Ⅲ
「どこへ行かれるので?」
駆けていた靴の足が止まる。目と目が合う。突如行く手を阻んだ司旦の姿に、コウキは僅かに表情を強張らせた。
まるで、見えない幕を捲って現れたよう──司旦は気配すらなく唐突に現れた。一拍遅れ、それが代々受け継がれた朧家の幻術の効果だと気付く。千伽の差し金か、と一目で分かった。
「……」
空中で火花が散る。皇城の中庭はしんと静まり返っていた。鳥の囀りがちりちりと鈴のように響く。夕陰に沈む薄暮の中、二人の男が間合いを保ったまま向かい合った。
「“綺羅様”の傍にいなくてもいいのか?」
「……」
風に乗って、天壇で奏でられる楽の音が聞こえてくる。コウキが目を眇めるようにして睨む。穏やかな情景に似つかわしくない、緊張感のある空気が一帯に張り詰めた。
「……従者は天壇には入れない。お前も知っているだろう」
司旦は目線で撫で回すようにコウキの輪郭をなぞる。「それはどうかな」
「どういう意味だ」
「時間稼ぎをしても無駄だ。お前の持っている〈天石〉を渡してもらおう」
じゃり、とコウキの靴が一歩後退る。それが答えだった。冷徹なように見せかけて、不意打ちの揺さぶりに分かりやすい反応をする──司旦は射るようにコウキの目を凝視した。
「……何の話だ」
「誤魔化すな。お前たちの目的は、天石。しかし、天壇での神明裁判に割り込んで強奪することはいくら敵国のお前らでも難しい。それに、そういう力技を好むようにも見えない」
半歩足を踏み出す。コウキが逃げ出しやしないか、目線で拘束しながら。
「では、どうやって天壇の廟から天石を盗み出すか? 聖域に近付くには、まず警護の者たちを退けなければならない。千伽様を国賊呼ばわりして、明け方に正邸を囲ったのは、つまりそういうことだったんだな」
「……」
「千伽様を囮に仕立て上げ、宮中警護の三班たちの注意を全て城外に向けさせた。その隙に、天壇に忍び込んでいたんだろう」
同時刻の落雷騒ぎは偶然だったにしても、結果としてその計画を幇助することとなった──悪運が強い、と言うべきだろうか。常ならば近寄ることも許されない天壇に入るには絶好の機会だったに違いない。
「ふん」
コウキが鼻を鳴らす。司旦や千伽の立てた筋道を、下らない児戯だと嘲笑ったようだった。その何もかも俯瞰した態度に、不穏なものを覚える。
「では聞くが」
平坦な声でコウキが問うた。
「そこまで気付いておきながら、何故俺が天壇の廟から天石を盗む場を押さえようとしなかった? あのとき、その場で俺たちの素性を明かせば影家の狐の汚名も晴らせただろう。無論、俺が天石を盗んだというお前の仮設の通りであれば、だが」
司旦は肩を竦める「それだけじゃ足りなかったんだ」
「足りなかった? 何が?」
いつしか陰鬱な雲が空に立ち込めている。燃えるような赤い西空に、黒々とした巨鳥が羽搏いているようだった。炭で煤けたよう、互いの顔が翳って見えにくくなる。
「もっと大きな説得力が欲しかったのさ。こっちも主の首がかかっている手前、失敗する訳にはいかないんでね」
「説得力……?」
コウキは眉を顰めるが、司旦は答えない。代わりのように首を傾げて口角を上げる。「近習という立場はさぞ不便だっただろうな」
「……」
「余程のことがなければ主の傍を離れることは出来ない。自由に動けるのは周りが寝静まった夜だけ。或いは、従者が立ち入りを許されない皇城の中での典礼の間」
コウキの肩が僅かに動いた。逃げるか、騒ぎになる前に司旦を仕留める隙を窺っているのかもしれない。
「だが、お前に近習の心得を教えてやる。機を掴んだときこそ、慎重に動かなければ。狭い立場にいるほど動きが読まれやすくなる」
「何が言いたい」
「お前たちの敗因は、交友関係の狭さだな」
「如何にも友達のいなさそうなお前にだけは言われたくないが」
黒雲の中で稲妻が奔る。音はない。切り裂く光が昨夜の落雷を思わせ、不吉なものが影のように過った。反射的に上向いたコウキの鼻先に、降り出した雨の一粒が落ちる。大粒の、豪雨を予感させる冷たい滴だった。
顔を戻せば、思わず喉を引き攣らせる。何か勝利めいたものを確信し、司旦は表情を険しくしていた。異民族らしい、色素の薄い双眸だけが爛々と光る。
「神の怒りが天壇に降る。さあ、天石を返してもらおう」
黒い雲と夕暮れ空が斑に広がり、雲の縁が燃えている。司旦の言葉に呼応するよう、遠雷が鳴り響いた。コウキの脳裏には、自ずと厳つ霊を操る自身のスコノスの顔が去来したであろう。雷光が瑠璃瓦を照らし出した瞬間、その口の端だけで笑ったように見えた。
「──いいだろう」
「え?」
「やれるものなら、やってみるがいい」
信じられない身のこなしで、コウキが後方に飛び退る。僅かに反応が遅れた隙に、素早く中庭の砂利を蹴って屋根にまで飛び上がった。近習の綿の衣裳がふわりと風にはためく。イダニ連合国の救世主が、挑戦的な目でちらりと司旦を見下して笑った。
黄昏の光が夕靄の中で燃え上がり、それなのに雨の気配が一帯に立ち込めている。
時間稼ぎをするつもりか。司旦は勢いをつけて助走し、廂に飛びついた。そのまま瓦屋根までよじ登り、同時に駆け出したコウキの背を追う。勾配のある平部に躓かぬよう、片腕で均衡を保ちながら、もう片方の腕で懐から毒針を引き抜いた。
──一針で充分だ。既に一本、河原であの男には毒を打ち込んだ、イダニ連合国の不老相手、確実に仕留めなければならない。だからもう一度、同じ毒を。
蜂や蛇の毒を、間を開けずに体内に打ち込めば、大抵の生き物は百発百中で死に至る。毒薬の扱いに長けた者にとって、二度同じ毒を使うことは相手を絶対に殺すという意志の象徴である。
それも、針先を刺さねば意味が無い。
どこからか女官の悲鳴が聞こえる。隅棟を辿るように走り、跳躍する二人の影が地面に映った。聖域である広寒宮の屋根を土足で鬼事など、気が狂ったと思われても仕方ない。
コウキはもう影家の体面などどうでもいいらしい。連中は、この神明裁判を最後にこの国を去る。固い靴裏で力強く別當の屋根に飛び移るコウキの姿を見て、司旦は確信する。砕けた瓦の破片が地面に向かって落ちていった。皇帝の住まう広寒宮の損壊など、捕まれば言い訳の猶予も与えられないまま打ち首にされる重罪であることくらい、長らく近習に扮していたコウキも分かっているはずだ。
──では何故、コウキはただ走って逃げるだけで、例のニィを使った奇妙な転移の術を使わないのか?
皓輝と翔に曰く、連中はそうした自然の理を捻じ曲げた奇術で、自分の居場所を一瞬にして変えることが出来るのだと言う。
考えろ、と司旦は己に言い聞かせる。これは、連中にとっての時間稼ぎだ。コウキは転移の術を使わない、或いは使えない理由があって、今こうして司旦を使って遊んでいる。──天石を持ち逃げするのは勿論、彼自身が囮になっている可能性もある。司旦を神明裁判から遠ざけ──俺が白狐様の傍にいては何か不都合な事情があるのか。或いは。
顔に雨粒が当たる。まとまりのない思考が身体の動きを鈍らせる。自分が思いの外動転していることに舌打ちし、司旦は獲物を狙う獣のように目線を一点に定める。意識は周囲に配り、障害物を把握。左手で掴んだ棒手裏剣を、コウキの腰元目がけて素早く投げつけた。
「ふん」
案の定、コウキは袖で払いのけるようにして難なく躱す。この程度では牽制にもならないか。しかし、僅かに速度が緩んだ隙に、司旦は宙を飛ぶ勢いで瑠璃瓦を蹴った。らしくはないが、強気な賭けに出るほかない。
「く……っ」
半ば体当たりだったが、コウキの体躯が傾く。濡れた瓦に足を滑らせたか、その脚にしがみ付いて、関節と逆方向に力を込めれば容易く倒れるはずだ。
しかしコウキの反応は神懸かっていた。司旦の両腕が脚に触れるよりも早く、後ろ向きに繰り出した蹴りで頸椎を狙って突き飛ばす。
がつん、と。痛みと衝撃に、意識が僅かに遠のいた、その隙に膝をつきながら体幹を保ったコウキの拳が司旦の顔面を狙った。
「──……」
反射的に司旦は目を瞑り、辛うじて頬を背ける。痛みを覚悟して全身を強張らせたが、代わりに降ってきたのは上擦ったコウキの悲鳴だった。閉じた目蓋の向こうで、コウキの影が段差を踏み外したように頭ひとつ分ほど下がる。
「うわあっ!?」
イダニ連合国の救世主もそんな声が出せるのか、と感心するほどの間抜けな声。目を開けて、状況を理解するのに少しかかった。
大きな仔猫が二匹、コウキの身体にじゃれつき、それを振りほどこうともがいている。いや、仔猫ではない。双子の子どもである。七星の首の、弟たち。
「鬼ごっこだぁ。僕らも混ぜて!」
「一緒に遊ぼう!」
「な……」
何だ貴様ら。そんなコウキの言葉は続かない。無邪気が過ぎてむしろ恐怖に映る双子たちは、あっという間にコウキを屋根の下に突き落とす。その見事で残酷な連携に、司旦はしばらく瓦の敷かれた平部にへばり付いたまま声が出なかった。
気の毒なことに、均衡を崩したコウキは植え込みの中にそのまま落下したらしい。二階建ての屋根から落ちた程度で死ぬような軟な身体ではないだろうが、打ち所が悪かったのか仰向けのまま伸びている。陸に打ち上げられた魚のようだ、と浮かぶ。
我に返り、司旦もひらりと体を横に滑らせ、屋根の端を掴んで両足を地面に向けてぶら下げる。目視で高さを測り、思い切って手を離して落ちた。両膝に柔らかく負荷を懸けながら、コウキの落ちた透廊の脇の植え込みの中に着地する。
屋根の上では、片腕のない双子たちが楽しくて仕方ないと笑い声を弾かせていた。
「鬼ごっこ、もう終わり?」
「一回この屋根に登ってみたかったんだよねぇ」
「とっとと降りてこい。遊びじゃねえんだよ」
透廊の欄干を跨ぎ、二人の兄である七星の首その人が姿を現す。双子の登場に続き、司旦はいよいよ開いた口が塞がらない。
「あ、お前、生きてたのか……?」
「うっかり死にかけたぜ。お前のお陰で」
眼窩の奥は石のように灰色で、感情の機微が読みにくい。軍人らしい厳格さとネクロ・エグロの戦好きを体現したようなこの男のことが、司旦は出会ったときから好きではなかった。正々堂々と陽の当たる場所を生きているこの男の前に立つと、自分のような日陰のものは何をしても非難されているように思えて仕方がなかった。
「しぶとい奴だな」コウキに蹴られた首を押さえ、問う。「えーっと、いや、そんなことはともかく、どうしてここに」
ぱたぱた。静かな雨音が肩を、頭を叩く。夕日の最後の名残の光が差し、神秘的な天気雨の一陣が都を濡らしている。
司旦は周囲を見回し、後宮の近くまで来ていたことに気付いて眩暈を覚えた。如何なる理由があったにしても、この体格のいい七星の首が、よく男子禁制の後宮まで来られたものだ。
「広寒宮の屋根を走る狂人がいると聞いてな」
「嘘をつけ。外朝は、位階がなければ入れない。初めから狙って侵入していたな」
「まあな。しかし、こういう事態を想定していた訳ではないんだが」
七星の首は植え込みの灌木を折りながら、持ち上げた右手に炎を宿す。赤々とした火に包まれながら、その腕には火傷ひとつつかない。火のスコノスか、見事なものだと司旦は七星の首が炎を刃のように伸ばしてコウキの首筋に当てた。
「……貴様、七星の首か」
「殉職扱いで解雇された故、今は七星ではないが」
どうにかよろめきながら立ち上がったコウキは、明るい熱気を頬に受けて顔を顰める。暗闇に包まれた透廊の欄干が、凝った彫刻が、火影に浮き上がって揺らいでいた。
どこかで遠雷が鳴っている。コウキの目の中で、金色の光が躍った。反撃の隙を窺うように。七星の首は目を逸らさず、後ろの司旦に向けて説明をする。
「昨夜、冴省の山火事の件で詰問を受けた。冴家の御方にな」
「さゆ様に?」
「“何をすべきか自分で考えろ”と」
あの方らしい、と思う。如何にもさゆ様の言いそうなことだ。
七星の首の中でどのような心境の変化があったか判然としないが、考えた結果彼は広寒宮に潜入することを選んだのだろう。それが彼なりの償いなのかもしれない。あれだけ痛い目を見せても心根の率直さは変わらないと見え、司旦は呆れる。
「よく警備の目を掻い潜ったな」
「これでも隠密隊七星の首として長年朝廷に出入りしてきた。皇城に忍び込むのは造作もない。尤も、出会い頭に俺の顔を見て亡霊だと卒倒した不甲斐ない衛士もいたが」
それに、首はと続ける。
「いつもここを統括している宦官は夕刻から不在。隠れるのは案外容易かった」
「ああ、そうか。万和様は、神明裁判に出ているのか……」何だか頭がくらくらする心持ちで司旦は蟀谷を押さえる。首はぴくりとも笑わずに肩を竦めた。
「つまりお前の言葉を借りるなら、交友関係の広さが勝利した、ということだ」
「お前らは友達じゃないけど」
「で?」首は顎をしゃくる。「この男が天石を盗んだというのは本当か?」
「どうしてそのことまで知っているんだ」
「さっき聞こえた。しかし、何故?」
司旦はため息をつく。
「説明している暇はないが、この男の狙いは国家転覆。そして天石の力を国外に持ち出そうと画策している。いずれにせよ、卑劣な手段で六十二年前の白狐様を貶め、影家の名に泥を塗った。生きて帰すつもりはない」
指に挟んだ毒針を光に翳し、コウキを睨みつける。その気迫に七星の首も一瞬口を閉ざしたが、「じゃあ、今神明裁判はどうなってる?」と訊くと司旦の目の縁は僅かに強張ったようだった。
「天石──」
「今、神明裁判で使われている天石は?」
七星の首の眉間にも皺が寄る。「ここに本物があるんだとしたら?」
「俺は白狐様の傍に行く」
司旦は呟く。沈黙。その隙をついてコウキが半歩足を下げたのを、七星の首は見逃さなかった。コウキが何を企んでいたにしても、首の俊敏な動きの前では意味をなさなかっただろう。
瞬きの間に背後に回り込んで両腕を掴み、七星の首はコウキの喉元に火を纏った手刀を押し付ける。コウキが拘束された腕を引き抜こうと肩を突っ張らせてもびくともしない。
「吐け。神明裁判で何をするつもりだ?」
力づくで押さえつけられても、コウキの仄暗い表情は不穏さを残している。「今更何を知っても遅いさ」
途端に、呻き声。コウキの腕の骨が嫌な音を立てて軋む。ぎりぎりのところで力を止め、苦痛を長引かせる。関節が外れてしまえば、拘束が解けることを首は熟知している。
「たまにはその筋肉も役に立つもんだな」
感心して呟く司旦に、首は鋭く言う。「こいつが持っている天石を天壇に持っていけ。こいつらが何か妙なことを始める前に」
「俺に指図するなよ」
そう言いながらも、司旦は無駄のない手際でコウキの衣服を調べる。注意深く、それでいて素早く袖元、懐を探り、手を止める。
ほんの一瞬、天石は選ばれた者しか触れられないという逸話を思い出した。月天子の心臓は、その血縁の者しか近付くことを許さず、穢れた手を伸ばせばたちまち息の根が止まるとか何とか。いや、構うものか。コウキが盗んだ時点で、根も葉もないただの神話だ。
指先が何かを掴んだ感触があった。柔らかい。石、という名に相応しくない、不定形で不安定で、どこか生暖かい。それなのに、芯には氷のような絶対的な冷酷を秘めている。奇妙だった。それ自体がひとつの生き物としての意志を宿しているかのようだった。
まだ生きている。
不意にそんな言葉が過り、振り切るように手を引き抜く。
「それが、〈天石〉か……?」
七星の首が眉を顰める。その反応は尤もで、こんな得体の知れないもの、生理的な嫌悪感を覚えるのが普通だろう。
喉から息が洩れた。温い風が頬に吹いたように思えた。或いは、それは天石の呼吸だったのかもしれない。
一拍置いて、凄まじい量の雨が空から降り注ぐ。空の盥を引っ繰り返したとばかりの、途方もない土砂降りだった。雨、というより、水の塊だ。溺れる人のように頭を上向ければ、淀んだ色の雲が渦を巻き、高いところで稲妻が龍のように走っている。
誰もが気圧され、口を閉ざした。有無を言わせぬ神の力が、じわじわと地上を蝕む。後宮の女たちがざわつく声、遠く神明裁判で奏でられていた楽の音、全てが豪雨に掻き消されていく。
「司旦、早く!」
屋根の上から、双子の影が手を振った。「裁判、もう始まってるよ!」
「ここは任せて、天壇へ行け」
首と目が合う。彼に拘束されたコウキは、身体を前のめりにしたままこちらを睨んでいる。その目線の鋭さに一瞬竦んだものの、迷う余地はない。
踵を返し、欄干を飛び越え、司旦は走り出す。激しく叩きつける雨が、木々を鳴らし、土に沁み、じわりと足元に迫ってくる。水溜りに飛沫が跳ねる。
「健闘を祈る」
そんな言葉を背に受けながら、振り返らない。お前のこと許したわけじゃないからな、と言い返す猶予もない。
滝のような雨粒の音の向こう、甲高く鼓膜に突き刺さる神鳥の声が聞こえた気がした。




