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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第三話 悪夢
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 闇夜を切る喘鳴。はあはあと耳障りな自分の喘ぎは、何かに急かされ荒々しい。心臓が早鐘のように痙攣を繰り返していた。先程見た、赤々と燃え盛る火事の光景が瞼に焼き付いて離れなかった。

 雨粒が額を、頬をぶつかって流れていく。部屋着の袖で拭い、その不愉快な感触に苛立ちが募る。裸足の裏は擦り切れ、既に爪先の感覚を失いかけていた。

 闇雲に逃げ出したとは言え、伊達に一年もこの辺りで暮らしてきた訳ではない。目が慣れたら、自分がどの方角へと走っているのか概ね理解する。冬枯れ、枝ばかりの寂しい木立。その先には鬱蒼とした針葉樹の林が延々と続き、緩やかな起伏の地面を丈のある草藪が覆う。どうやら俺は、世捨て人の家からおよそ西方へ向かっているらしい。

 それしきの情報、この状況では全く役立ちそうもなかったが。


 幾度か後ろを気にしてみても、追手の影は見えなかった。それが余計に不安を煽った。何かの間違いなのではないか、戻った方がいいのではないか。迷いが足を鈍らせるが、俺は頭を振る。

 油断が許される状況ではない。家の雨戸を突き破って襲撃してきた七星(チーシィン)の顔がその深刻さを物語っている。あの殺意の籠った目に、気を許せる要素など微塵もなかった。

 恐怖のあまり内臓が冷たくなってゆく。相棒の顔が過った。翔、無事でいてくれ、と。祈ることしか出来ない自分は無力だ。翔が俺を逃がすために大立ち回りを演じたのだと今更気付いただけに、悔しさと惨めさが次から次へと湧きでてくる。


「──……」


 不意に、俺は嫌な気配を背に感じ始めた。上手くは言えないが、物陰からこちらを窺う視線のような──いや、変だ。背中を誰かに引っ張られている感触がある。人の手にも満たない、鈎針を刺されたような小さな痛み。意識すればするほど、その感覚ははっきり感じられるようになった。

 何かがいる。人ではないものが。

 勢いよく振り返って、暗闇を手で裂く。足の向きは変わり、ぬかるんだ地面を失速して止まった。脚に泥水が盛大に跳ねる。俺の肩は上下した。何もいない。

 そんなはずはなかった。確かにそこにいたのだ。目を凝らすのをやめ、全意識を集中させる。途端に、俺の目では視認も叶わない何かが、克明に浮かび上がってきた。

 ──ぞっとする。こんな光景を視るのは初めてだ。天から降り注ぐ無数の雨水、木の葉に弾ける水滴、歪な円を描く幾つもの水溜り。そのひとつひとつに宿る水の自然霊が、一斉にこちらを注視している。彼らはこの森の全方位あらゆる場所から()()をかっ開き──どれだけ闇に紛れようとこの俺を捉えて離さない。

 思わず後退った。こんなことが有り得るのか、と。形なき自然霊は複雑な思念に欠ける浮遊体である。それがこんなにも強い意志を持ち、何かを見つめることが出来るのか。

 唾を飲む。

 ネクロ・エグロだ。水の霊を使役するネクロ・エグロがどこかにいるのだ。森中の自然霊を一斉に伝播させるなど並大抵の力ではない。

 つまり、森中のあらゆる場所に潜む水霊に見張られている。おまけに天気は雨。追尾を避ける逃げ場はない。術者である七星(チーシィン)が、水の霊を辿ってこちらを追う光景が容易に想像出来た。


 腹を括るしかないのか──。死ぬか、立ち向かうか。二つの選択肢が俺の前に並んだとき、僅かな抵抗の気力が頭の片隅に光った。まだだ。まだ諦める訳にはいかない。

 俺は握った拳を降りしきる雨滴に晒した。相手は七星(チーシィン)、国家に仕える軍人のネクロ・エグロ。しかし、俺とて霊の端くれだ。真っ向から戦えなくとも、対抗の術はきっとある。

 目を閉じ、意識を集中すれば、自然界に漂う万物の霊たちの造形が視えてくる。まず全方位に満ちる水の気。こちらは既に七星(チーシィン)の手中にあるようなので、俺が動かすのは難しいだろう。それ以外は、体表に触れる大気、音、地上の樹木や草、そして足元の土。

 どうやら俺に残された道は、彼らと共にあるらしい。

 力強く両目を開く。自然霊を動かすのは得意ではなかった。この俺に、霊たちが大人しく従ってくれるとは到底思えない。俺が、自然に反した存在故に。


「俺の名は皓輝──いや、ミライ」滅多に口にしない、真の名を高々と名乗る。「主とはぐれたスコノスだ。力を貸してくれ」


 空気が揺らいだ。俺の名乗りが聞こえたらしい。苔森に満ちる霊たちを人に例えるなら、きっと口々にざわめき、顔を見合わせているに違いなかった。


「協力してくれ」息をひそめる。少し格好つかなかったかもしれないが、俺はどうしても彼らとは対等な関係でありたかった。支配、使役。そういった態度で、同族である彼らに臨みたくない。臨むべきではない。俺は決して“主”になどなれないのだ。


「ネクロ・エグロに追われている。しがないスコノスを匿ってくれ」


 大気が震え、動揺が肌に伝わった。早く、と俺は身が擦り切れる思いだった。波紋のように俺の言葉が広がり、吸収されていく。霊の独自の言語がぼわんと遠くから反響する。恐らく水の霊もこの話を聞いているはずだから、どうにかして撒かなければ。

 俺に出来るのは、切に願うこと。ならば、そのただ一つのために全力を尽くそうと決めた。


「──」


 永遠に続くかと思われた万霊のざわめきは、やがて波のように引いていく。

 不意に、俺の心に何かが迫った。強く、心臓を握られたような心地。地面の霊が伝える。追手が来ているぞ、と。

 緊張で体が痺れる。声なき霊の意志を汲み取るのは心に負担がかかった。言語も解さぬ俺に与えられるのは、直感と閃きのみ。何かに突き動かされるよう、林下の灌木へと飛び込む。

 常緑の藪柑子に宿る霊が、葉端の棘で一斉に俺を刺した。歓迎はされていないらしい。

 頭を縮め、藪中に深く身を隠す。己の乱れた呼吸が煩かった。息をするたびに上下する肩や背もままならず、緊迫するほど自身の存在が目立って仕方がないように思えた。俺は心の中で切に祈る。絶え間なくぶつかって弾ける音の霊よ、俺の雑音を掻き消してくれ──。


 息を殺して数秒。土を踏み締め、足音が近付いてくるのが地面の土の霊を介して分かった。俺は精一杯に藪柑子の茂みに図体を沈め、その深い灌木の葉陰と一体になろうとする。目を瞑ればあたかも肉体が透明になったような錯覚に陥る。

 俺はスコノスという一種の霊であるから、人間よりも遥かに純粋な回路を通じて霊とやり取りできるのだ、と気付いたのは後になってからだ。俺の細胞ひとつひとつは動物のような余計な不純物が含まれず、隔たりもなく、肌に触れる自然霊と直接交流が出来る。それは相当な集中と忍耐が必要な行為だったが、少なくともこの窮地では役立った。

 目を閉じていても、力を貸してくれた霊たちが音、匂い、気配といった情景を伝えてくれる。それは映像と呼ぶにはあまりに暈けた曖昧なイメージだが、半径五メートルほどの一帯で誰が何をしているのかを知るには充分。俺は霊に溶け込んで気配を消し、同時に全神経を注いで周囲の様子に集中する。


 針葉樹の根元に群生する藪の傍へ迫っていたのは、七星(チーシィン)のうちの一人だった。あのときの並びからして確か三番目に立っていたから、三ノ星だろう。細い面立ちで、地味な印象を受ける男。長髪を雨に濡らしている。

 恐らく、水に強いスコノスを宿しているのだろう。やや肩のあたりを白ませ、水霊がそこへ集まっているのが分かった。彼自身が暗闇でぼんやりと発光しているようだ。

 声が聞こえる。不思議な声だ。まるで、流麗な笛の音のような、声。鹿の鳴き声にも似た甲高く短い音は、三ノ星の喉から発せられているらしい。思わず耳を澄ます。彼は降りしきる雨に手の平を濡らし、じっと意識を集中していた。

 俺は感心した。霊の言語が話せなくとも、独自の音でやり取りする方法があるのかと。不思議な高い音は、水の霊に送る合図なのだろう。しかし彼は、藪柑子に隠れるこの俺にはまだ気づいていない。


「……」


 三ノ星の男が辺りに目を配る度、俺の鼓動ははち切れんばかりに激しくなった。ぽたり、ぽたりと小雨の粒が柑子の深緑の葉に落ちる。ああ、心臓が口から出そうだ。早く去ってくれ。

 俺の思いとは相反して、七星(チーシィン)はなかなかいなくならない。もしかするとこの一帯の水の霊が、怪しい奴がいたと情報を漏らしたのかもしれない。あっちへこっちへ足を運び、樹上から地面まで注意深く探っている。この調子では、見つかるのは時間の問題のように思われた。

 これは武器による戦いではなく、集中力と忍耐の戦いである。勝敗の命運は、如何に霊たちから力を貸して貰えるかにかかっていた。最早それは霊との信頼関係の問題だった。そして“主を失くしたスコノス”という半端な立ち位置の俺は、言うまでもなく不信を買いやすく、この戦いでは不利だった。

 もし見つかれば、即刻飛び出して不意を突こう。奇襲であればこの俺にもチャンスはあるかもしれない。──そんなことを想定し、すぐに首を振る。一心不乱に霊を信じた方へ勝利は訪れる。必ず彼らが守ってくれると信じるんだ。

 足音が近付く。苔の地面を踏み、ゆっくりと近付いてくる。霊の寄越す警報が強くなる。緊張のあまり胸が苦しい。肺も胃も縮まり、五臓六腑のすべてが危険を察知して息を殺した。動くな、と俺は己の身体へ呼びかける。心臓の拍動すら、今だけ止まってくれと願ったほどだった。

 目を瞑り、気配を断ち、運命を霊に委ねる。時の流れが遅く感じられた。頭上に近付く男の気配が、吐息が、やけに近かった。


 やがて相手の口から長いため息が漏れ、大気の膜が揺れる。呼吸を止めること数秒。七星(チーシィン)の足音が遠ざかる。信じられなかった。いなくなったと見せかけ、こちらの油断を誘っているかもしれない。俺はしばらく瞼も開けられない。

 追手の気配が闇に途絶え、感じられなくなる。すぐに動くのは得策ではなかった。彼はまたここへ戻ってくるかもしれない。霊たちに姿を晒すのは賢くなかった。

 理性ではそう分かっていたが、身体は情けなく震え、今すぐに逃げ出したい気持ちで一杯だった。緊張しているとき、恐怖を感じているとき、その場に留まるという行為は大変な精神力を求められる。走って逃げるよりも、気配を殺して隠れる方が遥かに難しい。今まさに、俺はそれを骨身に染みて実感していた。

 彼が消えた方向とは反対側に逃げたらいい、と己の弱さが耳元で囁く。距離を離した方が安全だ、と。首を振る。それは危険すぎる賭けだ。今の俺は彼を撒けるだけの脚力や体力がないし、むしろ追手は俺が恐怖に駆られて尻尾を出すことに期待しているはずだ。それに、敵があの男だけとは限らない。

 散々繰り広げられた葛藤を理論で説き伏せる。俺はあの男が再び現れることに怯え、尋常でない心の苦痛を抱えながらも藪柑子の葉陰で身を縮めることにした。


 夜半を回り、雲の向こうの月が徐々に傾いている。いつしか小雨は止んでいた。とはいえ樹木に降り注いだ雨粒が重力につられてぽたぽた垂れるので、森の中は未だに雨が降っているように錯覚される。

 寒い。俺は身震いした。極度の逼迫が過ぎれば、今まで忘れていた身体の感覚が戻ってくる。春とはいえ、そこかしこに根雪の残る三月。深夜ともなれば空気は冷えきり、骨の芯まで凍えそうだ。

 膝を抱え、両腕に頭を埋め、寒さを凌ぐ。火を熾せたら、と俺は嘆いた。身体を暖めたかった。気を抜けば瞼が落ちてくる。眠いわけではない。だが、俺の身体は気温が下がると冬眠してしまう。

 俺は数秒うとうと意識を失い、またはっと目覚めることを繰り返した。頭は機能が低下していく一方なのに、臨戦状態が解けないために眠ることもない。そんなジレンマに陥り、なお一層、憂鬱だった。

 死んだように沈黙した森の中で、俺はただひたむきに朝を待ち侘び、日はまた昇ると陳腐な言葉で挫けそうな心を励ました。

 追手のこと、翔のこと、白狐さんのこと。この先を考えるほどに気が滅入る。だから思考を閉じ、東の空が白々と明るくなる瞬間に焦がれた。これほどまでに朝を恋しく思った日はない。


「──……う」


 やがて、いつの間にか落ちていた両瞼に何かが刺さった。痛みに似た刺激。遠くにあった俺の意識は覚醒する。声にならない呻き。渋々、目を開く。

 疲労で霞んだ視界が、朧げな陰影を捉えた。水墨のように淡く、冷ややかな明るみが差し込んでいる。そう、光だ。

 厚みのある藪柑子はその深緑を明るくし、葉の一枚一枚が僅かな光沢を放っていた。この一晩、俺を匿ってくれた命の恩人。正確には植物に宿る霊だが、彼らはもう俺に何かを語ることもなく、湿った翠気に沈黙している。

 木立の隙から静かな光が差した。湿った草木にはたまだれの朝露が光っている。

 目を擦る。朝だ、と。夢かと思った。緊張の糸が緩み、力が抜ける。喜びはない。それよりも胸に空いた虚無感が、冷たい現実味となって疼く。

 翔は、白狐さんはどうしてしまったのだろう。

 悪夢のような一夜が明ける。だが、悪夢はまだ終わらない。




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