Ⅴ
一方。
真夜中、冴家の正邸の外庭に、拘束された男が連れられてきた。皇城の空に稲妻が走る数刻前のことだった。
「……」
室の外側に面した星見台。欄干の前に、冴家の御方とその近習たちが立つ。彼女たちの前に引き出された男は、両腕を縄で縛られ、不自由な体勢で顔を上げた。厳めしい顔つきを居心地悪そうに歪め、ところどころに火傷の痕のようなものがあるのが痛々しい。
左右に控える双子の弟たちも仗たちに片方ずつしかない腕を押さえられ、すっかりしょげ返っているように見えた。
冴家の御方の手に渡されたのは、純金の髪飾り。渦巻く水霊の形をしたそれは、しばらく前に冴省の街道で物乞いに施したはずのものだった。土で多少汚れてはいるものの、間違いなく御方のものである。
御方はそのことを深く問い質す気はないといった素っ気なさで、金飾りを隣の真弓に渡す。彼女の作り物じみた無表情は詰問よりもむしろ残酷に映った。
「七星の首が、弟の手癖の悪さで捕まるなんてとんだ笑い種だな」
「……」
真弓はぴくりとも笑わずに言うので、沈黙の重みが増す。外庭の砂利に膝をついた七星の首は、何か弁明したそうな表情をしながらも、この静けさの中で口答えをするほどの度胸はさすがに持ち合わせていないようだった。
御方はこの男を見たのは初めてだった。影家の白狐の護送任務を命じられていた七星の首が行方不明になったという噂は、皇帝の威信に関わるということで枢密院によって箝口令が敷かれていたらしい。実際に白狐は無事都に到着したので、その任務を負っていた者がどうなったのか人々の関心からは逸れていた。
尤も七星自体が公にされない隠密隊ゆえ、冴家も領内で山火事が起こったという話しか知らされていなかった。しかし、火事の発端が七星の首とあの世捨て人たちのいざこざだったということ、助け出された七星の首とその弟が御方の髪飾りを所持していたため、首の身柄はそのまま冴家に渡ることとなった。
そうして、今に至る。
御方が物乞いに施したはずの金飾りを七星の首の弟が如何にして手に入れたか、場合によっては重罪に処せられるであろうことは想像に易い。それが分かっているのか、双子の弟たちは揃って表情を曇らせて、子どもらしい無邪気さは鳴りを潜めている。
「聞いたところによると、毒を飲んで死にかけたそうだな」
真弓がちらりと七星の首を見下す。
彼が見つかったのは山火事の只中ではあるが、彼が重篤になったのは煙の中毒のせいではなかった。首を診た医師の見立てによれば、どうやら吉草という眠り草の一種をほぼ致死量まで飲んでいたのが、嘔吐が早かったため辛うじて一命を取り留めたのだという。
誰が彼に毒を飲ませたのか、問うまでもない。
「司旦か」
「……」
不遜にも七星の首は真弓の言葉には答えなかったが、沈黙が全てだった。仗に背中を膝で圧され、渋々といった様子で頷く。その様子を見るに、彼は司旦に毒を盛られたことを深く恥じているようだった。
「何故自分が司旦に裏切られたか、心当たりはあるんだろうな?」
「それは」七星の首は、疲れ切ったしゃがれ声を出す。「司旦が、影家の白様への忠義のために……」
「違う」
暗闇に満ちた外庭、御方の冷ややかな声がぴしゃりと沈黙を打つ。
「確かに司旦は、白狐のためなら何でもするような懐刀だけど、わざわざ相手が苦しむ方法を選んで殺すほど歪んでいる訳じゃない。あなたがそれをされたのは、司旦の不興を買うような振る舞いをしたからよ」
確信的な言い方だった。七星の首が眉を顰めるほどに。御方が彼に会ったことがないのと同様に、彼もまた御方の顔をまともに拝んだことがないというのに、何もかも俯瞰した物言いに貴族的傲慢の片鱗を感じさせた。
御方の美しい面立ちは、研ぎ澄ました刃のように酷薄な鋭さを秘めている。
「あの懐刀は、見下されることが嫌いなの。こっちにそのつもりがなくても、司旦は敏感に感じ取る」
夜闇を見据えるような御方の眼差しは、ここにいない何かを見ている。
「私もそうだった」
しんと静まり返った池の前。首の目には、硝子のように固い何かが粉々に砕けたように思えた。言い換えれば、突如として御方が一人の女性のように映ったので、狼狽えた。
御方はそのことについて深く語ることはなかった。しかし、人前で、しかも己より身分の低い男の前で、過ちを顧みた御方の姿はむしろ彼女を高邁に見せた。発言を許されていない身の上、過去の御方が如何にして司旦の不興を買ったのか問う機会もなく、首は己の不躾な好奇心を押さえる。
「あなたが司旦に何をしたのか知らないけど、あの懐刀は対等な目線でしか信頼を築けない。あなたは賢いかもしれないけど、司旦はもっと賢い。賢い者は裁定者になりたがるということを司旦は知っている。自分は善悪の裁定者ではなくて司旦と同じただの人間と心得なさい」
七星の首には返すべき言葉がなかった。彼に出来たことは頭を下げ、沙汰を待つ心構えをつくることだけだった。
欄干の向こうに広がる池には、溢れんばかりの蓮の葉が水面を豊かな緑で埋めていたが、まだ蕾はない。花盛りの季節であればさぞ見事な景色だっただろう。
青黒さに沈む池の前に跪く三人の兄弟は、無力の象徴だった。そこに哀れみを期待するような懇願の気色がないことだけが、首に残された唯一の軍人らしい矜持のようだった。
「あの」
そのときだった。左右に控えていた、双子の内の片割れが声を出した。瓜二つの顔は全く区別がつかないが、声を出した少年は左腕がない。如何にも勇気を振り絞ったような面持ちで、唇を結び、沈黙を破ったことへの非難の眼差しを受け止めている。
「……」
御方は黙って少年を見下ろしていたが、瞬きで続きを促した。真弓は無造作に顎をしゃくり、少年へ発言を許す。
「……実は、もうひとつ盗んだものがあって」
心臓に圧し掛かるような重苦しい空気に、少年はよく耐えたと思う。御方の言葉に心を動かされたのか、温情を乞うよりも正直に告白せねば気が済まない、痛々しいほどの率直さが窺えた。
少年は自身の懐から何かを取り出す。それは菊色の紙だった。端が破れているようだが、何か文章が書かれているのが見えた。
御方も、周囲の近習も一目で分かる。菊色の紙を使うのは翰林院と決まっていた。つまり、皇帝からの勅令を通告する文の証である。
「こちらへ」
真弓の指示で、紙は仗から星見台の上に渡された。御方は注意深くそれを手に取って眺める。くしゃくしゃに皺が寄った文は、ところどころ破け、湿って脆くなっていたが、内容を読む分にはさほど問題なかった。
「何だ、これは」御方から菊色の紙を受け取った真弓が呟く。
「白狐様を護送するのに遣わした文です」
七星の首は、弟がそれをくすねていたことを知らなかったのか、狼狽を顔に浮かべて答えた。
「この中身については?」
「翰林院から文を託されたのは確かですが、七星はその内容を存じ上げません」
その言葉に嘘はなさそうだった。真弓は文面を一瞥し、双子たちに目をやる。
「お前たちはこれを読んだのか。字は読めるのだろう」
「はい……」
「どう思う」
ひらり、掲げられた菊色が暗闇に映えた。
「翰林院の筆によれば、当今皇上は影家の白狐様に恩赦を与えられた。六十二年前の廃位を撤回し、その血縁を重んじて五品の位階を与える。それから、影家当主の座は、今代に限り綺羅を据え、白狐様には月天子の血筋を途絶えさせぬよう取り計らいがなされる、云々ともある」
「都合が良すぎますね」
咄嗟に双子の片割れの口をついた言葉は、場所によっては不敬罪ものであったが、ここでは誰も咎めなかった。恐らく、この場にいる誰もが同じように思ったためだろう。
子どもらしい浅薄な理性で懸命に考えた末の言葉は、なるほど確かに。恩赦の旨を記した内容は、今にして見れば白々しく映る。それを政治的な駆け引きと見なすのはやや苦しかった。不当を厭う七星の首には殊更そう感じたに違いない。
「あなたたちの沙汰は、ここで下さない」
「え?」
「私は、誰かを裁く気なんてないの」
御方の言い方はどこまでも冷たかった。それは赦しではなく、罰を与えるにも値しないと見棄てたも同然だった。
「自分で考えなさい」
七星の首とその弟たちは同時に首を上げる。氷を投げつけられたようだった。
「何をするべきか、自分で考えるのよ」
それくらい出来るでしょう。大人なのだから。御方の透き通った眼差しはそう言っていた。例え七星の首が今ここで呵責に耐えかねて己の腹を裂いたとしても、彼女は顔色ひとつ変えなかったであろう。それがあなたの選択なら、とでも言いたげな御方の無表情は、酷薄を通り越していっそ寛容に見えた。
真弓は御方に促され、翰林院の文を七星たちに向けて投げる。ひらり、暗がりに舞う薄っぺらな菊色は、凋落した花びらのようだった。双子の片割れは少しためらうような素振りを見せた後、足元に落ちたそれをそっと拾い上げる。御方はそれを見届け、さっさと踵を返して星見台を去った。
途端。空が真っ二つに割れるような、凄まじい稲妻が轟く。紫色の光が、冴家の正邸の屋根を明るく照らし出した。皇城の方が俄かに騒がしくなる。御方は一瞬脚を止め、ゆっくりと目を瞑った。
そう、我々はただの人だ。だから出来ることを考えるのだ。人を裁くのは、神か、神に魅入られた者だけでいい。人事を尽くして天命に聴す──自分たちに出来るのは、それだけなのだから。




