく、空気の塊が拳となって力任せに門を殴りつけたかのようだった。
悲鳴が上がる。門衛の数人が渦巻く風に弾き飛ばされる。無数の雨粒が竜巻に混じって、行く手を阻む者たちを軽々と宙へと巻き上げていくのが見えた。ひと呼吸の後、門衛たちが屋根や地面に叩きつけられ、どす黒い血潮が飛び散る。
司旦は彼らに目もくれない。
早く、白狐様のところへ。
木っ端微塵に破壊された門の向こう、石畳が敷き詰められた天壇の外縁に、護衛たちの狼狽ぶりが切り抜かれている。さすがに神明ノ儀は宮中警護の者たちが大勢狩りだされていると見え、外縁に焚かれた数百もの篝火とともに人影が蠢いていた。儀式のために配された楽士らもそこにいるだろう。
石造りの欄干がちらりと垣間見えた。あの向こうに七十二吏と、白狐様と、皇帝がいる。突如風に突き破られた門と、鬼神が如く迫りくる司旦に仰天し、「止めろ!」と誰かが叫んだ。
無我夢中で石畳を蹴る。力んだためだろうか。途端に、司旦の体の中で奇妙な一致が起こる。その刹那だけ、司旦は何もかも分かった。それは、瞬間的に閃いてはすぐ消えていく火花のような思考だったが、脳を焼き焦がす確信だけははっきりと残った。
天石が生きている。願えば願うほど、この心臓はそれを叶える。司旦の意思に呼応するよう、ゆらりと輪郭が揺らめいた。何も考えず、命を賭すよう、強く天石を握る。
──白狐様……!
ざわめきが近くなる。均衡を崩し、足元で玉砂利がぶつかる。だが、せいぜい生身の身体が感じ取れたのは僅かばかりの浮遊感だった。目蓋を開け、目の前に驚いたような顔の白狐が拘束されたまま膝をついているのを見止め、司旦はひゅっと細く息を吸う。
「……白狐、様」
上手く声が出ない。振り返る猶予はなかったが、ほんの短い一瞬で、自分があらゆるものをすり抜けて天壇の舞台の足元に移動したと分かった。
まるで身体が風と一体になったようだった。司旦を阻もうとした宮中警護の者たちは、目前にいたはずの司旦がいきなり消えて、自分たちの後ろに再び出現したように見えただろう。
いや、実際にそうだったのだ。天石がそうさせたのだ。司旦の意思と共鳴し、その気になれば物理的障壁も易々と貫通する。この心臓、願えば願うほど──。
「……この、無法者!」
「司旦!」
傍らにいた閤門司と白狐の声がぶつかり合う。雨が雑音を掻き消す。肩を掴まんとした閤門司の手を、司旦は息も絶え絶えに振り払う。よろめく足で、白狐の方へ一歩、二歩と進んで崩れ落ちた。縛られたままの白狐もまた、懸命に身体を捩り、倒れ込んだ司旦の上体を受け止める。
「……」
今、今。この場で宣言しなければならないことが沢山ある。コウキが昨夜、天石を盗んでいたこと、儀式の場で使われる天石がすり替えられていたらしいということ。たった今、白狐が触れようとしている天石は、七十二吏を欺くための贋物であるということ。
いや、そんなことよりも、この天石──。
息を吸うたびに、肺を刃物で傷つけられたような痛みが走る。手足に力が入らない。先程の奇妙な移動によって全ての体力を使い果たしたかのように。
ただただ、白狐の体温と匂いを間近に感じる。強張った主の身体から、主の思考の片鱗が流れ込む。そこに体重をかけながら、司旦は漠然と自分も選ばれなかったと理解した。
本物の天石は、確かに意志を持っている。人間の願いや望みを飲み込み、次々と現実へと変換していく。束の間だけ自分が全能になったような、途方もない感覚がまだ司旦の脳に焼き付いていた。
これは人如きが持っていていいものではない。少なくとも、自分のような凡庸な人間には。
「──!」
何やら喚き声とともに司旦の身体が白狐から引き剥がされる。凶礼の装束に身を包んだ閤門司が、二人がかりで司旦を後ろ手に拘束し、地面に押し付けんとする。
抵抗しなければならないのは分かっているのに、もう天石に祈るだけの気力もない。指一本、自分の意思では動かせない。
「離せ!」
背筋をひやりとしたものが駆ける。頬を張られたようだった。その激昂の声が、主のものと気づくのに時間がかかる。司旦ですら瞬いたのだから、怒鳴られた閤門司本人は何が起こったのか分からず身体を硬直させた。
雨が叩きつける。砂利に跳ね返った飛沫が、絶え間なく司旦の顔にかかる。顔面を地面に押し付けられたまま、主の表情を見上げた司旦は背骨の芯が凍る心地になった。
粗末な綿の着物に身を包み、ざんばらに切られた白髪はびしょ濡れで、おまけに後ろ手を縛られて身体の自由はない。それなのに、片方の目は冷ややかに底光りし、爛々とした激情と、それ以上の言い知れない迫力で閤門司の足を竦ませる。
「その懐刀から、手を離せ」
「……」
沈黙。儀式の進行を司る閤門司が、神明裁判に乱入した無法者を見逃がす理由などないはずだった。生まれの家柄は八家のそれだとしても、今この場、裁かれる罪人である白狐の命令には何ら効力もない。
それでも、その拘束の手に僅かな躊躇いを生ませたのは、影家の儲君として生まれた白狐に与えられた、高貴ゆえの凄みのようだった。威厳と呼ぶにはあまりに研ぎ澄まされた眼差し。全身から滲む、殺意にも似た気迫。
どれだけの修羅場を潜り抜けても、どれだけの人を殺しても、この主の持つ特有の緊迫感には敵わない、と司旦は内心で思う。白狐はいつでも幼馴染の千伽の才能に引け目を感じている節があった。実際、華奢で女々しい白狐を、無力な姫のように軽んじる輩も多かった。
しかし、司旦の目から見れば白狐も充分に人の上に立つ資質を持っている。短い言葉で人を従わせる、天性の支配者だ。
「──あ」
気の毒に、その標的となった閤門司が我を取り戻すのに随分かかった。押さえつけられた司旦には窺えないが、その手付きから戸惑いが伝わってくる。
「し、しかし……」
要領を得ないと判断したのか、白狐は唇を結び、七十二吏と、天壇の上に立つ皇帝へと顔を向けられた。白狐が許しなく叩頭礼の体勢を解いたことを最早咎める者はいなかった。
恐らく、異様な土砂降りと、予想だにしなかった侵入者の存在、そして滅多に見ることのない白狐の激昂が周囲を様々な方向に揺さぶり、その余裕もなかったのだろう。
雨の中でも消えない篝火が焦げ臭さを放ちながら、白狐の白い頬を皓々と照らした。
「──陛下」
主の声に、若干落ち着きが戻っている。いや、この場で感情的になることは反感を買い、結果的に不利になると判断したのだろう。緊迫の場面、その判断が出来るあたり、既に十分すぎるほど冷静なのだが。
瞬きもせず、根の張った声で白狐は真っ直ぐ皇帝に口を開く。
「その者は私の懐刀。天石を拝すまで、私にも伴をつけるお許しを」
「──」
言葉そのものは乞うているのに、言い方には脅迫じみた重たい圧がある。司旦も、そして周囲の者たちも知っていた。この皇帝は、自身の胸ひとつで何かを決定することにかけては滅法弱い。こうして名指しで判断を委ねられたときなど、尚更。
生来の白髪で持て囃された白狐と同じく、彼もまた家柄と帝冠によって守られている。それしかないという劣等感を唯一無二である皇帝の肩書きで武装し、誰かから見縊られることに内心で怯えている。
今、この天壇で最も権威を持つのが彼であることは間違いなかったが、一方でその足元に伏す白狐の、剥き出しの感情を向けられて尚平然としていられる器でないことも確かだった。
そも、彼がその器に足るなら、六十二年前にあのような不正を使わずとも堂々と皇帝に推戴されたはずなのだ。
白狐は司旦をちらりと見、畳みかけるようにはっきりとした声音で告げる。
「私の許しがない限り、この者は誰も傷つけないでしょう。鞘に収めた刀まで折られる道理はありません」
じり、と胃の底が焼き付くような緊張が走る。その理屈がどれだけ通用するのか、司旦には見当もつかなかったが、主が、この土壇場で自分を文字通り懐刀として傍に置いておきたいと意志表示をしたことに、喜んでいる自分がどこかにいた。それこそが従者に与えられる最大限の喜びだ、と。
かつて白狐が都から姿を消したときのような無力は、もう味わいたくない。
そのとき、舞台下の脇で控えていたらしい、皇帝の御付きの影が一人、前に出る。他の者は僅かに焦りながら、それでも皇帝の判断を待つだけの臆病な辛抱強さを以て脇に控えているというのに、堂々とした立ち居振る舞いはただの近習ではない。
その者は、丁寧で無駄のない動作で自身が身勝手に立ち上がったことを皇帝に詫び、よく聞こえないが発言の許可を乞うた、ように見えた。
「……」
こちらに向き直った、きりりとした瞳の凛々しさ。艶のある黒い髪が、雨滴を弾いて女のように美しい。しかし、その険しい表情は刃よりも鋭く、雨にも風にも揺るがない冷徹さが窺えた。
「白狐様」気味悪いほど落ち着いた口調だった。「ご無礼を承知で訊かせて頂きますが」
「……」
「あなたはご自身の立場を弁えておられるのですか?」
きっぱりした問いが、雨煙の雑音を一刀両断する。やや高い声。宦官だ。しかもあれは──司旦は心臓が引っ繰り返るような心地になる。宦官の足元に投げ出された二人の若者は、後ろ手を拘束された皓輝と翔だ。
「神聖な天壇の場を、穢れた異民族の血で汚すおつもりで? あなたがどれだけその懐刀を寵愛しているか知りませんが、迷い込んだ野良犬を伴につけるほど落ちぶれたのなら、天石を拝して覗うまでもありませんね」
ああ、分かっている。あの宦官は分かった上で、白狐を静かに煽っている。何を言えば不快をもよおすのか理解し、皇帝の権威を傷つけず、淡々と相手を追い込むためだけに立ち回っている。
その鋭利なまでの賢さ、容赦のない残酷な態度。さすが、千伽様によく似ている。
白狐は地面に膝をつかされた皓輝と翔を映し、僅かに見開いた瞳を揺らしたものの、感情の機微を表に出すことはなかった。恐らく主が感じた最大の動揺は、かつて世捨て人の家で暮らした二人が囚われの身になったことよりも、懐刀を公然と侮辱されたことよりも、宦官の──万和の変わり果てた姿に対してだっただろう。
かつて自身の子どものように可愛がった万和が、今は宦官に身を落として皇帝に仕えている。男でも女でもない、この国で最も賤しめられる第三の性に。非道な世情に、一瞬口を結び、それでも公の場で私的な感傷を覗かせることはしない。
誰もが固唾を飲んで沈黙している。その静寂に、どこか万和の登場に安堵しているような節が見受けられた。万和は決して出しゃばりではないが、立つだけで空気を引き締めるような存在感がある。さすが有能さを買われ、皇帝の右腕とまで称された側仕えの宦官である。
「へえ」
ただ一人、その空気に呑まれない男がいる。神経を逆なでするような感心の溜息を洩らしたのは、七十二吏の列の中にいた千伽だった。
「しばらく会わない内に随分と偉くなったもんだな? 万和」
「……」
睨み合う。雨だというのに、空中に火花が散ったようだった。司旦も白狐も、呼吸するだけで、ぴんと張り詰めた糸の上を歩くような心地になる。対峙する二人の影を、雷雨が照らし出した。
遠いが、万和の表情にほんの一瞬不快が過る。千伽によく似たその顔立ちが、すぐに冷ややかな平静を取り戻す。心の揺らぎを僅かにでも気取られてなるものか、という気位の高さを感じさせる。半分しか血がつながっていないのに、本当に根がよく似た兄弟だ、と司旦は思う。
そう、千伽の腹違いの弟、万和──兄の千伽が朧家の当主の座についたと同時に、そこから振り落とされるように下級宦官に落とされ、そこから実力だけで後宮から這い上がってきた、朝廷でも一目置かれる皇帝の腹心の一人。男という性別を失った屈辱や周囲からの哀れみを跳ね付ける厳しさこそ生真面目な性格の表われだが、他人を惹きつける生来の性質や恵まれた容貌と才能は千伽とよく似通っている。
そして、千伽の“幻術”を破る者がいるとすれば、この万和をおいて他にいない。
「──朧家の御君」
万和はもう、公の場で千伽を兄とは呼ぶことはないのだろう。その決意の表れであるかのような、温度のない声だった。
「口を慎みなさい。当今皇上の御前で、許しなく声を発してよいと誰が言ったのです?」
「だから、それも天石に訊けばいいだけの話だろ」
面倒くさそうに、千伽が立ち上がって一歩前に出る。全く、狂気の沙汰だった。万和の言う通り、皇帝の前では全ての行動が皇帝の許しの下に行われなければならない。それを全く意に介さず、というより皇帝の存在を完全に無視し、ただ聞き分けのない弟に言い聞かせるよう、千伽は付け足す。
「本物の天石に」
天壇がざわつく。千伽が目を移した先には、司旦がいる。目が合い、千伽にだけ分かるように小さく頷いた。
本物は、ここに。
万和は何も言わない。その無表情は、彼がどこまで今回の件に加担しているのか、或いは何も知らないのか司旦の目には判然としない。ただ厳しい眼差しで、兄の身勝手な振る舞いを見咎めている。はったりを噛ましているとでも思ったのかもしれない。
「……」
両者、睨み合いはしばらく続いた。均衡を崩したのは、天壇にいる誰でもなかった。網目状に閃いた雷が、凄まじい轟音で地面までも揺らす。押さえつけられた司旦は反動で身体が僅かに跳ねたようにすら感じた。悲鳴、のようなどよめきがその後に続く。
「これは──裁判を延期にしたほうが……」
誰ともなく声が聞こえる。雨が全てを掻き消した。神明裁判は、裁判とは名ばかりの占術の一種だ。雨や雷は神の徴とはいえ、限度がある。
──その精神的動揺こそが、千伽が求めていたものなのだが。
どくん、どくんと天石の鼓動が司旦の下で脈打っている。まるで雷鳴に目を覚ましたように、先程よりもはっきりとその存在を感じられる。
そのとき、空の高いところで竜巻じみた旋風が巻き起こり、雲の形が扇状に流れて行く。天地が引っ繰り返ったのだろうか。上空は、まるで嵐の海のように荒々しく渦巻いている。稲妻があちこちで光る。ああ、来たのだ、と司旦は思う。計画を知る司旦や千伽のみならず、天壇に平伏す誰もが、その気配を感じ取っただろう。
雲間から光が差し、白い輝きが姿を顕す。流星のようだった。はっきりと輪郭を捉えられないのは、雨のせいか、神の姿は凡夫には眩しすぎるのか。しかし遠目からでも足を竦ませる、その巨躯にざわめきが広がる。
既に二度も遭遇した司旦ですら、さすがに本能的な畏怖が頭を占めた。白銀に輝く翼で雲を裂き、風を切り──神鳥が天壇の上空に顕れた。
「あれは、豊隆……」
閤門司の、声にならない声。伝説の中でしか名を聞いたことがない雷の神が、この神明裁判の空に顕現した。それがどういう意味か、人々は空に目線を釘付けにされたまま、文字通り雷に打たれたよう戦慄する。神気が足を縛り、地面に根が張り、動くことも声を出すこともままならない。
全く不気味な光景だった。これだけ大勢の者が集い、先ほどまで秩序なくざわめいていたというのに、今は誰もが沈黙している。心臓の音すらなくなったように。神を前にすれば、貴族だろうが官吏だろうが、地上の俗物など路傍の石の如きものなのだと、人々は真正面から叩きつけられた事実に立ち尽くした。
ただ一人。雨に黒く濡れたながら、万和の足元で拘束された皓輝が小さく微笑んでいるのを司旦はぞっとする思いで見つめている。




