Ⅵ
手足を縛られ、顔に布を巻かれたまま床に転がされ、どれだけ経っただろう。騒々しい外の空気は幾分落ち着き、時折足早に通り過ぎる人の気配を除けば、今はしんと静まり返っている。
皇城の屋根に雷が落ちたらしい。俺も翔も、せいぜい聞き取れたのはそういう断片的な情報だけで、冷たい床に片耳を押し当て、取り留めない思考にほとんどの時間を費やした。朝の光らしきものが布を透かす頃には、捕らえられた当初の混乱と絶望感はそれなりに引いていた。
それでも無力であることに変わりはない。俺は折り曲げた足の近くに感じる翔の気配を頼りに心を繋ぐ。この一室に放り込まれてから互いの呼吸ばかりを聞いていたためか、何も見えず、声も出せないが翔の意識があることは分かる。
話すことが出来たらどれだけいいだろう。きっと翔も同じことを考えているだろう。仕方なしに俺は誰ともつかない空白に向けて、もう何度も繰り返した思考を再び最初から辿る。糸を頼りに暗闇を進むよう、そうすることで平静を保とうとしているのか、強張った体の痛みを誤魔化そうとしているのか、とにかく時間だけは持て余すほどあった。
俺が最も懸念しているのは、千伽に裏切られたのではないかということだった。蜥蜴の尻尾どころか手足まで断ち切って、千伽は生き延びようとしたのではないか。この状況に置かれて尚、俺は千伽が信用に値する男なのか測りかねている。懲りない、と思われようが、白狐さんを助けたいという千伽の一連の言葉が嘘だとは到底思えなかった。
それと同じくらい懸念すべきは、千伽の策が破られたのではないかということだった。あの万和とかいう、男とも女ともつかない者が一体どういう訳か千伽とよく似ていて、千伽のスコノスのことを知っているような口ぶりを見せたのが偶然であるはずがない。
万和が口にした「兄様」という呼び名に今更驚きはしないが、弟か妹そのいずれかが当然のように千伽の味方でないという事実や、改めて自分たちが全くの部外者であるという事実にまた一段と気分が憂鬱になるのである。
俺たちが一瞬でも神のように思えた千伽のスコノスの力は、看破されてしまえば存外脆いのではないか、いや俺たちの疑念がスコノスの効力を弱めたのか。そういう思考の迷路に迷い込んだとき、俺は何だか具合が悪くなって一度考えるのを諦める。
それからしばらく経った。室内は依然として寒々しく、不穏な静けさに満ちている。縛りつけられた背中の痛みが痺れに変わりつつある頃、ようやく誰かの足音が近付いてきた。それが味方とは思わなかったが、今はただ何も出来ず沈黙していることが辛かった。
「……」
きい、と牢らしき戸を引く音。ため息が聞こえる。誰かが傍で屈み、顔に巻かれた布を解く。新鮮な空気が顔に触れ、男の手が見えた。
目線をぎりぎりまで上にやれば、室内の出入り口の横に、あの万和が佇んでいる。ぼやけた視界に、生白い顔が揺れた。
「下がって結構」
従者らしき男が頭を下げて退室する。腕と足の拘束は解かれなかった。俺の脚付近に横たわる翔が、大きく深呼吸したのが分かる。
万和はじっとこちらを見つめ、その黒い瞳に何らかの慈悲を見出そうとした俺はすぐに諦めた。万和の声は丁寧で冷ややかだった。
「何のお構いもせず、失礼致しました。少々外が騒がしかったものですから」
「……」
それはきっと落雷の件だろうと想定出来たが、その丹念に作り込まれた氷のような声音に、口を挟む気も削がれる。千伽とは刺し方が違うだけで、言葉ひとつで相手を黙らせる圧は感心するほどそっくりだった。
「あなたたちが何者であるかは知っています。影家の白狐様に付き纏っていたとかいう世捨て人ですね。都の空気は如何ですか? そろそろ長遐に帰りたくなってきた頃合いですか?」
僅かに腰を屈めてこちらを覗き込んだ万和の顔に焦点が合って、俺は陽の光の下で見るその几帳面そうな顔立ちに薄ら寒いものを覚えた。
目鼻の形は確かに千伽によく似ているものの、どこか覚束ない、不自然な物足りなさを感じさせる。その欠いたものがこの人を一層掴みどころなく見せている。黒髪を凝った意匠の髪飾りとともに結い上げ、長く垂らした毛先が目の前で揺れた。女装した男なのか、男のように振る舞う麗人なのか近くで見ても判然としない。
ふっと万和が目を背ける。煽る甲斐がないと思われたのかもしれない。もしかすると、想定外の落雷騒ぎに振り回され、八つ当たりされたのかもしれない。そこまで考えたところで、万和は俺と翔を交互に見やった。
「ところで、この渦中に朧家の君と共謀したということは、二度と長遐の山を拝む気はないと、そういう覚悟が出来ていらっしゃるんでしょうね?」
「千伽様はどうなった」
口を挟んだ翔は瞬きの間もなく蹴り飛ばされた。沈黙が流れる。胃が凍るような思いをしながら、何だやっぱりきょうだいじゃないかと俺は舌打ちしたくなる。意味ありげな間を空けた万和は、次はないと俺たちに無言で告げていた。
「口の利き方が分からないのでしたら黙っているのが賢明ですよ」
「……」
「私とて、あなた方のような者とは関わりたくないのです。朧家の君にも後できつく言っておかなければ。門閥貴族の品位に関わります」
では、千伽はまだ生きているのだ、と思う。まだ。万和は俺からの視線を無視して続けた。
「あの方の考えることは昔から変わりませんね。悪知恵ばかりが働く困った兄です。あなた方にも大層ご迷惑をかけたようで、お恥ずかしい限りですよ。ええ、これでも申し訳ないと思っているのですよ、本当に。こんなことに首を突っ込まなければ、長遐に骨を埋めるばかりだった貧民を巻き込んでしまって」
万和の言葉遣いは皮肉と刺々しさに満ちていたが、一見鼻持ちならない言葉の数々とは裏腹にその自尊心の低そうな顔つきが奇妙に感じられた。わざとらしく遜った態度は、その実大きなコンプレックスを覆い隠す装甲のようで、どことなく救世主を演じるときのコウキを思わせる。要するに、立場に反して心の奥に何か触れられたくないものを抱えた過敏な性格、ということなのだろう。
「一体どうやって都の門を潜ったのかは分かりませんが、そのささやかな努力に免じて教えて差し上げます。あなた方が如何に裏を掻こうとも、皇帝陛下は清心派を許す気などないのです。白狐様が裁判で〈天石〉を拝したとき何が起こるのか、見物ですよ」
ですから、どうぞ大人しくしていて下さいね。万和の顔に初めて感情の片鱗のようなものが過る。それは嘲笑を帯びた哀れみで、よく見なければ分からないほど薄っすらとした変化だったが、俺と翔は揃って口を噤むことでその挑戦を受け取った。
戦う。相手はどこまで読んでいるのか。優位に立っているのはどちらか。この状況になって初めて俺は、彼らと同じ盤上に立っていると実感した。彼ら──それは千伽や司旦も含む──この勝負に関わっているあらゆる面々と、それらとは切り離された俺たちの立場。
勝負だ。身体が震えたのは恐怖のためだけではない。崖っぷちではあるが、戦わなければならない相手を捉え、昂っている。
はっと目を見開く。気付けば万和が間近にいた。顔を覗き込まれ、その黒く濡れた瞳に惹き込まれる。
「何を考えているのやら」鏡のように引き延ばされて映った自分の顔は、想像よりもやつれている。
「余計なことをされる前に、眠っていていただきましょう」
「ねむり……?」
制御する前に口から声が零れる。スコノスだ、と思う。万和のスコノスの気配が霧のように室内を満たしてゆく。朧家が代々幻を司るスコノスを有するのなら、これは。
「神明裁判は夕刻から始まります。それまで、あなた方には生きていて頂かなければ」
周囲を取り巻く眠気の暗示に、くぐもって反響する万和の声。それが最後に聞こえた言葉だった。
まずい翔、寝るな。と俺は言ったつもりだったが、喉からは何も出てこない。空気が洩れて、それが深い寝息に変わる。瞼が落ちたと気付く前に、俺たちは揃って沈むような眠りについた。




