Ⅰ
日没。神明ノ儀を前に沐浴を許された白狐は、水で身を清め、夕風を浴びていた。
絹糸で織った白装束は簡素だが肌に馴染む。夏を兆す南風が、ざんばらに切られた白狐の髪をはらはらと嬲った。乾きかかった毛先が踊る。白狐は瞬きせず、じっと外を見つめた。
囹圄の壁に映る残暉は、硝子が飛び散ったよう光を攪乱している。西空に咲いた大輪の花が、ゆっくりと音もなく凋んでいく。何か破滅めいたものを予感させる日没だった。
いつしか、五月も半ばに差し掛かろうとしている。夕省では豊作を願い、田に犬を放って邪を祓う祭が行われている頃だろうか。
思えば、悪月とも呼ばれる五月は、古くから何かと天災や疫病が多く、避邪防病の儀礼や習俗が多いという。本来ならば秋分以降に行われるはずの死刑をこの月に決めたのは、皇帝なりの禊のつもりなのかもしれない。
失われた日々に思いを馳せる暇もなく、裁判は刻一刻と迫っている。太陽と入れ替わり、月が昇るにつれ、守監とともに、閤門司──朝廷の儀礼を取り仕切る役職──が迎えに来る。
外気温の割に暑苦しい装束をした閤門司が囹圄に姿を見せたとき、白狐は場違いにも懐かしさを覚えた。かつて父とともに朝廷の儀礼に参列した際、幾度となく見かけたその佇まい。少し違うのは、閤門司の顔ぶれが通常のそれではなく、凶礼を執り行う者であることだ。
「白狐様、参りましょう」
頷く。牢に入ってきた彼らに両腕を後ろに回して縄で縛られるが、白狐は抵抗せず甘んじた。拘束される屈辱を顔には出すまいと、毅然と前を見据えて。
***
広寒宮。それは、月にあるとされる伝説の宮殿に準えた皇城の美称であり、狭義では主な政務が執り行われる朝廷最大の建物を指して呼ぶ。
朝廷には内朝と外朝があり、その位階に応じて立ち入りが制限されるのが常であった。特に皇帝が日常生活を送る内朝の出入りは厳しく、広寒宮の後庭、すなわち内朝と外朝の境にある天壇は宗教的意味を帯びた聖域である。
天に通ずる祭壇──天壇。八家の門閥貴族の血を引くものと、それに追従する中小貴族の当主のみが足を踏み入れることを許され、冬至節など天を祀る儀礼が大々的に行われる場所。
周囲は一面玉砂利が敷き詰められた広大な空間で、中央には円形の岩の舞台が据えられている。長い階段を上り、舞台に立つことが許されるのは天子の子孫たる皇帝のみ。天壇上には先祖の霊を祀る廟があり、そこに〈天石〉も安置されている。
舞台も廟も全てが石造りで何もなく、がらんと広い。余計な装飾がないのは、広寒宮と同じ理屈で、天への畏敬を忘れぬようにと草木一本生えさせないのだという。
玉砂利も無機質なほど白く、殺伐としている。常人であればその広大な無の空間に薄ら寒さを覚えるのが普通だろう。天壇の造りは、生物を拒絶する神そのもののようだ。『天介地書』によれば、かつて月天子がこの地に立ち、都はここにと定めたのだとされる。
今、天壇に立つのは今世の天子、皇帝その人だ。砂利の只中に膝をつかされた白狐は、垂れ下がる白髪の隙間からそっと垣間見る。遠く夕陽の残光を浴び、袖をはためかせる皇帝の影は眩しい。まるで太陽の中の烏のようだ、と思った。
背中を小突かれ、白狐は慣習に従い、叩頭礼をした。如何なる身分の者も、例え皇帝の母であろうと、皇帝に対しては身を伏せ、勝手に顔を見ることは許されない。
「当今皇上萬歳」
額を地につけて挨拶をする。凶礼の場であるため従来の挨拶である祝いの言葉は忌避されるが、白狐のそれがほとんど癖のようなものだったためか、或いは声が小さかったためか、見逃されたようだ。
周囲に控える楽士が、皇帝の挙動に合わせて静かに音楽を奏している。木霊にも似た楽の音が、消えかかった残光に溶けていく。先程から裁判の進行を務める閤門司が何やら形式的な韻文を吟じているが、全てが意味のない音の連なりとなって白狐の耳を流れた。
ちらり。周りを見回せば、七十二吏という、政に関わる八家の貴族と文武百官が位階に従って二列向かい合わせに並び、なかなか壮観な眺めだった。彼らはそれぞれが意思を持ちながら今は顔を伏せ飲み込み、意識をひとつに包含した大きな生き物のように見えた。
朧家の席には、当主である千伽がいる。朝服に身を包んだ幼馴染は、昨晩危うく禁軍に拘束されかけたとは思えない飄々とした佇まいで、まるで宴の余興を見下ろすかのよう、どこかこの状況を愉しんでいる。彼はあからさまに白狐の方を向くことはなかったが、幼馴染がこっそりと己を盗み見していることを知っているかのように柔らかく目を細めた。
「……」
白狐はかつて子ども時代に千伽と朝儀の場でそれと気づかれぬよう互いに目配せしてふざけ合ったことを思い出す。過去の思い出が、朝儀に己を連れて来た父の顔が、走馬灯のように次々と脳裏を過る。楽しい祭を心待ちにするような高揚があり、なのに縛られた指先が冷たく震え、白狐は酷くちぐはぐで混乱した気分になった。
大丈夫だ。己と、そして遠くに立つ天壇の皇帝に向けて言い聞かせる。例えかつて同じ儲君として切磋琢磨した貴方と今こうして向かい合い、圧倒的格差の下その足元にひれ伏していようと──こんなもの、茶番劇に過ぎない。
貴方の中にも流れる月天子の血が、僕にも等しく流れている。同じだ。互いに、滑稽な道化を演じているだけなのだから。
ふと一際強く吹いた風が、嬲る毛先とともに白狐の様々な感情を攫っていく。しっかりしろ、と言われたようだった。余計なことを考える猶予は、ない。
「此度四方の地に朝政の禍ありて、天下しろしめす天子が伏して白す。天命に聴し、曲直是非を天石に覗う──」
閤門司の口上に、口を結ぶ。自ずと父親が存命だった頃に垣間見た神明ノ儀のことを思い出す。
有事のごとに皇帝が天石を拝して天帝に伺いを立てるこの儀礼。重罪人を裁く裁判の場では少しやり方が異なる。身分や罪状によるが、月天子の血を引く白狐は、直接天石を拝することを許される。
──不実あれば罪人は天石に心臓を止められて死に、無実であれば無傷で済むという。
西日が黒々と、人々の影を伸ばす。凶礼であることから、四方角の神への拝礼は通常と逆行して西の蓐収神から始まった。続き、北の禺彊神、南の祝融神、最後に東の句芒神に向けてそれぞれ皇帝が膝をつく。厳かで単調な楽の音が、夕空に沁みてゆく。
「……」
儀式は長かった。後ろ手を縛られている白狐は肩が凝る思いで、しかし昔からこうした公の場に出席し慣れた者らしく疲労や退屈さをおくびにも出さず、じっと顔を伏して待った。
***
同じ頃。
主人不在の影家の正邸は、俄かに騒がしくなる。それも然り。冴家の印である水色の旗を掲げた馬車が正面に留まり、前嫡子の妻である冴家の御方が降りてきたためである。
「……」
着物の裾を颯爽と翻し、近習の真弓を引き連れて乗り込んできた彼女を力づくで押し留める度胸のある者はおらず、使命感で正面に立ちはだかった影家の門衛も御方の一睨みで道を譲る不甲斐なさだった。
尤も、冴家の御方の不機嫌な威圧に耐え得る者がこの都にどれだけいるのか。顔立ちが人形のように整っているだけに、目が合えば咄嗟に顔を伏したくなる鋭さがこの女にはある。
正邸に残っていた影家に仕える者たちの多くは、主の身の回りの世話をする女官や使奴、僅かばかりの護衛の者。そも、影家は六十二年前の一件以来そこに代々仕えていた近習を粛清されたため、今残っているのはその血縁に属する者がほとんどだ。謂れのない罪で家族を殺され、それでも尚血縁の呪縛から逃れられず、首を挿げ替えられた主に仕えるほかなかった者たち。男であれば勉強をさせて朝廷の官吏にさせることも出来ただろうに、身分も低く外聞も悪いばかりに、行き場を失った末に結局影家に残った女も多い。
邸の入り口を抜けて広間に出れば、壁の端に、その向こうに、何事かと集まった目線たちが御方を見つめる。怯え、戸惑い、怪訝そうに眉を顰めて。その癖、御方が顔を向ければ逃げるように後退る。
「……ここの近習は」
御方の声が無機質に響いた。あまりに単調だったため、それが問いかけだと周りが気付くのにやや間がある。囁くざわめきの後、どこぞの女官が「コウキ様は出掛けております」と細い声で答えた。
「し、神明ノ儀に参列なさる綺羅様を広寒宮までお送りし、こちらには戻っておりませぬ」
御方の瞼が僅かに下がる。「そう」
影家に仕える者どもは、御方が何をしに来たのか見当もつかなかった。その身ひとつで乗り込んできた雄々しくも無謀な姿に、かつて御方が許婚をこっぴどく振ったという、有名な逸話を思い出した者もいただろう。
つまり、彼女が影家の狐に嫁ぐよりもずっと前、彼女の苛烈な男嫌いを後押しした一件である。冴家の三女だった彼女は父の独断で某家の側室に宛がわれ、その扱いに腹を立てた末、単身相手方の家に殴り込んだとか何とか。
影家のみならず、朝廷でこの話を知らぬ者はいない。女の立場が軽んじられる中、その“武勇伝”は冷笑を以て迎えられ、かつては御方を後ろ指さす際の決まり文句として繰り返されるのが常だった。
御方はそうして女の行動力を嘲る男社会が何よりも嫌いだったのだが。
「今宵、天壇の神明裁判で白狐が裁かれる」
小さいがはっきりとした口調で、御方は周囲に向けて口を開く。
「もしその場で〈天石〉が白狐を無罪と判じれば──」
それぞれの顔を順に見回す。「この家の主は、誰になる?」
顔と顔が、目線と目線が互いを窺い合った。何と答えるべきか、腹の探り合いが行われる。
「あなたたちの主は誰?」
柱の傍にいた男が口を開く。無言を貫く方が不興を買うと畏れたのだろう。
「綺羅様、です」
「でしょうね」
あっさり引き下がる御方に、周りはますます困惑した。夫が処刑される直前とあって、乱心したのかと揶揄するような眼差しも陰から投げて寄越される。その全てに、御方は物怖じすることなく、食い下がることもなく、ただ一言、そこにぽんと置くように言葉を落とす。
「でも、私の夫は白狐なの」
隣に控える真弓は、御方が僅かに笑ったように見えた。或いは、気のせいだったかもしれない。
「誰が何と言おうと」
見た目の通り、人形と陰口を叩かれてきた冴家の御方である。情に訴えかけるのは全く得意ではなかった。だから彼女は、きっとただの事実を述べただけなのだろう。
御方の青い目が、鏡のように広間の中を映した。か細い顔立ちの中、瞳に籠った意思の光が、はっと臆病な人々を怯ませる。
しかし、不思議と冷たさはない。近寄るもの全てを脅迫するようないつもの鋭さは鳴りを潜め、御方の表情はただ静かに、水際に立って返答を待つような趣があった。
押しつけがましくない、ただじっと耐えるとも見える佇まいに、彼女がこの六十二年どう過ごしてきたかという思いの全てが凝縮されていた。
影家の狐が追放され、冴家に出戻りした御方を待っていたのは、無遠慮で無分別な悪意ある誹謗と陰口。御方には何の罪もないというのに、女ゆえに悪目立ちしていた報いとばかりに、度を越した嘲笑と皮肉を投げつけられ、辱めを受けた。自尊心の高い御方には、己の不遇を噂の種にされるだけで充分気に障っただろう。
世間の耳目が落ち着いた頃、次に御方を待っていたのは事実上の寡婦となった女に与えられる、惨めな囚人の人生だった。朝廷において女は生まれながらに不自由な立場を強いられるが、一度結婚した女の立場は更に肩身が狭い。
言うまでもなく、皇帝への叛逆で夫を失ったとなれば尚更で、恩情のように冴家の正邸に与えられた一室に籠るほか御方が出来ることはなかった。挙句、御方の美貌を僥倖と呼び、是非自身の側室にと手を差し伸べる男がいたことも悪かった。捨て置かれた女の不幸を救ってやろうと得意げに口説いてくる男など、御方が最も嫌うものだった。
下心の程度の差はあれ、自分の家に置いてやろうという誘いを全て断った、御方の原動力は何だっただろう。
「私は」
御方は伏せていた目蓋をゆっくり開く。
「幸か不幸か、白狐がいなくなってから幾度か選ぶ機会があった。厄介者として実家に居座るより、また別の家に嫁いだ方が女は幸せだと面と向かって言われたこともある。お前は若くて美しいからまだ側室だろうが貰い手があるだけ恵まれている、と」
「……」
沈黙を圧すように、御方は目を瞬かせた。
「縁談話を一通り断ったとき、理由の憶測が揶揄とともに飛んだ。生まれながらの矜持か、かつての夫への献身か、或いはただの意地か?」
「……」
ここにいる者の中には、当時の噂に便乗した者もいただろう。気まずく顔を伏せるのがちらちらと見受けられるのが、およそ彼らの心情を裏付けている。
「そのいずれでもなかった。そのことをあなたたちに知って欲しかった」
御方を見守る呼吸に紛れて、衣擦れの音が床に這う。
「私は白狐を選んだ。その選択を間違っていたと思ったことは一度もない。白狐以外の誰かと結婚するつもりはなかった──ただそれだけ」
その目は、一個の意志を持った人間としての心をはっきりと宿していた。性別に境遇を大きく左右されるこの朝廷社会で、常に受け身を強要される女にあるまじき生き様に、後ろ指さされることにも慣れている。そんな強さがある。
御方は続けた。
「あなたたちも予想はついているかもしれないけど、司旦は白狐の近習として今の影家を裏切る道を選んだ。司旦はそれも忠節というかもしれないけど、私は別に仕えるは忠義に厚くなくてもいいと思う」
真弓が少し顎を上げる。御方を見つめる目線は常に一定で、揺るぎない。並べばいよいよ、よく似た二人に映る。
「私も司旦も、結局のところ白狐のことが好きだと思うから選んだだけ。好きや嫌いで人を選んで何が悪い」
声音の下がった御方は、そう囁いた後、気を取り直すように面を上げた。
「義理を重んじて心を殺せば、いつか主君から押し付けられる恐怖に潰されるでしょう。日蔭に生きる私たちは、いつまで強い者の顔色を窺って生きていけばいい?」
「……」
問いかけに答えはないが、互いの顔を見合わせるような思惑の絡み合いはほとんど見られなくなっていた。考えろ、と真弓は声には出さずに言う。考えろ、男も女も等しく、己の頭で。
「もし」御方は一度言葉を切る。「今あなたたちの心に迷いが生じているなら、それは主君として当然の努力を怠った綺羅の自業自得なだけよ。主に求められるのは人格に優れた器。足らないと判断する権利は仕える者にある」
万一このことを綺羅が聞けば相当な怒りを買うか、或いは冴家に逃げ込んだ御方に難癖をつける隙を与えただろう。曲がりなりにも綺羅の正邸であるここに堂々と立つことがどれだけ危険なことか、御方の無謀さに周囲の者たちは物も言えない。
御方は一歩前に踏み出し、ゆっくりと首を回した。髪に刺した飾りがさらさらと涼しい音を奏でる。陰に控える影家の者たちに、彼女は静かに呼びかけた。
「私は選び、それを信じた。だからあなたたちも選びなさい」
流されるのではなく、自分の信じる道を。その言葉がどれだけの戸惑いを生んだか、都の底辺を生きる者にしか分からないだろう。生まれた家柄や身分という枠に嵌められた従僕たちに、意志ある行動と責任を促すことがどれだけ異常か。
「──私たちは守られるだけの弱者じゃない。そうでしょう?」
囁くような声。静まり返った白木の広間。どこからか流れる風を孕んだ楽の音が、突如として雨に叩かれ、掻き消された。




