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明後日の空模様 朝廷編  作者: こく
第十五話 神明裁判
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 夕刻。俺は万和に眠らされたときと全く同じ不自由な体勢で目覚めた。

 縛り上げられた両腕と肩は感覚がなくなり、血流が滞っているのが関節の付け根の痺れから伝わる。僅かに身じろぐが、足腰が軋んで声もなく呻いた。


「……」


 どれくらい時間が経ったのか、脳の奥が疼くように痛んでよく分からない。足元に目をやれば、翔はまだ寝苦しそうに眠っている。起こそうか悩み、今はやめる。

 この眠りが万和のスコノスによってもたらされたものならば、叩き起こそうとしても無駄だろう。そしてこれは憶測だが、人間でない俺には少々効果が薄かったのではないか。

 俺はなるべく音が立たないよう、可能な限り身体の向きを楽にする。指先が冷たく、血が通っている感覚に乏しい。静かにため息をつき、首を伸ばして室内を見回す。


 不自然にがらんとして、何もない部屋だった。四方を壁に囲まれ、ひとつだけついた扉と窓には不愛想な木の格子が嵌められている。それだけで自分たちが閉じ込められているという事実を認めるには充分だったが、俺は何だか危機感が湧かないまま光の中を舞う塵を目で追った。窓の外から、日暮れを告げる鼓楼の音色がどこか寂しげに聞こえてきた。

 少しずつ意識を正常に戻しながら、これからのことを考える。気分は落ち着いていた。万和と対峙したとき、何かが腑に落ちたのだろう。それを言葉にすることは難しいが、とにかくやるしかないという追い詰められた実感が欲しかったのかもしれない。

 あと一歩でも下がれば奈落に落ちるという位置でなければ、俺は千伽の計画に従うことは出来ないのだ。

 しかし、目線を下にやり、青褪めた顔の翔の呼吸を聞く。窮屈そうな寝息がゆっくりと繰り返されている。かさかさに乾いた唇が、床に触れるすれすれの位置で浅く開かれている。


 翔は、千伽のスコノスのことをずっと気にしていた。千伽様のあれはスコノスじゃないと思う。翔は確かにそう言った。じゃあ何なのだ。俺は不意に胃の底が焼けつくような痛みを覚えた。

 巨大な因果が動こうとしている。過去から現在まで交錯する、様々な人間の思惑と、それを上回るもっと大きな何かの力が。一体いつから巻き込まれていたのか、そんな無為なことを考えようとして、首を振る。

 伸るか反るか。如何なる因果があろうが、その選択が俺に委ねられているという事実に変わりはないのだ──。

 はっとする。翔と目が合った。虚ろだった青い瞳は、俺を映すと徐々に意識を取り戻す。「皓輝……」という呟きは、まだ夢の中にいるようだった。


「翔、大丈夫か?」


 俺は囁く。周りを気にしたというより、掠れて声が出なかった。翔はじっと俺の顔を見つめる。感情が抜け落ちたような表情に心臓がどきりと鳴った。


「皓輝……何を考えていた?」


 雲の上を漂うような翔の言い方に、俺はいい言葉が浮かばない。寝惚けているようだが、眼差しは存外に真剣だった。こういうとき、翔の追及は逃れ難いなと思う。


「千伽のこと」一度切ると、今度は幾分ましな声が出た。「まだ少し迷っている」


 翔は何もかも分かっているようだった。静けさの中に二人の呼吸だけが響いている。夕闇が忍び寄り、室の中が徐々に翳ってきた。


「選ばずにいられたら、どれだけ楽だろうね」


 ふと翔が漏らす。自嘲する気力もないようだった。俺はただ瞬きを相槌に代える。

 翔は既に人生の中で“選ぶ”ことをやめた人間だ。ただ季節の移ろうまま、世捨て人の家で一生を終えたい──そのささやかな安寧こそが、短い人生で“選ぶ”ことの出来なかった翔が最後に辿り着いた境地のはずだった。

 確かに、そんな翔を今更国家の存亡をかけた岐路に立たせるのは、不条理なことのように思われる。

 ──俺は? 俺はどうだろうか。

 綺羅は、この俺に皇国の命運がかかっていると言った。あの脅迫を信じるつもりはないが、今の状況で奇しくも彼の言葉は予言めいて聞こえる。

 目を瞑り、空気の匂いを嗅ぐ。壁越しに伝わる、しっとり湿った雨の気配。皮膚に纏わりつく雲のような薄い神気。それでも、どれだけ見回しても豊隆の姿はない。


「豊隆はすぐ傍にいる」俺はその言葉の質感を確かめるよう、声に出す。「俺が選ぶのを待っている」


「……」


 一体何故、と思う。生まれてこの方十六年。一国の命運を託される心当たりはない。


「あの万和ってやつ……」翔がふと呟く。「宦官だったな」


「宦官?」


 その言葉を知っているような気がして聞き返す。少し考えてみて、ああ、と思わず声を出して納得した。あの人が男にも女にも見えたのは、そういうことだったのか、と。

 宦官。皇城の後宮に仕える特殊な閹人。去勢された男。


「じゃあ、あれは千伽様の弟だったってことか」


「恐らく、本人の口ぶりからするに」


 万和が呼んだ兄様という言葉を思い出す。俺たちを眠らせたスコノスの力といい、血縁の者でまず間違いないだろう。朧家が受け継ぐ幻術とは、工夫次第で催眠術紛いにもなり得るのだ。

 俺は眉を顰める。千伽様も人が悪い、と。


「少なくとも、千伽様のスコノスの力を知っている人間が味方以外にいることくらい、教えてくれてもいいだろう」


「教えたくなかったのかもな」


 すかさず口を挟んだ翔に、俺は押し黙った。去勢──性器を奪われるというのは、死刑に次ぐ重たい刑罰でもあると聞く。昇進のため進んで宦官になる者もいるだろうが、男からも女からも忌まれる立場であることに変わりない。千伽は近しい身内に宦官がいることを恥じているのだろうか。


「──何か嫌な感じだったな、あいつ。戦いたくない」


 万和は間違いなく俺たちを殺そうとしている。その上で、まだ何らかの利用価値を見出して生かしている。しかし、翔が言いたいのはそういう人の命を平然と道具にしたり国を裏切る淡白さではなく、もっと人間の魂に染みついた根源的なものだろう。

 俺は朝方に見えた万和の顔を思い出そうとするが、俺には見えなかった何かが翔には見えていたとしても不思議ではないと思った。翔が言うのならきっと本当にそうなのだろう。

 凶兆。万和というあの宦官には、関わらないほうが良い。


「どうするべきだと思う?」


 答えなぞ分かり切っている癖に、俺は相棒に訊いてみる。翔は真面目くさった顔をして言った。


「俺は、選ばずに逃げてもいいと思う」


 優しい、と思う。翔の言葉は純粋な俺への気遣いだ。


「そもそも、千伽様のやり方が上手くいく確証はない訳だし」


「上手くいく確証がないからってやらずに逃げるのは、格好悪いかな」


 真弓に啖呵を切っておいて、何を弱気になっているのか。二者択一。やるべきことだと本能が悟っていても、もし別の道に進んだら、と想像してみたくなる。俺が選ぶべきでない道を。


「保身に走ることを格好悪いなんて思わないよ」


「誰もがそう思ってくれたら有難いんだが」


 如何にも皮肉ぶって苦笑すると、翔が心配そうに目を開いてこちらを窺う。異民族(フアン)らしい青い瞳孔が、夕暮れの光を受けて猫のように収縮した。


「大丈夫。言ってみただけだ」


 俺は安心させるように、半ば自分に向けて言った。報恩。声には出さずに呟く。それを尊ぶのは当然のことだというのは俺自身の弁だ。

 お前がこの国に執心する理由などない──綺羅は俺をそう説得したが、実際はまだやり残したことがあるのだ。それは、豊隆や千伽が勝手に巻き付けた使命の糸を解くことであり、俺がこの文明世界に来てからあらゆる面で支えてくれた世捨て人の主に借りを返すことでもある。

 考え込む内に長く黙っていたらしい。怪訝そうな顔をする翔に、俺は声を押し出した。


「この国の命運を俺が握っていると、綺羅に言われたんだ」


「……綺羅に会ったのか?」


「うん」


 俺は翔に、昨夜コウキと綺羅に会った件を打ち明けた。窓の傍を、黒い鳥の羽搏きが横切る。陽が沈むにつれ少しずつ寒さが身に沁みるようになった。


「俺はあの男のことを信用していないけど、無意味な嘘をつくとは思っていない。頭のいい男だから、それなりに筋の通った嘘をつくのだと思う」


 翔は静かにまつ毛を弾く。


「それで、皓輝は綺羅を信じた?」


「……」


「俺は綺羅なんて信じないよ。俺は皓輝を信じてる。だから、お前が正しいと思う方に進めばいい」


 うん、と頷いた声は覚束ない。その手放しの信頼は嬉しかった一方で、もしここでない別の場所で同じことを言われたら、それは翔の心の危うさの表われだったかもしれないとふと思う。


「皓輝に全てがかかっているのなら、そんな理不尽な話はないよ」


「俺もそう思う」


「せいぜい俺は、一緒に怒ることくらいしか出来ないけどさ」


 翔は自分の無力を自虐するように笑う。その表情は、何か吹っ切れたように先程より幾分軽くなっていた。そういうのは慣れている、と言わんばかりの根拠のない頼もしさだった。


「俺はさ、お前が望むんならここでスコノスをぶちかまして、裁判も何もかも放り出して、都のど真ん中で大暴れしてやったっていいんだぜ。生き残る可能性なんか知るものか。お前が逃げたいなら俺は全力で手伝う。本当だよ」


 ああ、翔は本気だ。もし俺がここでうんと言えば、命を賭して俺を逃がそうとしてくれる。俺は目を瞑る。瞼に浮かぶのは何故だか雰王山で見た、眩い景色だった。

 枯れることのない翠緑の木々も、澄んだ水を湛える湖も、滴り落ちるような光の粒も、永遠に廻り続ける天体も──その鮮やかな色彩の何もかも、俗世の穢れから免れた最後の楽園のように思われた。

 俺がやろうとしているのは、きっとあの神域さえも穢さんとする行為だ。

 俺は微笑む。出来るだけ、さり気なさを装って。


「翔は、ここに残っていてもいいんだぜ」と。


「それだと皓輝一人に背負わせたみたいじゃないか」


 翔が口を尖らせるので、俺は縛られたままの肩を竦める。


「保身に走ることを格好悪いなんて思わないよ?」


「でも、友達を一人にするのはこの上なく格好悪い」


 思わず、俺は笑った。翔が小さく頷く。この相棒は、きっと何と言おうと俺に付いてきてくれる。今はそれが力強い──。

 扉の外に人の気配を感じる。錠が回り、開いた戸から見慣れぬ装束の者が覗く。


「……」


 きっと朝廷の祭事に関わる官職か何かだろうと見当をつけ、俺と翔は最後にちらと目線を交わし合った。





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